中標津町は、根釧原野の北に位置する町で、北側は知床半島から続く山の稜線で網走管内の清里町と接している。
漁業の盛んな海岸部に比べ、北海道内陸部は開拓が大幅に遅れていて、明治34年に、海岸部にある標津村が、現在の中標津を含む一帯を殖民区画にした。
しかし、それから10年間、中標津町の区域内に入植する者は現れなかったという。
冷涼で稲作は不可能、泥炭地と火山灰地からなる土地だから、それは無理もないことだった。
当時、内陸の交通状況は劣悪で開拓者の暮らしは苦しかった。大正末期に大凶作が続き、離農する者もいた。その頃、やっと殖民軌道が敷設され、昭和初期に標津線が敷かれると、標津線の分岐点となった中標津周辺の人口が増え、やっと市街地が形成されるようになった。
また、北海道農業試験場根室支場(現在の根釧農業試験場)の設置や海軍中標津飛行場の建設によっても人口が増加した。
この中標津町の武佐地区にハリストス正教会が建っている。ロシア正教の教会だ。
北海道にはいくつかロシア正教の教会がある。僕の通っていた幼稚園の隣は、観光ポスターなどで有名な函館ハリストス正教会だ。子どもの頃から見慣れていた、横木が一本多いロシア正教の十字架を中標津町の武佐で見た時は、懐かしい思いを強くもったものだ。
ところが、この武佐のロシア正教会にまつわって、悲しい民族の物語があることを後になって知ったのである。ことの発端は1884年7月11日に遡る。
【以下引用】
この日、根室半島の北東沖に浮かぶ色丹島に一隻の船が到着し、100人ばかりの人間を下ろした。
出迎えた人間は根室県の役人二人。島は、当時、無人に近い状態であった。
上陸したのは、千島列島最北のシュムシュ島から連れてこられた北千島アイヌ97人のうち、択捉島で下船した4人を除く93人。このほか医者一人、通訳一人、県勧業課員一人の三人が下船した。
島の人口はかつてはアイヌ民族数百人を数えたこともあったが、江戸時代も末期の1856年(安政3年)ごろにはわずか7~8人に激減。嶋はその後、人間の居住を拒んで明治新時代を迎えていた。
(1992年北海道新聞社 道新選書 小坂洋右著 「流亡」・・日露に追われた北千島アイヌ まえがき より一部抜粋)
狩猟や漁労で生計を立てていた人々は、色丹島で農耕や牧畜に従事するよう求められたが、慣れない仕事と環境の激変で病に冒される者が続出し、次々に斃れていった。
やがて第二次世界大戦の終末、色丹島を含む国後、択捉島などに侵攻してきたソ連軍によってこの人々は、再びこの島から追われることになる。追われて北海道に渡ってきた人々は、ほとんどがロシア正教の信徒で、教会の近くで暮らすようになる。
この上武佐地区でも、これら北千島から強制移住させられた人々が暮らしていた。
さて、この強制移住はなぜ行われたのか。
簡単に言えば、日露戦争が始まりそうな時、日本とロシアの国境に住み、両国を自由に往き来し、両国語を解する人々が住んでいることは、戦略上の弱点になるとというのが理由だった。
そこで、当時の日本政府は、シュムシュ島に居住する北千島アイヌ(クリル族)に日本かロシアかの国籍の選択を迫り、日本国籍を選んだ人々を色丹島に移住させたのである。 この人々の悲劇は、ここから始まった。
大国同士の対立が、一つの部族、一つの文化を破壊してしまった事実がここにある。
国家の利益の前に、民族の生活や伝統、文化などは、紙屑のように扱われてきたのだ。
現代では、過去の暴挙への反省から、先住民の権利や文化は尊重されるようになってきつつある。ニュージーランドなどのように、かなり進んでいる国もある。
日本は、タテマエの上では、同じように振る舞っている。だが、実際にやっていることは、どうだろう?
経済活動を第一に考えているために、国民の安全や安心よりも原子力発電所の再稼働を優先させようとしている。国民を守らずに大資本、大企業を守ろうとしている。
北千島の悲劇は、まだ終わっていないのかも知れない。
2012年4月27日金曜日
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