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2013年2月24日日曜日

個人の力に頼るのではなく

 医療においてもっとも大事なものはなにか。  それは愛だと思う。病む者の立場にたってものを考えているか、それが愛だと思う。  痛みを誰の痛みと感じるか。自分や自分の身内の痛みと感じているかまさにそれこそが愛でなかろうか。  北央病院では非常に良心的でまさにプロフェッショナルと言えるスタッフもすなくない。そんな良心的なスタッフもいるのだ。  問題は、それがシステムとして共有されていないということである。  これはこの介護の業界の構造的な問題かも知れない。

2013年2月23日土曜日

なんたる劣悪さ! 日本の高齢者医療と介護・・・・日本の高齢者は国家に殺されている

 昨日、札幌の北央病院のことを書いた。  あまりに非人道的な扱いを腹に据えかね、不本意ながら病院名を明らかにしたのだが、このような扱いが北央病院に限らず広く一般的に行われている様子であることが少しずつ判ってきた。  たとえば、ご飯もおかずも与えられた薬も皆一緒にしてかき混ぜて食べさせるようなことをしている病院や介護施設は数多くあるようだ。もちろん北央病院もそうしているのだが。  今日は、めずらしく父がいつもより長時間、目を覚ましていた。「お、これは良い兆候かな」と思ったが、そうではなく、尻の皮膚が痛くてゆっくり眠られないでいたのだ。 よく見ると肛門周囲の皮膚が激しく爛れていた。   発熱や全身の倦怠感から父は現在入浴が出来ない。ふつう、入浴のできない患者は身体を清拭してくれるものであるが、清拭してもらっているのかどうか見当がつかない。つまり情報の流通が非常に良くないのだ。「インフォームドコンセント」などどこの世界の話かと思うほどだ。清拭の時や排便後にもう少し丁寧に身体を拭いてくれさえすれば、こんな糜爛は生じないはずなのだが。  同室の患者さんに付き添っている一人の奥さんがいる。彼女は実のお母さんの介護の経験もあるとのことで、排便後の清拭や皮膚をできるだけ健全に保つ様々な知恵を教えてくれた。  日本の民間には、このように経験によって生み出された様々の優れた介護の知恵が蓄積されている。だが、一部の病院や介護施設にそのような知恵は、ほとんど反映されていない。これはつまり一施設の問題ではない。介護制度や介護職養成の段階や介護現場でそのような知恵がまったく生かされていないことが問題なのだと思う。つまり構造的なシステム上の問題なのだろう。  世界のトップクラスのGDPの国としては、あまりに恥ずかしくないか。これでは、いつまで経っても国民の生活満足度は上がるわけがない。このままでは「幸福な国」になどなれるわけがない。日本の国家は、国民の命をまったく尊重していない。日本の高齢者の未来は真っ暗なのである。  そして、自分自身もそうだったのだが、このような貧しい現状を知っている人々がまだ少なすぎるのではないだろうか。このことは今後もっともっと広げていかねばならない問題だと思う。是非広げていきたい。

2013年2月22日金曜日

病む札幌北央病院の闇

 父は、昨年12月から札幌市厚別区青葉町にある勇気会札幌北央病院に入院している。入院する直前まで娘の買い物について一緒にスーパーの店内を歩き回っていたのだが、今は自力で歩くこともままならない。たっていることすらおぼつかない。  この2ヶ月あまり、「段ボールを覆い被せていくように」病態が悪化した。そして、ついにMRSA(メチオニン耐性黄色ブドウ球菌)に感染してしまった。院内感染に違いない。  この病院には、入院当初から不信感をもつことが多くあった。看護スタッフが足りないことによるのだろうが、自力で食事を摂れない老人に対して嚥下を急かせたり、子どもを叱るような口調で食べることを強要したり、そばにいても正視できないような態度で接したりしていた。  病室の暖房は不十分で室温は常に20℃前後。病人にとっては厳しい気温だと思う。また、感染症を持つ病人にとっては回復させる環境とはほど遠い。  点滴の針が静脈から抜け、液が皮下に漏出していることもしばしばでこの二ヶ月で5回はあった。高齢者だからある程度やむを得ないところもあるのだろうが、問題は点滴中に看護師が点検に訪れてもそれに気づいていないという点である。  また、こんなこともあった。肺炎で39。2℃にまで体温が上がっていたにもかかわらず看護師は 「今日はなんだか元気がないね」と言っただけで見過ごしていたのだ。 家族の者が昼に訪ねた時に体温を測定し、初めて高熱に気づいたのである。  きわめつけは、MRSAの感染を出来るだけ小さく見せようとして家族への説明で院内感染だとは認めていないこと、MRSA感染だということも検査後2週間ほど経ってから知らせたこと、投与している薬に関する説明が一切されていないことである。  これでは病院を信頼しろという方が無理だ。  病院と患者・家族の間にこれほどの不信感がある状況では効果的な医療は成り立たないことは明白だ。  家族の率直な気持ちは、なぜ元気だった患者が入院したことで衰弱してしまったのか、感染しなくてもよかったMRSAに感染したのは病院に行ったためでないのか、ということだ。  北央病院は、行けば病気が重くなる病院なのだろうか。  ほとんど情報を与えてくれない闇としか感じられない病院であることは確かだ。  また、この問題について、何らかの有効な解決の道を求めて頼った札幌市の保健所も病院を庇うような態度に終始した。  札幌という町は、病んで苦しんでいる市民に冷たい町に思えるのは今が冬だからという理由だけではないだろう。

2013年2月19日火曜日

E pur si muove (それでも地球は動く・・・ガリレオ・ガリレイ)

 コペルニクスの誕生日だ。  昨年、ポーランドのクラクフで彼の学んだ大学を見学させてもらった。コペルニクスにゆかりの実験道具や観測器具も見ることができた。  今年は生誕540年だという1573年生まれ。種子島に鉄砲が伝来した年だと言われる。そして徳川家康の生まれた年だ。  なんとコペルニクスと徳川家康は同い年なのである。  天動説が「神の定めた決まり」だった当時、コペルニクスと同じように地動説を主張したガリレオは教会から激しい弾圧を受けたのにコペルニクスについてはそういう話を聞かない。以前からこの点を不思議に思っていた。  コペルニクスは天文学者だっただけでなく占星術師であり、法学者であり、教会の要職に就いてもいた。つまり政治家でもあった。コペルニクスと並び称されるガリレオ・ガリレイの方は、天文学者であり物理学者でもある純粋に「理科系」のヒトで、コペルニクスに比べて世渡りが下手だったようだと言われている。彼の地動説をめぐる裁判は、純粋な「学術論争」というより、権力争いの確執に巻き込まれた結果であるとも言われているが、ガリレオの書いた『天文対話』は禁書目録に載せられ19世紀まで撤回されなかったのは事実である。  それに対してコペルニクスの『天球の回転について』は、発行されたのがコペルニクスの死後であり、一時閲覧禁止の措置がとられたが、「数学的な仮説である」という解釈でその措置はすぐに解かれた。  コペルニクスはガリレオより9歳年下である。ほぼ同時代に生き、地球の自転に気づいていた点など共通している所が多いのだが、この二人の対照的な生き方が面白い。  現代の科学者にも、純粋な科学論では共通のものを多く持ちながら、対照的な生き方を見せる人たちがいそうだ。  なお、ガリレオの誕生日は2月15日である。

2012年12月31日月曜日

おおつごもり に

 今年も残すところ3時間と少々。  今年は、バイクでシカとの衝突事故を体験し、人生初の入院、点滴、など今までにない経験ができた。  みなさまがた、家族には心配をかけて申し訳なかったと思っているが、自分では教訓も含めて良い経験ができ視野が広まったとも思っている。 さて、 一年間、この拙いブログをお読みいただいた方々には、心から感謝します。 いつまでたっても成長のない内容だが、これからも書けるだけ続けてみたいと考えております。 来年も、相変わらずお付き合い頂けたら幸せに思います。 それでは、どうぞ、新年が皆様にとって佳き年でありますように。 また、来年。

2012年12月6日木曜日

なにか ある

なにか ある ナニカ アル 「アル」はアラビア語の冠詞だとか 「アル」は存在の動詞だとか 「アル」には命令形がないだとか     「アル」ばかり使うのアル中よ 「ワタシ アル中 あるヨ」     そんな言い方する者いない とか 「トカ」とかとかと蚊とか蜥蜴とか 蜥蜴の形の選挙区があったとか 小さな蜥蜴の小さな選挙区   「ト」は蜥蜴の頭かね?   「カ」は蜥蜴の胸なんだ! 「ゲ」は蜥蜴のお腹だろ?   それじゃあ尻尾は? ん?切られたよ

2012年11月22日木曜日

ある日

今日は、低気圧の狭間の穏やかな晴れた一日だった。  朝、通勤のために運転する車をずっとどこまでも走らせたい衝動に駆られた。  遠くの山がかぶる雪は、このところの冷え込みで一段と厚みを増したように感じられ、その稜線を見ていると、どういうわけか故人となった友のことが思い出された。 写真家のK  詩人のC  サラリーマンだったU  三人の名前が呪文のように繰り返し繰り返し心に浮かんできた。  今は、「時」によって遠く隔たった彼らに、突然近づいたのは何故だろう。  時空の歪みのようなものがあって、僕らには感じられない第五次元の方角で、彼らのいる世界とすれ違ったのだろうか。  夜、月の周りを真円の「笠」が取り巻いていた。  次の低気圧が近づいている。  彼らの世界が、再び遠ざかるのが、少し心残りだ。

2012年11月10日土曜日

フユシャクの夜に

激しい雨降りが治まったと思ったら、約束していたかのように寒波が来た。  今朝、外気温は10℃あったが、どんどん下がり続け、昼には5℃を切った。  今、夜の10時半。外気温は4℃である。  阿寒からは初雪が降ったと知らせがあった。    そんな冷え込みの中をフラフラと飛ぶ小型の蛾がいる。  フユシャクたちだ。  鮮やかな色をしているでもない。奇怪な姿をしているでもない。  鱗翅目という大きく派手なグループの片隅にひっそりと属している。  学者たちでさえその存在に気づかない種も含まれる。  ひそやかな、ひそやかな生命。    消化器も持たない。  口もない。 何も食べず、何も飲まず、  ただ生殖のためだけに羽化した虫たち。  動かぬ雌から発せられる  かすかな匂い  匂いとも言えぬ分子の震動を頼りに  フユシャクたちが飛び回っている夜。  しずかにしずかに更けていく

2012年10月16日火曜日

風によせて

桃色の衣に被われていた マユミの実が その衣の隙間から 深紅の実をのぞかせ 側溝の所々に佇んでいる 大陸から たっぷりと冷気を含んだ高気圧が来て 脊梁山脈から風を吹かせる 風は知床の山を下って 谷で速度を上げ 体当たりするように海面にぶつかる 僕たちには 根室海峡へと走り去る 風の足跡が見える ユーラシア大陸で生まれた冷たい風の ここは終着点なのだ シベリアの透明な湖の岸で生まれた風たちが ずっと旅してたどり着く ここはそんな海であるのだ 思惑やはかりごとを凍らせ 欲望を震え上がらせる風が これからやって来ることを ふれ回るように風が走っていく 根室海峡 風よ 南へ向かえ 南の島に渦巻く 塵芥を吹き飛ばしてしまえ

2012年8月16日木曜日

8月15日に思うこと(8月15日分)

 昨年も書いたのだが、どうして今日は「終戦の日」なのだろう。  戦争の犠牲になった人を「祖国を守るために尊い命を捧げた」と賛美する。  犠牲になった方々は心底からお気の毒だと思う。遺族の痛みも重々理解できる。  だが、「祖国を守るため」という言葉の欺瞞性に辟易する。  中国へ、東南アジアへの侵略を進めたあげくの戦争ではなかったのだろうか。  国家が、侵略戦争とファシズムの徹底的な清算を行わないで、真に戦死者を悼むことなどできるはずがない。  戦没者追悼の式典でも、空しい言葉が飛び交っているだけだ。  いつから?  いつからこの国は虚無の支配する国になってしまったのだろう。

2012年7月29日日曜日

大先輩の思い出・・・・勝負に固執する態度を見ていて

生きるとは何か
 答は簡単には見つからない
 だが、一つだけ確かに言えることがある
 長く生きているほど出会いと別れが溜まっていくということだ


 僕が最初に赴任した学校は、オホーツク海に近い小さな小中併置校だった。
 三浦敬一先生(故人)は、そこの小学校の先生だった。
予科練帰りの人で、何も言わずに鋭い眼で睨まれると誰もがすくみ上がるような迫力のある先生だったが、子どもたちにも若い新米の教師たちにも優しく穏やかに接する人だった。自分より弱い立場の者に荒い言葉をかけている所は見たことがない。
 美術が専門で、子どもの感覚を熟知した上で行われる指導は見事なものだった。

 僕も含めて、教師になって一年か二年目の生意気盛りの者が数名いて、集まって色々な話をしたものだった。
 たまに、その集まりに三浦先生も来られることがあった。
 それは、運動会の時期だったと思う。
 「この地域の保護者は、勝ち負けにこだわりすぎる。どうしてもっと教育的な長い目で 子どもを見てやれないのだろう。だいたい子どもの名前にも『勝治』とか『勝一』とか 『勝』という字を好んで使う傾向がある。勝つことを目指して努力することは大切だが、 結果にこだわりすぎるのは、問題だと思う。」ひとりがこう息巻いた。
 その場にいた若い教員は、みなうなずいた。
 その時、三浦先生がボソリとつぶやくように言った。
 「ま、それだけ素朴ななんだよ」
 そこにいた全員をハッとさせる一言だった。

 どこを向いても話題がオリンピック一色に塗りつぶされている。
 見応えのある競技や試合もたくさんあるだろう。
 だが、勝つことばかりにこだわったり、メダルの個数を比較したりするだけの見方では、オリンピックの本当の意味は見えてこないかも知れない。
 こちらの方は、そろそろ「素朴さ」から脱してはどうだろう。

2012年7月6日金曜日

たまには 時代劇 ふぁんたじい

その昔、江戸の街に「彩菓堂」という菓子屋があった。
 そこの主人は、大変な吝嗇で、高価な砂糖を使うのを嫌い、南の島で採れる「裏煮倦夢」(うらにうむ)という、サボテンの一種から作る合成甘味料を菓子に使うことを考え出した。
 「裏煮倦夢」を栽培する南の島には「宇蘭村」と呼ばれ、村ぐるみで栽培し、村役人と結託した商人「糖伝屋」(とうでんや)が農民からの集荷も甘味料の合成まで独占し、彩菓堂と癒着して巨利を得ていた。
 当然のことに幕府の役人に、彩菓堂や糖伝屋から毎年、多額の賄賂を贈られていた。
 幕府勘定方 甘味奉行 野田泥縄守(のだどろなわのかみ)の名台詞
 「糖伝屋!お主もワルよのう」

 ところが、「裏煮倦夢」から作った合成甘味料を食べた人々の間で、健康を害する人が続出した。
 最初のうちは、その因果関係は良くわからなかったが、何人もの学者が調べて裏煮倦夢の害が報告されるようになった。
 彩菓堂や糖伝からお金をもらっている学者たちも、それを打ち消す研究結果を作り出して、必死で隠そうとしたのだが、裏煮倦夢が有害だといういことが人々の間に知れ渡っていくのを止めることはできなかった。

 しかし、多額の賄賂をもらっている幕府は、彩菓堂の商売を停止しようともせず、放置し続けた。
 憤った人々は、大勢で彩菓堂の周りを取り巻いて、有害な商品の販売を止めさせようとした。その時の人々が声を合わせたかけ声は
「彩菓堂 反対、 彩菓堂 反対」というものだった。

 時は流れ、21世紀。
 その時の人々の子孫たちも、まだ叫んでいる。
「再稼働 反対、 再稼働 反対」

2012年3月22日木曜日

小短歌集 三月の黒猫


自堕落もたまにはいいと黒猫がシッポで誘う三月の夜

「接続を切っていいか」とPCに聞き返されて、不安高まる
界面の滲むあたりをシロカモメ歪む時空に航跡の揺れ
人間とはいったい何か。問いかけが胸 往き来するリアス海岸
直実(なおざね)が鎧掛けたという松も時の重さが枝を押し下げ
その花を臘梅と教え、手に取りて香りを利いて微笑んだきみ

地の果てに変わりなけれど紀伊半島 暖かく明るく穏やかな昼
電線にイソヒヨドリのとまりいる最南端の乗り換えの駅
車内にも海の香りのたちこめる紀勢本線ローカル電車
乗る人がみな鯨捕りに見えてくる太地の町へ行く列車内
しんとしたクジラの町の昼下がり町営バスの中も静まり

はるかなる北の羊を称えつつ 神戸の夜は静かに更ける
いま少し原野の暗さ背に負いて ここでこの世の変遷を見ん
暗闇の底よりわれを招く声、原野を生きる場所と定めん
ヒシクイの低空飛行雪原に春の兆しを探るがごとく

捨てられし仔猫のごとき娘いて なす術もく眺めるわれは
君がいて君を見つめる僕がいて 僕の生まれた町の通りで
君が立つその街角に立ちすくみ 思い迷った若き日の僕も
海の香がかすかに漂う坂道は、少し悲しく少し懐かし

われもまた共に行きたし白鳥と いつわりのない眠れる大地に
早々に北へと帰れ白鳥よ この国の穢れしみつかぬ間に
崩れゆく国から逃れ去るごとく 白鳥の群れ次々に飛ぶ

種を越えて伝わるもののあるごとく 黒猫われを離れざりけり