原子力発電所事故が起き、放射性物質による汚染が広がった。
放射能の危険性は、直接的な急性被曝と内部被曝も含む低線量による緩慢な被曝とが指摘されている。
どちらも生体にとって致命的で、危険であることは論を待たない。
最近、これらに加え、第三の危険性について考える。
それは、個人の心のあり方や人間社会にとっての危険である。
放射性物質によって環境汚染を引き起こしてしまうと、加害者側や原発を推進してきた責任のある側は、事態を小さく見せようとして必死になる。(なった。)その結果、情報隠しや情報操作に一生懸命になる。(なった。)
権力を持つ側がこうなると国民の知る権利は著しく侵害され、民主主義社会(そんなものがあると仮定しての話だが)の構造が一気に歪められる。日本国憲法で保証されている言論、結社、表現の自由などの諸権利は、これまでも緩やかに締め付けられ、圧迫を受けつつあったが、福島第一原発の事故を契機に一気に加速したのではないだろうか。
「不安をあおるから」とか「復興に差し支えるから」などという口実で、マスコミも重要な報道が抑えられている。規制は、マスコミ自身の自粛による場合と外部からの力による場合とがあるだろうが、われわれにその区別はつかない。
たとえば、今日、全国で脱原発を求めるデモが行われているが、それをニュースとして取り上げた報道機関は少ないし、扱い方も小さい。黙殺しようとする意志が透けて見える。
間違いなく、70年ほど前、日本が侵略戦争への坂を転がりだした頃、同じような社会状況が作られていたことだろう。
とにかく、ヒトの心の内側に入り込み、恐怖に陥れたり、社会のファッショ化を推し進めるのが原子力の危険性の一つだと思う。
原子力発電を推進したい人たちは、原発に反対する人々が邪魔でしかたがないに違いない。
東電の社長あたりは、「あの連中など、いなければいい」心の奥底で、こう思っていることは間違いないだろう。人間にそんな考えを抱かせること、これこそ原子力の怖ろしさの一つでは、ないだろうか。
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