原発事故以来、放射能が飛散し、各地の放射線量が高まって、国民の不安が増している。
日本の半分近くが以上が放射能で汚染されてしまったことは紛れもない事実だし、事故以来、しばしば僕もこのことに言及してきた。
そして、政府・電力会社・研究機関など原発に関連する巨利に群がる産・学・官が癒着した「原発利益共同体」によって情報が操作され、客観的で正確な情報が提供されないことで、不安感はますます高まっている。
そのためもあって、一部の人々の間であろうが、放射線あるは放射能に対する恐怖心が必要以上に増幅されているような現象も見られる。そんな人々の多くは不安に駆られ、何を信じてよいのかわからず、しかし、何かせずにはおられない気持ちになっているのだろう。
一種のパニック状態で「右往左往している」と表現してもよいのかも知れない。
特に子どもを持つ、またはこれから持とうとするお母さんたちの不安は、どれほどのものだろうと同情する。
そんな状況であちこちで原子力や放射能に関する「講演会」や「学習会」が盛んに行われている。
有名な学者や著名人を招聘して行われるもの、知名度はそれほど高くない専門家によるもの、互いに語り合うものなど形は様々だが、日本中でこの半年間に開かれたこの種の集まりが、いったいいくつになるだろう。
出版物も原発や放射能に関連した書籍が、この半年間にいったい何種類発行されただろう。
先日、書店の店頭を眺めてふと思った。
人々が、知りたい学びたいと思い立つことは良いことで、できるだけ放射能や放射線、原子力への理解を深めて、その正しい姿をつかんだ末に判断してもらいたいと願う。
主体的にものを考える人が増えることは良いことだ。
だが、出版されている本はまさに玉石混淆だと思った。原発は安全で問題ないと力説するものは問題外だとしても、原発に反対し脱原発を訴えるものの中にも、データの表現を都合良く変えて、(「ねつ造して」ではないが)危険性を必要以上に強調しているものがあったりする。
「脱原発」を望む人々の中には、このような本を購入し意を強くする人もいるだろう。放射能の危険性を誇大に感じて不安にさいなまれる人も出てくるかも知れない。
講演を行う講師についても同様だと思う。
もしも、これらの著作者や講演者の中に「脱原発」の波に乗って一財産作ろうなどと考えている人が混じっていたら、ちょっと困ったことだナァと思ったのである。
僕たちは、どこまで行っても事実から出発しなければならない。
事実はどうなのかを共有するのが科学であるだ。
「原発推進派」の測定する放射線量と「脱原発」を主張する学者の測定する放射線量が違っていてはならいのだ。
もし、その「土俵」が違っていたら、同じ土俵に乗るように努めなければならない。
「原発利益共同体」によって、そのような科学が歪められ、貶められてきたわけだが、原子力に頼らず、自分たちの子孫の世代にも幸福な環境を遺したいと考える人々の側までもが、それと同じ手法で「反原発」の主張をしてよいわけがない。
まして、「脱原発」を食い物にしてはならないだろう。
今日、ちょっと思ったことだが。
2011年11月7日月曜日
2011年11月6日日曜日
今年の合同教研
合同教研が終わった。
今年の合同教研の公害・環境と教育の分科会では、ここ数年原子力発電に関する話題は出されていなかったが、東日本大震災と福島原発事故の影響で、直接か間接的にこれに触れているレポートが数本あった。
風力発電の低周波空気振動に関する話題も提供されていた。
原子力発電と風力発電の両者に共通しているのは、建設の巨利に群がる利益共同体の産・学・官の癒着だ。
それを許している社会の意識構造にも、基本的な問題がありそうに思う。
どちらにしても、これからのキーワードは「持続可能性」ではないだろうか。
今年の合同教研の公害・環境と教育の分科会では、ここ数年原子力発電に関する話題は出されていなかったが、東日本大震災と福島原発事故の影響で、直接か間接的にこれに触れているレポートが数本あった。
風力発電の低周波空気振動に関する話題も提供されていた。
原子力発電と風力発電の両者に共通しているのは、建設の巨利に群がる利益共同体の産・学・官の癒着だ。
それを許している社会の意識構造にも、基本的な問題がありそうに思う。
どちらにしても、これからのキーワードは「持続可能性」ではないだろうか。
2011年11月5日土曜日
「持続可能性」の一日
合同教育研究集会が始まった。
環境・公害と教育の分科会では、やはり福島の原子力発電所事故の問題に議論が集中した。
核エネルギーは、現在の人類には制御できないエネルギーであるという認識は一致していた。
そして、個人的には「持続可能性」という問題を突き詰めて考える一日となった。
「持続可能」などと安易に使うべき言葉ではない。だがしかし、持続可能に一歩でも近づけるために、われわれは今、努力を惜しむべきでない、ということ。
しごく当たり前のことだが、この当たり前のことを何度も何度も確認しながら進むしか、今後の道はないのだろうと思い至った。
ああ、それにしても、なお愚かな、と嘆きたくなる現実がある。
環境・公害と教育の分科会では、やはり福島の原子力発電所事故の問題に議論が集中した。
核エネルギーは、現在の人類には制御できないエネルギーであるという認識は一致していた。
そして、個人的には「持続可能性」という問題を突き詰めて考える一日となった。
「持続可能」などと安易に使うべき言葉ではない。だがしかし、持続可能に一歩でも近づけるために、われわれは今、努力を惜しむべきでない、ということ。
しごく当たり前のことだが、この当たり前のことを何度も何度も確認しながら進むしか、今後の道はないのだろうと思い至った。
ああ、それにしても、なお愚かな、と嘆きたくなる現実がある。
2011年11月4日金曜日
「タイガからのメッセージ」試写会
合同教研のために札幌に来たが、偶然にも北大で「タイガからのメッセージ」というドキュメンタリー映画の試写会を観る機会を得た。ロシア、沿海州=ウスリー地方の先住民であるウデヘの人々のタイガで生きてきた歴史と日常を取材し、森林を切り開くことを続けてきた文明の行き詰まりを打開する希望を、タイガでの暮らしに見いだした映画だ。
優れた作品であるし、現在の日本をはじめ「先進国」の文明に対して鋭く問題点を突きつけていると感じた。
ウスリーのタイガと言えばデルス・ウザーラの生きていた地である。
産業革命以後の科学技術と文明は、世界中の様々な土地で暮らす先住民の生活と文化を奪い、追い詰めることをしてきたが今こそわれわれは、謙虚にかれらの世界観、価値観から学び直さねばならないだろう。
合同教研のレポートも偶然ながらそのような内容のものを書いたので、タイムリーだった。
このような機会が与えられたことに心から感謝したい。
優れた作品であるし、現在の日本をはじめ「先進国」の文明に対して鋭く問題点を突きつけていると感じた。
ウスリーのタイガと言えばデルス・ウザーラの生きていた地である。
産業革命以後の科学技術と文明は、世界中の様々な土地で暮らす先住民の生活と文化を奪い、追い詰めることをしてきたが今こそわれわれは、謙虚にかれらの世界観、価値観から学び直さねばならないだろう。
合同教研のレポートも偶然ながらそのような内容のものを書いたので、タイムリーだった。
このような機会が与えられたことに心から感謝したい。
2011年11月3日木曜日
阿寒の森のカツラの樹
阿寒の森へ行ってきた。
久しぶりに、会議とか打ち合わせなどとは無関係に、ノンビリと森を歩きくという目的ででかけた。
その森にはカツラの巨樹があるというの会いに行ってみた。
暖かな一日だった。林床にフッキソウが疎らに茂っており、小さな流れが毛細血管のように森のあちこちを走っていた。この水気の多さと適度な密度に立つエゾマツの影がササの繁殖を良い具合にコントロールし、明るい開放的な林床を作っているのだろうか。
その巨樹は、林道から少し入った所に立っていた。カツラだった。
地上から5メートルくらいのところで6本ほどの太い幹に分かれて、天の奥に向かって枝を伸ばしているように見える。
根元近くでは、それらの幹が一本にまとまり、大人が抱えても5~6人は必要と思われるほどの太さの幹になっている。
巨樹の下では、時間的にも、空間的にも、自分の小ささを思い知らせてくれる。そして、ちっぽけで取るに足りない存在であることに、ある種の安息を覚える。
ただ、ただ、ありがたいと思った。
2011年11月2日水曜日
アメリカは大嫌いだ
アメリカが大嫌いだった。
アメリカ人の友人は何人かいて、みないい人たちだし、アメリカ人の気質は、どちらかと言えば好きな方だ。
だけれどアメリカは嫌いだ。
今度、また一段と嫌いになった。
ユネスコへの分担金の拠出を凍結したからだ。
何様のつもりだ!と言ってやりたい。
UNESCOは、教育や文化の振興を通じて、戦争の悲劇を繰り返さないといいう理念で設立のされた。その意義を定めたユネスコ憲章の前文には、
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とある。
パレスチナが加盟するのは、UNESCO憲章の趣旨に則ったものであり、ごく当然のことだろう。
アメリカは、イスラエルのシオニストを支援し、トコトン世界の平和を妨害しているわけだ。
そのアメリカの提灯を持ち、アメリカに尻尾を振り続ける日本の政府も同様で、UNESCOの精神など単なるお飾りくらいにしか考えていないことがよくわかる。
同じように沖縄県民をはじめ、日本の国民の生命や財産も全然重要視していないのがこの国の政府だろう。
アメリカ人の友人は何人かいて、みないい人たちだし、アメリカ人の気質は、どちらかと言えば好きな方だ。
だけれどアメリカは嫌いだ。
今度、また一段と嫌いになった。
ユネスコへの分担金の拠出を凍結したからだ。
何様のつもりだ!と言ってやりたい。
UNESCOは、教育や文化の振興を通じて、戦争の悲劇を繰り返さないといいう理念で設立のされた。その意義を定めたユネスコ憲章の前文には、
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とある。
パレスチナが加盟するのは、UNESCO憲章の趣旨に則ったものであり、ごく当然のことだろう。
アメリカは、イスラエルのシオニストを支援し、トコトン世界の平和を妨害しているわけだ。
そのアメリカの提灯を持ち、アメリカに尻尾を振り続ける日本の政府も同様で、UNESCOの精神など単なるお飾りくらいにしか考えていないことがよくわかる。
同じように沖縄県民をはじめ、日本の国民の生命や財産も全然重要視していないのがこの国の政府だろう。
2011年11月1日火曜日
周到に計画された春を見つけに
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