2013年4月7日日曜日
低気圧に追われながら生命について考えた
昨日は夜遅くなってこともあってブログは、お休みしました。
札幌に行っていた。金曜日に出発し、今日帰ってきた。
父の見舞いのためだ。
12月に自宅で転倒して病院へ運ばれて以来、病態は悪化する一方だった。最初に入院した病院を一旦退院したが、食欲が回復せず、衰弱するばかりだったので約三週間で別の病院へ再入院となった。
今回入院した病院は非常にきめ細かな看護・介護としてくれるうえ、医師を始めとしてすべてのスタッフが細やかな心遣いを欠かさないので家族としては安心しているのだが、食欲不振と衰弱の原因がまだ突き止められない。「歳が歳だから」と言ってしまえばそれまでなのだが。事実最初に入院した病院の医師はそう発言した。
しかし、現在、父を診てくれている医師は、そのような考え方はせず、病因をきちんと突き止めたいという考えでいるらしい。
生命には限りがある。90年以上も生きたのだから、という考えも決して間違っているとは思わない。しかし、僕の考えは少し違う。
生命は、不可逆的なものだと思っている。平たく言えば、生命はこの宇宙の時間の流れの中で一回限りのものだと考えるのだ。それゆえに、生命を与えられた者は、可能な限りそれを大切にし、長く保たねばならないと思う。生きるのが辛いとか苦しいということは誰にでもあるだろう。もちろん他者から強制されるような性質のものではないが、生きている「本人」はそう努力するべきだと思うのだ。
今回の札幌行きで、そんなことを考えた。
そして今日、二つ玉低気圧に追い上げられるように這々の体で逃げ帰ってきた。
札幌午前9時に出発。
病院に立ち寄り、道央道、道東道を通り足寄、阿寒と進んだ。
接近する低気圧から逃げるようなコースで走る。
雨は激しくなったり弱くなったりしている。十勝平野にさしかかると風が強まった。
道東道をなんとか走り抜け阿寒を目指す。足寄峠は霙。路面はシャーベット状になっていて非常に滑りやすい状況だ。
阿寒湖を通過しながら、このまま阿寒横断道を通るとこの危険なシャーベット状の路面の峠道を下らなければならない。数十分の時間を余分に費やしても安全なルートへ迂回した方がいいだろうと決意して、阿寒町を回ることにした。
2013年4月5日金曜日
札幌へ向かいながら
札幌へ向かいながら
久々にクルマで札幌に来た。
高速道路の虚しいスピード競争に辟易しながら。
どうして、あれほどムキになってすっ飛ばすのだろう。到着時間はそれほど違わないというのに。
そこで、ハッと気づいた。
「高速道路」は、一種の一次元空間だ。「前」と「後ろ」の直線しかない。否応なくそのような環境に追い込まれて走っているわけだ。そこには「先」と「後」という「勝ち」か「負け」しかない。
そんな環境で、ニンゲンという動物は、反射的に他者より先に、という気持ちになるのかも知れない。
なんと貧困な精神だろう。そして、それ以上にそのような環境に追い込む構造とは。
どこか今の世界に似ている。
2013年4月4日木曜日
アニマルからモンスターへのDevelopment
年度始めだから「今年度の方針」なるものを書き起こす作業が増えている。
今日は、朝から「今年度のESDと環境教育の方針」などを書き続けていた。書き続けながら、実は大きな壁に行く手を阻まれていた。いや、正直に言えば今日に始まったことではない。ずっと以前からくすぶり続けていたある疑問だ。それはESDの「D」をどう解釈するか、という問題である。
ESDとは、Education for Sustainable Developmentの頭文字だ。「Education」は教育。「for」は~のための。「Sustainable」持続可能な。そして、問題は「Development」である。この言葉に該当する日本語はたくさんある。「①成長 ②発達 ③開発」などなど。
日本では、外務省は「持続可能な開発」という訳を採用している。環境省と文科省は「持続可能な発展」と訳している。その訳し方からして意図が透けて見える。「Development」は、その誕生から多義性を持たされて採用された言葉だったのだろう。
なぜなら、1970年代、様々の地球環境問題が起こったとき、いわゆる先進国の国家機関や企業が開発途上国で資源を開発し収奪することで環境問題が悪化するという構図があることが指摘された。しかし、途上国の側は、地球環境問題を理由に開発途上国の「発展」を遅らせることで、地球上の貧富の格差を広げることは許されないと主張した。これは「南北問題」と呼ばれた。
「南北対立」の典型を地球温暖化防止のための京都議定書に見ることができる。
このような情勢の下で、より多くの国の合意を得るためには「Development」という言葉は使い易く便利だったに違いない。
以上のことは、かなり以前からわかっていた。今回、さらに気になったのは、「Development」をどう訳すかというような技術上の問題ではない。「開発」にせよ「発展」にせよ、一つの国や地域、社会をdevelopさせようと決める主体はだれなのか、ということだ。当然のことながら、developさせるのは、そこの住民を幸福にさせたいという理由からだろう。もちろんそれが飽くまでも表向きの口実である場合も少なくないが。
とにかく多くの開発援助は、そういう理由を高く掲げて行われる。だが、一つの国や社会の幸福度を第三者が勝手に規定していいだろうか。その国や地域の住民の幸福は、すべて経済学でお金の価値に換算して比べられるのだろうか。
ESDで教えるところの「多文化共生」とか「異質平等」という概念で考えても、地球上にこれほどの民族や宗教がり、多種多様な環境があるのだから、幸福のあり方ももっと多様であっても良いのではないか。
昔、列強と呼ばれた国々が競って植民地を拡大したのは、そこにある天然資源などが欲しかったからだ。いま、開発途上国を援助し、その社会を「発展」させようとするのは、資源が欲しいというところもあるだろうが、それ以上にそこの住民に小金を持たせ、購買力を上げて、いろいろな物を買わせようという、市場拡大への思惑があるからだ。
それほど注意しなくても、ニュースでは、頻繁に「中国は巨大な市場だ」とか、「ミャンマーは、今後大きな市場となる」というようなことを大威張りで言っているではないか。これらの思惑は、欲望ムキ出しの恥ずかしい発想で、そのように正々堂々と大声で言えることではないと思うのだが。
もう、死語になったようだが「エコノミック アニマル」という言葉があった。現代では、「エコノミック モンスター」と呼ぶべきだろう。
2013年4月3日水曜日
最後まで過疎路線をしゃぶり尽くすJR商法・・・これぞ新自由主義
今日、ニュースを読んでいたら「emerging mediaESPONSE」(http://response.jp/article/2013/04/03/195131.html)という主として乗り物のことを扱う(らしい)サイトにこんな記事が載っていた。
<以下に引用>
JR北海道函館支社は、4月28日に「ありがとう江差線企画臨時列車『えさし号』で行く江差の旅」を実施する。
同社では、江差線・木古内~江差間の廃止に合意した関係自治体、利用者に、これまでの利用に謝意を示すため「ありがとう江差線企画」を実施する。
第1弾として、普段は江差線を走行しない特急形気動車キハ183系を使用した団体臨時列車の乗車と、昼食の弁当や江差町内のシャトルバス、観光施設の入場券をセットにした旅行商品として企画した。4月4日14時から発売する。
今回の臨時列車は3両編成で、先頭車2両の間にグリーン車両を連結、専用のヘッドマークと方向幕を掲出する予定。江差では3時間の滞在時間があり、町内の観光施設などを循環する参加者専用のシャトルバスを運行する。一部施設の入場券も付きで、参加者100人を募集する。
旅行代金は普通席利用が1万2000円、グリーン席利用が1万5000円。
<以上>
この記事を読んで大きな違和感を感じた。
鉄道は公共交通機関で、沿線住民が買い物に出かけたり通学したり病院へ通ったりする時のかけがえのない「足」であるはずだ。その線区だけの採算を度外視し、その線区の赤字は全体が吸収する形で地方路線を維持すべきものではないだろうか。なんでもかんでも「競争だ、競争だ」と喚き立て、赤字の部分は切り捨てるという発想は歴史によって裁かれるに違いない。
このツアーは、廃止されることを前提にして集客をはかり一儲けしようという、下卑た発想によって企画されたものだ。江差線が廃線になると聞けば、「葬式テツ」ならずとも思い出のために乗りに行こうかなと考えるのは人情だ。そこで素朴なノスタルジーに浸るのは、まあ、仕方がないとしも、なぜここで廃止にならなければならないのか。この路線を廃止すると決めたのはどういう思想を持ったニンゲンたちだったのかは、きちんと考えておくべきである。
そして、その決定が絶対に間違いだったことを心に刻むべきである。
それにしても、廃線を惜しむ感情に付け入って、一儲けをたくらむ商魂には、呆れてはてて開いた口がふさがらない。
これ以上過疎地を食いものにしないで欲しい、と言いたい。
2013年4月2日火曜日
ジンパを禁止された北大生に 衰退を思いこの国の凋落を予感する
4月1日をもって北海道大学が構内のレクリエーションエリアを廃止し、北大名物の「ジンパ」ことジンギスカンパーティが禁止されることとなった 。
北大の農学部東側と総合博物館南側には「レクリエーションエリア」と呼ばれる場所があり、大学生協で買ったジンパセットでバーベキューをするジンパが北大名物となっていたという。僕に言わせればそんなことは最近始まったことで、それほど長い歴史があるようには思われないのだが。
大学側の言い分では、最近になってマナーの悪い学生が騒いだり、芝生への影響が出たりしたことが問題となり、大学施設部がバーベキュー禁止を表明し、構内でのジンパが禁止されることになったらしい。
たかがバーベキューの問題だ。食べたければ北大の周辺には焼肉屋さんは数多ある。一見どうでもいい問題のように思えるだろう。
だが、「ジンパ問題」の背後にある構造を考えるとやっぱり気が重くなってしまうのだ。70年代に学生だった僕たちの感覚では、大学構内における学生の行動を簡単に規制する実力を「大学側」が持っているということが信じられない。これじゃまるで高校か中学と同じではないか。
大学の自治というのは、もはや死語なのだろうか。
そう言えば日本では、大学の入学式や卒業式に保護者が付き添うのは当たり前になった。それどころか入学試験当日や合格発表にまで保護者がつきまとっている姿を見かける。大学には「生徒指導部」があり、家庭訪問や校門での朝の指導までする所があるという。
嘆かわしい。
ヒトは、幼小中高とステップアップするごとに成長していくのが自然な姿ではないのか。これでは、いつまで経っても保護者による庇護から抜け出せず自立した個人が育つとは思えない。
かくして日本の民力はひたすら衰退へと向かうのだ。
ヒトとしての成長をテストにおける得点能力にすり替え、ペーパーテストで1点でも多く得点することにのみ血眼になってきた「教育」の結果がこれだ。
もっともある種の人々にとっては、こんな大学生が増え、その中の「成績優秀」な者が官僚として行政機関に入ってくることは、望ましいことに違いない。その思惑は見事に達成され、引き替えに若者の幼稚化が著しく進行したというわけだ。かくして、物言えぬ有権者を大量生産するシステムが完成する。
北大生よ、正しい伝統を受け継ぎたいなら、見事ジンパを奪い返してみよ!
2013年4月1日月曜日
新年度のスタートに
2013年度がスタートした。
羅臼町教育委員会で働くようになって5年目を迎える。早いものだと思う。2005年、長い間勤めた標津町の高校から羅臼高校へと転勤した。その年の今日は、金曜日で初めて羅臼高校の職員室を訪ねたのだった。
「学校に顔出し、職員室をのぞく。二間口用の校舎は、小さく狭い。『小さな学校』という感じが強い。生徒数は標津より多いのだが。」初めて羅臼高校を訪ねたときの印象がこう書かれていた。
その4年後、高校を退職し羅臼町教育委員会の今の職に就くことができた。環境教育のカリキュラム編成と実践から始められた僕の仕事は、やがてESD(持続可能な発展の為の教育)と出会って、肉付けされていった。
ESDについては、内容が多面的で、幾通りもの解釈が成り立つ概念で、場合によっては「開発による環境破壊の免罪符」とか「国家間の格差を固定化する」などの批判もある。(「地球文明の未来学」ヴォルフガング・ザックス)そして、その批判が当たっている面もあると思う。
だが、多義的な解釈が可能であるからこそESDは世界中に広がり多くの人に支持されている。
そして、ESDの基盤は環境教育であるという共通認識を広げていくことで、多くの批判や危惧に応えていけるように思う。
今年度の羅臼町のESDは、以上のような考え方で展開していくつもりである。
今年度最後のエゾシカ有害駆除
31日、羅臼町で今年度最後のエゾシカ有害駆除が行われた。
羅臼のエゾシカ駆除は、基本的に巻き狩りというやり方である。シカのいそうな場所を大勢の勢子(せこ)が取り囲み、包囲網を縮めながら一定の方向に追い出し、あらかじめ決められた場所に展開していた射手それを撃つというものだ。
勢子は、雪が深くても斜面がどんなに急でも、あらかじめ決められた方向にシカを追うので、若くて体力のある人が受け持つ。当然、僕はいつも勢子に指名されると思っているのだが、どういう訳かいつも射手に回される。不思議だ。
冗談はさておき、巻き狩りではこの射手のことを「マチ」という。おそらく「待ち」から来た言葉だろう。
気配を消し、太い樹の陰などに入って、シカが出てくるのをじっと待つのだ。森の中で自分の気配を消しているので、待っている間に思いがけない森の表情に接することができ、なかなか楽しい時間でもある。
ある時など、シマリスが目の前を行ったり来たりしたことがあった。今回は、いろいろな野鳥が訪問してくれた。
今日来た鳥たち:エナガ、ハシブトガラ、シジュウカラ、ヒガラ、ゴジュウカラ、コゲラ、ヤマセミ、カワガラス。それにハイタカ、ワタリガラスなども通っていった。
森はじつに賑やかである。
エゾシカの生命を奪うかどうかという瀬戸際で、神経を張り詰めている自分が、のどかに「日常生活」を送っている森の小動物たちの姿に心和ませているというのは、どこか矛盾したような奇妙で不思議な状況である。
こんなことを考えながらスコープを覗いていた。
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