2013年4月8日月曜日
「地球環境の未来学」をあらためて読み直した
わが家の裏を西別川が流れている。根釧原野でもっとも長い川だ。
昨日からの雨と雪解けで一気に水嵩が増え、夕方帰宅したときは川幅が2倍くらいになっていた。もう数十センチ水位が上がったら川向かいの家は床下浸水になる。
これ以上の増水がないよう祈るばかりだ。
年度の始まりにあたり今年度の羅臼町の環境教育の課題と基本方針をまとめる作業を続けている。環境教育は、「持続可能なDevelopment(発展あるいは開発)のための教育」へと進化し、今や世界に広まっている。
そこで、先日からずっと「発展」あるいは「開発」ということについて考え続けているのだが、今日のように様々の環境許容量の限界が明白になり、開発がもたらした環境破壊の歴史が明らかになっている状況下では、もはや無条件な開発が人々に幸福をもたらすものではないことははっきりしている。
だから「開発」に種々の形容詞を冠したり、「発展」と言い換えたりすることが堂々と行われていると思われる。
そこでドイツの環境学者ヴォルフガング・ザックスの著書である「地球環境の未来学」をあらためて読み替えしてみた。すると示唆に富んだ記述があちこちにあって、ハッとさせられることが多い。
まだまだ未熟で不勉強な自分がそこにいた。
「開発というフィルターを通すと、常に何が欠けているかという目で世界を見るようになる。その結果、それぞれの土地に根付く豊かな選択肢を見る目が曇ってしまう。開発の対立概念は決して停滞ではない。-中略-開発という概念は、かつて高くそびえているモニュメントとして世界に熱狂を巻き起こした。今日その骨組みは朽ち、倒壊の危機さえ迫っているのだが、その威圧的な廃墟はあらゆるものの上に君臨し逃げ口をふさいでいる。今しなければならないのは、瓦礫をどかし、新しい地面を見出すことだ。」
(今、あらためて読み直しているヴォルフガング・ザックス著「地球文明の未来学」・・川村久美子・村井章子訳)にある一節だ。
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