2013年3月27日水曜日
定向進化は滅びへの道
「定向進化説」はご存じでしょう?
生物の進化において、一度進化の方向が決まると、ある程度その方向への進化が続くように見える現象のことだ。
例えばウマの進化では、背の高さ数十cmで、足の指が四本ある先祖から、現在の大型で足指が一本だけの姿まで、いくつかの中間的な姿の種を経て一つの系列をなしている。このことから、ウマの進化には一定の方向があり、その方向への進化が続いたのだと見なす。ゾウの鼻、キリンの首なども代表的な例とされる。
これは、生活上有利な形質が、生存競争による淘汰の結果であると考えられているが、
しかし、進化の方向が必ずしも生存に有利な方向に向かっていないという例も挙げられている。
たとえば中生代の海で爆発的に分布を広げたアンモナイトもその一つだ。最初に現れた時は直線状の貝殻だったが、時代が進むにつれて先端の方から巻かれはじめ、ついに現代の巻き貝のような形になる。そしてそれに留まらず「巻き」がどんどん複雑化し、中生代末期には幾重にも巻きが重なって複雑な形のものが多数出現した。
その呼び方が正しいかどうかは別として、進化を語る本には、しばしば「異状巻き」などという名で出ている。
「定向進化説」が正しいかどうかは別として、この奇怪な(に見える)巻き方は、生存競争上どんな有利さがあるのか、はなはだ疑問に感じる。
さて、選挙制度改革をめぐる与党案のことを考えると、僕はいつでもこの「生存競争上無意味で奇怪な定向進化の果ての生き物」のことを思うのだ。
比例代表(180議席)を30議席削減した上で、残り150議席のうち中小政党への「優遇枠」として60議席を設ける、というものだ。
なぜこんな奇怪な制度が必要なのか?
答は簡単だ。自民党や公明とが政権を手放したくないからだろう。
選挙の制度などシンプルなほど良いに決まっている。極端に言えば、全議席を全国の比例代表で選んでも構わない。あるいは、候補者ごとでもいい。
現行の小選挙区比例代表の併用制だって十分に複雑で、奇怪なしくみだと言えるだろう。 それをさらに改悪した先で、ほんの一部の者が全体を支配する国にしていこうという野望が見える。
あのわかりにくいアメリカ大統領選挙のような仕組みを、指をくわえて眺めているような人間が、この与党案を考え出したに違いない。
だが、みな銘記すべきだ。
定向進化の果てに彼らはみな絶滅への道をたどった、ということを。
2012年12月27日木曜日
サンショウウオと衆院選
一昨年、知床峠の道路縁の雨水枡で捕獲してきたエゾサンショウウオが元気だ。
野生では、とっくに冬眠している季節なのだろうが、室内に置かれているので水温は下がるのだろうが凍ることはない。
元来低温よりも高温に弱い生き物だろうから、すきま風吹き放題で断熱材の貧弱な我が家の寒い部屋でも元気に暮らしている。
いつもはフリーズドライのイトミミズを水で戻して餌として与えているのだが、クリスマスでもあり冷凍赤虫を与えた。
すると乾燥イトミミズの時よりもさらに激しい食欲を見せ、仲間を踏みつけてもつれるように餌に群がってくる。
日頃、敏捷な動きをすることなく、のんびりしているこの両生類たちも、興奮すると素早い動きで餌に襲いかかり、肉食動物として本性をむき出しにする。
サンショウウオは英語では「サラマンダー(salamander)」というらしい。
この名前は、元来は火の中に住むトカゲの形をした精霊(火蜥蜴)を意味する。水辺から離れられないこの生き物にどうして「火蜥蜴」という名が付けられているのか疑問だったが、 倒木などの薪の中に潜りこんだものが火にくべられた時に這い出てくることから、火の中から生まれると考えられていたことに由来するとするという話を読んで納得できた。
森の林床で落ち葉や枯れ枝の下に潜ってひっそりと生きているから、人目に触れることは本当に少ない。どこか神秘的に見えるところがあるのだろう。
そんな「火のトカゲ=サラマンダー」から「ゲリマンダー」という言葉が生まれた。
1812年、アメリカのマサチューセッツ州の当時の知事エルブリッジ・ゲリーが、自分の所属する政党に有利なように選挙区を区割りした結果、選挙区の形がサラマンダーの形をしていたことから、ゲリーとサラマンダーを合わせて「ゲリマンダー」という言葉が作られた。
ところから特定の政党に有利になるように選挙区の区割りを作為的に行うことを「ゲリマンダー」と言う。
僕は、現在の小選挙区制というのは一種のゲリマンダーではないかと思えてしょうがない。一つの小選挙区内では一人の候補者しか当選しないから他の落選した候補に投票した票はすべて死票となる。
たとえば一つの選挙区に6人が立候補し、それぞれが25%、24%、20%、16%、10%、5%の得票率だったとしても25%の有権者に支持された候補者だけが当選し、他の75%の有権者の意志は生かされることがない。
そして、たった25%の得票でも当選した候補者は「勝ちは勝ちだ」と言わんばかりに「俺を選んだのは民意だ」と威張り散らすのだ。こんな不愉快な横暴をわれわれは今まで嫌というほど見せつけられてきたではないか。
今回の衆議院選挙で自民党は「勝った勝った」とお祭りムードになっている。だが、得票率で比べると前回よりも減っているではないか。決して国民に広く支持されているわけではないのだ。
サンショウウオは、乾燥に弱く動きが遅い。だから、遠くまで移動することは不可能で、地域ごとに細かく分化している。日本だけでも約二十数種もの種に分かれている。
環境の変化に弱く多くの種が絶滅の危機に直面している。サラマンダーを保護し、ゲリマンダーは駆逐しなくてはならない。
2012年12月13日木曜日
遠くを見て選べ
人の考えはさまざまだ。この多様性は必要なだし将来に向けて大事にしていかねばならないと思う。
しかし、今、身に降りかかってくる生活苦や放射能の不安、アメリカ軍の横暴や戦争へと傾斜しかかる風潮に批判的であるにもかかわらず、どう見てもそれらに反対する投票行動に結びついていないと思われる人がいるものだ。
そのような人を観察していると自分の生活上でのつながりでできた情実とか各政党が選挙向けに発表する政策を手がかりに候補や政党を選ぼうとしているようだ。少なくとも普段の国会で政府に対してどのように追求してきたかとかどんな質問をしたかを参考にして選んでもらいたい。本当は、その候補者の日常の主張や折々に発表される政党の見解や行動で選んでもらいたいと思うのだ。
正直に言えば、それはなかなか難しいかも知れない。「時の勢い」のようなもので投票行動を決める人々は多い。そして忸怩たる思いを抱きながらも認めざるを得ないのはそれも民主主義なのだということだ。
アウシュビッツを案内してくれた日本人のガイドがいみじくも言っていた。
「ヒットラーは民主的に選ばれたのです」と。
それは、とても恐ろしい言葉に思えた。
僕らは、民主的な人格を持ち続ける限り、あらゆる「反動的な勢力」や「反民主的な勢力」の存在も認めなければならないし、その時の気分でそれらの勢力を支持する民衆の存在も認めないわけにはいかない。
そのような条件で出来ることは、社会の進歩とはどういうことか、一人残らず皆が幸せになるとはどういうことかを粘り強く説き続けていくことだけだろう。目先にとらわれず、一歩離れて全体の構造を見て下さい、と訴えることだけだろう。
昔、クラス担任だった頃、生徒の進路を考えさせる時に「遠くを見ろ」と教えたことをふと思い出した。
カヌーを漕ぐ時に、遠くを見て進めば真っ直ぐに進める。目の前だけを見ていると進路がぶれるものだ。
遠くを見よう。
2012年11月29日木曜日
「ダツダツ詐欺」が蔓延しているゾ
あまり「忙しいから」という言い訳をしたくないのだが、昨年までは12月と3月に分かれていた二つの行事が、12月に相次いで実施されるようになり、とにかく忙しい。
何もしていない時でも追われているような気ぜわしさを感じる。
だから、という訳ではないが以前のように欠かさずニュースを見たり聞いたりして世の中の動きから目を逸らすまいとする気持ちが失せた。
世の動きへの関心が失せたのではない。
放送や新聞のニュースが伝えることがどこまで信頼できるのか、また、大切なことをきちんと伝えているのか、という点への疑惑が強まったのだ。
だから選挙への関心も高くない。
もちろん参政権の行使は最大限に行うつもりでいるが、現状の日本の「多数」が正しい選択をする望みは薄い。残念ではあるが。
そのように考える根拠の一つに以下に述べる現実がある。
多くの政党がエネルギー政策について「脱原発」とか「卒原発」を言っている。
「段階的に減らす」と言っている政党もある。その展望は様々だが。
ところが、現在大飯原発の二基以外全国のすべての原発が停止しているではないか。この状態はかれこれ1年以上続いている。
それでも、何の問題もなくやってこれたではないか?
してみると、このまますべて原発を動かさずにやっていけるわけだ。大飯原発は別問題としても。
このような現状の中で「段階的に減らす」とか「○年後には無くする」と言っている政党の政策は、「とりあえずもう一回動かして、それから考えよう」と言っていることになる。
「即時停止」を言っていない政党は、こぞって「再稼働賛成」と言っているに過ぎない。
国民を欺すことしか考えていない政党の意志がここに透けて見える。
そして、それに欺される国民も多い。
日本はいつからこんな「詐欺の国」になったのか。
2012年11月23日金曜日
「結果が全て」という精神の貧困
選挙が近いということで、どの政党とどの政党が手を結んだとか合流を呼びかけたとか喧しい。
主張を捨て、基本政策を捨て、ただただ当選者数を増やすための方法を探っている。
もはやそこにあるのは政治ではない。
興味もないので、これらに関するニュースは一切無視することにしている。
綱領があり、それに賛同しそれを実現するための政治思想をもった国民が支持し、そこから選ばれるの政治家と、それを支える党員からなるのが政党ではないのか。
その政党を支持する国民が投票し、政治活動のための資金も寄付するのが本来あるべき政党の財政ではないのか。
大企業からの寄付とタップリ集め、その上われわれの税金から政党交付金までもらって、離合集散にうつつを抜かしている数多の「政党」の姿を見ていると辟易する。
おまけに選挙がおわり、政権を取ったら取ったでロクなことをしない。アメリカに尻尾を振って、お腹を出してゴロニャンするばかりで国民が苦しんでいても知らぬ顔だ。
それも当然だろう。
政党の活動資金を国民から直接もらっていないのだから。
税として強制的に取り上げた中から当然のような顔をして掴み取っているのだから。
どうしても言いたいことがある。
昨日や今日になってにわかに生まれ、離合集散を繰り返す「政党」には投票しないで欲しい。
政党交付金としてわれわれの血税からゴッソリ資金を受け取っているような「寄生政党」にも投票しないで欲しい。
そして、なにより必ず投票に行って欲しい。
当選するために手段を選ばないような選挙運動で当選しても、そんなものは本当に選ばれたことにはならない。結果が全てではない。
2012年11月16日金曜日
キーンという寒さがやって来た日、政治は全然良くならない
激しく雨の降る日が続いた。
3日ぶりに雨の上がった今朝、知床の山々が真っ白になっていた。
降ったばかりの雪だ。はるかに離れた所から見ていても、心なしか白さが一層きわだっているように感じた。
家の外においたタライの水も凍っていた。
今日、衆議院が解散になり、選挙が近づいて騒がしい。
選挙になれば、どの政党もどの候補者も耳障りの良いことばかりを言う。
多くの世論の反対を押し切って、大飯原発を再稼働させた野田総理大臣でさえ、
「原発は、なくしていく」と言う。
自分の寿命が尽きた先のこととして「公約」しているのだから笑止だ。
そして、それに騙される有権者も少なくないのだからやりきれない。
「新党だ」とか「第三極」だというのも流行っている。
自民党の政治に辟易して民主党を選び、民主党に失望したからといって自民党に戻るわけにもいかぬという有権者の票を取り込むための「受け皿」作りなのだろう。
「受け皿」にしか目のいかない有権者も有権者だ。
中身はパチンコ屋の「新装開店」と同じことなのに。
そう言えば、「新党」の面々のセリフにも抱腹絶倒した。
「国民は、既成政党に不満を募らせている」とよく言っているが、それを言う議員たちは、もともと「既成政党」の議員なのだ。
「既成政党」を否定するなら、「既成政党」所属の議員は、スッパリと辞めなければならないだろう。
政党助成金に群がる寄生虫たち。
党の看板を掛け替えるだけでは意味がない。
国民の血税に寄生する「寄生政党」が、いくら名前を変えても、絶対にこの国の政治は良くならない。
2012年11月11日日曜日
「天声人語」に異議あり
昨日の朝日新聞「天声人語」
中国指導部の腐敗が進んでいる、と。
指導者の人事が密室で決められ、決定の過程が不透明である、と。
(以下部分引用)
庶民の間に、「幹部の四態」なる戯れ歌があるそうだ。
「午前は車でアチコチ
昼はお皿がぐるぐる
午後はサイコロがころころ
夜はスカートがひらひら」
<中略>
共産党独裁にして資本主義を疾走する大国が、この党大会でどう舵を切るのか注視したい。
(以上が引用。改行は筆者)
これに異議はない。同感できる。
だが、中国のこの体制との比較として「国民総参加だった大統領選と、大きな落差を感じる人もおられよう。」という一文が、その前段に挿入されている。ここに違和感を覚える。
直接投票ではなく、選挙人を選出し、勝った方がその州の選挙人を総取りする、やり方。選挙人の定数配分も人口比によっているから、アラスカなどは、あれほどの面積がありながらたった4人しか配分されていない。
物理学で有効理論という考え方がある。
マクロな情報だけを読み取り細部を無視することだ。普通に誰もがすることである。
例えば、鉛筆で直線を引く。誰がみても一本の整った線に見える。だが、実態顕微鏡のようなもので拡大して見ると、そこにはある程度の幅で(細かなバラツキはある)紙の表面に黒いカーボンの粉が散らばって見える。
決して直線ではないが、そのような細部を無視して受け止める習慣あるいは性能、または約束が暗黙の内にわれわれの中にある。
もちろん、こう考えなければ現実世界は前に進まない。
アメリカの選挙制度は、「細部を無視する」有効理論に基づけば、効率的で現実的な民主主義なのかも知れない。しかし、ベストな方法とは言えない。
誰が考えても「死に票」が多すぎるだろう。
おそらく、あの広い国土に非常に少ない人口で、しかも先住民や国境を越えて入り込んでくる人々、奴隷として連れてこられた人々など、さまざまな立場の人がいる中で、「可能な限りの民主的な方法」として生み出されたのではないだろうか。
(中国の国家体制も、また違った歴史的過程の結果として成立していると思うが)
時の流れと共に条件は変化する。
その意味で、中国もアメリカもそれほど違わないような気がする。
国のリーダーの決め方について、「今のやりかたがベストである」と断定したとき、すでに綻びが始まっているのではないだろうか。
もちろん日本も。
2012年10月4日木曜日
取り残されている気がする 日本
台風19号が根室のはるか沖合を通過して行ったせいか、雲が怪しげに動き、時折激しい雨も降った。
激しい風が知床の山に当たって、局地的は雨を降らせている。
今日、羅臼町の中高生は一つの講演を聴いた。開発援助を行うNGOを作り、エチオピアで活動していた人が来てくれたのだ。
講演は、エチオピアの貧しい農村を真に豊かにするために、どんな援助の方法が良かったのか、という話が中心だった。つまり、モノやお金を手渡しても、それがなかなか援助になりにくい。そこに住む人々の生活を変え、意識を変え、意欲を引き出すことが真の援助につながっていく、という趣旨のものだった。そのためには、その地域の住民の精神的、経済的自立を促すような援助を行うべきで、政府の途上国向け援助は、その意味で十分な成果をあげているとは言えない。物質面での援助に加えて、集落が精神的に自立していくような工夫が、これからの時代には求められる。
そのために彼らのNGOがどれほど努力しているか、という話が中心だった。
村が経済的に豊かになることで、貧しさ故の森林伐採はおさまり、環境の保全にもつながることになる。
先進諸国は、環境のことを考えるならば、途上国への援助の仕方を考え直さなければならない。
講演そのものも非常に興味深い内容であったが、話を聞きながら少し驚いたことがあった。
それは、この40~50年間にエチオピアの辿った歴史である。
エチオピアはアフリカ最古の独立国で、1974年まで皇帝が統治していたが、軍部のクーデターによって廃位となりエチオピア連邦民主共和国となった。
こうして出来た政権は社会主義政策を推進したが、ソ連の崩壊に伴う世界的な政治変動や当時の国内の独立運動などによって1991年に政変が起き、2000年以降安定した政権が続いている。
この話を聴いて、ふと気づいたのだが、1990年代以降、世界の多くの国で政変や政権交代が頻発していたのだ。
この世界的に嵐が吹き荒れていた時代にも、日本は多くの矛盾や不条理を抱えながら政治的には全く変わり映えしていない。カタチだけの「政権交代」はあったもののその中身は、さして変わったとは言い難い。
「日本の悲しい現実」をここでも突き付けられた。
2012年10月1日月曜日
サギの森
北海道中央部、石狩平野の南東の丘陵地帯はかつて大森林地帯だった。
その片鱗が非常に微かに残さっている野幌森林公園に「サギの森」という場所がある。そこではアオサギの集団繁殖地(コロニー)がある。
もっともアオサギという鳥は、時々コロニーを移すそうだから今はどうなっているのだろう。
僕の学生時代には、遠くからでもはっきりわかるほどアオサギの糞で幹が白くなった樹木が何本も並んでいて、ちょっと異様な印象を受けた。誰にでも知られている場所で、「サギの森」というバス停もあったように記憶している。
バスに乗ってそこを通るたびに「サギの森です」という車内アナウンスが流れた。
サギは、羽が白いことから「サヤケキ(鮮明である)」の意味だとか、
鳴き声が騒々しから「サヤギ(騒)」だとか、
「サケ(細毛)」や「サケ(白毛)」が語源だとする説、
「キ」または「ギ」は、トキ(朱鷺)、シギ(鴫)などと同じように鳥を意味する接尾語で、「サユ(白湯)」などに使われている白を意味する「サ」が最初に付いて「サギ」すなわり「白い鳥」の意味だという説など様々な説がある。
漢字の「鷺」も「透き通る白いつゆ」を意味する「露」と「鳥」の組み合わせで出来ている「透き通るように白い鳥」という意味だという。
別の資料では、平安時代の官位で、正四位下に「参議」という職があり、その「サンギ」から名付けられたという説もある。ゴイサギという鳥は「五位鷺」と書くから、この説などは説得力がある。
いずれにしても透き通るように純白で、高貴な官位に由来する、優雅で上品な鳥というイメージを振りまいている。
ゆめゆめ当節流行の「詐欺」と混同してはならないだろう。
日本の安全のために、沖縄県民の安全には目をつぶり、オスプレイを配備すると言う。 原発を稼働させる時は、「私の責任で」と言った人が、「あれは最終的に安全委員会が判断した」と言い始める。
この先稼働できる見込みのない原発の建設工事を再開させておいて、「あれは建設者側の判断だ」という。
日本の政治家の巣くっている所こそまさに「詐欺の森」だと思う。
そう言えば、サギという鳥たち、優雅な印象もあるが、あれでなかなか狡賢く、喧しく成長の限界の見えた立木の多い林にコロニーを作って樹勢を弱め、枯死するとあっさり集団移転する、なかなかにしたたかな一面も持っている。
サギの森の悪いサギたちを根絶やしにしないと、日本が枯死する日は近い。
2012年8月23日木曜日
それは違う!断じて違う!
今日、サッと読んだWeb版の「Japan Business Press」の記事に、元・陸上自衛隊幹部学校長の樋口 譲次という人物が「戦争の一歩手前、「政治の時代」に陥った日中関係」という記事を書いていた。
要するに、今までは経済活動を優先させて日中関係もなあなあで上手くやってきたが、尖閣諸島の問題が起きて、もはや平和のままでいることは出来ない。日本は自覚をもって戦争も辞さないという覚悟で中国と向き合うべきだ、という巷間でよく出まわっている論調だ。
以前からこういうことを主張する人々はいたから、全く新しさは感じられない。
ただし、この人の文で気になったところがいくつかあった。
たとえば、オランダの法学者グロティウスの言葉、「平和とは単に戦争の前ないし後を意味するに過ぎない」を引用し、ニンゲンは戦争をするのが当然だと述べている。
さらに、「人類の歴史は、おおよそ3400年余であるが、その間、世界が平和であったのは300年足らずだと言われている。10年間に換算すると、そのほとんどの期間(9年11か月)、世界のどこかで戦争が繰り広げられ、わずか1か月間が平和であったことになる」と書いて、人類社会に戦争はつきものだ、と主張している。
1947年生まれで「戦争を知らない子ども」のはずだが、元・自衛官としては、平和が続くことによって「戦争の専門家」としての自分の存在価値が否定されてしまう危機感から、このような考え方に陥ってしまうのだろう。
そして、厄介なことにこのような意見にもそれを支持し同意する取り巻きが存在する。フェイスブックやツイッターでこの記事を賛美した人々は、戦争を望み、万が一の場合は自ら進んで前線に立つ覚悟があるだろうか。あるいは自分の子や孫を戦争に行かせる気があるのだろうか。
この記事にマトモに反論するのもアホらしいが、「(人類史を)10年間に換算すると、わずか1か月間が平和であった」という記述は、歴史の発展を全く無視した独善であることは誰もが気づくだろう。数字の上ではその通り(本当はそれ以上だと思うが)であっても、その歴史の全期間を通して、少しずつ平和な世界を構築しようと努めてきたのが人類である。
その歩みはきわめて緩やかだったにしろ、基本的人権が尊重されるような方向へ、弱者が守られるような方向へ、平等が実現される方向へ、進み続けてきたのが人類史のだったはずだ。
それらの人類の努力を塗りつぶすような発言は看過できなかった。
この人の文への反論として与謝野晶子の詩を載せておこう。
ああおとうとよ 君を泣く
君死にたもうことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
堺(さかい)の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたもうことなかれ
旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも
ほろびずとても 何事ぞ
君は知らじな あきびとの
家のおきてに無かりけり
君死にたもうことなかれ
すめらみことは 戦いに
おおみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し
獣(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されん
ああおとうとよ 戦いに
君死にたもうことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは
なげきの中に いたましく
わが子を召され 家を守(も)り
安しと聞ける大御代(おおみよ)も
母のしら髪(が)はまさりぬる
暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にいづま)を
君わするるや 思えるや
十月(とつき)も添(そ)わでわかれたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたもうことなかれ
要するに、今までは経済活動を優先させて日中関係もなあなあで上手くやってきたが、尖閣諸島の問題が起きて、もはや平和のままでいることは出来ない。日本は自覚をもって戦争も辞さないという覚悟で中国と向き合うべきだ、という巷間でよく出まわっている論調だ。
以前からこういうことを主張する人々はいたから、全く新しさは感じられない。
ただし、この人の文で気になったところがいくつかあった。
たとえば、オランダの法学者グロティウスの言葉、「平和とは単に戦争の前ないし後を意味するに過ぎない」を引用し、ニンゲンは戦争をするのが当然だと述べている。
さらに、「人類の歴史は、おおよそ3400年余であるが、その間、世界が平和であったのは300年足らずだと言われている。10年間に換算すると、そのほとんどの期間(9年11か月)、世界のどこかで戦争が繰り広げられ、わずか1か月間が平和であったことになる」と書いて、人類社会に戦争はつきものだ、と主張している。
1947年生まれで「戦争を知らない子ども」のはずだが、元・自衛官としては、平和が続くことによって「戦争の専門家」としての自分の存在価値が否定されてしまう危機感から、このような考え方に陥ってしまうのだろう。
そして、厄介なことにこのような意見にもそれを支持し同意する取り巻きが存在する。フェイスブックやツイッターでこの記事を賛美した人々は、戦争を望み、万が一の場合は自ら進んで前線に立つ覚悟があるだろうか。あるいは自分の子や孫を戦争に行かせる気があるのだろうか。
この記事にマトモに反論するのもアホらしいが、「(人類史を)10年間に換算すると、わずか1か月間が平和であった」という記述は、歴史の発展を全く無視した独善であることは誰もが気づくだろう。数字の上ではその通り(本当はそれ以上だと思うが)であっても、その歴史の全期間を通して、少しずつ平和な世界を構築しようと努めてきたのが人類である。
その歩みはきわめて緩やかだったにしろ、基本的人権が尊重されるような方向へ、弱者が守られるような方向へ、平等が実現される方向へ、進み続けてきたのが人類史のだったはずだ。
それらの人類の努力を塗りつぶすような発言は看過できなかった。
この人の文への反論として与謝野晶子の詩を載せておこう。
ああおとうとよ 君を泣く
君死にたもうことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
堺(さかい)の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたもうことなかれ
旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも
ほろびずとても 何事ぞ
君は知らじな あきびとの
家のおきてに無かりけり
君死にたもうことなかれ
すめらみことは 戦いに
おおみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し
獣(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されん
ああおとうとよ 戦いに
君死にたもうことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは
なげきの中に いたましく
わが子を召され 家を守(も)り
安しと聞ける大御代(おおみよ)も
母のしら髪(が)はまさりぬる
暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にいづま)を
君わするるや 思えるや
十月(とつき)も添(そ)わでわかれたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたもうことなかれ
2012年8月22日水曜日
民主主義における対話の真の価値とは・・・・ ・・・・こんな悪政は江戸時代にもなかったかも知れない
首都圏脱原発連合と野田総理大臣との会談が行われたようだ。
30分間だけ。
みみっちい設定だ。
この時間設定をみても、政府側は、原発に反対する声に耳を傾ける気が全く無いということがわかる。
真剣に未来のエネルギーの事を考えるなら、はじめから時間を制限することなく十分な時をかけるべきだ。
他のスケジュールがあってそれが出来ないのなら、次回の会談を検討すべきだ。
会談後に藤村官房長官は、
「次回以降の会談を開くつもりはない」と答えていた。
これが政府の姿勢だ。
今日は、
「あまりうるさいから会ってやった。一回会ったのだからもう、いいだろう」と言うのがホンネだ。
その後、日本商工会議所の会頭とにこやかに面会している野田総理大臣の映像が報道されていた。この面会も「エネルギー政策についての要望を聞く」という目的だったのだからバカにしている。
何万人も集まっているデモと同じ意見を持ちながらデモに来られない全国の人々の数も含めたら何百万、いや、何千万人かも知れない人々の意見を代表する人々との面会は、おざなりにして、数で言えば数十か数百ほどのごく少数の大金持ちの意見には真剣に耳を傾ける、利己的で不誠実で民主主義からもっとも遠い人物の姿がそこにあぶり出された。
僕たちは、こんな政府を選び出して作ってしまったということを、真正面から受け止めなければならない。
そして、旧態依然とした保守勢力にも辟易している世論に付け入って票をかすめ取ろうとしている勢力への注意も必要だ。
「第三極」などマスコミの作り出した幻想に他ならない。
民主党が誕生するずっと以前から「第三極」を国民は待ち望み、今度こそと期待する度にそれが裏切られ続けたではないか。
第三極などあり得ないのだ。
あるのは守旧か革新かだ。
不平等な富の配分や格差の拡大を止めるのか進めるのか。
戦争へ突き進むのか平和を守るのか。
未来の世代が健康で幸せに生きる権利を妨害するのか守るのか。
選択肢はハッキリしている。
全か無か、なのである。
「第三極」は、革命のポーズをとる反革命に過ぎない。
このような歴史への寄生者は、いつの時代にもいたが。
それはともかく、現政権が、原子力エネルギー政策において、非常に犯罪的存在であるという姿が鮮やかに浮き彫りにされたことに、今日の会談の意義があるだろう。
30分間だけ。
みみっちい設定だ。
この時間設定をみても、政府側は、原発に反対する声に耳を傾ける気が全く無いということがわかる。
真剣に未来のエネルギーの事を考えるなら、はじめから時間を制限することなく十分な時をかけるべきだ。
他のスケジュールがあってそれが出来ないのなら、次回の会談を検討すべきだ。
会談後に藤村官房長官は、
「次回以降の会談を開くつもりはない」と答えていた。
これが政府の姿勢だ。
今日は、
「あまりうるさいから会ってやった。一回会ったのだからもう、いいだろう」と言うのがホンネだ。
その後、日本商工会議所の会頭とにこやかに面会している野田総理大臣の映像が報道されていた。この面会も「エネルギー政策についての要望を聞く」という目的だったのだからバカにしている。
何万人も集まっているデモと同じ意見を持ちながらデモに来られない全国の人々の数も含めたら何百万、いや、何千万人かも知れない人々の意見を代表する人々との面会は、おざなりにして、数で言えば数十か数百ほどのごく少数の大金持ちの意見には真剣に耳を傾ける、利己的で不誠実で民主主義からもっとも遠い人物の姿がそこにあぶり出された。
僕たちは、こんな政府を選び出して作ってしまったということを、真正面から受け止めなければならない。
そして、旧態依然とした保守勢力にも辟易している世論に付け入って票をかすめ取ろうとしている勢力への注意も必要だ。
「第三極」などマスコミの作り出した幻想に他ならない。
民主党が誕生するずっと以前から「第三極」を国民は待ち望み、今度こそと期待する度にそれが裏切られ続けたではないか。
第三極などあり得ないのだ。
あるのは守旧か革新かだ。
不平等な富の配分や格差の拡大を止めるのか進めるのか。
戦争へ突き進むのか平和を守るのか。
未来の世代が健康で幸せに生きる権利を妨害するのか守るのか。
選択肢はハッキリしている。
全か無か、なのである。
「第三極」は、革命のポーズをとる反革命に過ぎない。
このような歴史への寄生者は、いつの時代にもいたが。
それはともかく、現政権が、原子力エネルギー政策において、非常に犯罪的存在であるという姿が鮮やかに浮き彫りにされたことに、今日の会談の意義があるだろう。
2012年8月10日金曜日
その名は粗毛反魂草(アラゲハンゴンソウ)
台風が崩れた低気圧が根室半島の沖を通過した。
そのため根釧原野は、所々で強い雨となった。
雨の晴れ間に散歩に出た。
アラゲハンゴウソウの黄色が、雨に洗われて鮮やかさを増したように輝いていた。夏の終わりに咲く印象的な花だ。
学名の Rudbeckia hirta var. pulcherrima
は、
「粗い毛のある ルドベック(命名者リンネの後援者)さんの 最も美しい変種」という意味だろうか。
黄色の舌状花と濃紫色の筒状花のコントラストは、派手で日本の野では、ひときわ目立つ、いかにも遠い国から来たという風情だ。
外来種でるためか、昔は図鑑に載っておらず、高校生の頃には、種名を調べるのにずいぶん苦労した記憶がある。
そんな思い出に満ちたアラゲハンゴウソウが、今年も美しい。
消費税引き上げ法案が成立。
みせかけの借金を理由に、福祉目的に使うと言いつつ、国土の防災を強化するためという口実で、土建業者が甘い汁を吸う機会を失わないようにも配慮し、国民を絞るだけ絞ろうという悪法。これは、生類憐れみの令にも匹敵する。
総理大臣の記者会見での発言が、また神経を逆撫でした。
曰く
「政治家は、減税のときは胸を張って言えるかも知れません。しかし、増税はこころ苦しい、申し訳ない気持ちを持ちながらお願いせざるを得ない」
大嘘だ。
ホンネは、
「増税のときは胸を張って歓び、減税は心苦しい、申し訳ない気持ちを持ちながらやらざるを得ない」だろ?
よく平然とこんな発言ができるものだ。聞いていて呆れた。
このような政治家を誕生させた有権者、政党、その政党を支持した労働組合それから連合、そして、その裏でこれらを操る米国。
これらの勢力とどこまでも対決していかねばなるまい。
これらは、原子力発電の継続を画策している勢力でもある。
そのため根釧原野は、所々で強い雨となった。
雨の晴れ間に散歩に出た。
アラゲハンゴウソウの黄色が、雨に洗われて鮮やかさを増したように輝いていた。夏の終わりに咲く印象的な花だ。
学名の Rudbeckia hirta var. pulcherrima
は、
「粗い毛のある ルドベック(命名者リンネの後援者)さんの 最も美しい変種」という意味だろうか。
黄色の舌状花と濃紫色の筒状花のコントラストは、派手で日本の野では、ひときわ目立つ、いかにも遠い国から来たという風情だ。
外来種でるためか、昔は図鑑に載っておらず、高校生の頃には、種名を調べるのにずいぶん苦労した記憶がある。
そんな思い出に満ちたアラゲハンゴウソウが、今年も美しい。
消費税引き上げ法案が成立。
みせかけの借金を理由に、福祉目的に使うと言いつつ、国土の防災を強化するためという口実で、土建業者が甘い汁を吸う機会を失わないようにも配慮し、国民を絞るだけ絞ろうという悪法。これは、生類憐れみの令にも匹敵する。
総理大臣の記者会見での発言が、また神経を逆撫でした。
曰く
「政治家は、減税のときは胸を張って言えるかも知れません。しかし、増税はこころ苦しい、申し訳ない気持ちを持ちながらお願いせざるを得ない」
大嘘だ。
ホンネは、
「増税のときは胸を張って歓び、減税は心苦しい、申し訳ない気持ちを持ちながらやらざるを得ない」だろ?
よく平然とこんな発言ができるものだ。聞いていて呆れた。
このような政治家を誕生させた有権者、政党、その政党を支持した労働組合それから連合、そして、その裏でこれらを操る米国。
これらの勢力とどこまでも対決していかねばなるまい。
これらは、原子力発電の継続を画策している勢力でもある。
2012年8月9日木曜日
やくざカルチャー
昔、予備校に行っていたことがあるが、その時の英語の先生で面白い人がいた。
日本の社会はすべて論理ではなく義理と人情で動いていると言い切る方だった。
例えば、政治家の派閥の構造は親分と子分の関係に似ている点。
代議士と後援会、選挙民の関係。
企業の経営者と従業員の関係。
役所の幹部と末端の役人。中央官庁と出先機関や地方自治体。
体育系サークル。
非論理的で「情」によって結合し、「身内」と「外」の区別がある。
原子力ムラもそれが当てはまるだろう。
日本は法治国家ではなく「情治国家」であるとよく言われるのも、その点を指摘したものだろう。
だから憲法解釈など180°反対の解釈が違和感なく成り立ってしまう。
彼は、その構造を「やくざカルチャー」と呼んで、折に触れてその具体的な例を面白く指摘して語ってくれた。
今も時々、その頃の話を思い出し、「ナルホド」と思うことがある。その全てが正しいかどうかは別として、多くの指摘が的を射ているなと思う。
それにしても、今回、自民党、公明党の野党が民主党野田内閣への不信任案を否決する側に回ったことは、この「やくざの論理」にも反するものではないだろうか。
自民党や公明党の民主党批判は、今に至るまで強烈だった。これらの党が野田内閣を支持することなどあり得ないと感じさせるのに十分なものだった。
野党だから当然と言えば当然だが。
それが、さしたる大きな理由もなく与党支持に回ったのだ。
驚きを通り越して、その無節操ぶりに呆れてしまう。
自民党に至っては数日前まで、「不信任案を出す」とまで言っていたはずだ。
消費税の増税は本当に必要なのか、この大増税を行うことに国民は納得しているのかどうか、などということはお構いなしで、とにかくなりふり構わず国民から一円でも多く搾り取ってやろうという点で、この三つの政党は一致していたのだ。
同床異夢を見ながらも、生ぬるい寝床にはしがみついていたかったわけだ。
いま、この矛盾に気づいている人は多いはずだ。
なんとかして、その温々とし爛れた寝床からこの人たちを引きずり出す必要がある。
それには、全く新しい視点で選択を行わねばならない。一人一人の候補の日常をよく見ておくこと、民主党に失望し自民党政治には戻りたくない、という気分だけで選択する人の票を掻っさらおうとしている新たな勢力にも騙されないように気をつけるべきだ。
民主主義は手間とコストのかかるシステムで、問題が一気に解決することは期待できないかも知れないが、選ぶ側が少しずつ賢くなっていくという王道しか、社会を変革する方法はないだろうと思うから。
日本の社会はすべて論理ではなく義理と人情で動いていると言い切る方だった。
例えば、政治家の派閥の構造は親分と子分の関係に似ている点。
代議士と後援会、選挙民の関係。
企業の経営者と従業員の関係。
役所の幹部と末端の役人。中央官庁と出先機関や地方自治体。
体育系サークル。
非論理的で「情」によって結合し、「身内」と「外」の区別がある。
原子力ムラもそれが当てはまるだろう。
日本は法治国家ではなく「情治国家」であるとよく言われるのも、その点を指摘したものだろう。
だから憲法解釈など180°反対の解釈が違和感なく成り立ってしまう。
彼は、その構造を「やくざカルチャー」と呼んで、折に触れてその具体的な例を面白く指摘して語ってくれた。
今も時々、その頃の話を思い出し、「ナルホド」と思うことがある。その全てが正しいかどうかは別として、多くの指摘が的を射ているなと思う。
それにしても、今回、自民党、公明党の野党が民主党野田内閣への不信任案を否決する側に回ったことは、この「やくざの論理」にも反するものではないだろうか。
自民党や公明党の民主党批判は、今に至るまで強烈だった。これらの党が野田内閣を支持することなどあり得ないと感じさせるのに十分なものだった。
野党だから当然と言えば当然だが。
それが、さしたる大きな理由もなく与党支持に回ったのだ。
驚きを通り越して、その無節操ぶりに呆れてしまう。
自民党に至っては数日前まで、「不信任案を出す」とまで言っていたはずだ。
消費税の増税は本当に必要なのか、この大増税を行うことに国民は納得しているのかどうか、などということはお構いなしで、とにかくなりふり構わず国民から一円でも多く搾り取ってやろうという点で、この三つの政党は一致していたのだ。
同床異夢を見ながらも、生ぬるい寝床にはしがみついていたかったわけだ。
いま、この矛盾に気づいている人は多いはずだ。
なんとかして、その温々とし爛れた寝床からこの人たちを引きずり出す必要がある。
それには、全く新しい視点で選択を行わねばならない。一人一人の候補の日常をよく見ておくこと、民主党に失望し自民党政治には戻りたくない、という気分だけで選択する人の票を掻っさらおうとしている新たな勢力にも騙されないように気をつけるべきだ。
民主主義は手間とコストのかかるシステムで、問題が一気に解決することは期待できないかも知れないが、選ぶ側が少しずつ賢くなっていくという王道しか、社会を変革する方法はないだろうと思うから。
2012年7月23日月曜日
オスプレイの悲劇
「陸揚げは待ってくれ」と岩国市。(市長)
「安全性が確認されるまで国内での飛行はさせない」と無表情に繰り返す政府。
基地の置かれている土地の先住民である岩国市民の声をまったく無視して淡々と作業を進めるアメリカ。
オスプレイ国内持ち込みについて、この三者が全く噛み合わぬまま、事実だけが着着と積み上げられている。
東京にある「政府」がどこの国の政府なのかとか、アメリカという国は、他国の人権弾圧に対して、厳しい態度をとってきた「民主主義の国=正義の味方」ではないのか、などという疑問は、発しないでおこう。バカバカしいから。
この際、初歩的で素朴な疑問に絞ってみたい。
「安全性を確認する」とは、どのような作業なのだろう。過去の墜落事故について、事故調査委員会を作り、機体の構造や動作の機構、コンピュータのプログラムなどについて全てを把握し、墜落時にどのような操作が行われたか、その時の気象条件はどうだったか、までを「確認」するのだろうか。
よもや、アメリカ側が紙に印刷した「事故報告書」のようなものをパラパラと読んで、「確認した」と言うのではないだろうな。
しかし、それにしても、日本側に「事故調査委員会」が作られたということは聞かない。そして、今後の配備のスケジュールだけが発表されいるのは、どういう訳だろう。
沖縄本島北部には、オスプレイを受け入れることを前提にしているらしい、ヘリポートの建設も強引に進められている。
昨年の原発事故による放射能漏れで「直ちに健康に影響はない」と言い続けた政府。原子炉の事故は「想定外の津波が原因だった」と強弁する東電。
その場の責任追及から逃れるために、言葉を弄ぶ醜い姿がまた続いている。
言葉巧みに不安を煽って、現金をせしめる振り込め詐欺の国は、こうして誕生したのかも知れない。
誰でもが予言できる。
8月中旬、「オスプレイの事故は、人為的な操作ミスや想定外の追い風による揚力喪失が原因であり、機体そのものには欠陥は認められない」という「報告」が届き、日本政府はそれに「理解」を示す。
そうやって、オスプレイの飛行訓練が各地で始まる。
最初、反対の声は大きいが次第に小さくなっていく。
秋には、一機、また一機とあの進化し損なったゴキブリのような姿が沖縄の上空に現れる。
その間、マスコミはオリンピックのお祭り騒ぎに浮かれるよう国民の関心を手引きする。
そして、オスプレイの存在が日常的になってきたある日、墜落事故による悲劇が起きるのだ。その日は、来年かも知れないし5~6年先かも知れない。
そんなシナリオに行かせないために、今、もっと頑張らなければならない。
「安全性が確認されるまで国内での飛行はさせない」と無表情に繰り返す政府。
基地の置かれている土地の先住民である岩国市民の声をまったく無視して淡々と作業を進めるアメリカ。
オスプレイ国内持ち込みについて、この三者が全く噛み合わぬまま、事実だけが着着と積み上げられている。
東京にある「政府」がどこの国の政府なのかとか、アメリカという国は、他国の人権弾圧に対して、厳しい態度をとってきた「民主主義の国=正義の味方」ではないのか、などという疑問は、発しないでおこう。バカバカしいから。
この際、初歩的で素朴な疑問に絞ってみたい。
「安全性を確認する」とは、どのような作業なのだろう。過去の墜落事故について、事故調査委員会を作り、機体の構造や動作の機構、コンピュータのプログラムなどについて全てを把握し、墜落時にどのような操作が行われたか、その時の気象条件はどうだったか、までを「確認」するのだろうか。
よもや、アメリカ側が紙に印刷した「事故報告書」のようなものをパラパラと読んで、「確認した」と言うのではないだろうな。
しかし、それにしても、日本側に「事故調査委員会」が作られたということは聞かない。そして、今後の配備のスケジュールだけが発表されいるのは、どういう訳だろう。
沖縄本島北部には、オスプレイを受け入れることを前提にしているらしい、ヘリポートの建設も強引に進められている。
昨年の原発事故による放射能漏れで「直ちに健康に影響はない」と言い続けた政府。原子炉の事故は「想定外の津波が原因だった」と強弁する東電。
その場の責任追及から逃れるために、言葉を弄ぶ醜い姿がまた続いている。
言葉巧みに不安を煽って、現金をせしめる振り込め詐欺の国は、こうして誕生したのかも知れない。
誰でもが予言できる。
8月中旬、「オスプレイの事故は、人為的な操作ミスや想定外の追い風による揚力喪失が原因であり、機体そのものには欠陥は認められない」という「報告」が届き、日本政府はそれに「理解」を示す。
そうやって、オスプレイの飛行訓練が各地で始まる。
最初、反対の声は大きいが次第に小さくなっていく。
秋には、一機、また一機とあの進化し損なったゴキブリのような姿が沖縄の上空に現れる。
その間、マスコミはオリンピックのお祭り騒ぎに浮かれるよう国民の関心を手引きする。
そして、オスプレイの存在が日常的になってきたある日、墜落事故による悲劇が起きるのだ。その日は、来年かも知れないし5~6年先かも知れない。
そんなシナリオに行かせないために、今、もっと頑張らなければならない。
2012年6月30日土曜日
オスプレイと原発とレバ刺しと
牛レバーの生食が禁止されるとのことで、ニュースがうるさい。
動物質の生食には、寄生虫などのリスクが付き物である。食べる時は、それを承知で食べねばならない。
それで良いのではないだろうか。
国家権力が、罰則付きでそれを規制することに違和感を感じる。
牛レバーの刺身を食べて、精神が錯乱し、相手構わずナイフを振り回したというような事件があったのなら、その規制もしかたなかろう。
食べて、危険があるかも知れないから、自分は食べないとか、それでも食べる、というのは、消費者一人一人が判断するべきことだ。
怖ろしいのは、その国による規制を皆が黙って受け入れていることだ。特にマスコミの姿勢はひどい。
「主権在民」というのは、この国から消えてしまったらしい。
国も「国民の生命を守るため」というお題目を掲げて、生活の細部にまで土足立ち入ることを日常化させようとしている。
「国民の生命を守る」のがそれほど大事な責務と思うなら、原子力発電は、ただちに止めなければならない。牛レバー以上に危険なはずだ。オスプレイが頭の上を飛び回る状況だって、牛レバーを食べる以上に危険ではないのか。
弱い者には強気に出るが、強い相手には何も言えない。これが今の日本の政府だ。
その象徴がオスプレイや原発と牛レバーの関係だろう。
動物質の生食には、寄生虫などのリスクが付き物である。食べる時は、それを承知で食べねばならない。
それで良いのではないだろうか。
国家権力が、罰則付きでそれを規制することに違和感を感じる。
牛レバーの刺身を食べて、精神が錯乱し、相手構わずナイフを振り回したというような事件があったのなら、その規制もしかたなかろう。
食べて、危険があるかも知れないから、自分は食べないとか、それでも食べる、というのは、消費者一人一人が判断するべきことだ。
怖ろしいのは、その国による規制を皆が黙って受け入れていることだ。特にマスコミの姿勢はひどい。
「主権在民」というのは、この国から消えてしまったらしい。
国も「国民の生命を守るため」というお題目を掲げて、生活の細部にまで土足立ち入ることを日常化させようとしている。
「国民の生命を守る」のがそれほど大事な責務と思うなら、原子力発電は、ただちに止めなければならない。牛レバー以上に危険なはずだ。オスプレイが頭の上を飛び回る状況だって、牛レバーを食べる以上に危険ではないのか。
弱い者には強気に出るが、強い相手には何も言えない。これが今の日本の政府だ。
その象徴がオスプレイや原発と牛レバーの関係だろう。
2012年6月29日金曜日
ベラボーめっ! おととい来やがれ、新幹線
北海道新幹線の着工が認可されたとお祭り騒ぎをしている。
「公共事業」によるゼネコンと大資本のカネ儲けのタネの新幹線建設なんて、全く必要ない。あれだけ国家財政の危機だと大騒ぎしておいて、消費税値上げの道筋が見えた途端にこの発表だ。わかりやす過ぎるだろう。
新幹線が通ることで、在来線が廃線になったり極端に間引きされたダイヤの第三セクター鉄道になり、地域の過疎化が一層進んでしまったという事例は、たくさんある。
公共輸送の体系を客観的・科学的に見直して組み立て直すならまだしも、先に「新幹線建設」という結論を掲げてから理屈を付け加えていく今のやり方は、必ず破綻する日がくるだろう。
札幌から東京まで5時間1分で結ばれるそうだ。5時間という時間は、決して短くない。飛行機なら約2時間だ。空港までの移動や搭乗の待ち時間を含めても3時間半程度だろうか。運賃を比べてもさほど大きな差は無いかも知れない。そんな条件で、飛行機より新幹線を選ぶ人は必ずしも多くないと思う。
それよりも鉄道と航空機とで互いの特性を生かした棲み分けをする方が賢いやりかたではないのか。
新幹線の車両は、雪のない地方で開発された。東北新幹線や新潟、北陸新幹線などで雪への対策も少しずつ進歩しているようではあるが、北海道の雪と寒さは、全く別物だ。今のままの技術で250キロ、300キロの運行ができるものかどうか。
そんな技術開発よりも、在来線の路盤とレールの規格を向上させ、複線化を進めて道内の鉄道網を整備することの方が、はるかに重要だと思う。
「北の大地に新幹線を」とキャンペーンを繰り広げている。
断じて「北の大地」ではない!ここは、「アイヌ(人間)の大地」だ!
そして、数多くの野生動物が共に暮らしている大地だ。
はるか南から勝手に侵入して、先住民の土地を奪い、「北の大地」などと気取った名前をつける権利は、お前たちには無い。
まして、無駄な税金と環境破壊をもたらす新幹線など、勝手に走らせることなど許されるものではないのだ。
「公共事業」によるゼネコンと大資本のカネ儲けのタネの新幹線建設なんて、全く必要ない。あれだけ国家財政の危機だと大騒ぎしておいて、消費税値上げの道筋が見えた途端にこの発表だ。わかりやす過ぎるだろう。
新幹線が通ることで、在来線が廃線になったり極端に間引きされたダイヤの第三セクター鉄道になり、地域の過疎化が一層進んでしまったという事例は、たくさんある。
公共輸送の体系を客観的・科学的に見直して組み立て直すならまだしも、先に「新幹線建設」という結論を掲げてから理屈を付け加えていく今のやり方は、必ず破綻する日がくるだろう。
札幌から東京まで5時間1分で結ばれるそうだ。5時間という時間は、決して短くない。飛行機なら約2時間だ。空港までの移動や搭乗の待ち時間を含めても3時間半程度だろうか。運賃を比べてもさほど大きな差は無いかも知れない。そんな条件で、飛行機より新幹線を選ぶ人は必ずしも多くないと思う。
それよりも鉄道と航空機とで互いの特性を生かした棲み分けをする方が賢いやりかたではないのか。
新幹線の車両は、雪のない地方で開発された。東北新幹線や新潟、北陸新幹線などで雪への対策も少しずつ進歩しているようではあるが、北海道の雪と寒さは、全く別物だ。今のままの技術で250キロ、300キロの運行ができるものかどうか。
そんな技術開発よりも、在来線の路盤とレールの規格を向上させ、複線化を進めて道内の鉄道網を整備することの方が、はるかに重要だと思う。
「北の大地に新幹線を」とキャンペーンを繰り広げている。
断じて「北の大地」ではない!ここは、「アイヌ(人間)の大地」だ!
そして、数多くの野生動物が共に暮らしている大地だ。
はるか南から勝手に侵入して、先住民の土地を奪い、「北の大地」などと気取った名前をつける権利は、お前たちには無い。
まして、無駄な税金と環境破壊をもたらす新幹線など、勝手に走らせることなど許されるものではないのだ。
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