福島第一原発での作業員の被曝線量偽装工作について、今日、一斉に報道された。当事者である東電の下請け会社に批判が集中するのは当然だろう。
その行為は、未必の故意による殺人未遂だとさえ思われる。
だが、一方で、このニュースに接した時、「やっぱりな」とも感じた。このような行為は、ずっと以前からどこかで行われていたのではないか、という疑いを否定しきれない。
たとえば普段、道路を走っている車の何パーセントが制限速度や法定速度を守っているだろう。そして速度違反取り締まりが行われている区間だけ、皆が厳格に法を守って運転する。
海の上でも制限されている漁獲量を超えた違法な操業がしばしば摘発されている。
大相撲の新弟子検査やボクシングの計量でも、「検査の瞬間」に合わせて増量や減量をする話はよく聞く。
いつの間にか、われわれは、規制の趣旨や目的を忘れ、目の前にある「検査の瞬間」さえ通り過ぎれば良い、という発想に取り憑かれるのではないだろうか。検査をパスすることが最大の目的になってしまうということだ。
人間は、そのような誤りを犯しやすい。まして会社の儲けや作業員の収入が左右されるとなると、なんとか誤魔化して他者より余計に稼ぎたいという誘惑に駆られるのだろう。 だから、原発は、このような偽装や欺瞞を生み出すシステムでもある。
今回の問題で、当事者の会社や役員を責めるだけでは不十分だろう。また、被曝線量の測定方法を工夫するなどの小細工では解決しないと思う。
この犯罪を生み出した構造や原発というシステムそのものを見直さなければ、どうにもならない。
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