2012年8月1日水曜日

開会式の怪

ロンドンオリンピックの開会式が開かれていた時、札幌の父のマンションにいた。いつもの習慣でその日の天気やニュースなどを知りたいと思い、午前6時30分頃テレビのスイッチを入れた。すると偶然にも開会式の中継が放送されていた、というわけだ。

 競技の特に日本の勝ち負けには、全く無関心な僕だが、開会式を見るのは嫌いではない。世界にはこんな国もあったんだとか、この国の旗はこういうデザインだったんだ、などと興味は尽きない。
 少数の代表団しか送ることができないほど貧しい国、今も紛争のただ中にある国などを見ていると胸が塞がる思いがする。そんな国の選手たちの目に、きらびやかで電気や花火などをふんだんに使った、オリンピックのセレモニーは、どのように映っているのだろう。母国では、一日一度の食事さえままならない人々がたくさん暮らしている、という選手もいることだろう。
 もう少し、ほんの少しで良いから、世界中の貧困や飢餓や病気が改善されるまで、オリンピックのセレモニーや競技を質素にできないものだろうか。そして、浮いたお金を苦しむ人々の救済に回すことを考えられないのだろうか。ほんの少しで良いから。
 オリンピックのために消費される電力は、衛星中継や取材、さらには視聴に使われる分も含めて、膨大なものになっているだろうと思う。
 その分を、今、苦しんでいるいる人々に回すことは出来ないのだろうか。

 こう考えてくると、現在人類が手にしていて、まずまず無難に利用しているエネルギーである物が燃えるときのエネルギーや電気のエネルギーでさえ、まだまだ本当にマネージメントできているとは言えない現実があることに気づく。
 断るまでもないだろうが、ここで言う「マネージメント」とは、安全に使いこなすだけに止まらず、その恩恵を皆が分け合っているということも含めて言っている。
 電気や火でさえ、満足にマネージメントできていないなら、原子力(核エネルギー)のように桁違いに巨大なエネルギーなど、今の人類が使いこなせているとは、言い難い。
 まして事故を起こして、大変な汚染を引き起こした事実があるのだから。

 人類は、もう一度、「身の程」を知るべきだろう。

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