2012年12月31日月曜日
おおつごもり に
今年も残すところ3時間と少々。
今年は、バイクでシカとの衝突事故を体験し、人生初の入院、点滴、など今までにない経験ができた。
みなさまがた、家族には心配をかけて申し訳なかったと思っているが、自分では教訓も含めて良い経験ができ視野が広まったとも思っている。
さて、
一年間、この拙いブログをお読みいただいた方々には、心から感謝します。
いつまでたっても成長のない内容だが、これからも書けるだけ続けてみたいと考えております。
来年も、相変わらずお付き合い頂けたら幸せに思います。
それでは、どうぞ、新年が皆様にとって佳き年でありますように。
また、来年。
2012年12月30日日曜日
シーシェパード!よっく聞け!
古代、北海道のオホーツク海沿岸に住んでいたオホーツク文化人は、流氷の海にカヤックを駆りアザラシやクジラを捕らえる海洋狩猟民だったと言われている。
彼らは動物を図案化してさまざまな生活用具の模様に用いた。もちろん、それには単なる装飾以上の意味があったことだろう。
その後、北海道においてアイヌ文化がその影響を受け、オホーツク文化人の間に伝わっていたモノ送りの儀式がイオマンテとして受け継がれたり、さまざまな動物を神として敬い畏れながらその恵みに感謝する考え方が生まれた。
僕は、クジラを食べるとき、その圧倒的なスケールとパワーを頂き、その存在に畏敬の念をはらい、感謝しつつ頂くという気持ちになっている。
そして、わが家に昔から伝わる年末年始のハレの食べ物としてのクジラ汁を調理し、堪能している。
この豊富な脂肪を含む巨大な生き物を単なる油を採るための資源としか見なさず、産業革命で急激に需要の増した油だけを採った残りを海に棄てていたのはどこのどんな人たちだったろう。その末裔が今になって捕鯨を敵視し、無法で危険な妨害行為をしている。
食物への考え方は人や文化によって様々であって良い。多様な価値観があり、それらが互いに尊重し合って、穏やかな世界が保たれるのではなかろうか。
「鯨を食べたくない」という考え方は尊重したい。
同時に伝統的に鯨を食べている文化も尊重してもらいたい。
ああ、クジラ汁は美味しい。これで風邪気味だった体調が一気に快復した。
2012年12月29日土曜日
ワシたちの饗宴にて
急激に冷え込む日が続いて、川も湖も慌ただしく凍り始めた。
12月中旬くらいまでは、なかなか本格的な冷え込みが来なくて、今年は暖冬かと思われていたのだが、最後の週に入って急冷という感じで気温が下がった。
ただ、それは数字だけの話で、この冬の寒さに「厚み」が感じられないのは僕だけなのだろうか。
今は、大陸から次々に寒気が流れ込んで来るが、これはあまり長続きしないで、一気に冷え込みのゆるむ日が、早々にやって来るのではないかという気がしてしかたがない。
それでも、今朝は、凍結した川の上でエゾシカが死んでいて、オジロワシ、オオワシ、ワタリガラスなどが「真冬の饗宴」を開いていた。
昼過ぎに同じ場所に行ってみると、僅かな骨と毛だけが残されていて、シカの身体はほとんど跡形もなく消え去っていた。
自然の中で生きてきた者は、自然界が見事に無駄なくその身体を利用してくれる。
ある種の羨ましさを覚えた。
本当は自分の身体も、このように無駄なく利用してもらえたら、生きてきた意味があるのに、と思ったから。
ニンゲンは自然界から自らを切り離し、生や死さえも不自然な形にしてしまった。
もう一度、この辺りで、ニンゲンのあり方を考え直す時期なのではないだろうか。
2012年12月28日金曜日
御用納めの「御用」は誤用だ
今年は29日が土曜日だ。だから、今年の仕事は今日で仕事が終わりとなった。
机の周りを片付け、来年早々に始める仕事の準備をして、今年一年の仕事納めとなった。
いわゆる「」御用納め」だ。
「御用」というのは、いかにも時代がかった言い方だ。こういう表現を使うと自分が「おかみ」の一員であるのだなとあらためて思う。
江戸時代以来、官尊民卑の考えが意識の底流にあり、その裏返しで、何度か公務員バッシングが激しくなる時があった。
今もそうかも知れないが。
実際、地方自治体職員の中には、ごく希有な例だが、住民を見下す尊大な意識が残骸のように残っていることがある。また、住民の側にも公務員を敵視する気分が流れている場合もたまにある。
公務員が住民を蔑視するのは、根拠のないエリート意識が心の底に淀んでいるからだと思う。それこそ「おかみ意識」である。集団の力を笠に着て威圧するチンピラと同じ発想だと思う。
公務員への敵視にはやっかみが含まれていると思う。その証拠に、公務員を減らせとか公務員給与を削れと叫んでいる人が、我が子を公務員にさせることに熱心だったりする例をいくつも見てきた。
地方の自治体をコンパクトなコミュニティと考えるとこれらは不毛な対立だと思うのだが。
住みよい町では、住民と自治体職員との協同意識が高く協力関係が強く築かれているように思う。
2012年12月27日木曜日
サンショウウオと衆院選
一昨年、知床峠の道路縁の雨水枡で捕獲してきたエゾサンショウウオが元気だ。
野生では、とっくに冬眠している季節なのだろうが、室内に置かれているので水温は下がるのだろうが凍ることはない。
元来低温よりも高温に弱い生き物だろうから、すきま風吹き放題で断熱材の貧弱な我が家の寒い部屋でも元気に暮らしている。
いつもはフリーズドライのイトミミズを水で戻して餌として与えているのだが、クリスマスでもあり冷凍赤虫を与えた。
すると乾燥イトミミズの時よりもさらに激しい食欲を見せ、仲間を踏みつけてもつれるように餌に群がってくる。
日頃、敏捷な動きをすることなく、のんびりしているこの両生類たちも、興奮すると素早い動きで餌に襲いかかり、肉食動物として本性をむき出しにする。
サンショウウオは英語では「サラマンダー(salamander)」というらしい。
この名前は、元来は火の中に住むトカゲの形をした精霊(火蜥蜴)を意味する。水辺から離れられないこの生き物にどうして「火蜥蜴」という名が付けられているのか疑問だったが、 倒木などの薪の中に潜りこんだものが火にくべられた時に這い出てくることから、火の中から生まれると考えられていたことに由来するとするという話を読んで納得できた。
森の林床で落ち葉や枯れ枝の下に潜ってひっそりと生きているから、人目に触れることは本当に少ない。どこか神秘的に見えるところがあるのだろう。
そんな「火のトカゲ=サラマンダー」から「ゲリマンダー」という言葉が生まれた。
1812年、アメリカのマサチューセッツ州の当時の知事エルブリッジ・ゲリーが、自分の所属する政党に有利なように選挙区を区割りした結果、選挙区の形がサラマンダーの形をしていたことから、ゲリーとサラマンダーを合わせて「ゲリマンダー」という言葉が作られた。
ところから特定の政党に有利になるように選挙区の区割りを作為的に行うことを「ゲリマンダー」と言う。
僕は、現在の小選挙区制というのは一種のゲリマンダーではないかと思えてしょうがない。一つの小選挙区内では一人の候補者しか当選しないから他の落選した候補に投票した票はすべて死票となる。
たとえば一つの選挙区に6人が立候補し、それぞれが25%、24%、20%、16%、10%、5%の得票率だったとしても25%の有権者に支持された候補者だけが当選し、他の75%の有権者の意志は生かされることがない。
そして、たった25%の得票でも当選した候補者は「勝ちは勝ちだ」と言わんばかりに「俺を選んだのは民意だ」と威張り散らすのだ。こんな不愉快な横暴をわれわれは今まで嫌というほど見せつけられてきたではないか。
今回の衆議院選挙で自民党は「勝った勝った」とお祭りムードになっている。だが、得票率で比べると前回よりも減っているではないか。決して国民に広く支持されているわけではないのだ。
サンショウウオは、乾燥に弱く動きが遅い。だから、遠くまで移動することは不可能で、地域ごとに細かく分化している。日本だけでも約二十数種もの種に分かれている。
環境の変化に弱く多くの種が絶滅の危機に直面している。サラマンダーを保護し、ゲリマンダーは駆逐しなくてはならない。
2012年12月26日水曜日
保身のために真理をねじ曲げる
先日、職場の忘年会があった。
一次会の会場から二次会の会場まで1キロメートル足らずの道のりを歩いて移動した。雪が降りしきる中をY課長と並んで四方山の話しをしながら歩いた。
それを後ろから見ていた同僚が、「ユーラ(僕のこと)は、まるでマロースのように見えた」と言ってくれた。
「マロース」と言うのは、倉本聰 作の芝居の題名であり、そこに登場する主人公のことでもある。彼は数万のハクチョウを率いてシベリアから渡ってくる「冬の旅団」の旅団長だ。
そこまでおだてられて舞い上がってしまったのは言うまでもない。
だが、この物語は、深刻な内容を扱っている。
記憶を失ったその老人が助けられた森中のコーヒー店「ブナの森」の近くで野鳥が大量死する。その原因をウイルスによるものと断定した行政機関は、野鳥を皆殺しにして焼き払う処置を決める。
しかし、野鳥の大量死の原因は、その場所にかつて大量に投棄された有害物質のためではなかろうかという、全く違った見方が浮上する。
作者の倉本さんは、芝居の中ではこの「原因」について突き詰めてはいないのだが、そうすることでかえって人間の自然に対する思い上がりと身勝手な解釈について告発しているように感じる。
そして、今日、東北電力の東通原発内に活断層がある可能性が高いとする原子力規制委員会の判断が発表された。東北電力は、早速それに反対する「見解」を発表した。
破砕帯が活断層であるかないかは純粋に科学的な問題のはずなのに、利害関係者が必ずそれに反対する。反対するための根拠を集めようとする。
水俣病など過去の公害問題の時とまったく変わっていない対応に失望を覚える。
このような学者がいるから科学への信頼はボロボロに破綻してしまうのだ。
曲学阿世という言葉ある。「世の中に気に入られるように自説を曲げ、信念も気概もなく時流に媚び諂うこと。真理がわかっているのにも関わらず、自分の身の保身に走って真理をねじ曲げること。」という意味だ。
福島の原発で、あれほどの規模の取り返しのつかない事故を起こして間もないのに、あらゆる危険に目をつぶろうとする学者がいて、学者を続けていることが信じられない。
まさに曲学阿世の徒、曲学阿電または曲学阿原、曲学阿資本、曲学阿大企業、曲学阿政のヤカラたちではないか。
一掃されるべきは彼らの方なのである。
2012年12月25日火曜日
陰暦で暮らしてみれば
今年も残りわずかになり、一年間壁に貼っていたカレンダーを更新する時期になった。数年前から毎日の月齢が気になるようになった。生徒を連れて磯で実習する時などは、干満の大きさが気になるので、潮回りを知りたいと思ったことも原因の一つだ。
興味を持ってみると、太陽暦ではわかりにくい月のリズムが身近に感じられて楽しい。
たとえば、月齢によって月の出、月の入りの時刻はほぼ決まっている。
「今日の月齢は8日だから、帰り道には南の方角に月が見えるな」などということを考えられるのが楽しい。
時代小説が好きで、いろいろな作品を手当たり次第に読むのだが、作家の中には、こういうことに無頓着な人がいて、三日月を真夜中に出てきたりする場合もある。
「あらまあ!」とは思うのだが、そんなことにムキになる必要はないと思っている。
結局、それが原因で毎年陰暦の暦も目立つ所に貼って使うようになった。
陰暦は、季節感によく合っていると思う。北海道の場合は、内地の気温変化とは大きな違いがあるので、全てにおいてピッタリと合っているとは言い難いが、昼夜の長さや日差しの強弱などはよく合っていると思う。
だから、地球や月の息づかいが直に伝わってくるような気がしてならないのだ。
非合理主義や非科学主義、あるいは懐古主義に陥るつもりは毛頭ないが、陰暦を通して見えてくる自然の移り変わりのリズムは、大切にしてゆきたいと思っている。
来年の陰暦カレンダーはまだ準備していない。そろそろ探そうと思う。
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