2012年12月9日日曜日
教室の時計はなぜ教師から見えない位置に掛けられるのか
きのう、ツイッターにも投稿したのだが、以前から不思議に感じていたことがある。
日本の学校の教室にある時計のことだ。
学校の教室にはたいてい時計がある。
それがほとんど教室の正面に取り付けられている場合が多いのだ。
一番多いのは正面の真ん中。黒板の上だ。その下に教卓があり、授業者は教卓越しに生徒と向かい合うのが基本となる。言わばデフォルトの位置だ。
当然、時計は授業者の後頭部の上方にあり、生徒からはよく見えるが先生には見えない。
この状態は、授業の効率を落とす。生徒は黒板を見るたびに時計が目に入るのだ。授業の残り時間が気になるのは人情というものだろう。
おまけに授業をマネジメントしている教師は、首を回さなければ時間がわからないときている。
どうして教室の後方の壁に時計をかけないのだろう。
ささやかで私的な経験の範囲では、教室の後方に時計を配置している教室を、僕は見たことがない。
まあ、こんなことは小さな問題だと思う。小さなことだからこそずっと長い間にわたって、問題にされることもなく、この状態が今まで続いてきたのだろう。
しかし、この現象が日本の学校や教育が内包する問題のひとつを象徴しているような気がするというのは考え過ぎだろうか。
つまり、非効率、非合理的で「カタチ」ばかりにこだわる。「指導」のあり方も教育を受ける児童生徒の立場に立って考えるよりも先に、「自分の指導とその成果を周囲に見せる」ということを考えてしまう。
つまり、教師は「指導する」のではなく、「指導してみせる」ことばかりを意識する。
そのために、短期間に現れる結果にこだわる。
そして、数値化されたような「目に見える成果」ばかりを求めようとする。
これは内部告発に近いのだが、学校というのは見栄の世界だと言い切っていい。
教育にとってもっとも大切なものは、「愛」と「真理」だと思うのだが。
教育基本法を醜く改悪し、「建前」と「服従」のを学校教育に押しつけようとしている者が、いくつかの政党の党首としてまかり通っている。
彼らにとって、教育は命令通りに行動し温和しく死んでいく兵士を養成するシステムであればいいのだから、この非効率、日合理は当然のことであるに違いない。
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