2013年2月7日木曜日
やっぱり失われた余裕なのだ
朝、事務室前の駐車場にあるイチイの大木で二羽のハシブトガラスが戯れていた。
そのうち、一羽がミカンの皮を拾ってきて中段の枝で食べ始めた。しかし、手元(いや、クチバシ元か?)が狂ったらしくポトリと落としてしまった。
すると、それまでミカンの皮を食べる様子を羨ましそうに見ていたもう一羽がサッと舞い降りてすかさずそれを自分のものにした。
窓からその様子を観ていた同僚と僕は爆笑した。
それからこんな会話を交わした。
「昔の人は動物たちのいろいろな行動をよく観察していたんだね。こういう話がたくさん残っていたり、そこからその動物の性格を描写したりしてますよね。」
「だから、寓話や伝説を作ったのでしょうね。」
昔の人の観察力は非常に鋭かったのだろう。
それは、日常生活に自然観察以外の刺激がなかったせいもあるだろう。
テレビもない、本もない、インターネットもない。仕事も・・・たぶん今ほどの密度はなかっただろう。
そして、衣食住に関して自然から学ぶべきことは山ほどあっただろう。
それにしても現代人には、駐車場でのカラスの振る舞いをじっくり観察する余裕が亡くなりすぎているのだなとあらためて思った。
2013年2月6日水曜日
森のひととき・・・・冬
高校の裏の山でスキーの授業をした。
滑走面にナイロンのシールを貼り付けてあるスキーは斜面を楽々と登ることができる。先日の荒天の日に室内でシール用ワックスを塗ったので滑る時も快適だ。
今日の授業は一時間だけで、2~3本滑ったらすぐに戻る頃合いになった。生徒はみな慣れない「長靴スキー」に苦戦していたのでちょうど良かったようだ。
斜面を滑り降り、上から降りてくる生徒たちを待っている間、何気なく周りの樹木に目をやると冬芽が膨らみかけていた。ケヤマハンノキ、ダケカンバ、イタヤカエデ。それぞれの樹木がそれぞれの伝統の格式に従った冬芽を膨らませている。
ああ、春が近い。
密度の高いトドマツの林と隣り合ったダケカンバやハンノキの周りに小枝がたくさん散らかっている。よく見ると小枝の先にあるはずの冬芽がことごとく食べられている。切り口は鋭い小刀で削り取られてようになっている。おそらくモモンガの食事の跡だろう。
上空ではオジロワシが旋回している。
冬の森は、決して休んでなどいない。
2013年2月5日火曜日
華やかなJRの陰で・・・・東の果てへの旅
札幌からの帰路である。やや吹雪気味でほとんどの列車が定刻よりおくれて到着していた。
定時発車した「スーパーおおぞら7号」もすぐに遅れ始めた。
いつも感じることだが、ヒトであふれた札幌駅を発った特急列車が帯広に着くと車内の半分くらいの乗客は降りる。代わって乗ってくる人は、ほんのわずか。
すっかりガランとなった特急から残りの人々が降りるのは終点の釧路駅だ。
そこから先には花咲線と釧網線という二本のローカル線が伸びている。釧路駅ではそれぞれに接続する普通列車が待っていてくれる。
だが、特急から乗り換える人は極端に少ない。そしてこの先では、降車する人ばかりになる。「引き算の乗客数」が続く。
小柄な車体にディーゼルエンジンを2基搭載したキハ54。
暗い車内照明、スプリングがへたったシート、と素朴な雰囲気がいかにも設備投資を節約したローカル線の車両という雰囲気だ。
走り出すとその感はさらに強まる。
容赦なく車内に伝わってくるエンジン音や走行音。そして軟弱な路盤の上に細いレールが敷かれているための大きな揺れ。まるで時化の海を走る漁船のようだ。
かつての国鉄が多額の赤字で苦しんでいた頃、鉄道運賃の値上げに対して首都圏のサラリーマンが大まじめな顔でTVのインタビューに応えていた。
「ローカル線の赤字の分までわれわれが払う運賃に上乗せされるのではたまりません」と。
はるか昔の話だが、この言葉は今でも僕の耳に鮮やかに残っている。
それは一つの正「しい考え方」で、その「正しい考え」に基づいて国鉄を5つに分割したうえでローカル線の大半をバッサリ切り捨て黒字に転換させたと胸を張っている。
そのために老人は病院通いの足を奪われ、高校生は高校への通学の足を失った。過疎化に拍車がかかり、都会と地方の格差は広がった。住む人がまったくいなくなった集落さえある。
競争原理で競い合って敗れたのだから仕方がないのか。敗者はいつでも不便で垢抜けない劣悪な環境で耐えなければならないのか。
そんな格差を広げる地方公共交通の切り捨てに、地方を守る立場に立つべき知事までが手を貸す。これが北海道の現実だ。新幹線を札幌まで引っ張ってくることに血眼になっている知事や「財界」人に高額な運賃と不便なダイヤ、快適とは言いかねるローカル線で呻吟する者の声など届くわけもない。
その一方で、「一つになろうニッポン」などと空虚な標語を叫んでみせることだけは忘れない。
「一つになる」のなら、せめてローカル線の路盤整備くらいもっとしっかりやってみせてほしい。いつ暗闇から飛び出してくるか知れないエゾシカに神経をすり減らして前方に目を懲らす運転士の苦労も軽くしてみせるべきではないか。
「苦労を分かち合っている」と大威張りで叫ぶのであれば。
2013年2月4日月曜日
暗イウチハ、マダ滅亡セヌ
今日は父の医療費に関する手続きのために札幌市中央区まででかけた。札幌駅から駅前通の地下歩行空間を北1条まで歩いた。
地下歩道は、まだ完成してそれほど経っていないから近代的、都会的で洗練された内装だ。全体的になんとなく垢抜けている感じがする。ヨーロッパの地下鉄のコンコースを歩いているのかと勘違いしそうだ。日本国内でそう感じられることはめったにない。どうしてだろうと考えているうちに入り口に答えが貼ってあった。
「節電中」と。
思わず苦笑した。「この明るさで節電なのか?」
それからため息が出た。
やっぱりこの場所は、「節電中」でない普通の時には、もっと明るくきらびやかで、必ずどこかでキャーキャーピーピーと大騒ぎしているべき空間なのか。
なぜ、暴力的なほど明るくしなければならないのだろう。
「節電中」でもまったく不都合がない明るさではないか。
本気で節電したいのならもっと暗くても良いようにさえ思った。
どこまでも限りなく明るくするようにエネルギーを大量に消費することが「質の高い生活」だと言うのだろうか。道に迷うほど出入り口を無闇に出入り口を作り、そこに照明を付けあまつさえエスカレーターまで設置する。
挙げ句の果てには電力が足りない足りないと大騒ぎする。
そういう文化って、どこか子供じみた様相だと思われてならない。
他の場所より照度を落とした灯りに照らされた地下歩道は、歩いている人々までが大人びて見えたのだが、あれはやっぱり錯覚だったのか。
2013年2月3日日曜日
アイヌ文化普及啓発セミナー
千歳市でアイヌ文化普及啓発セミナーがあった。
二つの講座からなっていた。一つは、国立科学博物館教授の篠田謙一さんによる「DNAから見た日本人の起源とアイヌ民族の成立」もう一つは伊達市噴火湾文化研究所所長の大島直行さんの「縄文とアイヌの精神世界を考える」という講座だった。
「縄文とアイヌの精神世界・・・」では、これまで考えてもみなかったほど斬新な縄文人の精神世界についての解釈に接して新鮮な驚きを感じるとともにたいへん勉強になった。
2013年2月2日土曜日
札幌にて
札幌に来ている。
父の病状は一進一退ではかばかしくない。
何より食欲がなく、ほとんど食事を摂らないことが気になる。
先日介護認定となった。
青年期、軍隊に行き身をすり減らすように兵役に就いた。
それからも、教員としてひたすら誠実に職務をこなした。私生活では、自分の道楽など一切絶ち家族のために過ごしてきた。
そんな父が衰弱していく様を見るのは辛い。
せめて、そのように社会貢献した老人を優しく親切に見守る気持ちのこもった介護をしてもらいたいと希望する。
いずれ、われわれが皆、たどる道なのだから。
2013年2月1日金曜日
複雑系としての流氷 流氷百話 28/100
「 流氷は、知床半島から国後島付近に散在し、国後島に接岸しています。また、流氷の 一部が根室海峡南部に流入しています。
これから1日にかけて、流氷の動きに大きな変化はありませんが、2日は北東へ進む 見込みです。」
これが今日、第一管区海上保安本部から発表された流氷情報と今後の予想だ。
何度も書いたが今年は流氷に厚みが感じられない。「国後島付近に散在」と書かれているが羅臼からは見えていない。過去の記録を調べると流氷の量は大きく変動するようだ。非常にたくさんの流氷が来た年もあったし、まったく来ない年もあったようだ。
ただ、1970年頃からの記録を見ると全体として減少する傾向を見せているという。
流氷も一種の気象現象だから温度、気圧、湿度、風や海流によって影響を受ける。つまり冷厳な物理法則に支配されている。ただし関係する要素が多くあり過ぎて単純に解析することはできない。複雑系なのだ。
人は複雑系に直面してもそれを単純に考えようとする傾向があるみたいだ。天候の予想では「雨」か「晴れ」かをわかりたいのだ。地震はいつどこで起きるのかを知りたくなるし、火山噴火は的確に予知したい。確かにそれが人情だから気持ちはわかる。
単純化を望むあまり主観を先行させ、どこかで論理を飛躍させてしまうこともある。そして、無意識にまたま意識的に、都合よい結論を導き出す誤りも冒す。
意識的な事例は原子力発電を推進したかった原発利益共同体、いわゆる原子力ムラでたくさん見られた。これらは誤りというより曲学阿世であって、犯罪と言っていいだろう。
流氷は大量に押し寄せたり、まったく来なかったり、大きく変動してきた。その震幅はこれから続いていくことだろう。自然という複雑系が人間に示してくれる一種の予測不可能性の教材のように思える。
そして、予測不可能性に飽くことなく挑戦するのも人間の知の技だろう。複雑系が読み解けないからと言って読み解く作業を投げ出してしまったら知の成長は無い。
科学は間違いなく人間を不幸にするものを生みだしてきた側面もある。だが少なからぬ恩恵を与えて来た側面も否定できまい。
科学の依って立つところは、自然から出題される問にいかに答えるかということではないだろうか。そんな自然を読み解く科学を僕は信頼したい。
来たり来なかったり、西かと思えば東に動く流氷を眺めて、そんなことを考えている。
登録:
投稿 (Atom)


