2012年5月25日金曜日
去年の予感に羅臼岳がささやく
昨年、福島での原発事故が起こってから、ずっと原子力や原子力発電について書き続けていた。自分にとっても、あの衝撃がいかに大きかったか、あらためてわかる。
昨年の今頃、ボンヤリと予感したことがあった。
他の原発の再稼働のことだ。
きっと、賛否両論が派手にぶつかり合い、現場の状況とか現地の実情などを蚊帳の外に放りだしたような論議が続けられるな、と思った。
そして、多くの国民が事故を過去のものとし、報道機関も取り上げなくなった頃、こっそりと原発再稼働が始まるという図式だ。
もちろんそれに反対する人々は、反対の意思表示をし、運動を展開するだろうが、結局は「国家の意思」に押し切られるのではないか、という敗北主義的な予感でもあった。
良識を押しつぶして一部の利権を確保する、「多数」の傲慢がいつも押し通っていたこの国の過去を見ると、暗い感情を伴ってそのような悲観的シナリオを予想をした。
現実は、その通りになっている。この国の利権に群がる人々の執念は、倒しても切っても抜いても焼いてもしぶとく生えてくるアメリカオニアザミのように絶やすことができない。
リゾート開発ブームの時もそうだった。
ダムもそうだった。
鉄道の廃止もそうだった。
基地も干潟の干拓も、あれもこれも何もかも・・・・。
この国の欲の皮の突っ張った、「あの連中」は、反対意見にきちんと向き合うということをしない。最初に建てた結論を強引に押しつけることしか知らない。
そういう態度や行動を「ご理解頂く」と言うらしい。
子どもたちに幸せな未来を残す、きれいな環境を持続させる、というきわめてシンプルな価値観を共有できない人々を一掃しない限り、世の中は良くならないと思った。
今日は、会議があるので峠を越えてウトロまで来た。羅臼岳が黙ってニンゲン界を見下ろしていた。
頂上直下を通る時、山が微かに囁いたようだった。
「なあに、そんなに長いことじゃないさ。700年くらい前の噴火なんて、つい昨日の出来事みたいなものだ。自然を甘く見ている連中が、悔い改める時は近いさ」
ゾクリとした。
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