2012年7月26日木曜日

タイムワープ! 別海町の奉安殿

「ホーアンデン」と聞いて、その漢字と実物がすぐに思い浮かぶ人は何パーセントくらいになったろう?
 年齢で言えば70歳より上の人たちだろうか。

 戦前、軍国主義日本だった頃、天皇は神様であり、その言葉(詔勅)は神様の言葉だった。これを学校教育に徹底的に浸透させるため、日本全国津々浦々の学校に天皇の写真と教育勅語を配った。写真は御真影(ごしんえい)と呼ばれた。
 そして、教育勅語や御真影を安置する建物が奉安殿(ほうあんでん)なのだ。

 今日、別海町柏野の学校跡地に残っている奉安殿の現地調査に同行することができた。
 奉安殿は、校門を入って校舎のあった場所まで真っ直ぐに続く道の左手奥50メートルくらい離れた所に建っていた。
 万一、学校から火事が出た場合、類焼を避けるために校舎から離して建てられたのだそうだ。
 軍国主義の最盛期には、児童生徒は、50メートルも離れた奉安殿の前を通る時にも、立ち止まって最敬礼をしなければならなかったのだそうだ。一緒に調査に来られていた文化財保護審議委員会のW会長も最敬礼を忘れて殴られたことがある、と思い出を話して下さった。

 全国の奉安殿が敗戦後、ほとんど取り壊されたが、ここ柏野では集落の神社として転用したことによって、それを免れてきたらしい。
 それゆえ、貴重な建造物として後世に永く残すべき建物の候補に上がっている。
 軍国主義を懐かしみ、その復活を願う人々も、反対にそれを忌み嫌い二度と復活させてはならないと考える人々も、このような建物が建てられ機能してた事実を残しておくことには異存ないだろう。
 コンクリートで厚く覆われて、一見したところ弾薬庫のように頑丈そうな奉安殿だが、内壁と外壁の間には何も入っておらず、コンクリートも薄く塗られているに過ぎない。
 扉も厚い鉄のように見えるが、木に薄い鉄板を張っただけだ。
 昭和12年に建てられたとのことだから、まだ、それほど物資の不足してた時期ではないだろう。
 このコンクリートの張りぼてのような虚仮威しが、内実の伴わぬ見せかけの権威で国民を服従させようとした、戦前の天皇制そのものを反映しているようにも感じられた。
 それはともかく、今日は、貴重な歴史的な資料に直接接することが出来た有意義な一日だった。

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