2012年9月30日日曜日
旅の記 その20
新たな旅に向けて
9月29日(土)ソウル(インチョン空港)~新千歳空港 30日(日)札幌~別海
29日。
ハイアットホテルを朝8時に出発した。
5分で空港着。
インチョン空港は大きなハブ空港だが、夜間の離発着はあまり行われていなく,午前9時台の出発便が集中していた。
そのため、搭乗手続きなどで時間がかかり、10時15分の定時出発だったが、あまり余裕はなかった。
新千歳空港には12時30分着。
再入国審査、税関ともに無事に通過。(あたりまえだが)
内地には台風が接近していた。
30日。
札幌を正午に出発し、夜7時に別海の自宅に帰り着いた。
今回の旅はすべて終わった。
復路の航空券が取れなくて帰国の日を一日延ばしにしたこともあり二週間を越える長い旅になった。
昨夜、韓国の高級ホテルで一泊できたお陰で、時差惚けはもうほとんど無い。札幌から本別海までの運転もいつもと変わらなかった。
ただ、仕事を通して社会参加している身にとって、これから日本社会に適応していくのに少々時間がかかるかも知れない。
海外にでかけると毎度のことだが、実は、この「社会復帰」が案外厄介だ。
今回、旅行中に盛んに話し合ったのは「日本のガラパゴス化」である。
島国で、つい百年と少し前まで鎖国していたということもあるが、「日本の標準」と「世界一般の標準」とで違うことが多すぎるとあらためて感じた。
もちろん中には「日本の標準」で優れているものもある。もっと世界に普及しても良いのにというものもある。だが、そうでないものも多い。
今回の旅の大きな収穫の一つは、ウィーン大学の日本研究所のスタッフの人々と知り合えたことである。
大学の研究者だから、日本文化に精通していて、かつ外部の視点から現代日本を冷静に分析している。この人々の評価に耳を傾けてわれわれの社会の、今後のあり方を考えていく参考にすることは有効な事だと思う。
日本社会が、混迷を深め、政治的に非常に危険な傾斜を増しつつある現在、彼らから学ぶ機会をもっと増やしたいと思った。
という訳で、これからもまた新しい旅を計画したい。
次の旅発をあれこれ考え始めたというところで、この「旅の記録」は、これで留めることにする。
2012年9月28日金曜日
旅の記 その19
9月28日(金) ソウル・・・インチョン 韓国でまさかの途中下車
今回の旅は、大韓航空を使わせてもらった。
新千歳~ソウル(インチョン)~ヨーロッパという行程で、帰路もその逆をたどった。
昨夜、ウィーンを1時間遅れて出発。チューリッヒに立ち寄り、夜10時半にチューリッヒを発ってソウルに向かった。
若干の遅れはありながら、まず順調に旅程をこなしていった。
ところが、インチョン空港に着き、「もうあと一息」という時に事態は急転した。
飛行機の降り口で僕たちの名前を書いた紙を持った大韓航空の職員が待っていた。怪訝におもいながらも、乗り継ぎに関する連絡か何かだろうと思いながら名前を告げた。
彼の口から思いもよらぬ言葉が飛び出した。
「今日、登場する予定の便の座席を譲って頂けませんか?その代わり明日の第一便のビジネスクラスの座席とホテル宿泊などをお礼に差し上げます」というような話だった。
今夜遅く札幌に着いて泊まる予定でいたので少々驚き戸惑い、それでもまあ、特別に急ぐ用とて無いので、申し出を受けることにした。
それから急な入獄手続きを済ますと案内されたのは空港そばにある立派なホテルだった。
その10階の部屋に収まり、豪華な夕食を食べ、ヨーロッパのホテルでは、どこのホテルにも無かったバスタブの湯にゆったりと浸かって、時差ボケを休めてから帰ることができそうである。
どうして、このような「降って湧いたような」厚遇に出会ったのか。われわれが座席を譲ったことで、どこかで誰かがホッとしているのだろうか。
そこら辺りはよくわからない。わからないが、とにかく韓国で1万キロ近い移動の疲れを癒せることになった。
大韓航空に感謝。
2012年9月27日木曜日
旅の記 その18
9月27日(木) ウィーン最終日・・・旅の最終日
やっと馴染み始めた旅先の街の表情が、旅を終えて帰路に就く日には妙によそよそしく感じるのはいつの旅でも同じである。
夕方の出発まで、天候の悪化を必死にこらえているような空模様の中を最後の町歩きにでかけた。
今回の旅は、「友人の結婚式」という大義名分があったことと、復路の航空券がなかかな確保できなかったことを理由に、2週間を超える長いものになった。
ヨーロッパでの滞在も、4カ国6つの都市に及び、中欧から東欧の入り口にかけての土地を堪能できたと思う。
その分、仕事上のあちこちには義理を欠くことになり、迷惑をかけてきた。
この旅でヨーロッパのエッセンスに触れることが出来たように思う。この土地に立ってみると、魔女がいて、王様やお姫様がいて、騎士がいて、錬金術師、辻音楽師、商人、職人、もちろん農民、聖人、大悪人・・・・・虚実が入り交じって意識の中を通り過ぎていくのを感じる。
そんな風に吹かれながら、生々しい印象を記しておきたくて、PCを立ち上げた。
これから、この印象をよく咀嚼し消化して、人間について、社会についてもう少し深く考え、今後の仕事に生かしていければと思う。
いま、ウィーンは午後2時前。
こらえきれなくなった空から時々雨が降っている。
今回の旅では、ほとんど毎日が晴天に恵まれた。特にポーランド、チェコ、スロバキアでは、雨に当たることは全くなかった。その面でもありがたいことである。
ウィーンに着いた日、最初に訪れたレオポルド美術館のカフェに、また来ている。
これからホテルに預けてある荷物を受け取り、鉄道を乗り継いで空港に向かうつもりだ。
旅の記 その17
9月26日(水) ブラチスラヴァ~ウィーン。フンデルト・ワッサーのこと
ブラチスラヴァからウィーンに戻った。
この旅では、ずっと好天に恵まれ、今日も暑いくらいだ。
ドナウ川は今日もとうとうと流れている。
デヴィーン城をあらためて眺めてみた。今回は行くことが出来なかったが、次に機会があったら是非訪ねてみたいと思った。
ドナウ川は10カ国もの国を通る国際河川で、名前もいろいろとある。ちょっと調べてみた。(ラテン語:Danubius、スロヴァキア語:Dunaj、セルボクロアチア語:Dunav, ドイツ語: Donau, ハンガリー語 Duna, ブルガリア語: Дунав, ルーマニア語: Dunăre、英語、フランス語: Danube)は、ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河だという。
いろいろな民族や文化、国の栄枯盛衰を黙って見つめ、流れ続けてきたのだろう。
今までにシベリアの大河はいくつか見てきたが、ドナウ川は、それらとは違って人間社会の中を流れている大河である。
今回の我々の旅に、この川は優しく微笑んでくれた。
フンデルト・ワッサーという画家がデザインした建物が、ウィーンの船着き場の近くにあるので観に行ってきた。
スペインのガウディとも共通する有機的なデザインと鮮やかな色彩の建物が、実際に使われていた。ある種の天才なのだろう。
中心街にほど近い電車通りに面した一画に、そのビルはあった。
それにしてもこの大胆なデザインを建築物に取り入れる大胆さというか剛胆さはさすが芸術を尊重する町だと思った。
2012年9月26日水曜日
旅の記 その16
9月25日(火) ブラチスラヴァ~ニトラ~ブラチスラヴァ
旅の後半は、あまり計画を持たない行き当たりばったりの旅になっている。
いくつかの選択肢があったが、結局ブラチスラヴァからバスで1時間から2時間かかるというニトラという町へ行ってみることにした。
スロヴァキアでもっとも古い教会の建てられた土地だという、人口は10万人足らずの小さな町だ。
ドナウ川に浮かぶホテルから市内の路線バスでバスターミナル(こちらの人は「バスステーション」と呼んでいた)へ移動する。自動販売機で切符を買い、バスに乗ったら車内の改札機で時刻を刻印する。ポーランドもチェコもオーストリアも、今回回った国ではすべて、公共交通機関の料金は時間制だ。
ブラチスラヴァでは、基本になる最低料金は70セント(現在のレートではほぼ70円)で15分以内となっている。15分以内なら何回乗降してもかまわない。その切符を持ってさえいれば、停留場で勝手に乗降できる。切符を買わずに不正乗車し放題のように感じるが、時々抜き打ちの検札があって、ルールに従っていない人には厳しい罰金が課せられるという。どのくらい「厳しい」のか知らないし、検札の現場を見たことはないが、誰もがルールを守っているようだ。
バスターミナルは街の中にあり、結構広い。遠距離のバスも頻繁に発着しているようで、今日の目的地ニトラまでの便も10~15分おきに出ている。
ニトラまでは鉄道もあるが、鉄道は一日2~3列車しかない。鉄道は貨物輸送が中心になっているのかも知れない。
ニトラのバスターミナルに着いた。
町は、旧市街と新市街とに分かれていて、旧市街の方は迷う心配がない大きさである。
事前に聞いていたとおり、古風な町並みが残っており、小高い丘の上に建てられたニトラ城には4~5世紀頃のからバロック時代までの建築様式が複合した教会が残っている。
一つの教会の内部を見せてもらうことが出来たが、青を中心としたステンドグラス越しの光が、内部のバロック風の装飾を美しく照らして、一瞬恍惚となる美しさだった。
町の広場に降り、カフェテリアで昼食。昨日の失敗に懲りて、総量を抑え気味にするように努めた。
ビールを、と思い注文したところが出されたのはアルコール分0.0%のビール様飲料。ちょっと悔しかったが、缶を開けてしまったので観念してそれで我慢した。だがまあ、それはそれで美味しかった。
昼食後、インフォメーションセンターに併設されている博物館へ。入り口が分からずウロウロしていると先生に引率された小学生の一団とすれ違った。
この集団は間違いなく博物館へ行くに違いないと、職業的な第六感で後に付いていくと予想的中。博物館に入ることが出来た。
ところが、その博物館には、高校生か中学生くらいの子どもたちも学習に来ていて、説明を担当していた係の人が、何をどう誤解したのか僕らをその中高生の集団に入れ、一緒に見学させてくれた。
しかし、その係の彼女は英語をまったく解さず、こちらもスロバキア語の解説を聞いてもチンプンカンプンだ。しばしの間、付き合ったが、途中で
「すみません。バスの時間がありませんので」とロシア語で伝えてやっと解放された。
そうは言っても親切はとても嬉しかったし、思いがけず小中学生の博物館学習の現場にも立ち会うことが出来て、幸運であった。
この国には観光客も多く、スロバキア語、ドイツ語、ロシア語、英語、イタリア語などが混じり合って飛び交っている。おまけに大学の表示にはラテン語が使われていて、言語のるつぼである。
旅の記 その15
9月24日(月) partⅡ
ブラチスラヴァ 息づく中世・・・・辻音楽師
スロヴァキアは若い国だ。チェコから分離独立してまだ19年にしかならない。来年は20周年である。
ザッと見たこの国の歴史は、そのほとんどが外国の支配下になった歴史である。オーストリア帝国とハンガリー帝国という強大な国に挟まれ、それ以外の時にはトルコやタタールなどが攻め入って来ていた。
『スロヴァキア』として独立したのは、ひょっとしたら初めてのことかも知れない。そのせいか、スロヴァキアの人々は、少し控えめに見えるが粘り強く、物事を冷静に見ている人が多いように思う。
あからさまに親切ではないが、心の底には親切な気持ちが満ちあふれている、と言ったら良いだろうか。街で不愉快な思いは、まったくしなかった。
ブラチスラヴァの街、とりわけ旧市街は、そのように意識して作られているためもあるだろうが、中世の世界に迷い込んだような雰囲気だ。町並みや道路、店のレイアウトなどがすべてそのように統一されている。
「アルケミスト(錬金術師」という名のレストランがあったり、中世ヨーロッパらしい扮装の銅像があったりする。
お城に登り、あちこちの店をのぞきながら歩いていると街角で楽器を弾く弾いている人がいた。変わった楽器で勢いよく回転する車輪で弦をこすりながら音を出し、鍵盤に似た木の板で押さえて音階を決める。初めて見た楽器だが、以前にラジオの音楽番組で解説されていた「ドレライヤー」または「ハーディーガーディー」という楽器ではないかと思った。
演奏している辻音楽師のおじさんに訊いてみるとはたして「その通りだ」という答えが返ってきた。その人は「ホィールフィードル」と呼んでいたが。
アラビア辺りが起源の古い楽器で、なんとも古風な音が出る。だが、どこか懐かしい素朴な音色で、この街並みに静かに溶け込んでいくようだった。
しばらくそのおじさんと話をした。話をしたと言っても互いに英語では十分に意思疎通できず、少しもどかしさを伴った会話だったが、
「フクシマの様子はどうなんだい?もう人が住めるようになったの?」という質問もされた。
「まだ大勢の人が避難生活をしています。当分帰れないかも知れません」と答えると、表情を歪め、いかにも気の毒だという気持ちを表してくれた。
日本からはるか離れた、こんな小さな街の辻音楽師にまで心配されるような大災害をわれわれは抱えているのだ、と再認識した。
旅の記 その14
9月24日(月) ウィーン~ブラチスラヴァ 川旅 ドナウ川
朝、8時前にホテルを出る。
地下鉄U2で一駅。ここでU1に乗り換えて二駅、ドナウ川に通じる運河に面した桟橋のある駅に着いた。
前日に下見をしていたので、遅れることもなかった。ホテルから歩いても30分かからずに着くのだが、船の出発時刻が決まっているこのようなときは、地下鉄の利用が効果的だと思う。
船は1000馬力のエンジンを2基積んだジェットフォイル船で、時速50キロも出るという。これでブラチスラヴァまで1時間15分で着く。
船は、ほぼ満席。定時に船着き場を離れた。
ウィーンの町中を流れる運河を走っている間、両側には町並みが広がり、大河の面影は感じられない。しかし、15分くらい経って本流に入ると両岸の距離が一気に広がり、古くから多くの人や物を運んできた大河の様相が伝わってくる。
流れに沿って東へ東へと進む。ウィーンの森を抜けてからしばらくは両岸に平野が開け、流れもゆったりとしている。
やがて低い山の間を抜けると左岸に古い城跡が見えてきた。10世紀以前に使われていたデヴィーン城だ。
絵に描いたような「古城」で、古い音楽が聞こえてきそうなたたずまいだ。
2012年9月24日月曜日
旅の記 その13
9月23日(日) ウィーン滞在
今回の旅の目的地はポーランドだったのだが、ヨーロッパへの出入り口はウィーンになっていた。
ヨーロッパを代表する都市は、いくつもあるだろうがウィーンも間違いなくその一つに名を連ねるだろう。
町の規模も歴史も知名度も今回の旅の中では最大と言える。
13日にウィーンに着き、そのまま夜行列車でポーランドへ移動した。昨日の午後も町の中を歩いたが、じっくりと歩き回るのは、事実上今日が初めてである。
明日はスロバキアへ行くことにした。ドナウ川を船で遡る旅である。そのチケットを購入するのと、船着き場の位置を下見しておく目的でウィーンの中心街を横断した。
すると町の中心にある大聖堂に行き当たった。一部が修理中で、外観の全貌が見えなかったのがちょっと残念だったが、中に入り壮麗な装飾とステンドグラスの美しさを十分に味わうことが出来た。
午後は、美術史美術館で、エジプト、ギリシア、ローマ時代から中世ヨーロッパの美術作品まで膨大な数の絵画や彫刻を鑑賞した。
ラファエロやクーベリックの作品も展示されていて、それらの作品一つを観るためにここに来る人もいるだろうと思われる絵画を、一挙に見てしまったような気がする。
昨日観たシーレやクリムトもすばらしかったが、今日は彼らの作品の土台にある歴史的な作品に触れたと思う。
驚いたのはフラッシュを使わない限り撮影が自由だったということ。
ウィーンの子どもたちは、成長の過程でこのような生の名画に触れることが出来て羨ましいと感じた。
夕食はホテル近くのレストランでとった。静かで落ち着いた雰囲気の店内に英語、ドイツ語、ロシア語などの会話が響き、平和で温かな気持ちになった。もちろんウィーンの伝統的な料理やワインも申し分無かった。
2012年9月23日日曜日
旅の記 その12
9月22日(土) ブルノ(チェコ)~ウィーン(オーストリア)
ブルノ発09時22分予定の列車に乗る予定でホテルをチェックアウトした。フロントで応対してくれた若者は、日本語修行中であるらしく、少したどたどしいながら十分役に立つ日本語を操っていた。
「日本語がお上手ですね。それなら十分に実用に役立ちます」と言うと嬉しそうにしていた。
ホテルは、駅の目の前にあるので、横断歩道を渡って地下道に入るとすぐに駅に着く。昨日までの好天から一変し雨の朝になっていたので、その意味でも駅近くにあるこのホテルに宿泊したことは、大変良いことだった。列車のチケットは昨日買っておいたので後は乗るだけである。
駅に行ってみるとウィーン行きの列車は20分遅れているという表示が出ていた。そのため乗り場が決まっていず、乗り場の表示が空白になっている。ヨーロッパの駅には改札が無く、誰でもいつでも自由にホームに出入りできるのだが、ブルノのような大きな駅では、プラットホームがたくさんあり、入り口の表示を見なければどのホームに行けばよいかがわからない。仕方がないので入り口の椅子に腰を下ろし、乗り場が決まるまで待つことにした。
後発の列車が次々に出発して行くが乗り場の表示がなかなか出ない。遅延した出発時刻の5分ほど前になってやっと「1番ホーム」という表示が出た。
ホームに出て少しするとオーストリアの真っ赤な電気機関車に牽かれた列車が入線してきた。
雨はいつの間にか上がっていた。刈り取りの済んだ畑の上をガンの大きな群れが渡っていた。どこから来てどこへ行くのか。気を付けて行こう、お互いに、と心の中で声を掛けた。
ウィーンに着いたとき、列車は遅れをだいぶ取り戻して、数分遅れただけであった。オーストリア国鉄は、なかなかやる。
地下鉄を二本乗り継いで、宿泊予定のホテルへ。
ウィーンは大都市だから、ホテル代も高い。路地裏の古い小さなホテルに泊まることになった。チェコやポーランドの「お大尽」暮らしから一挙に庶民に戻された感じだ。
しかし、居心地は悪くない。世界中どこへ行っても金太郎飴のようなサービスを受けられる「一流ホテル」よりも、昔からのオーストリア流を譲らないこんなホテルがオツなのだと思う。
フロントのおばさんは座ったままで応対し、強いドイツ語訛の英語はなかなか耳になじまないけれど、このホテルでの生活も楽しみである。
部屋に荷物を置いて町に出た。
すぐ近くに大きな美術館や博物館があり、興味をそそる。早速レオポルド美術館へ出かけるとそこはクリムトやシーレなど20世紀初頭にウィーンで活躍した画家たちの作品が展示されていた。
夕食は市場でトルコ人らしいおじさんの作るケフタ、ファラフェル、フムスなどトルコ料理にした。路上の椅子を並べた店で、高級店ではないが味は一流だった。トルコ系のオーストリア人ということで、いろいろな苦労もあるのだろうなと思いながら料理を味わった。
メニューにトルコ語、英語、ドイツ語、ロシア語での注文可能、と書いてあるので片言のロシア語で話しかけてみた。ロシア語にあまり良い印象を持っていないかも知れないと思いながらも会話が盛り上がり、楽しい一時だった。
ウィーンは国際都市。美術館のカフェでは、注文のやりとりをウェイトレスと英語でしていたが、たまたま「エスプレッソの大きい方をもらおう」と内輪の話を日本語でしたのを耳にして、急に日本語を使い出したので驚いた。
こちらは、そのウェイトレスを東洋系の人だとは思ったが、日本人だとは思わなかったし、向こうもこちらが日本人だとは思わなかったのだろう。
今までの旅を異なり、大都市の波にもまれながらも楽しい滞在になればいいと思う。
2012年9月22日土曜日
旅の記 その11
9月21日(金) ブルノ(チェコ)滞在
ブルノ市内を巡った。
とは言ってもホテルを中心にして旧市街を歩き回っただけなのだが、生産者自らが野菜や果物を持ち寄って開かれる市場やモラヴィア博物館や聖パウロ聖ペテロ大聖堂、聖ヤコブ教会、シュピルベルク城など、一日では回りきれないほどの「見どころ」が凝縮されていた。
大聖堂のステンドグラスの壮麗さ、博物館での親切な解説、一生懸命に英語で解説してくれた人々、道で地図を広げていると何か困っているのか?と声をかけてくれた人、もちろん困った人々も多くいるのだろうが、今回の旅で出会ったチェコの人々は、親切で優しい人々ばかりだった。
落語で「親切の国から親切を広めに来たような人」とよく言うが、チェコは、ひょっとしたら「親切の国」なのかも知れない。
中心の広場では、20日から23日まで限定の何かのイベントが行われていて、多種多様な食べ物を売る屋台が並んでいた。
仔ブタの丸焼き、ラムチョップ、大きなナマズの腹にすり身を主としたペースト状の「餡」を詰めて揚げたもの、羊の内臓のトマトスープ、オイスター、プラムのスープなどが安い値段で売られていた。
飲み物では、美味しいチェコのビールはもちろんのことブルチャックという発酵途中の若いワインがあり、口当たりの良さについ飲み過ぎてしまう。
夕食はヴェトナム料理だった。
やっと「こんにちは」と「ありがとう」がチェコ語で言えるようになった頃、もう旅立ちの時が迫ってきた。
いつものことだが旅は、出会いへの期待と別れの寂しさとが交錯する
2012年9月21日金曜日
旅の記 その10 メンデルとの邂逅
9月20日 ブロツワフ(ポーランド)~ブルノ(チェコ)
ブロツワフを朝、5時55分に出て、チェコの山間のウスティナット・オルシチという小さな駅で乗り換えた。そこはもうチェコ領だった。
ウィーンからクラコフに行く時も鉄道で国境を越えたが、その時は夜行列車だった。
昼間の国境越えは初めてだった。もっとも「国境越え」と言ってもチェコとポーランドの国境には、線路脇に標識が一本立っているだけだ。列車は減速すらせずにあっさり通過した。
国境を通過したことは、車掌が代わったこと、直前の駅で警察官の姿が少し目立っていたことなどでわかった。
EU内のことだからもちろんパスポートの検査などは無い。
昼前に目的地ブルノに着いた。
駅頭に立って街を見回す。ごく普通の東ヨーロッパの地方都市の一つという感じである。
宿泊予定のホテルに荷物を預け、ポーランド通貨のズローチをチェコのクローネに変えて準備完了。トラムに乗ってメンデル博物館を目指した。
メンデルは、この町の修道院で一生の大半を過ごし、エンドウを使って遺伝の実験を行った。DNAの存在はおろか染色体の存在さえ知られていない時期に、実験結果から推し量って「遺伝子」の存在を予言した。
しかし、この町の当時の生物学会は、メンデルの論文に理解を示せず彼が死ぬまで研究の成果は世に出ることがなかったことはよく知られている事実である。
彼の過ごした修道院の一部が博物館となり、メンデルに関する資料が展示されている。 メンデルにとって遺伝の研究は、彼の自然に対する科学的な興味の一部であったようだ。 エンドウの交配実験の成果が認められなかったことが、彼にとって大きな痛手だったのか、それともさほどでもなかったのか、知る術はない。だが、自然科学の研究者として自信をもって発表した論文が、学会に受け入れられなかったことで、おそらく悔しい思いは抱いたに違いない。
だが、メンデルという人は、非常に忍耐強い緻密な観察者、実験者だったと思う。そのため、気象観測、ミツバチの飼育、温室の設計などにその才能をよく発揮している。だから、彼は彼で、その生涯の仕事に満足しているのではないかとも思う。
死後14年経って、ド・フリースら3人の生物学者がそれぞれ独立にメンデルの法則の正しさを評価して発表した。今では遺伝学の基本原則として世界中の生物学の教科書に載っている。おそらくこれからも消えることはないだろう。
個人的なことを書かせてもらえば、中学2年の時、初めてメンデルの法則を学んだ。幼稚な頭で必死に理解しようと努めた。その甲斐あって遺伝に関してだけは、試験で間違えたことがなかった。そのこと僕を生物学に結びつける大きなきっかけとなった。
48年後の今、彼の暮らした土地に立つことが出来た。
この町の空気を吸い、教会の鐘の音を聞くだけで、震えるような感動を覚えている。
旅の記 その9
ボレツワビエツ ~ ブラツロフ
城を朝、出発して陶器工場を三つ見て回った。
良質の粘土が採れる地域であるため、昔から陶器で有名な所である。それも、茶碗や皿など日常的に使う実用的なものが多く、愛好者の間では有名であるとのことだ。
窯元というか工場ごとにデザインや模様が違っていて面白い。基本的には手描きで、一つのパターンを繰り返し使って緻密で細かな模様を付けたものが多い。
たとえばペルシャ風の建物の壁などによく見られるパターンに似たものが多く、ヨーロッパの中でも東洋に近いからなのだろうかと勝手に解釈してみた。
三つの工場を一台のタクシーで回ったのだが年配のドライバーは、全く英語が話せず、コミュニケーションに苦労した。
しかし、とてもいい人らしく、いくつかの工場の製品をそこの販売店で見ている間、嫌な顔ひとつしないで待っていてくれた。
そればかりでなく、購入した陶器を郵便局から発送する長い時間も待っていてくれたのだが、すべてを終えて郵便局を出て、
「駅へ」と伝えた後で、郵便局が駅から100メートルも離れていなかったことに気づいた僕たちに温かい笑いを送ってくれた。
列車を待つ間、町を歩いた。
小さな町は北海道の田舎町とよく似た雰囲気で、済んでいる人々は互いに皆が知り合いのようだった。
列車で、昨日、クラコフからの列車から乗り換えたブロツラフまで戻ると、ベアータさんがホームまで迎えに出てきてくれていた。彼女とは今回の結婚式で初めて会った。大学で日本語を教えているという。九州大学に留学していた経歴を持っていて流ちょうな日本語を操る。
非常に親切名人で、知り合って間もない僕たちを自宅に泊めて下さるばかりでなく、ブロツラフの町の見所を詳しく案内してくれた。
ブロツラフは、ポーランドの南西部に位置している。チェコと国境に近い町で、国と国の間の駆け引きでドイツ領になったりチェコ領になったりオーストリア領だったりと、大国のせめぎ合いに翻弄された歴史をもっているという。
最近になってブラツロフの郷土史に非常に強い興味を感じているというベアータさんにそのようなことを教えてもらった。
そこで暮らす人々も移住を強制されたりしたこともあったという。
そんな歴史を背負っている土地ももあるのだ。いや、日本にいたのでは、わからないことだろうが、世界中のほとんどの国は、そのような歴史を背負っているのではないだろうか。
そう考えてくると領土というものが非常に流動的なもので、まなじりを釣り上げて「固有の領土」などという主張がバカらしく思われる。
どこの国に属してようと、そこで生まれ育った人々にとっては自分の「郷土」があるばかりなのではないだろうか。
大聖堂、ギリシア正教、プロテスタント、カトリック、様々な教会を見て回り、14世紀から続いているという工場のビールを飲んで、ベアータさんの家に行った。
家では、お母さんがポーランドの家庭料理を作って待っていてくれて大歓迎を受けた。
2012年9月19日水曜日
旅の記 その8
9月18日(火) クラコフ~ヴロツラフ~ボレツワビエツ
・・・・・テツな一日そしてお城へ
朝、8時58分発の列車でヴロツラフへ。そこで乗り換えてボレツワビエツまでの旅だ。 ヴロツラフ着は14時21分。5時間あまりの時間を一等の客車で過ごす。コンパートメントは6席。3席ずつ向かい合わせに、クッションの効いたシートが心地よく身体を包む。この座席に5時間あまりしか座っていられないのは、ちょっともったいない気がする。
予定の時刻通り、ヴロツラフでローカル線に乗り換えた。
いかにもローカル線らしく古い車両の車内は、地元の人々だけ。飾らないポーランドの農村の人々ばかりだった。
ボックス4人がけのシートだが、後から来たおじさんは、礼儀正しく
「こんにちは。ここに掛けても良いですか」(たぶんそう言ったのだろう。「こんにちは」以外はそうぞうである)と声をかけてくれた。
こんな一言で、隣席に人が座ることを抵抗なく受け入れられるようになるものだ。
そして2時間後、ボレツワビエツに到着。
駅や町の規模は厚岸くらいだろうか。もう英語もあまり通じない所に来た。
今夜の宿は、昔のお城だが駅からクルマで20分かかる場所だという。タクシーが並んでいたので先頭のクルマに声をかける。
60代とおぼしきドライバーはちょっと怖い顔をしていたが、動きだすと気さくに声をかけてくれた。ただし、言葉はなかなか通じない。
元気の良い?運転でほどなく本日の宿となるお城に到着した。
『お城』というからクラコフのヴァベル城のような所かと思っていたが、着いたところは、3階建てで、まあちょっとした館に毛の生えたようなくらいの建物だ。だが、考えてみるとクラコフの城はポーランド全体を治める国王の城で、その支配下にこのような地方行政を行う王さんたちがたくさんいたわけである。
そう考えて見直すと、この城もなかなかどうして、立派な構えなのではないか。
ふと思いついたのは、「ドン・キホーテ」に登場する小地主のアロンソ・キハーナが夢想した「城」というのは、このくらいの規模のものだったにだろうということだ。
昨日はオスカーシンドラーのほうろう工場の博物館を見学し、ユダヤ人地区の中を歩いた。その前日はアウシュビッツを訪ねた。
ポーランドの田園地帯に来て、昨日までのナチスの時代から一気に中世にまでさかのぼったことになる。
旅の記 その7
9月17日(月) クラコフ滞在
明日の朝、クラコフを発つので、実質的に今日がクラコフ最終日だ。最終日は市内の博物館などを見学して、ゆっくり過ごすことにした。
始めにホテルの目の前にあるヴァベル城に登り、町全体を俯瞰した。ここから見ると城を囲むようにヴィスワ川が流れているのがよく見える。
平原の国ポーランドは、常に外敵が侵入してくる虞があり、「国を治める」ということは「外敵から国を守る」ということだった。そのことがよくわかる眺望の良さだ。
お城は、バロック様式とゴシック様式が複合した建物で、歴史の長さを感じさせる。どこを取っても壮麗な建築物で、レンズをどこに向けるべきか迷ってしまう。
庭園も美しく整えられていて、この場所で何もせずに黙って一日過ごしても良いと思った。
花壇にはなんとセイヨウオオマルハナバチがたくさん来ているではないか。まさに原産地である。
生き生きと働くその姿を見ていると、北海道で皆から目の敵にされている同種の仲間が殊の外哀れに思われてくる。ハチにとっても不幸なことだ。
その後、少し長距離を歩いて、オスカーシンドラーの工場跡の博物館を訪れた。月曜日は無料ということで、ずいぶん混んでいたが、シンドラーの時代と実際の活躍の様子が豊富に展示されていた。
中は、ナチス全盛時代の動画や写真などが所狭しと展示されていた。
その後ユダヤ博物館に移動したが、残念なことに午後2時で閉館であった。
その代わり、ユダヤ人地区をゆっくりと回ることにし、食事にもたっぷり時間をかけてからホテルに戻った。
旅の記 その6
引き続き アウシュビッツについて
歴史上の出来事は、飛び去る木立の向こう側に、煙って見える風景のようだ。
高速で走る列車から林の向こうに垣間見える景色を見ながら、ふと考えた。
アウシュビッツでの出来事も、今の我々には飛び去る木立の向こうの景色のようなものかも知れない。
「働けば自由になれる」と言われて連れてこられたユダヤ人たちの誰もが、本当は自分たちの運命を知っていたのだろうと、アウシュビッツを案内しくれたガイドの中谷さんは話してくれた。
そのころ書かれたものを読めば、彼らの心が、諦念と絶望に塗り込められていたことがわかる。
「優秀な」ナチスドイツによって、巧妙に仕組まれた殺人システムがいかに有効に稼働していたか、アウシュビッツに来てよくわかった。
彼らはユダヤ人同士をいくつもの階層に分け、同胞同士が支配被支配の関係になるように仕向けた。
さらに密告を奨励し、生命を脅かす厳しい罰とごく僅かな報償によって、大集団が暴発するのを防いでいた。
そして、ドイツ軍の親衛隊(SS)やゲシュタポは、殺戮に直接手を下さなくても良いような「分業制」を作り出していた。こうすることで、良心の呵責を薄め、大量殺人の遂行が可能になった。
また、アーリア人の優位性を前面に掲げることで、民族浄化という妄想を持たせて、この大量殺戮の理由を正当化することもしていた。
これらの政策は、国会で選挙によって選ばれたことを最大の根拠に推進されていった。 中小の政党が乱立し、「決められない政治」が続いて、それに嫌気がさした国民の気分に応える形でヒトラーの独裁体制が作られていったことは、多くの政治学者が指摘している。
アウシュビッツは「合法的な」大量殺人の現場なのである。
ガイドの中谷さんは、アウシュビッツの惨劇を起こした責任は、ヒトラーに代表されるナチスドイツだけにあるのではなく、それを傍観した他の政党、国民の存在が大きく重いいと指摘していた。その通りだと思う。
「選挙で選ばれた」ことが「民意」である、と短絡した論理を振りかざし、それが「わかりやすい政治」であるとすり替える。
「決められない政治」に業を煮やし、独裁体制の樹立を待ち望む。
小さな事実を積み重ねて、ナショナリズムをかき立てる。「民族の優秀さ」を強調し、少数者や外国籍の人々を排除使用とする。
ナチスの時代だけではない。現代の日本にもよく当てはまるではないか。
この愚行、この蛮行を日本の政治家らはいったい、どう受け止め何を学んでいるのか。
アウシュビッツの地に立って、こんな思いがわき上がっている。
ユネスコ宣言の冒頭に「心に平和の砦を築かねばならない」という言葉が書かれている意味の重さをかみしめた。
写真1枚目
収容棟の間に作られた「死の壁」。この前に反逆的な者や脱走を試みた者を並べて立たせ銃殺した
写真2枚目
この貨車に200人程度が押し込められ、立ったまま何日もかけて運ばれてきた。
写真3枚目
鎮魂の言葉が、犠牲になった人々の国の言葉で書かれてある。全部で18種類の言語におよぶ。
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