2012年3月31日土曜日

数字で人を惑わす者は許さないぞ

理科の勉強で、生徒が突き当たる壁に「割合」がある。
 たとえば密度だ。「単位体積当たりの質量」と言ってもなかなか実感できないらしい。 「1立方センチメートル当たり3グラム。じゃ、27グラムなら体積はいくら?」などと質問されると、もう脳内が瞬間的に白濁するらしい。

 だが、だれもこれを嗤えない。

 1kg当たり100Bq(ベクレル)というのが放射性物質を含む瓦礫の「安全」の基準なのだそうだ。
 それを超していなければ「安全」だとして受け入れて処理するという自治体が増えつつある。国の圧力がそれを促している。

 もう一度言う。
 1kg当たり100Bqの放射性物質を含む。1トン=1000kgで100000(10万)Bqだ。100トンなら1000万Bqだ。
 今日、瓦礫受け入れを決めた自治体のニュースが相次いだが、総量で何トン受け入れるのかは全く報道されていない。この表現を、悪意ある作為と断じてかまわないだろう。

 その舌の根も乾かぬうちに「丁寧に説明し、理解を求める」と言う。
 ふざけるな!
 全然丁寧に説明していないじゃないか。総量でどれくらい受け入れるのか。放射性物質はいくらになるか。
 理解を求めるなど嘘っぱちだ。力で押しつけるとハッキリいったらどうだ!

 数字のトリックで、多くの人を誤魔化す。そういう連中を育てるために、全国の教師たちは、理科を教えてきたのか?もし、そうならその罪は地球よりも重い。

 僕の教えた生徒たちは、割合ひとつを理解するのに大変な苦労をしている者が多かった。だが、少なくとも、数字のトリックで人目を誤魔化して、放射能をばらまく側の腹黒い人間は、いないと思う。
 嬉しいことだ。

2012年3月30日金曜日

ハクチョウたちの旅




 午前中、釧路へ行った。
西別川沿いの草地にハクチョウとヒシクイの群れが飛来していた。
 ハクチョウは、編隊を組んで北へと渡って行った。ハクチョウが渡るとき、間宮海峡に低気圧がある。今日の天気図を急いで調べてみた。
 案の定、低気圧があった。低気圧に吹き込む南東からの風に乗って、彼らはサハリンあたりまで一気に飛ぶのだろう。

 気圧の配置をどうやって知るのか?
 いや、もちろん彼らが天気図を知っているわけはない。知っているはずはないのだが、渡りの絶好機であることをどうやって知るのか。
 毎年、この時期になると不思議でたまらないことの一つだ。

 人間が天気図を利用するには、各地の観測データを集め、人工衛星からの画像なども参考にし、経験豊かな予報官の職人技に頼って作られたものをファクシミリやインターネットなどの最新の伝達技術によって手に入れなければならない。

 どんなに経験豊かな気象予報士でも、何も情報を与えられず、野原の真ん中に放り出してから「さあ、天気図を書いてみろ」と求めても無理な相談だろう。

 ハクチョウたちは、どうやって気圧配置を知るのか。

 ヒトが、科学技術を発展させ、大気の動きを天気図という形で認識するようになるよりはるかな昔、数百万年前から彼らは渡りの旅をしていた。
 その証拠に、ハクチョウの渡りのコースは、1~2万年前の海岸線に沿ったものだととうい人もいる。

 とにかく、われわれは、われわれの知恵の及ばない様々の優れた能力を多くの野生動物が、はるか昔から身につけているということを知らねばならない。
 自然への畏敬の念とか、自然を敬う心は、このような具体的な事実を一つ一つ認識した上に育つものではないだろうか。

2012年3月29日木曜日

文部科学大臣の定めた「放射性同位体」が泳ぎ回る国

今日、昭和32年に制定された「放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律(昭和三十二年六月十日法律第百六十七号)」というのを読んでみた。その第二条に放射性同位元素の定義を政令で定める、としてある。
 そこでその政令を探すと、「放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律施行令(昭和三十五年九月三十日政令第二百五十九号)」というの見つかった。

 その施行令の第一条に
 「放射線を放出する同位元素の数量及び濃度がその種類ごとに文部科学大臣が定める数 量(以下「下限数量」という。)及び濃度を超えるものとする。」という規定がありそこで決められている量(下限数量)を超えると法律上放射性同位元素として扱われ、「使用の許可及び届出、販売及び賃貸の業の届出並びに廃棄の業」に許可が必要になる。
ただし、「原子力基本法 (昭和三十年法律第百八十六号)第三条第二号 に規定する核燃料物質及び同条第三号 に規定する核原料物質」という例外規定があって、核燃料物質と核原料物質には適用されないらしい。

 それでも、原発事故で拡散した放射性同位体(放射性物質)、たとえば、セシウム137が一定以上の濃度で含まれている物は、この法律の適用を受けることになる。

 さて、その濃度だが、「その種類ごとに文部科学大臣が定める」とある。
それは、「放射線を放出する同位元素の数量等を定める件(平成17年 6月 1日 文部科学省告示第74号)」に同位元素ごとの別表として掲載されている。
 そこには、考えられる限りの放射性同位元素とその下限量が載っている。
 セシウム137の場合、その下限濃度は10000Bq/kgだ。これを超える濃度のセシウム137を含む物は、法律上「放射性同位元素」となり、使用(誰も使用しないと思うが)、運搬、廃棄に厳しい制限が加えられる。

 今朝の毎日新聞記事で、
 「福島県は28日、飯舘村の新田川(にいだがわ)で捕れたヤマメから国の暫定規制値(1キロ当たり500ベクレル)を大きく超える1万8700ベクレルの放射性セシウムを検出したと発表した。」
 という記事があった。
 先にクドクドと書いた法律によって、この濃度の魚は、完全に「放射性同位体」として扱われる。移動には公安委員会の許可などが必要になる。
 しかし、魚は川を無許可で自由に移動しているわけで、いったいどうなるんだろう?などと暢気にふざけている場合ではないが、こんな滑稽で怖ろしいことが、これからどんどん起こってくるのだろう。
 放射性物質を含んだ瓦礫を全国にばらまいたら、日本中でこんなことが起きるかも知れない。

おことわり:
 僕には、法律のことは難しすぎてよくわかりません。
 ひょっとしたら何か勘違いがあり、誤ったことを書いたかも知れません。
 小文の中にそのようなものがあったら、ご指摘下さい。
 また、引用して下さるのは構いませんが、(そんな人はいないとは思いますが)上記の内容は私的な解釈の粋を出ておりませんので、その点にご留意下さい。

2012年3月28日水曜日

浮力の怪 流氷百話 22/100

羅臼には、流氷の海に観光船を出してオジロワシやオオワシを観察するクルーズがある。その船の船長とは、家も近くとても親しくさせてもらっている。

 ある日、ワシを観察するその船に乗せてもらっていた時、船長が流氷について説明してくれていた。
「流氷は、海面の上に出ている部分より海面下の方がずっと厚みがあるんです。特に2月、3月頃の流氷は、海の中の見えない部分が厚く、船は特に注意しなければなりません。」

 この時、僕は耳を疑った。
 なぜなら氷の密度は、温度や圧力でごくわずかの変化はあるとしても、比重が大きく変わるほどの変化はしないはずだと考えたから。どこまで行っても同じ氷と海水だ。

 この船長は、知床の海の隅々まで知り尽くしている超ベテランで、昔から知床の船乗りたちの間で言い伝えられている豊かな知識も持っている。
では、どうして船長は、そういう話をしたのだろう。真相はわからないが、僕は彼の言葉を信じたい。

 とすると物理の法則が間違っているのか?
 まさか、そんなことはあり得ない。

 経験から得られた事実と物理法則の両方を立てて説明できないだろうか。

これを解決するには、まず、3月の流氷の海中部分が本当に厚いかどうかを検証する必要がある。そのような観測事実が明らかになってから考察をするべきだろう。
ただ、現段階でそれは不可能なので、船長の言葉が事実だったと仮定してその原因を考えてみた。

 最初に思いついたのは気泡の含有量が変化しているのではないか、という仮説だ。氷の中には空気が閉じ込められているから、その量が比重に影響を与えるかもしれない。
 流氷が冬の海を漂っている間に雪が降る日もあるだろう。氷の上に雪が降り積もりそれが凍って、最初の氷に付け加わる。それが比重を大きくする働きをしているかも知れない。
 もちろん、これも検証する必要があるが。

 もう一つは、2月から3月にかけて沿岸の海水温も低下するので、海水の凍る温度を下回り、流氷が成長している可能性も考えられる。その成長の過程で、気泡の含有率が下がって比重が大きくなる可能性はどうだろう。

 いずれにしても、僕たちが学校の教室で学ぶ物理は、様々の現実の条件を捨て去り、「本質」の部分でどのような現象が起きているかを問題にする。いわば、頭の中で理想化(あるいは「空想化」)したことがらについて論じている。
 だから、実際に海の上で起きている現象を説明するには、十分とは言えないと思う。

 「自然に対して謙虚になれ」とよく言われる。それは、地震や台風、津波など災害をもたらす自然の「力」に対してはもちろんだが、流氷の比重の変動のようなごく微量の物理現象に対しても当てはまることではないだろうか。

 学問は、どこまでも傲慢であってはならない。
 傲慢でないからこそ明らかになった事実や真理に対しては全幅の信頼を置いて、非科学的なもの、似而非科学的なものと、毅然と対峙できるのだと思う。

 船長の説明を聞いて耳を疑った自分自身を、僕は密かに恥じている。

2012年3月27日火曜日

ヒトラーの亡霊をよみがえらせてはならない

今日、まったく取り上げられなかったか非常に小さくしか扱われなかったが、このようなニュースがある。

 「大阪市交通局の非常勤嘱託職員が、昨秋の市長選に関して組合が作成したと見せかけるリストを捏造(ねつぞう)した問題で、この職員と、リストを大阪維新の会市議に告発した職員が同一人物であることが分かった。職員の氏名が一致しており、告発を受けたとした維新の杉村幸太郎市議(33)も、同一人物だと認めた。維新市議団はリストを基に組合問題を追及してきたが、告発者の「自作自演」を見抜けなかった・・・」
                      (毎日新聞の記事の冒頭部分だけ引用)

 これを読んで最初に思い出したのはナチスの国会議事堂放火事件だ。

 1933年1月30日、ヒトラー内閣が成立した。アドルフ・ヒトラーは政権基盤を固めるために議会を解散。3月5日に総選挙を行うことを決めた。

 2月27日の夜、ドイツの国会議事堂が火事になった。火の出る直前に議事堂のそばをとおりがかった学生がガラスの割れる音を聞き、彼は火のついたものを持った人影を見て、警官に知らせた。
 火事知らせを聞いたヒトラーは「コミュニスト(共産主義者)の仕業だ!」と叫んで現場に急行した。

 現場を捜索したところ、焼け残った建物の陰でちぢこまっていた半裸の人物マリヌス・ファン・デア・ルッベが発見された。ルッベはオランダ人でオランダ共産党員であった。ルッベは放火の動機は「資本主義に対する抗議」と主張しており、プロイセン内務省のディールス政治警察部長も「一人の狂人の単独犯行」と推定した。

 ディールスは国会議長公邸で開かれた閣僚、警視総監、ベルリン市長、イギリス大使、元皇太子ヴィルヘルム・アウグストなどが参加する対策会議で犯人逮捕を報告した。しかし、ヒトラーは「共産主義者による反乱計画の一端」と見なし、「コミュニストの幹部は一人残らず銃殺だ。共産党議員は全員今夜中に吊し首にしてやる。コミュニストの仲間は一人残らず牢にぶち込め。社会民主党員も同じだ!」と叫び、単独犯行であるとするディールスの意見を一蹴した。

その後、証拠のねつ造や捜査資料の改ざんによって、単独犯行を組織的犯行に仕立て上げていく。
 日を置かずに警察は共産党議員や公務員の逮捕命令を出し、共産党系の新聞はすべて発行禁止となる。その後、共産党議員団長であるエルンスト・トルクラー(de)や後にコミンテルン書記長を務めるゲオルギ・ディミトロフら4名が共犯として逮捕された。ドイツ共産党は壊滅的な打撃をうけたことになる。 (ここまでウィキペディアを参照)

 事件の真犯人とその背後関係を巡って、諸説あるが、ヒトラーがこの事件を政治的に利用し、法制度をも変えて、国民の自由や公正な裁判を受ける権利を次々に奪っていったことは動かしがたい事実だと思う。

 大阪市交通局のこの事件を知って、真っ先に思い出したことだ。しかも、今のところ維新の会は交通局の労働組合に対して、謝罪するどころか、盗人猛々しい居直りを見せ、

「問題の指摘をするのが議員の仕事。市の職員が捏造したことは間違いないわけなので、議会の追及としては当然だ」(橋下徹市長、27日、記者団への言葉)と発言している。

 こういう人々の属する集団には、決して権力を与えてはならないと思った。

2012年3月26日月曜日

お蕎麦屋の謎



蕎麦が好きで、よく食べる。普段はお弁当を持たせてもらえるが、出張などの時の昼食は、蕎麦になることが多い。
今までの人生で考えたこともなかったが、気づいてみると気になって仕方がない。

 どうして、お蕎麦屋さんの厨房は、あまり見えない所にあるのだろう。蕎麦と並ぶ手軽な外食店のラーメン屋さんでは、たいていカウンターがあり、その向こう側が厨房になっている。オープンな空間で調理作業を行っている場合が多い。
 それに対して、お蕎麦屋さんの厨房は、たいてい奥にあり、客席から中が見えない作りになっている店が多い。
 カウンターというのは一人のお客が利用する場合が多いが、ラーメン屋はもちろん蕎麦屋にも一人客は同じくらい入るはずだ。だが、大きな蕎麦屋さんでは、一人客のために、厨房とは別の場所にカウンターやカウンターのような席を設けている。

 どうしてなのか。最近、ずっと気になっている。

 話は変わるがお蕎麦屋でお酒を飲むのは、なんだか気持ちいい。蕎麦が運ばれてくるのを待つ間、冷や酒を少しだけ飲む。そして、1~2合で切り上げ、蕎麦をツツーッと食べ、スッと店を出る。「粋でいなせなヒト」になったような良い気分になる。
 そんなためには、一人用の座席でも、厨房から距離があった方が良いような気もするのだが。

 どなたか、教えて頂けないだろうか。

2012年3月25日日曜日

水のめぐみ

このところ水の恵みを痛感している。
 水が足りないのではない。水道の蛇口からは、いつでも十分な量の水がほとばしる。
 では、なぜ、今頃になって水の恵みなのか。

 実は、家の排水管が凍結で詰まっている。
 家庭の水は上水道から出て、下水道へと流れる。この循環が上手くいかないと、水が使いにくい。
 一般に水道が出ないことには、皆が大騒ぎする。その大変さは想像できる。
 だが、使った水が円滑に流れて行かないことによって、水道が自由に使えないという事態は、想像が難しいのではないだろうか。

 わが家の場合、排水管からあふれた水は、勝手口の温水ボイラーを設置している場所に溜まる。深さは20cmくらい、ボイラーは底面から15cmほど高くなっているので、汚水がボイラーの下部に達する前に排水ポンプで排水してしまえば問題は起こらない。
 この冬、ボイラー下の水深を気にかける日々が続いている。
 そして、先日、ふと気づいた。
 排水する水の量を減らすには、使う水の量を減らせば良いのだ。

 たとえば歯磨きだ。今まで歯ブラシを洗うのに蛇口を開け放して流し水で洗っていた。これを止め、コップ一杯の水で口をゆすぎ、水を少し残して歯ブラシを洗う。仕上げに少しだけ流し水で歯ブラシをすすぐ。
 これだと水の使用量は、3分の2くらいには減るだろう。減る量は僅かなものだが、毎日することだから塵も積もれば山となるのではないだろうか。

 排水管の凍結で、不便な生活を強いられているのは事実だ。
 だが、不便だ不便だ、と嘆いてばかりいないで、今までの生活を見直すきっかけとして考えれば、その不便さもうれしくなる。

 長かった冬も、やっと出口が見えて来ている。凍結が解けて、排水が流れ出す日も、そう遠くなかろう。

2012年3月24日土曜日

「日本海」の旅路 ②・・・播州赤穂




兵庫県立美術館に行く前、播州赤穂へ行った。
 「播州赤穂」というのはJR西日本の駅名で、町の名前は「赤穂市」だ。
 今さら書くまでもない「忠臣蔵」の舞台である。舞台は、江戸と言うべきだから、「国元」とでも言った方が良いのか。


 特別に忠臣蔵に興味があったわけではないが、せっかくの機会だから訪ねてみた。いわば野次馬的な動機である。前夜泊めてもらった義弟宅のある明石から新快速に乗って20分で姫路に着く。姫路から普通列車に乗り換える。山陽本線の相生から赤穂線に入って、ほどなく播州赤穂に着いた。

 忠臣蔵の町だから、さぞ義士饅頭とか義士最中などというお土産品が並び、観光客歓迎色で派手に彩られているかと思っていたが、さにあらず。駅前は、しんとして、普通の地方都市のよくある日曜日という佇まいだ。ぼんやりしているとここが、あの超有名な歴史的事件のお国元だとは気づかずに通り過ぎてしまいそうなくらいだ。

 だが、よく見るとあちらこちらに地味な案内板がある。赤穂城跡まで1kmという案内標識もある。駅前からお城跡へとまっすぐに続く商店街は、どの店も白壁で統一されていて、派手な看板は一切ない。これが観光客へのアピールだと気づくのに時間はかからなかった。そう気づくといろいろなものが目に付くようになる。
 押しつけがましく派手にアピールしてくる観光地よりも、はるかに好感のもてるやり方で、時間が経つほど、心の中で印象が輝きを増してくるような町だと思う。

 ホテルの駐車場のゲートが「車置き処」という冠木門風になっている。
街角にその当時の上水道の水をくみ上げる井戸が復元されている。

 赤穂は、製塩技術を高め、塩の産出で財政を潤していた藩のようだ。その財力を使って上水道を整備するなど、住民の暮らしの向上にも努めていたのかも知れない。見かけ上は(失礼ながら)田舎の小さな町、小藩に過ぎないだろうが、財政の安定や技術の向上で豊かな暮らしを営んでいたのだろう。そこに、藩主の江戸城内における刃傷沙汰があって、この小さな町は大揺れだったのだと思う。

 事件は、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」になり、浄瑠璃や講談などにもなった。赤穂へ行ったこともない人々の間にもその評判は広がった。現代の日本人の間でも、その物語は広く知られている。

 だが、僕はある違和感を感じた。
 僕自身は、歌舞伎や浄瑠璃、講談などにそれほどの知識はないが、赤穂の町を歩いてみた印象と「物語」の中で語られている「忠臣蔵」との間に、相当な違いを感じた。これは、ほとんど直感のようなものだから、上手く説明できないのだが、赤穂の町を歩いてみて、「忠臣蔵」というのは、史実に基づいてはいるが、本質的にはフィクションなのだ、という思いを強くした。
 吉良邸討ち入りなど実際の行動は、もっとずっと地味で、野暮ったく、それだけに必死で余裕のない行動だったに違いないと感じた。

 「忠臣蔵はフィクションだ!」などとここで批判するつもりは毛頭無い。
 それで良いのだと思う。フィクションはフィクション、現実は現実なのだ。
 そして、その現実の「忠臣蔵」を肌で感じることが出来た分だけ、今回の赤穂市訪問の収穫は大きかった、と思うのである。

2012年3月23日金曜日

「日本海」の旅路 ①・・・アール・ブリュット

16日、「寝台特急日本海」最終列車に乗ってから1週間が経った。早いものだ。
 あの夜、「日本海」は、1023キロを走破し、僕を大阪に連れて行ってくれた。

 大阪に着いてまず、行った場所は大阪天満宮。
 さすが、学問の神様へお参りに行くんだ!と思った人は、いないと思うが、その推察通りだ。大阪天満宮の隣にある「大阪繁昌亭」に行ったのだ。

 翌日の夕方、僕は神戸にいた。
 朝から播州赤穂を訪ねて、赤穂城跡などを歩き回った。赤穂市立歴史博物館も見学したが、その受付に置かれていたパンフレットが目にとまった。

 兵庫県立美術館で開かれている「解剖と変容」というタイトルの展覧会だ。副題に「アール・ブリュットの巨匠たち」とあった。
 「アール・ブリュット(Art Brut) 」というのは、フランス人画家・ジャン・デュビュッフェがつく語で、「生(なま、き)の芸術」という意味なのだそうだ。
 英語では、「アウトサイダー・アート(outsider art)」と言う。ただし、このカテゴリーについては、芸術家たちの間で論争があるようで、「両者は微妙に違う」という主張もある。

 一般に、正式な美術教育を受けず、発表することを目的としないで作品を制作しつづけている人々の芸術のことを意味している。
この展覧会では、「専門的な美術教育を受けていない作り手が、芸術文化や社会から距離を置きながら制作した作品」と説明されていた。
 多くの場合、社会との交渉を断っている人々が、団体に所属して発表することをせず、もちろんその作品で生計を立てることもせず、独学で制作を続けた芸術作品で、知的障害者、精神障害者あるいは精神病患者の作品なども含まれる。

 中には、その人が創作活動をしていたことすら知られず、死後に作品が発見されたというケースもある。

 以前、アロイーズという人の作品展を観たことがあった。今回はアロイーズの作品は含まれていなかったが、日本初公開のチェコ出身の画家アンナ・ゼマーンコヴァー(1908‐1986)とルボシュ・プルニー(1961‐ )の作品が展示されていた。

 ゼマーンコヴァー の絵は、学生時代に顕微鏡を覗きながら一心不乱に描いたスケッチを思い出させてくれた。もちろん描かれているものは、作者の頭の中にだけ棲んでいるバクテリアや原生動物たちなのだろう。あるいは、生物体内の架空の組織や器官。
 展示を観てまわっているいるうちに、その生命感がこちらの体内にも注入されてくるような不思議な高揚を覚えた。
 無計画な旅だったのだが、最後の「日本海」が導いてくれた縁だったように思う。

 兵庫県立美術館  http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_1202/index.html

2012年3月22日木曜日

小短歌集 三月の黒猫


自堕落もたまにはいいと黒猫がシッポで誘う三月の夜

「接続を切っていいか」とPCに聞き返されて、不安高まる
界面の滲むあたりをシロカモメ歪む時空に航跡の揺れ
人間とはいったい何か。問いかけが胸 往き来するリアス海岸
直実(なおざね)が鎧掛けたという松も時の重さが枝を押し下げ
その花を臘梅と教え、手に取りて香りを利いて微笑んだきみ

地の果てに変わりなけれど紀伊半島 暖かく明るく穏やかな昼
電線にイソヒヨドリのとまりいる最南端の乗り換えの駅
車内にも海の香りのたちこめる紀勢本線ローカル電車
乗る人がみな鯨捕りに見えてくる太地の町へ行く列車内
しんとしたクジラの町の昼下がり町営バスの中も静まり

はるかなる北の羊を称えつつ 神戸の夜は静かに更ける
いま少し原野の暗さ背に負いて ここでこの世の変遷を見ん
暗闇の底よりわれを招く声、原野を生きる場所と定めん
ヒシクイの低空飛行雪原に春の兆しを探るがごとく

捨てられし仔猫のごとき娘いて なす術もく眺めるわれは
君がいて君を見つめる僕がいて 僕の生まれた町の通りで
君が立つその街角に立ちすくみ 思い迷った若き日の僕も
海の香がかすかに漂う坂道は、少し悲しく少し懐かし

われもまた共に行きたし白鳥と いつわりのない眠れる大地に
早々に北へと帰れ白鳥よ この国の穢れしみつかぬ間に
崩れゆく国から逃れ去るごとく 白鳥の群れ次々に飛ぶ

種を越えて伝わるもののあるごとく 黒猫われを離れざりけり

2012年3月21日水曜日

リテラシー無き自然回帰への警鐘

最近、山梨県清里のキープ協会で行われた環境教育基礎講座に参加した。そこで、多種多様なネーチャーゲームを体験してきた。それらは、子どもから大人まで、また、野外活動の初心者からベテランまで幅広い層の人々が楽しめる、非常に優れたものばかりだった。これまで「ネーチャーゲーム」というものに懐疑的で、一定の距離を置いていた僕の目を開かせてもらったと思う。

 ひと時代前のネーチャーゲームは、自然への畏敬の念や生態系の精緻な相互作用などを無視した、乱暴なものが多かったと思う。
 子どもたちの自然体験は、環境教育にとって重要だということはわかる。だが、いかにも指導者面したリーダーが、上から見下すような態度でゲームをさせている当時の標準的な図式が鼻について、自分では受け入れがたかった。

 同時に「アウトドアブーム」というものあった。「バーパル」だか「ブーパル」だかいう名のアウトドア用品カタログみたいな軽薄な雑誌が人気だった。類似の雑誌も多かった。 高校時代からボロボロで汗臭い垢抜けない格好で山歩きをしている僕らには、縁の無い世界だった。
 そんな雑誌から飛び出したような服装をし、様々な道具をこれ見よがしに身につけたハイカーとすれ違うと、ひそかに「ケッ!」などと毒づき、「○ーパルおやじ」などと陰で軽蔑していたものだ。
 だから、環境教育とネーチャーゲームの重要性は認識しつつも、さして効果があるとは思えぬゲームを得意そうに「指導」している様子は苦々しく感じていた。

 しかし、それから30年近い歳月が流れ、多くの実践によって淘汰された結果、ネーチャーゲームも洗練され、自然の営みを五感で感じて興味関心を高めていけるような、効果的なものに変わってきた。先日の清里での体験は、それを強く印象づけられた。
 
 ただし、環境教育の導入にネーチャーゲームを利用する時、自然環境へのインパクトを可能な限り小さくすること以外に絶対に忘れてほしくないことがある。
 それは、自然環境を歴史的にも観てほしいということだ。そこの自然環境は、たとえそれが原生林や原始海岸だとしても、必ず歴史的背景をもっている。先住の人たちが利用したかもしれないし、地震や火山活動があったかも知れない。そんな土地の歴史に目を向けて自然を読み解く必要がある。
 つまり空間的に観るばかりでなく、時間的な視点をも持つ必要があるということだ。ネーチャーゲームには、そういう地域性が必須なはずだ。

 北海道を例にとる。先住民アイヌの人々は、その場所をどう利用したか、アイヌの子どもたちは、どんな遊びをしたか、そこからどんな物語や歌や踊りが生まれたかを知ることなしに、遠い国で考案されたゲームをそのまま模倣して当てはめても、本当に北海道の自然と触れ合えたことにはならないだろう。
 そして、アイヌ文化は、どこからどのように伝搬してきたか、へも思いをいたさなければならない。自然を読み解く力(リテラシー)を身につけるとは、そのような認識を持つことだと思う。

昨年の原発事故、巨大地震と大津波によって、科学技術に依存しきった都市生活の危うさが露呈し、自然環境を見直し、自然と共存して生活しようという機運が高まっている。全般的には歓迎すべきことだが、今は、百家争鳴・玉石混淆の「自然回帰ブーム」が台頭している状況だと思う。
 だが、かつての「アウトドアブーム」再来と同じように、「精神性」や「神秘性」に偏重した皮相的な「自然への回帰」にならないよう注意する必要がある。
 再び「アメリカ直輸入」のような自然観を振り回されるのはまっぴらだ。

2012年3月20日火曜日

知のパニックと言葉の暴走

歳のせいだろうか。
 互いに貶め合うような言葉の創造に、気持ちがついて行けない。

 「放射脳」なのだそうだ。
 放射性物質の影響を必要以上に恐れる思考に走る人たちのことを言うらしい。

「はてなキーワード」によれば、
【福島原発事故以来、頭がおかしくなって、何でもかんでも「放射能が悪い! 東電・政 府が憎い!」という思考に走るようになった人たち。】のことだとされている。
 悪意に満ちた揶揄だと思う。

 放射線は、目に見えない。放射性物質は、普通の分析では検出不可能なほど微量でも、強い放射性線を出すから、その質量に対する毒性の強さは、有害化合物とは比較にならないほど強力だ。  
ただ、放射線には、多くの種類があり、生体への影響も異なる。障害がすぐに顕れる場合と数年・数十年経ってから顕れる場合とがあり、学者の間でも論争が治まっていない。そして、その学者たちの多くは、それぞれが権力や資本、権威などという「真理」とは無縁のものと結びついている。マスコミも同様だ。

 このような状況で、何も知らない、何も知識をもたない国民は、何に依拠すれば良いのだろう。ただ不安だけが増大していく。いわば、知のパニックが起きている。

 現実に、事故現場近くで生活し、放射線に弱い子どもを抱える母親達が、被曝の影響を恐れるのは当然で、その恐れ方が、多少神経質だったり飛躍があったとしても、周りの者は、その恐れている感情にまず、寄り添うべきではないだろうか。

 「放射脳」などという言葉を作り出し、カテゴライズし、侮蔑するのは、誤った原子力政策を推し進め、これからも推し進めようとしている勢力を勢いづかせるだけではないだろうか。

 言葉は生き物だ。一つの新しい言葉が生まれ、その言葉が現実の状況の一部を言い当てていていると、あっという間に広がるという現象は、以前からあった。
 やがては泡沫のように消えて無くなる言葉が大半であろうが、様々な淘汰を経て定着する言葉あるだろう。

 だが、「放射脳」は、最初から悪意と敵意を込められて生み出された言葉のように思えてならない。
 事実を正確に言い当てていない言葉は、消え去るのも早いとは、思うのだが。

2012年3月19日月曜日

嘆きの日本海


 ANA403便は、神戸空港を離陸し、瀬戸内海上空をしばらく西に向かって飛びながら高度を上げた。
 大阪湾には、伊丹空港と関西空港があり、第三の空港である神戸空港からの航路を割り込ませる余裕がないからだろう。

 やがて、大きく右に旋回し日本海に出た。眼下に丹後半島や舞鶴、敦賀などが見える。続いて能登半島を横断して陸地から離れ佐渡上空にさしかかる。それから飛島の上を通って男鹿半島から陸奥湾を横断して苫小牧沖から千歳に向かった。
 寝台特急「日本海」の最終列車を見送る旅は、結局、来る時の道を空から逆戻りするようなルートだった。もっとも、往路は千歳から大阪までで22時間ほど、復路は2時間足らずだったけれども。

 とにかく、このことからも近畿地方と北海道を結ぶ最短ルートは、日本海まわりであると理解できる。
特急に昇格し、「日本海」という愛称が付けられて61年間、走り続けてきた列車の歴史は終わった。
 「今朝の大阪は、『日本海号』との別れを惜しむかのように、雨となっております。『寝台特急日本海』は、通常のダイヤから消えるわけでありますが、皆様方の心の中で、いつまでも汽笛を響かせていることでしょう」
 終着駅大阪に着く直前、車内アナウンスで流れた車掌さんの言葉だ。さすがに、目の奥がツーンと痛くなった。

 帰りの機内から見下ろす日本海は、冬型の気圧配置のせいで、雲が多めで、地表はかすんで見えていたが、海岸線の形は、よくわかった。考えてみると、敦賀から能登半島にかけての海岸には、原子力発電所がひしめき合うように建っている。それらのすべてが、太平洋側にある大都市に電力を供給するためのものだ。
 太平洋側の「繁栄」のために、美しい日本海の海岸と海が、引き裂かれ、汚されている。 誰かわからぬか、「繁栄を推進した者」たちは、自分たちの欲望のために、煩わしいもの、面倒なもの、回復不能なほど危険な事態を引き起こすかも知れないもの、厄介なものを、全て日本海側に押しつけたである。

 そして、それを平気でやらかす精神構造は、今も依然として続いている。

2012年3月18日日曜日

流氷の中の塩分  流氷百話 21/100

今夜は、神戸の宿にいる。
 神戸は、ずっと昔、あの地震の前に来たことがあった。この街を初めて訪れたとき、不思議な懐かしさを覚えた。到着したのは夜だった。予約した宿を探して坂道を登った時のことである。
 山があり、坂道を下りれば港に行き着くというところが僕の生まれた街と共通していたせいだと思う。
 震災で、その街並みが失われてしまったことが悲しかった。
 今はもう、震災の痕跡は、ほとんど目につかない。だが、肉親を失ったり、大けがを負ったりした、心身の傷を抱えている人々は、今もたくさん暮らしておられることだろう。港で揺れる灯りを見ながら、そんなことを思った。

 流氷の中の塩分  流氷百話 21/100
 ひとつ訂正しなければならないことがある。流氷百話の第四回、「五感で確かめる事の大切さ」の中で、「流氷は凍結するときに、そこに含まれている塩分を氷の外に押し出してしまうからしょっぱくない」と書いた。
 舐めてみて、塩辛く感じないのは事実だが、決して塩分はゼロではない。北海道立オホーツク流氷科学センターのホームページによれば、1kgの氷に10~12gの塩分が含まれているのだそうだ。普通の海水に含まれている塩分は、1kg中31~33gだからおよそその三分の一と言うことになる。
 実際に流氷を舐めてみた結果、塩辛さは感じなかった経験から、「塩分は無い」と勝手に思い込んでいた。僕の誤りである。訂正させて頂きたい。

 この割合は、流氷中の塩分は1%より若干濃いことを示している。この数値は、ヒトなどほ乳類の体液の濃度にほぼ等しい。生理学的食塩水の濃度は0.9%だと習った覚えがあることでしょう。
 1%の塩分濃度を「塩辛い」と感じるか否かは微妙なところだが、おそらく微かな塩辛さは感じ取れるのでは、ないだろうか。

 では、舐めてみた時、どうして味を感じとれなかったのか。いくつかの理由が考えられる。
 第一に、温度が低くて塩辛さを感じる閾値が上がっていた、というのはどうだろう?冷たいものの味は感じにくいということはないだろうか。
 第二の可能性は、流氷の表面に雪が降り積もっており、舐めた部分が流氷本体ではなく陸上の雪が固まった氷と同じものだった可能性はないだろうか。

 厳密に確かめるためには、明らかな流氷を採取する。表面の部分を取り除き、できるだけ中心に近い部分の氷を取り出して、加熱し水分を飛ばして蒸発残留物の質量を正確に計測する、という手順で作業しなければならない。
 たかだか塩の濃度を測るだけでもこれだけの緻密さが必要だ。

 放射性物質の定量は、社会的に大きな影響がある。慎重で正確な定量が求められるだろう。それに加えて、結果をありのままの伝える誠実さが不可欠だ。

2012年3月17日土曜日

羅臼でウニを味わう不幸 流氷百話 20/100


 今年、流氷の羅臼への到着は割に遅かった。だが、その後、長く居座り、海岸を埋めている。
 羅臼の前浜では、2月からウニ漁が始まる。

 この話は、あまり多くの人に知らせたくないのだが、羅臼産のウニを食べた人は不幸になると思う。あまりの美味さで、他の産地のウニの魅力が一気に色褪せてしまうからだ。
 「何を大げさな!」と思うかも知れない。もちろん、ちょっと大げさに表現したのだが、あながち冗談ではない。
 僕自身、羅臼で暮らす以前は、どこで獲れたウニでも、ウニであるだけでありがたく、「ハレ」の日には、奮発してロシア産の折詰めウニを買い、「ウニだ!ウニだ!」と大騒ぎして食べていたものだ。
 しかし、今は、そんなウニをスーパーで見かけても、買う気が起きなくなった。

 ウニは海藻を食べる。羅臼のウニは、前浜のオニコンブをたっぷり食べている。羅臼昆布は、昆布としても羅臼を代表する産物だが、それを食べて育ったウニが、優れた品質にならないはずはない。
 そして、流氷の浮かぶ冷たい海は、バクテリアも少なく身の引き締まった健康なウニが育つというわけだ。

 「羅臼以外のウニは食べられなくなる」という「不幸」を顧みず、流氷を眺めながらひたすらウニを想う日々は、今年も当分は続きそうである。

2012年3月16日金曜日

寝台特急日本海から


 その特急の名を聞いたのは、小学校4年生か5年生の頃だったと思う。青森から横手へと向かう列車の中だった。小学生の時だから昭和30年代後半のことだろう。夏休みに、叔母に連れられ、横手に住んでいた大叔父の家に遊びに行く時のことだった。
 奥羽本線を走っている列車の車内アナウンスで「特急日本海」への接続の連続だったように思う。

その頃、僕の知っている特急の名前は「つばめ」「さくら」「ふじ」「はやぶさ」程度だった思う。北海道内の急行も「まりも」「すずらん」「アカシア」などだった。
 つまり、ほとんどが4音か3音の名前であり、「ニホンカイ」という5音の名前が耳に新しく、強烈に印象に残った。

 それから時は流れる。
 「日本海」は、その間も毎日、休むことなく走り続けていたわけだ。

 特急「日本海」に初めて乗ったのは、高校三年の冬、1969年、京都の大学を受けに行く時のことだ。
 函館に住んでいた僕は、東京へ行くために、深夜0時台に出港する青函連絡船の2便か12便に乗る機会が多かった。「日本海」に接続する12時15分出港の8便に乗り、昼間の海を渡ることが楽しみだった。

 その後、青函トンネルが完成し、連絡船は廃止された。「日本海」は函館始発となる。その頃、修学旅行の引率で「日本海」に乗る機会が増えて嬉しかった。
 夜の青森を出発し、一夜明けると北陸の海岸を走っている。車窓風景の不連続性は、この列車の最大の魅力かも知れない。
 さらに、「日本海」という名前の持つ不思議な響き。
それは、この列車の沿線が、日本史の中で「大陸と向かい合った地域」として、新しい文化の発信地であり続けたにもかかわらず、その後の政治や経済の中心が太平洋側に移ったことで、取り残されたような寂寥感を纏っているからだろうか。
 
 「日本海」という言葉の響きは、いつも「昔の賑わいを失った者」の寂寥感を伴って聞こえてくるように感じる。そこに、夜の、暗く波の荒い海岸風景が想像される。
 その日本海に沿って、列車は走る。

 いま、その最後の列車に、僕は乗っている。

2012年3月15日木曜日

夜汽車

夜汽車が好きだ。
 鉄道を見ればなんでもかんでも「デンシャ!デンシャ!」と呼ぶような人にはわかるまい。「テツ」と呼ばれようと「オタ」と呼ばれようと「デンシャ」と「キシャ」は違う。
 電車は汽車だけど汽車は電車ではない。

 逆上気味に書き出してしまったけれど、とにかく夜汽車が好きなのだ。「ヨギシャ」なんてもう死語同然かも知れないが、ワープロでは、ちゃんと変換されているのだ。
 始発駅を出発してまもなく、レールのジョイントを渡る規則正しいリズムを背景に、途中の停車駅と定時到着時刻を知らせる車掌さんのアナウンスが流れる。
「弘前到着、20時14分。
 大鰐温泉、20時27分。
 大館 20時57分。
 鷹ノ巣  21時14分。
 東能代  21時39分。
 秋田   22時28分。
 羽後本荘 23時08分。
 酒田、日付が変わりまして0時01分」
えんえんと、停車駅名と時刻が読み上げられ、最後に、
 「終点大阪には、10時27分の到着予定でございます。」で終わる。
遠くの駅へ進むほど、夜が更けていく。夜の旅路の長さが、そこからも感じ取られる。

 「日本海」の元となる急行列車が大阪~青森間に運転を始めたは、1947年のことだそうで、1950年11月この急行に「日本海」という名が付けられた。
1968(昭和43)年10月1日のダイヤ改正(通称ヨンサントウ改正)で「日本海」は急行列車から、晴れて、寝台特急「日本海」となった。
 このダイヤの上では寝台特急「日本海」を新たに設け、以前の急行「日本海」は急行「きたぐに」と改称された。

 北海道と内地の間は、江戸時代以来長期にわたって日本海沿岸を通る北前航路が主役だった。北前船の寄港地には、関西と北海道に共通する言葉や道具、習慣などが少なくない。
 知床の羅臼町の漁業も、富山県から移住してきた人々の技術が、その基盤になっているという。
 明日から、日本海に沿う夜汽車の旅に出るつもりだ。

2012年3月14日水曜日

おしまい の はじまり

どうしても最近は、昨年の日記を読み返すことが多くなった。
 昨年の今日、3号機爆発。
 大変な事故だし、衝撃的な映像だが、その後マスコミではあまり流れなくなった。
 この映像が流れなくなったとことが、原発事故を隠蔽したいという、この国の権力者の願望や姿勢を鮮やかに示している。

 いま、あらためて日本がファシズムへの傾斜を強めたことに気づく。
 民主主義を心の底から渇望し、渇望した末に行動を起こし、血と汗で闘い取った経験の乏しい国には、江戸時代から続く形式主義と、屁理屈そのものといえる法の解釈によって、政治が権力者の思い通りに歪められ、逆らう者を強権で圧迫するやり方がまかり通っている。それは、当然の成り行きなのかも知れない。

 その結果、第二次世界大戦の直前には、国際的に孤立を深め、世界を相手に戦争を起こして手痛い敗北を喫した。
 アメリカは、そこにつけ込んで、反共の防波堤として日本を育てて、今日の為体(ていたらく)になったのだろう。

 この太平洋の西の外れにある小国は、もはや日本海溝に向かって、滑り落ちるように沈んでいくしかないのかも知れない。

2012年3月13日火曜日

真綿で首をしめるように

ジワジワと震災瓦礫処理を全国へ押しつけようとする意志が浸透している。
 これが恐ろしいと思う理由が三つある。

 まず、瓦礫に、どの程度放射性物質が含まれているかがわからないこと。たとえ、「測定結果がゼロに近い」と発表されても、昨年の原発事故以来、ずっと事故の規模を小さく見せようとし、放射性物質拡散の情報を長く住民に知らせなかった政府機関の言うことが、どれだけの説得力を持つのか。爪の先ほどの説得力もない。もはや、信頼は完全に失われている。そして、その政府機関が決めた「安全基準」が真に安全だと信じられる訳はなかろう。

 次に、瓦礫処理を、「全国の自治体で引き受ける意外に方法はない」というのが本当かどうか信用できない。他の方法を提案している人や機関もある。それらの別なアイディアに、政府機関はどれだけ耳を傾けたろう?
 先に結論があって、無理矢理に現実をそこへ持って行くというやり方を、ずっと続けてきた政府機関のやり口を、これまでイヤと言うほど見せられてきたから。あまつさえ、瓦礫処理をめぐって、その輸送や焼却に多額の利権が絡んでいると言われている。それを知ってしまったら、ますます、「全国に拡散するしか方法はない」と、信じることはできない。

 もう一つは、「一つになろう日本」とか「絆」などと言い、大手マスコミを動員して、情に訴えるキャンペーンを盛大に展開し、国民の「知」に対してではなく「情」に働きかけている点である。
 政府や自治体など公の機関が、何かを「情」に訴え始めるのは、とても危険な兆候だ。 放射性物質のように、検出や定量が難しく、その危険性が未知である点の多い物の処理を「情」で判断してしまったら、歴史的な大失敗を冒す結果になりかねない。
 「情」に流されやすいという性格は、必ずしも悪い面だけではないと思うが、放射性物質がもたらす危険性は、その善意とは無関係に、数年後、数十年後に人々の健康悪化という形で、影響を与えるかも知れない。
 国民の感情を意識的にある方向へ誘導し、悪意ある政策を強行する、という手法は、非常に危険なことだと思う。
このことを、われわれは、本当は、すでに学んでいるはずなのだけれども。

2012年3月12日月曜日

去年の日記から

昨年の日記を読み返してみた。

 昨年の日記を読み返してみると、3月12日の朝から徐々に原子力発電所事故の深刻さが増してきていることがわかる。しかし、その事実はなかなか報道されず、公表を抑えられていたことがうかがわれる。
 明らかに、権力は事故を隠すか小さく見せるためにエネルギーを注いでいた。

 夕方のことだったが、NHKの番組で1号機の建屋が吹っ飛び、骨組みだけになっている映像が映し出されていた。
 出演し、解説している東京大学だかの偉そうな先生は、その映像に気づかなかった様子で、
「多少の放射能漏れがあっても建屋があるから問題ない」というような意味のことを話し、相手のアナウンサーか解説者が、壊れた建屋の映像を示して、初めてそれに気づいた、というシーンがあったように思う。

 それとも、単なる僕の記憶違いか。

 事故が起こってから今に至るまでの、原子力保安院や東電、政府の対応を見ていると、不信感だけが残る。
 だから、あのシーンが幻であったか否かは、問題にならない事だろう。

 とにかく僕たちは、今、そんな国で生きている。

2012年3月11日日曜日

風車のアセスメントから辺野古を思う

風力発電事業者と根室半島の海岸で計画されている発電用風車の環境アセスメントについて話し合いをもった。
 この業者は、良心的で、今のところ予備調査の段階で、風車の建設によってワシ類の飛行への影響が避けられないようであれば、計画の中止もありうる、と言っている。(「今のところ」ではあるが)
 担当者は、計画地域周辺のワシ類の生息状況をどのように調査するか、その調査方法を決めることに苦労していた。たとえば、営巣地点を確認するためには、航空機を利用し、空から調査するのがもっとも望ましいが、ワシが抱卵を始める春先に航空機を飛ばせば、調査そのものによって繁殖行動に悪影響を与えてしまう。しかし、工事の日程は、それらの事情とは無関係に決められている。調査しなければ、ワシへの影響がわからないまま風車が建設される。こんなジレンマを抱えている。

 環境アセスメントとは、往々にしてこのようなものだ。
 形式的に法律上の手続きを踏むだけ、といった態度で環境影響評価をやり過ごすなら、それは、ほとんど意味のない、実態に基づかないものになってしまうだろう。
 そして、おそらく、そのようなインチキくさいアセスメントがまかり通っているのが、現在の日本の状況なのだろう。

 米軍の新基地を造るために行われた辺野古のアセスメントのことが頭をよぎった。すでに多くの不備や誤謬が指摘されているが、おそらく、建設推進という結論が先にある、いい加減なアセスメントであったに違いない。

 「風車を建てることをごり押しすれば、アセスメントなどは、余計な作業だ」良心的なこの担当者でさえ、表情にそのような気持ちがにじみ出ていたように感じた。

2012年3月10日土曜日

旅路の果て 流氷百話 19/100





 北緯43度45分の海岸。
 オホーツク海をはるばる南下してきた流氷の、旅路の果てである。
 
潮流と風で次から次と押し寄せる流氷は、押し合って互いに乗り上げ、山脈のように盛り上がる。オホーツク海沿岸には、このような氷の山脈が何キロも連続して出来ることがある。

 今日、海岸に立って、流氷原を見ていて、ふとひらめいた。
 地球の表面を作っているプレートは、流氷の動きと似ているのではないだろうか。潜り込む、乗り上げる、あるいは引き裂かれるという動きは、氷と氷の間にもある。

 流氷の動きで、プレートの動きを説明すれば、海溝や山脈のでき方や地震の起きる仕組みなどがわかりやすくなるのではないだろうか。

 日本列島は、プレートの境目に出来た島弧だ。
 万が一流氷に乗らなければならないとしたら、氷の境目に乗るだろうか。それとも流氷の真ん中に乗るだろうか。
 当然、不安定な境目には乗らないだろう。

 原子力発電所を日本に造るというのは、流氷と流氷の境目に立つようなもので、安定ないつ境目がずれるかどうかわからない。
 原子力保安院(最近は「不安院」と呼ばれているらしいが)も、この流氷の旅路の果てに立ち、日本列島の地質学上の特性を考えてみれば良いのだ。

2012年3月9日金曜日

清里への旅

ややこしい話だが、今日、清里へ行って来た。
 今週の初めも清里にいた。
 今週初めにいたのは、山梨県北杜市の清里。八ヶ岳の山麓。

 今日、行ったのは北海道、網走管内の清里町だ。
 清里高等学校への出張だった。

 清里高校では、20年あまり前からニュージーランドへの海外研修に、生徒を派遣している。その、詳しいことを聞くための出張だった。
私的な訪問だったにもかかわらず、清里高校では十分な資料を準備して、校長先生自ら詳しく説明してくれた。

 出来るだけ若いうちに海外に出て、様々な文化に触れることは、とても重要なことだと思う。中央部の大都市の中高生が、異文化に触れる機会は数多くあるが、中央からの距離があり、人口の少ない地域では、そのような機会は求めて作っていくしかない。

 何とかして、羅臼町にも、このような仕組みを根付かせていきたいものだ。

2012年3月8日木曜日

アザラシ 流氷が連れてきた動物たち③ 流氷百話 18/100

今日は、羅臼高校の一年生たちと海ワシ観察のための船に乗った。
 船に乗ると、流氷の上のオジロワシやオオワシを近くで見られる。
 今日は、流氷が港の中にまで入り込んで、船が思うように航行できない状態だったが、
生徒たちは、船長の毒舌とともに、海の上での野鳥観察を楽しんでいた。
 流氷が、もう少し沖にあれば、流氷帯にいるアザラシなども見ることが出来たかも知れないのだが、ちょっと惜しい気がした。
 
 オホーツク海沿岸に来るアザラシで、数が多いのはゴマフアザラシとクラカケアザラシだ。両種とも流氷上で出産する。流氷上で出産するアザラシの仔は、全身が白色をしている。写真やぬいぐるみでなじみ深いことだろう。
 ちなみに、沿岸の岩礁上で出産し、一年中道東の沿岸にいるゼニガタアザラシの仔は茶色で、白くはない。

 クラカケアザラシは、観察機会は少ないが、生息個体数は、少なくない。沖にいるアザラシだからだ。「クラカケ」は、漢字で「鞍掛け」と書く。オスの背中に鞍を載せたような帯状の模様があるので、こう名付けられたのだろう。英語では、リボンシールと言う。
 このような模様のアザラシは、他にはいない。

 流氷とともに知床にやってくるアザラシには、他にアゴヒゲアザラシ、ワモンアザラシなどがある。トドやオットセイも観察できるが、アザラシの仲間とは言わない。アザラシはアザラシ科でトドやオットセイはアシカ科ある。同じように見えるかも知れないが、違う仲間だ。アシカ科の仲間は小さな耳介(じかい=みみたぶ)が付いているがアザラシにはない。陸上を移動するとき後ろ足を使うのがアシカ科、身体を滑らせるように移動するのがアザラシ科だ。
 水中でもアザラシは全身を魚のような形にして泳ぐが、アシカの仲間は、鰭(前足と後ろ足)を上手に使って、泳ぎ回る。

 アザラシ科もアシカ科もイヌやネコと同じ食肉目(最近は「ネコ目」と呼んでいる)で、イヌに近いと言われる。確かに頭蓋骨を比べると大きさも形もイヌとよく似ている。
 イヌの中には、アザラシの顔真似の上手い個体もいる。

 進化の過程で、魚類だった脊椎動物が陸上に上がり、両生類→爬虫類と進み、最後に鳥類とほ乳類が現れたのだろう。陸上生活に適応したほ乳類の中で、海に戻ったグループがいくつかある。
 真っ先に思い浮かぶのはクジラの仲間だ。そして、アザラシやアシカたち。
 アシカとアザラシの違いは、海へと回帰した時期のちょっとした違いからきているのだろう。

 それにしても、クジラも含めてせっかく?陸上生活に適応した彼らは、なぜまた海へと帰って行ったのだろう。
 海よりも陸は環境の条件が過酷だ。温度変化も激しい。紫外線も強い。放射線も強い。まさかそれらに嫌気がさしたわけでもないだろうが。

 流氷の海岸に立って、進化の歴史を考える時もある。

2012年3月7日水曜日

東京・・・その狂気

昨日、東京に戻った。
 三日間、午前9時から午後9時までの講習が続いたので、東京では寄席へでも行き、ノンビリしようかと考えていた。

 中央本線の特急で新宿まで来た。ホテルは京浜東北線沿線だったので、新宿から山手線で品川へ向かおうと思っていたら、内回りの山手線が何かのトラブルで止まっていた。そこで埼京線、りんかい線と乗り継いで大井町まで行き、そこから京浜東北線に乗ることにした。(本当は、この方が早いのだが、運賃が高くなるのだ)
 ホテルに入って、何気なくTVをつけてみたら、目の不自由な男性が駅のホームから転落して亡くなられたというニュースが流れていた。

 山手線のトラブルとは無関係のようだったが、なんともお気の毒な話だ。
 ホームからの転落を防ぐためにホームにドアを設置すべきだと、「識者」が力説していた。別に異論はない。その通りだ。ホームドアがあれば、この事故は起きずに済んだだろう。
 しかし、と続けて考えた。
 先ほどの新宿駅の埼京線のホーム(1・2番)の混雑は、ものすごいものだった。ホームがあのように混雑していたら、視覚障害の方は人の少ないホームの端を歩きたくなるのは当然だと思った。根本的な解決のためには、ホームの幅をもっと広げるべきではないだろうか。そして、その中央に、人が立ち止まってはいけない通路を作るとかできないものだろうか。
 ホームの拡張は、ホームドア設置よりもお金がかかるかも知れない。でも、そうすることで、もう少し皆、ゆったりした気分になれるのではないだろうか。

 それはともかく、今日の場合、混雑が兆したら早めにホームへの立ち入り規制をすれば、混雑を抑制できるだろう。
 都市の混雑緩和策は、場当たり的に見えてしまう。

 混雑緩和の第一歩が車両定員の増加と編成の長大化だ。埼京線などは15両編成で走っている。山手線は11両だったか。
 列車定員を増やせばホーム上の人の数も増える。ホームを広げないで、どうやって対処するのだろう。その結果、最初、身体にハンディキャップのある人たちが犠牲になってしまう。
 限界を超えるギリギリまで混雑を放置して、切羽詰まってからその場しのぎの対策を講じるということを繰り返した結果、今日の事故を生んだではないだろうか。そして、これからも危険はしばらく放置されるだろう。

 すべてが場当たり的なんだ。この国は。
 原子力政策だって・・・・。

2012年3月6日火曜日

研修会・・・環境の人々。そしてハイブリッド気動車。それに加えて原発事故


 今日で、環境教育研修が終わった。
 昼前、閉会式を終え、清里駅に向かった。今回初めて知ったが清里駅は、全国の駅の標高では第二位であった。第一は、清里駅の隣の野辺山駅であることは知っていたが、第二位の駅に降り立ったことに、今日、初めて気がついた。
 「二位じゃだめなんですか?」という名言?を思い出した。

 中央本線の小淵沢から新宿行きの特急に乗るのだが、小淵沢行きの列車は、キハE200というハイブリッド気動車だった。この気動車が小海線を走っていることはわかっていたが、本当に乗ることが出来るとは思っていなかっただけに嬉しかった。

 今回の研修には、全国から70人もの人が集まっていた。それぞれに各地で活動している積極的な人々で、研修時間中はもちろん、食事の時も、温泉に入っているときも、講師陣はもとより参加者同士も熱く語り合い、環境教育談義漬けの三日間だった。深い情報交換をし、非常に勉強になった。
 参加できてよかったと思うのだが、一点だけ違和感を感じたことがある。

 それは、放射能に関することや原子力発電やその事故について、一切話題にのぼらなかったことだ。なぜなのか、理由はわからない。だが、皆、この話題を避けているような雰囲気を感じた。
 あるいは思い過ごしかも知れない。環境教育はどうあるべきか、といったような話題が中心だから、原発の話題は対象外だったのかも知れない。
 しかし、「現場」も近く、間もなく一周年になる。日頃から「環境」のことを考え、それを教育していこうという人々の集まりで、将来のエネルギーをどう賄うかとか、環境に負荷をかけないエネルギーの生み出し方について、考察が行われないのは異常ではないか。 決して「その話題は避けましょう」というアナウンスがあったわけではない。であれば、皆、自分の意志で口をつぐんだのだろうか?皆がそろって自主規制をしたのだとしたら、多くの人々の意識は、もはやそういう段階に達しているということで、ひどく不気味だと思う。

 東京に着いてみると、TVで「各地の今日の空間放射線量」というのを放送していた。
過去のデータとの比較するために、原発事故以前の値も参考に提供されていたが、その言い表し方が「震災以前」というものだった。なぜ、「原発事故以前」と言わないのか?
 こういうところにも、暗黙のうちに人々が東京電力福島第一発電所の事故を忘れるように仕向けている強い意図を感じた。
 日本は、急速に「恐ろしい国」になっているようだ。

2012年3月5日月曜日

環境教育研修第2日目

キープ協会は、日本の自然環境保護と自然環境教育に関して、長い歴史を持っている。 日本のこのような施設の草分けと言って良いだろう。
 生憎の降雪に出会って、あまり周辺の森を歩くことは出来なかったが、その存在の気配は、十分に伝わってくる。
 気温や気候条件は知床と似ているところもあるが、その植生、そこに棲む動物たちなど生きものの気配がまるで違っている。
 言ってみれば異なる神の領域だ。

 そんな場で、環境教育についてじっくり学ぶ機会を持たせてもらったことを、心底からありがたいと思う。

2012年3月4日日曜日

山梨県清里にて

昨夜、甲府市に泊まり、今日は北杜市清里にきている。
 文科省と環境省主催の環境教育リーダー基礎講座に参加するためだ。

 中央本線の小淵沢で乗り換え、小海線に入る。キハ110というディーゼルカーはひたすら勾配を登り始めた。
 途中1000分の30パーミルつまり1000ミリ進んで30ミリ高くなるという坂道だ。
 徒歩や自動車で登るには、何でもないが鉄道にとっては急勾配に入る。

 そんな坂をひたすら登って、清里駅に着いた。清里駅からもう少し進むと日本の鉄道の最高点なのだそうだ。標高やく1400メートル。
 もう少しで1650メートルの羅臼岳山頂と同じ高さになる。
 
 清泉寮というキープ財団の宿泊施設に泊まっているが、周りは、アカマツ、カラマツ、ハンノキカエデの仲間などからなる針広混交林の森で、北海道に似ている。
 本州に来ているとは思えない雰囲気だ。
 しかし、ヤマネがいて、ノウサギは冬でも白くならないというし、カモシカもいる。日頃とは違った自然環境で、新鮮な体験ができそうだ。

2012年3月3日土曜日

東大話法


山梨県北杜市清里で、環境教育の講座があり、今夜は甲府市に滞在している。
鳥もつ煮、美味しかった。

 尊敬する友人が「東大話法」という本の存在を教えてくれた。
ウィキペディアで調べると、次のような記事が目に付いた。

規則1 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
規則2 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。
規則3 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
規則4 都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
規則5 どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
規則6 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
規則7 その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
規則8 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
規則9 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
規則10 スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
規則11 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
規則12 自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
規則13 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
規則14 羊頭狗肉。
規則15 わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
規則16 わけのわからない理屈を使って、相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
規則17 ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
規則18 ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
規則19 全体のバランスを常に考えて発言せよ。
規則20 「もし○○であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。             (以上引用)

 つい先日まで、ウィキペディアのこの記事に対する「削除要請」があり、激しい論争が繰り広げられていたが、どうやら削除されずに掲載が続けられるようになったらしい。
 こうなると「削除要請」がどんな分子(人々)から出されていたか、想像がつくというものだ。
 日本の教育政策は、朝鮮戦争勃発の頃から、徐々に変質し始め、一貫してごく少数のエリートと大多数の「何も知らなくて良い一般大衆」とに分極化する方向が強められてきた。
もちろんエリート側の頂点に東大がある。

 しかし、インターネットの普及など情報機器とその流通経路が、これほどまでに発達することは、1950年代には予測不可能だったのだろう。
 結局、東大話法への批判を封じることは出来なかったのだ。

 これは、「東大ムラの凋落」の第一歩であってほしい、と願う。

2012年3月2日金曜日

水温上昇顛末記

今日は、朝、9時から町内の校長会議あったので、いつもより早く家を出た。しかし、季節柄路面状態が悪ければ速度を落とさざるをえない。夏と同様に乾燥しているわが家から標津町までの間で時間を稼いでおこうと考えていつもより、やや速く走った。

 そのためだろうか。標津市街を抜けたあたりから水温計が徐々に上がり始め、ついに振り切った。
 そこで、古多糠で一旦停車し、しばらくの間アイドリングを続け、水温計が下降し始めるのを確認してエンジンを止めて、冷えるのを待った。

 5分ほど後、再始動。水温計が常温より少し高い所まで下がっていたので、ゆっくり走り出した。もちろん職場へは、遅参する旨の連絡はした。
 そろりそろりと薫別のトンネルを抜けた所まで走った。
 その時点で、水温計は再び上昇し、再び最高点に達していた。トンネルの先には長い上り坂がある。
 その前にもう一度冷やすことにした。バス停近くの空地に停め、しばらくアイドリングをしてからエンジンを切った。
 こうやってだましだまし走って、とにかく羅臼まで行こうと考えた。羅臼へ行き、冷却液を買って、補充しながら戻ればなんとかなるだろう。
 5分待ってからエンジンの再始動を試みた。しかし、今度はスタータ・モーターが回らない。
 え、どういうことだろ?
 ああ、ピストンが焼き付いたのかも知れない。最悪の事態だ。
 レッカー→エンジン載せ替えという最悪のシナリオが頭に浮かぶ。

 何度か始動を試みた。スタータはウンともスンとも言わない。
 ついに諦めJAFに連絡した。
 あ~あ、目の玉が飛び出るほどの出費かぁ。目の前が真っ暗になった。
 だが、起きてしまった現実は仕方がない。移動の費用は、JAFと任意保険の会社から支払われるらしいので一安心しだったが。

 救援を待って、小一時間。望み薄ながら、もう一度エンジン始動を試みることにした。
 すると、何事も無かったように、あっさりスタータが周り、エンジン回り出したではないか。先ほどの不具合は何だったのだろう?
 慌ててJAFに連絡し、救援を断ろうと思った。しかし、念のために整備工場へ運搬した方が良い、という冷静にアドバイスしてくれた。それももっともなことなので、考えを改め、そのまま待つことにした。
 やがて運搬車が到着し、いつも整備してもらっている工場へと運び込んだ。
 レッカーの距離、約60キロ。
 保険適用の範囲内であった。

車齢18年。40万キロメートル近く走っている。
 だが、吹雪や大雨の時、山奥に入る時には、これ以上ない頼もしい車だ。まだまだ走ってもらいたい。
 この冬は、少し酷使しすぎたかも知れない。
 ここで入念に整備してもらって、また元気に走ってもらいたいものだ。

2012年3月1日木曜日

流氷が連れてきた動物たち②・・トド  流氷百話 17/100



トドは流氷が来る前にやって来る。
 まるで、流氷に追われるように来る。
 オスは体重1000 kgを超し、メスでも300~400 kgあると言われる。上陸している映像を見ると、その肥満した体をもて余しているように感じるが、水中では、俊敏に泳ぎ、水圧のためかその体型も引き締まって見える。

 北海道に回遊してくるトドは、千島列島からカムチャツカ半島にかけて繁殖しているようだ。
知床国立公園羅臼ビジターセンターには、ダイナミックはポーズで海中を泳いでいる様子を再現したトドの剥製が展示されている。その個体は、羅臼の海で捕獲されたもので、体の側面にロシア文字の「Б(ベー)」という文字と数字の焼き印を押されている。これは、生態調査のためのもので、ブラッドチルポエフ島という千島列島中部の岩礁で標識されたと言うことだ。
トドにとっては、迷惑なことだろうが、そのお陰で移動の様子を探る貴重なデータが得られる。

 羅臼に回遊してくるトドは、ほとんどが妊娠しているメスなのだそうだ。お腹の子どものために、豊かな根室海峡を目指して、やって来るのだろう。しかし、漁業者にとっては、大量の魚を食べるこの海獣たちは、迷惑な存在だ。単に魚を食べるばかりではない。網の中の魚を食べる時は、網を破ってしまう。
 だから「トド撃ち」によって有害駆除の対象になっている。

 しかし、世界的に見て、トドは減少していて、環境省のレッドリストでも絶滅危惧Ⅱ類に分類されている。世界遺産登録地知床としては、トドの問題は、頭痛の種である。
 今は、有害駆除の頭数を制限して、トドと漁民の共存の道を探っている。

ロシアやアメリカでは、トドの繁殖地の周辺での漁業活動を厳しく規制して個体群の保護に努めている。漁業に依存する人の数や漁業が産業に占める重さ、食文化などさまざまな条件が異なるから一概に同様の対応をすればいい、というものではない。これから解決しなければならない課題のひとつだろう。

トドなどの海獣類の消化管には、おびただしい数のアニサキスという寄生虫が寄生している。寄生虫たちは、大量の卵を産み、卵は糞便に混じって海中に拡散する。小さな卵は、オキアミなどの甲殻類を経て魚に食べられ、魚の体内で第三期幼虫となる。
 その魚が再びトドに食べられれば、寄生虫の生活環は完結するわけだが、人間がその魚を食べると、幼虫は胃壁に食いついて激烈な痛みを引き起こす。これがアニサキス症だ。
 魚を加熱して食べれば全く問題ないが、生食するとこれに罹る時がある。当然、羅臼ではアニサキス症を経験した人は多い。ある時、高校生に訊いてみたら、アニサキス症の経験者が親戚の中に何人かいると答えた生徒が多かった。

 トドが減れば、アニサキス症も減るだろうか?
 いや、アニサキスはアザラシやイルカにも寄生するから、トドだけが減っても関係ないかな?

 海面に鰭(前足)や頭を出しながら、呑気にひなたぼっこをしているトドの群れを見ていると、そんなことはどうでもいい、という穏やかな気持ちになってくるから不思議だ。