2012年7月31日火曜日

静謐の羅臼湖まで

ついに羅臼湖へ行く日がきた。
 「今の僕には、ヒマラヤへ登るほどの覚悟だ」と冗談めかして周りの人と話していたが半分以上は本気なのだ。
 そして、無事に行くことができた。
 羅臼湖は、以前と変わらずにそこに横たわっていた。
 静謐な衣をまとっているのも変わらない。
 一段と透明に感じられる湖上の空気を通して、知西別岳も静かに座っていた。

 6月6日に二輪車運転中にエゾシカと衝突し、肋骨と鎖骨を痛めた。だが、実はその時に左足を中心に腰や股関節も強打していた。骨折こそ無かったが、この影響で事故の翌朝には立つことも出来ず、車椅子を使っていた。その後、立てるようになり、一歩ずつ足を運べるようになり、ゆっくり回復してきた。
 今日、7月31日、根室管内の新採用教員研修で、参加者を羅臼湖まで案内することは決まっていたから、なんとかそれに間に合うようにと回復に努めてきた。

 もう何十回も羅臼湖に通ったが、今日の羅臼湖は、特別なものだった。
 午前中は、晴天だったが午後から雲が多くなり、遠くで雷鳴も聞こえ始めた。そして、それが徐々に近づいてくる。
 そんな条件下での羅臼湖行きだった。
 だから、往路は少しゆっくりと植物観察などをしながら進んだが、帰路は迫り来る雷雲と競走するかのように最大の速度で下山した。
 羅臼湖の余韻にひたりつつ、のんびりと下山したかったのに残念なことだった。だが、入り口に帰着すると同時に、激しい雷雨となったので、結果としては的確な判断だったと思った。

 何よりも、再び僕を受け入れてくれた羅臼湖に心から感謝したい。



2012年7月30日月曜日

恐怖のシナリオ

ウォールストリートジャーナル日本版より 2012/07/30 10:44 より転載



エボラ出血熱で14人が死亡-ウガンダ

 【カンパラ(ウガンダ)】東アフリカのウガンダ中西部キバレ地区でエボラ出血熱が発生し、感染した20人のうち少なくとも14人が死亡していることが明らかになった。世界でエボラ出血熱の発生が確認されたのは2009年以降で初めて。

 エボラ出血熱は7月初めに発生したが、原因が致死率の高いエボラウイルスだと確認されたのは27日になってから。そのため、原因特定前に感染がかなり拡大している恐れもあり、現在世界保健機関(WHO)など国際的な保健当局者が対応に動いている。

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Getty Images

エボラウイルスの電子顕微鏡写真。色は合成処理

 ウガンダ政府、WHO、それに米疾病対策センター(CDC)の要員で構成される対策チームが27日、キバレ地区に派遣された。同地区は首都カンパラから西に約125マイル(200キロメートル)離れた、コンゴ民主共和国(旧ザイール)との国境に近い場所にある。

 ウガンダ保健省の広報担当者によると、同病は当初1家族から発生、感染が始まった。地元の人々は病気の原因がエボラウイルスなどではなく、悪霊に取りつかれたことにあると考えたため、患者らをキリスト教の礼拝施設に連れて行ったが、そこで2人が死亡したという。

 同担当者は「一部の犠牲者は、教会に通う人々を含む多くの人々と接触した」と話した。

 エボラ出血熱の感染の疑いが生じたため、患者のサンプルがウガンダ・ウイルス研究所と米CDCが最近設立し、維持している特別の研究所に送られた。この特別の研究所はエボラウイルスや中央アフリカで発生するその他の致死率の高いウイルス性出血熱の発生確認や調査を行っている。CDCのスティーブン・モンロー博士によると、この研究所が26日にこのサンプルを受けたのに続いて、他の3人のサンプルも受け取り、27日にエボラ出血熱であることを確認した。

 ウガンダ保健省によると、これまでに死亡が確認された人の中には、1家族の9人、最初の感染者の治療にあたった医療関係者のクレア・ムフムザさんとその娘(4カ月)が含まれている。

 ムフムザさんの看病をした姉妹も同病に感染した。現在高熱、下痢、嘔吐(おうと)の症状があるものの、容体は「かなり安定している」という。最初に感染した家族の一員(女性)の容体も安定しているが、同じような症状を示している。

 ウガンダ保健省によると、同病の発生が確認された地域ではパニックが生じ、多くの住民が自宅から逃げ出す事態が生じているという。

 キバレ地区は首都カンパラから遠く離れているが、ムフムザさんはカンパラの病院で治療を受けた。カンパラには少なくとも400万人が暮らしている。ウガンダとWHO当局者は、同病の感染がカンパラに到達しているかもしれないことが不安の種になっていると指摘する。保健省の広報担当者によると、ムフムザさんの治療にあたった医療関係者は、病気の原因が特定されていなかったため、治療時に感染予防策を講じていなかった。

 CDCのモンロー博士は、病気が「かなりへき地で発生したため、感染拡大の可能性は大きくない」と指摘した一方で、感染がカンパラにまで到達するかもしれない点については「常に懸念事項だ」と述べた。

 エボラ出血熱は中央アフリカ全域で発生する病気。ワクチンや治療法はなく、感染源もはっきりと特定されていないが、同博士によると、エボラウイルスの保有宿主がコウモリだという仮説は存在する。

 同病の発生が最初に報告されたのは1976年。発生が最初に確認されたコンゴ民主共和国の川から名付けられた。同病は発生がまれだが、致死率が非常に高い。最も致死率が高いウイルス株では感染した人のうち最大89%が死亡しているが、致死率はその発生時によってばらつきがある。

 今回の流行は、それほど致死率が高くないとされる「エボラ・スーダン」と呼ばれるウイルス株によるものと確認された。それでも、2000年と01年にウガンダで発生した過去最大規模の流行時には同株により、感染した425人のうち224人、つまり53%が死亡した。

 前回の流行は08年終わりから09年初めにかけてコンゴ民主共和国で発生し、32人が感染、15人が死亡した。昨年には、ウガンダで12歳の少女が同病で死亡したが、感染は拡大しなかった。

記者: Nicholas Bariyo、Betsy McKay


 今朝、この記事を読んで、ジワジワと怖さが広がってきた。
 このウイルスが、初めて確認されたのは、1976年6月で、スーダンのヌザラ (Nzara) という町の男性が急に39℃の高熱と頭や腹部に痛みを感じて入院、その後消化器や鼻から激しく出血して死亡した。
 その後、その男性の近くにいた2人も発症、それ続いて血液や医療器具を通して感染が広がった。
 最終的にヌザラは、感染者数284人、死亡者数151人というものだった。
 エボラウイルスは、約5種類の株があると言われている。もともとサルを終宿主とするウイルスだが、感染力が強く、飛沫感染もありうるとされている。それまで人跡未踏のジャングルの奥深くで、ひっそりと生きてきたこのウイルスが、乱開発によって「人間世界」に引っ張り出されて、ヒトに牙をむいた。
 言わば、傲慢な破壊的開発行為を止めようとしない人類への、地球からの警告である、と言う人もいる。

 折りしもオリンピック開催の最中だ。航空機がこれほど発達した中で、強毒性の伝染病が大流行を始める、というシナリオを想像するとゾッとする。

2012年7月29日日曜日

大先輩の思い出・・・・勝負に固執する態度を見ていて

生きるとは何か
 答は簡単には見つからない
 だが、一つだけ確かに言えることがある
 長く生きているほど出会いと別れが溜まっていくということだ


 僕が最初に赴任した学校は、オホーツク海に近い小さな小中併置校だった。
 三浦敬一先生(故人)は、そこの小学校の先生だった。
予科練帰りの人で、何も言わずに鋭い眼で睨まれると誰もがすくみ上がるような迫力のある先生だったが、子どもたちにも若い新米の教師たちにも優しく穏やかに接する人だった。自分より弱い立場の者に荒い言葉をかけている所は見たことがない。
 美術が専門で、子どもの感覚を熟知した上で行われる指導は見事なものだった。

 僕も含めて、教師になって一年か二年目の生意気盛りの者が数名いて、集まって色々な話をしたものだった。
 たまに、その集まりに三浦先生も来られることがあった。
 それは、運動会の時期だったと思う。
 「この地域の保護者は、勝ち負けにこだわりすぎる。どうしてもっと教育的な長い目で 子どもを見てやれないのだろう。だいたい子どもの名前にも『勝治』とか『勝一』とか 『勝』という字を好んで使う傾向がある。勝つことを目指して努力することは大切だが、 結果にこだわりすぎるのは、問題だと思う。」ひとりがこう息巻いた。
 その場にいた若い教員は、みなうなずいた。
 その時、三浦先生がボソリとつぶやくように言った。
 「ま、それだけ素朴ななんだよ」
 そこにいた全員をハッとさせる一言だった。

 どこを向いても話題がオリンピック一色に塗りつぶされている。
 見応えのある競技や試合もたくさんあるだろう。
 だが、勝つことばかりにこだわったり、メダルの個数を比較したりするだけの見方では、オリンピックの本当の意味は見えてこないかも知れない。
 こちらの方は、そろそろ「素朴さ」から脱してはどうだろう。

2012年7月28日土曜日

知床の戦後開拓についてもっと論じなければならない

「活字中毒」というのだろうか。  手元に読むものがないと落ち着かない。  本を伏せてだらしなく寝ていることも多いのだが、とにかく手元に本が欲しい。  病院に行くとき、乗り物に乗るとき、一人で外食するとき、本を手放せない。  待ち時間に読むのだから、そんなに小難しい本ではない。ごく通俗的な本だ。  昨日は、中標津空港から出発した。朝、9時30分出発の便だった。  ちょっと慌ただしく家を出て、空港に着いたのは8時40分頃だった。搭乗手続きを済ませ、待合室に入ろうとしたとき、気がついた。  「本を持っていない」ちょっとしたパニックだった。  中標津町内の書店に戻り、何か買ってこようかと、一瞬だけ真剣に考えた。もちろん一瞬後には自分の中で否定してたが。  空港内の売店をのぞいた。  北海道の観光案内のための本ばかりが並んでいて、さすがに買おうとは思わなかった。代わりに新聞を買ってもいいからネ。だが、搭乗までの待ち時間、飛行中の機内、千歳空港で降りてから札幌までの移動時間、出発後の時間の量を考えると新聞は読み尽くしてしまいそうに思った。  そんなことを考えながら、本の並べられた棚を眺めていると、一冊の本が目に飛び込んできた。菊池慶一さんの「もうひとつの知床」戦後開拓ものがたり という本だ。  この本は、以前、どこかで見つけて読んでみたいと思っていたのだ。  迷わずに買い求めた。そして、昨日から今日にかけて、一気に読んだ。  「知床開拓」は、羅臼高校の「知床概論」でも取り上げているからある程度は知っていた。  大正期の開拓、戦前、戦後と主に三つの波があり、大正時代の開拓は、飛蝗による害で壊滅的な被害を受けて頓挫、第二次の開拓も冷涼な気候、強風、生活上の困難性などが原因で、結局は失敗、戦後の開拓者は、機械力や畜力によって、粘り強く条件の悪い土地を農地とするべく努力したが、結局は全員離農せざるを得なくなった。  開拓農民は過酷な条件で悲惨な生活を強いられたという一般的な知識は持ち合わせていたが、菊池さんの本は、多くの開拓農民から話を聞き、その人々の体験に基づいて書かれていて、事実の重みが感じられた。  一方、「知床開拓スピリット」という写真を中心にした本がある。著者は栂嶺レイさんという女性だが、こちらは、主に戦後開拓に焦点を絞って、開拓地の生活の明るい部分や楽しい思い出に光を当てたものである。  ある意味でこれら二冊の本は、対照的で内容は矛盾しているように受け取れるが、僕はどちらも真実なのだろうと考える。  人は、どんなに過酷な運命にあっても、生きていく楽しみや希望を捨てないと思うし、また、それら個々の思いとはかけ離れたところで、政治的な思惑や駆け引きによって、無情な力が個人に対して働くものだと思うから。  いずれにしても、「知床の大自然」を語るときに、そこで繰り広げられてきた人間の営みについて、我々は正しく理解し、「自然環境」が自然と人間との相互作用の結果としてそこにある、ということ理解しなければならない。

知床の戦後開拓についてもっと論じなければならない

「活字中毒」というのだろうか。  手元に読むものがないと落ち着かない。  本を伏せてだらしなく寝ていることも多いのだが、とにかく手元に本が欲しい。  病院に行くとき、乗り物に乗るとき、一人で外食するとき、本を手放せない。  待ち時間に読むのだから、そんなに小難しい本ではない。ごく通俗的な本だ。  昨日は、中標津空港から出発した。朝、9時30分出発の便だった。  ちょっと慌ただしく家を出て、空港に着いたのは8時40分頃だった。搭乗手続きを済ませ、待合室に入ろうとしたとき、気がついた。  「本を持っていない」ちょっとしたパニックだった。  中標津町内の書店に戻り、何か買ってこようかと、一瞬だけ真剣に考えた。もちろん一瞬後には自分の中で否定してたが。  空港内の売店をのぞいた。  北海道の観光案内のための本ばかりが並んでいて、さすがに買おうとは思わなかった。代わりに新聞を買ってもいいからネ。だが、搭乗までの待ち時間、飛行中の機内、千歳空港で降りてから札幌までの移動時間、出発後の時間の量を考えると新聞は読み尽くしてしまいそうに思った。  そんなことを考えながら、本の並べられた棚を眺めていると、一冊の本が目に飛び込んできた。菊池慶一さんの「もうひとつの知床」戦後開拓ものがたり という本だ。  この本は、以前、どこかで見つけて読んでみたいと思っていたのだ。  迷わずに買い求めた。そして、昨日から今日にかけて、一気に読んだ。  「知床開拓」は、羅臼高校の「知床概論」でも取り上げているからある程度は知っていた。  大正期の開拓、戦前、戦後と主に三つの波があり、大正時代の開拓は、飛蝗による害で壊滅的な被害を受けて頓挫、第二次の開拓も冷涼な気候、強風、生活上の困難性などが原因で、結局は失敗、戦後の開拓者は、機械力や畜力によって、粘り強く条件の悪い土地を農地とするべく努力したが、結局は全員離農せざるを得なくなった。  開拓農民は過酷な条件で悲惨な生活を強いられたという一般的な知識は持ち合わせていたが、菊池さんの本は、多くの開拓農民から話を聞き、その人々の体験に基づいて書かれていて、事実の重みが感じられた。  一方、「知床開拓スピリット」という写真を中心にした本がある。著者は栂嶺レイさんという女性だが、こちらは、主に戦後開拓に焦点を絞って、開拓地の生活の明るい部分や楽しい思い出に光を当てたものである。  ある意味でこれら二冊の本は、対照的で内容は矛盾しているように受け取れるが、僕はどちらも真実なのだろうと考える。  人は、どんなに過酷な運命にあっても、生きていく楽しみや希望を捨てないと思うし、また、それら個々の思いとはかけ離れたところで、政治的な思惑や駆け引きによって、無情な力が個人に対して働くものだと思うから。  いずれにしても、「知床の大自然」を語るときに、そこで繰り広げられてきた人間の営みについて、我々は正しく理解し、「自然環境」が自然と人間との相互作用の結果としてそこにある、ということ理解しなければならない。

2012年7月27日金曜日

久々の札幌

合同教育研究集会の司会者、共同研究者打ち合わせで札幌に出てきた。  バイクの事故以来、初めての遠出。札幌市内を歩き回るには、以外に長距離の歩行が必要になる。階段の上り下りも多い。  やや不安があったけれど、どうにか無事に思うとおりの行動ができた。  小樽まで行き、「藪半」で冷や酒を1合呑み、蕎麦を食べて帰ってきた。  父のマンションに戻ってから、いつもより少し丁寧に仏壇を拝み、今回の事故が軽い怪我で済んだことを感謝した。  改めてありがたさが身にしみた。

2012年7月26日木曜日

タイムワープ! 別海町の奉安殿

「ホーアンデン」と聞いて、その漢字と実物がすぐに思い浮かぶ人は何パーセントくらいになったろう?
 年齢で言えば70歳より上の人たちだろうか。

 戦前、軍国主義日本だった頃、天皇は神様であり、その言葉(詔勅)は神様の言葉だった。これを学校教育に徹底的に浸透させるため、日本全国津々浦々の学校に天皇の写真と教育勅語を配った。写真は御真影(ごしんえい)と呼ばれた。
 そして、教育勅語や御真影を安置する建物が奉安殿(ほうあんでん)なのだ。

 今日、別海町柏野の学校跡地に残っている奉安殿の現地調査に同行することができた。
 奉安殿は、校門を入って校舎のあった場所まで真っ直ぐに続く道の左手奥50メートルくらい離れた所に建っていた。
 万一、学校から火事が出た場合、類焼を避けるために校舎から離して建てられたのだそうだ。
 軍国主義の最盛期には、児童生徒は、50メートルも離れた奉安殿の前を通る時にも、立ち止まって最敬礼をしなければならなかったのだそうだ。一緒に調査に来られていた文化財保護審議委員会のW会長も最敬礼を忘れて殴られたことがある、と思い出を話して下さった。

 全国の奉安殿が敗戦後、ほとんど取り壊されたが、ここ柏野では集落の神社として転用したことによって、それを免れてきたらしい。
 それゆえ、貴重な建造物として後世に永く残すべき建物の候補に上がっている。
 軍国主義を懐かしみ、その復活を願う人々も、反対にそれを忌み嫌い二度と復活させてはならないと考える人々も、このような建物が建てられ機能してた事実を残しておくことには異存ないだろう。
 コンクリートで厚く覆われて、一見したところ弾薬庫のように頑丈そうな奉安殿だが、内壁と外壁の間には何も入っておらず、コンクリートも薄く塗られているに過ぎない。
 扉も厚い鉄のように見えるが、木に薄い鉄板を張っただけだ。
 昭和12年に建てられたとのことだから、まだ、それほど物資の不足してた時期ではないだろう。
 このコンクリートの張りぼてのような虚仮威しが、内実の伴わぬ見せかけの権威で国民を服従させようとした、戦前の天皇制そのものを反映しているようにも感じられた。
 それはともかく、今日は、貴重な歴史的な資料に直接接することが出来た有意義な一日だった。

2012年7月25日水曜日

「ミナマタとフクシマ」・・・悪魔の相似形

NHK午後7時のニュースに続いて、水俣病の未認定患者の認定申請が今月で締め切られる問題を取り上げた「クローズアップ現代」をつい観てしまった。
 石牟礼道子さんの話に心が動いた。
 水俣病は、僕が高校生くらいの時から「公害病」として全国に知られるようになったが、現在に至るまで、多くの問題を引きずっている。
 そして、ここにみられる構図は、福島原発事故の放射線被曝による被害と瓜二つと言ってよい。おそらく、この先5年、10年後、原発事故に起因する同様の「公害病」が問題になってくるだろう。そして、その解決は、遙かに気の遠くなるような先になる。いや、本当の意味での解決は、やって来ないかも知れない。
 そんなことを暗示する番組内容だった。
 もちろん、そんなことではいけないのだが。

 そうであってはならない、と考えつつ、なぜそのように予感するのか。
 もちろん、それは、石牟礼さんも指摘していた通り、今の日本の政府が、国民の幸福について全く無関心だからである。
 経済成長を最優先させ、その利権に群がる政・官・財・一部の学者によって、ガッチリ固められた利益共同体が、あらゆる怨嗟の声を蹴散らすという構造が、少しも変わっていないからである。
「 東京に行ってみたけれど、そこに日本は無かった」という患者の言葉が鋭く突き刺さった。


 さて、いよいよ火曜日は羅臼湖までのトレッキングガイドだ。
 今の僕にとっては、ヒマラヤに挑戦するような緊張感を覚える。たった2キロ程度の道のりなのだが、羅臼湖がこれほど遠くに感じたことは、今までなかった。
 怪我からの回復の程度を測る指標として、全力を尽くしてみようと思う。
 もちろん無理は、しないつもりだが。
今日は、自作に「羅臼湖トレッキングガイド」に少し手を加え、第三版として印刷した。


羅臼湖トレッキングガイド
 羅臼湖について
羅臼湖は、知床連山にある湖で、湖と知床峠頂上との間にある天頂山の噴火に伴う溶岩によってせき止められてできた湖だと言われている。
 勝井ほか(1985)によると,羅臼湖は最大長約1.3km,最大幅約0.7kmの南北方向に細長い湖で,その標高は750mである。
 湖の西岸は知西別岳(1317),北岸は天頂山(1046)の南斜面に位置している.東岸は天頂山火山溶岩流動面の台地で,一の沼から五の沼まで5つの沼が点在しており,沼周辺及び三の沼と四の沼の間の平坦地,通称「アヤメ原」に湿原が発達している。
 湖の北東岸は遠浅で低層湿原になっているが、その北部は湖面より比高1mの平坦な段丘で,一帯にはミズゴケ湿原が発達している。
 この湿原の泥炭層の厚さは134cmで,その下層は火山灰質シルト,基底には溶岩が堆積している.
 泥炭層には3層の火山灰が挟在し,深度68~72cmの第3層の14C年代値は1070±35B.P.である.この年代値と泥炭の堆積速度から湿原の発達開始は約2500~3000年前と推定されている.
(引用;橘ヒサ子2006 知床半島羅臼湖周辺湿原の植生
              北海道大学大雪山自然教育研究施設研究報告 第40号)

 コース基本データ    道のり 2.6km
              高低差 78m
            最高点標高 754m(四の沼)
            最低点標高 676m(入り口)

 行程の概要
 入り口 ←(270m)→ 一の沼 ←(180m)→ 二の沼 ←(180m)→ 三の沼 ←(520m)→ 湿原 ←(505m)→ 四の沼 ←(545m)→  五の沼 ←(420m)→ 羅臼湖

コース解説
A. 入り口~一の沼
 知床横断道路から入り口を入るとダケカンバやナナカマドの林が続きます。ナナカマドにはナナカマドとウラジロナナカマドがあります。七月花を咲かせるミネザクラもあります。このあたりの斜面は南東に向いています。冬に北西の季節風が吹くと風下にあたり、吹きだまりができやすく積雪は5~6mにもなります。そのためこのあたりのダケカンバは積雪に押しつぶされ地上をのたうつように成長しています。
 コースはやや登りになります。高度が上がると樹木は次第にハイマツに移り変わっていきます。ハイマツの根元にはクロウスゴ、ゴゼンタチバナ、ミミコウモリなどが見られます。

B. 一の沼~二の沼
 一の沼周辺は中間湿原でスゲの仲間を多く、ヒオウギアヤメ、コガネギクなども見ることができます。ハイマツやダケカンバに囲まれてウコンウツギなどの低木もあります。
 二の沼へ向かう道は、あちらこちらに岩がゴロゴロとしている上をハイマツが覆っていてトンネルになっています。ハイマツの下には、コケモモ、イワツツジ、オオバスノキ、イソツツジ、ハナヒリノキなどツツジ科の植物やアカミノイヌツゲなどの低木が目立ちます。さらに、ゴゼンタチバナ、コミヤマカタバミ、ツマトリソウ、ツルリンドウなども観察できます。
 この間のもっとも高い場所は標高710m~720mのピークで、羅臼岳、知西別岳が美しく見えます。ピークを過ぎると道は二の沼に向かって急な下り坂になります。雨や霧の日には転倒に注意しましょう。

C.二の沼
 二の沼は木道のすぐ近くで雪田植生群落を見ることができます。雪田とは遅くまで融けずに雪が残っている場所のことです。独特の植物が見られます。二の沼の雪田群落ではチングルマ、エゾコザクラ、ミツバオウレン、ワタスゲなどが見られます。より近づいて観察したり写真を写したりしたいことでしょうが、木道から降りないように注意しましょう。

D. 二の沼~三の沼
 二の沼を過ぎると急な上り坂になりますが、それほど長い上りではありません。ただ、水が流れ下る道と歩く道が同じで、歩道が深くえぐられています。滑りやすく歩きにくいので急がずゆっくり進みましょう。道の両側はクマイザサの群落になっています。

E. 三の沼
 二の沼からの上り坂を登り切ると間もなく三の沼です。
 三の沼には、一の沼や二の沼ではなかったミズゴケがあります。一年中水量が安定していることがその原因です。ミズゴケが枯死してできたブルテと呼ばれる小さな島のような小丘の上にモウセンゴケ、ヒメシャクナゲ、ツルコケモモなど高層湿原特有の植物が生息しています。
 三の沼にはトンボが多く、八月後半になるとオツネントンボ、カオジロトンボ、ルリイトトンボ、ルリボシヤンマなどが飛び交っています。
 
F. 三の沼~湿原
 三の沼を過ぎるとしばらくササ原の中の平坦なコースになります。さらに進むと道が少しずつぬかるんできます。ゆるい沢の右岸に沿った緩やかな上りになってきます。右手に大きな岩がゴロゴロした沢が見えます。この辺りは「涸れ沢」と呼ばれていて大きな雪渓ができる場所です。そのためあちこちに高山植物の群落が見られます。歩道のすぐそばにも高山植物が多く、歩道をはずれて歩かないように注意しましょう。

 涸れ沢の緩い上りの突き当たりが湿原です。ここは乾燥が進みつつある湿原ですが、コース中最大の湿原です。初夏にはヒオウギアヤメの花が美しく咲きます。木道上を進みますが湿原の植物をよく観察してみましょう。湿った土の上にエゾシカやヒグマの足跡が残されていることもよくあります。

G. 湿原~四の沼
 湿原を過ぎ、しばらくササ原を進むと急な上り坂が現れます。コース中最大の上り坂で、720mから755mへ登ります。坂は二つに分かれていて、途中で一休みするかのような鞍部があります。ほんの短い区間ですが頭上を覆う樹木もあって、「森」を感じさせてくれます。「一瞬の森」でしょうか。
 後半の上りを登り切るとコース中の最高点を通って、すぐに四の沼に出ます。

H. 四の沼
 四の沼は小さな沼ですが水位が安定してます。また、三の沼では見られなかったヨシが生えています。小さな川が流れ込んでいるためでしょうか。ミズゴケもあり浮島状のブルテにはスゲの仲間が多く見られます。
 四の沼は中間湿原に分類されています。

I. 四の沼~五の沼
四の沼から五の沼にかけては、再びササ原の中を進みます。この辺りの道は雨でえぐられており深い水たまりも多くあります。しかし、道を外れて歩くと植生を痛めてしまいます。長靴を履いて、水たまりの中を堂々と歩くのが格好いいと思います。
 ササ原の中の所々にエゾオヤマノリンドウ、コガネギク、ハイオトギリなどが見られます。

J. 五の沼
五の沼は羅臼湖までの途中にある沼の中で最大の大きさです。ミズゴケが多く所々にブルテが発達しています。ブルテの上にはモウセンゴケ、ツルコケモモが多く見られます。また、よくヨシガモやキンクロハジロなどの水鳥も来ています。
 道は、五の沼の岸に沿ってダケカンバの林の中を進みます。足下に注意するのは当然ですが、頭上に横に張り出しているダケカンバの太い枝に頭をぶつけないように注意する必要もあります。

K. 五の沼~羅臼湖
 道が五の沼から離れるとき、ちょっと振り返ってみましょう。眼前に広がる水面の広さに五の沼の大きさをあらためて感じられることでしょう。
 道は緩い下りにかかり、下りきった所からササ原が広がります。木の間に羅臼湖の水面が見え始めます。この辺りのハイマツの生え方に注意してみましょう。皆、同じ方向(南東)に伸びています。このことから、冬期間のこの辺りの風の強さをうかがい知ることができます。

L. 羅臼湖
 やがて、羅臼湖へ向かう木道に到着します。湿原上を一直線に羅臼湖に向かいます。周りはスゲの仲間、チングルマ、ツルコケモモ、ウメバチソウ、ミツバオウレン、チシマワレモコウなどの花が咲く湿原です。ホソバキソチドリも見ることがあります。
 羅臼湖周辺の湿原は何万年もかかって形成された、一度壊されるとなかなか復元できない環境です。木道から降りないように注意しましょう。

2012年7月24日火曜日

ウルグアイ大統領のスピーチ

今朝、ひとつの演説に出会った。
 友人がFacebookで紹介していたのだが、リオデジャネイロで開かれた「国連持続可能な開発会議(Rio+20)における、ウルグアイのムヒカ大統領の演説だ。

この会議は、6月20日~22日までの3日間,リオデジャネイロ(ブラジル)において開催されたもので、この演説はその最後に行われたものだったらしい。地球環境に関わる大事な話し合いの場であったにもかかわらず、各国の代表は、自分の演説を終えるとさっさと会場から姿を消していったという。その演説も当たり障りの無いものがばかりだったそうだ。
そのような中で、ウルグアイのこの大統領は、自分の考えていることをストレートにぶつけてきた。この演説の内容を、僕たちは噛みしめなければならない。

 この演説に接して、このような大統領に率いられる「貧しい」国、ウルグアイをすごく羨ましく思った。

 日本のマスコミでも紹介されていないこの演説は、スペイン語で行われた。
 打村明さんという方が翻訳し、ご自分のブログで紹介されている。彼のブログ掲載の趣旨に賛同する立場で、丸ごと掲載させて頂くことにした。
なお、演説そのものはYou Tubeで観ることができる。

以下転載

ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ: (訳:打村明)

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会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。

しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?
質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?

マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。
私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?

このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売っては行けない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

昔の賢明な方々、エピクレオ、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています
「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。

国の代表者としてリオ会議の決議や会合をそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。
根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、1300万頭の世界でもっとも美味しい牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

働き者の我が国民は一生懸命8時間働きます。最近では6時間働く人が増えています。しかし6時間労働の人は、その後もう一つの仕事をします。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福の対抗にあってはいけないのです。発展というものは人類の本当の幸福を目指さなければならないのです。愛、人間関係、子供へのケア、友達を持つこと、必要最低限のものを持つこと。
幸福が私たちのもっとも大切な「もの」だからなのです。環境のために戦うのであれば、幸福が人類の一番大事な原料だということを忘れてはいけません。

ありがとうございました。

2012年7月23日月曜日

オスプレイの悲劇

「陸揚げは待ってくれ」と岩国市。(市長)
「安全性が確認されるまで国内での飛行はさせない」と無表情に繰り返す政府。
 基地の置かれている土地の先住民である岩国市民の声をまったく無視して淡々と作業を進めるアメリカ。

 オスプレイ国内持ち込みについて、この三者が全く噛み合わぬまま、事実だけが着着と積み上げられている。
 東京にある「政府」がどこの国の政府なのかとか、アメリカという国は、他国の人権弾圧に対して、厳しい態度をとってきた「民主主義の国=正義の味方」ではないのか、などという疑問は、発しないでおこう。バカバカしいから。
この際、初歩的で素朴な疑問に絞ってみたい。
 「安全性を確認する」とは、どのような作業なのだろう。過去の墜落事故について、事故調査委員会を作り、機体の構造や動作の機構、コンピュータのプログラムなどについて全てを把握し、墜落時にどのような操作が行われたか、その時の気象条件はどうだったか、までを「確認」するのだろうか。
 よもや、アメリカ側が紙に印刷した「事故報告書」のようなものをパラパラと読んで、「確認した」と言うのではないだろうな。

 しかし、それにしても、日本側に「事故調査委員会」が作られたということは聞かない。そして、今後の配備のスケジュールだけが発表されいるのは、どういう訳だろう。
 沖縄本島北部には、オスプレイを受け入れることを前提にしているらしい、ヘリポートの建設も強引に進められている。

 昨年の原発事故による放射能漏れで「直ちに健康に影響はない」と言い続けた政府。原子炉の事故は「想定外の津波が原因だった」と強弁する東電。
 その場の責任追及から逃れるために、言葉を弄ぶ醜い姿がまた続いている。

 言葉巧みに不安を煽って、現金をせしめる振り込め詐欺の国は、こうして誕生したのかも知れない。

 誰でもが予言できる。
 8月中旬、「オスプレイの事故は、人為的な操作ミスや想定外の追い風による揚力喪失が原因であり、機体そのものには欠陥は認められない」という「報告」が届き、日本政府はそれに「理解」を示す。
 そうやって、オスプレイの飛行訓練が各地で始まる。
 最初、反対の声は大きいが次第に小さくなっていく。

 秋には、一機、また一機とあの進化し損なったゴキブリのような姿が沖縄の上空に現れる。
 その間、マスコミはオリンピックのお祭り騒ぎに浮かれるよう国民の関心を手引きする。
 そして、オスプレイの存在が日常的になってきたある日、墜落事故による悲劇が起きるのだ。その日は、来年かも知れないし5~6年先かも知れない。   

そんなシナリオに行かせないために、今、もっと頑張らなければならない。

2012年7月22日日曜日

昼下がりのありふれた地震から

午後1時42分ごろ、地震があった。震央は十勝地方南部。震源の深さは50キロ。マグニチュード5.1の規模で、十勝管内浦幌町で震度4を記録した。
 イスに座っていたら、始めに携帯電話の緊急速報が鳴り、続いて微動が起きた。震度1程度だった。その数十秒後、大きな(と言っても震度2~3程度だが)揺れがやや長めに続いた。典型的なP波とS波に分かれて到達した地震波だった。
 昨日、そこそこのエネルギーを使って、本棚の本を整理したので、「そろそそ大きな地震が来るかな」と心配していたが、それほどの規模にはならなかったので、一安心。
それでも、全国のあちらこちらで、中規模の地震がひっきりなしに起きているので、いつ、何があってもおかしくない。
 心構えだけは、しっかり持っておきたい。

 おそらく、日本列島で暮らす人の大部分は、今、同じように感じているだろう。まったく頓着していないのは、財界と政府、日本政府だけだ。この状況を考えたら原発の再稼働など危険すぎて出来るはずがない。
 
ネコが通りすぎのを待って、コソコソと動き始めるネズミのように卑怯で姑息で愚かな政治家たちである。

2012年7月21日土曜日

ウソツキを生産するシステム

福島第一原発での作業員の被曝線量偽装工作について、今日、一斉に報道された。当事者である東電の下請け会社に批判が集中するのは当然だろう。
 その行為は、未必の故意による殺人未遂だとさえ思われる。

 だが、一方で、このニュースに接した時、「やっぱりな」とも感じた。このような行為は、ずっと以前からどこかで行われていたのではないか、という疑いを否定しきれない。

 たとえば普段、道路を走っている車の何パーセントが制限速度や法定速度を守っているだろう。そして速度違反取り締まりが行われている区間だけ、皆が厳格に法を守って運転する。
 海の上でも制限されている漁獲量を超えた違法な操業がしばしば摘発されている。
 大相撲の新弟子検査やボクシングの計量でも、「検査の瞬間」に合わせて増量や減量をする話はよく聞く。

 いつの間にか、われわれは、規制の趣旨や目的を忘れ、目の前にある「検査の瞬間」さえ通り過ぎれば良い、という発想に取り憑かれるのではないだろうか。検査をパスすることが最大の目的になってしまうということだ。

 人間は、そのような誤りを犯しやすい。まして会社の儲けや作業員の収入が左右されるとなると、なんとか誤魔化して他者より余計に稼ぎたいという誘惑に駆られるのだろう。 だから、原発は、このような偽装や欺瞞を生み出すシステムでもある。

 今回の問題で、当事者の会社や役員を責めるだけでは不十分だろう。また、被曝線量の測定方法を工夫するなどの小細工では解決しないと思う。
 この犯罪を生み出した構造や原発というシステムそのものを見直さなければ、どうにもならない。

2012年7月20日金曜日

内部被曝のことを考えていた

昨日に続き、オホーツク海の高気圧が吐く息で、春先のような寒さになった。今朝の気温は13℃だった。

 原発事故について、今後のエネルギーのあり方をどうするか、ということに関心が集まり、盛んに論議されている。再稼働反対や脱原発を訴えるデモや集会も盛んだ。
 それは、大事なことに違いない。

 その一方、見落とされがちだが、内部被曝(低線量被曝)がどれほどの危険性をはらむか、という議論も行われている。
 この問題は、事故直後、枝野官房長官(当時)が繰り返し強調していた通り、「直ちに影響のでる」問題ではないので、論じること自体に、ある種の難しさを伴っているようだ。
 人の身体の中は、たくさんの物質が多様な化学反応を連鎖させながら、一時も止まることなく動き続けている壮大な化学反応系だ。そこは、海の中や森の中と同じような物質が絶えず流れている生態系と同じようなものだと考えて良いだろう。
 気象現象や地殻の運動と同じような複雑系である。
そのような中で放射性物質がどのように振る舞い、どんな影響を与えるか、未知の部分も大きい。未知の部分を探るために、過去の経験を統計的に処理した疫学的な手法を用いるのが常だが、放射線の影響について、人類が蓄積している経験はあまりに少ない。
 だが、過去の多くの公害による疾病では、常にこのような方法による予測を超えて、様々な障害や疾病が顕れているという。
 そのため、低線量被曝への評価は、十分に悲観的に行うべきではないだろうか。

 こう考えてくると、現在、日本の政府や学界の大部分は、福島で起きている事態について、あまりにも楽観的過ぎるように思う。
 あの原発事故を契機に、被曝医療に携わる専門家を大量に養成したり、放射性物質を分析する施設を郵便局くらいの密度で配置したり、とにかく日本の国の有りようを根本から変えて、「原発事故を起こしたけれど、国民の命と健康は、これ以上危険に曝さない」という意志が感じられるようにしなければならないだろう。
 上辺だけ「絆」を叫んでも「食べて応援」と言いながら自分や家族には、安全なものを選り分けて食べさせていたりするような態度では、国は決して良くならないだろう。
 まして、再稼働などもってのほかである。

2012年7月19日木曜日

インドのニュースで考えた

オホーツク海に冷たい高気圧が張り出し、北寄りの冷風が強く吹いた。
 羅臼側は、それでも山越えの風になったのでフェーン現象によって、それほど冷え込まなかったけれど、ウトロ側はかなり寒い一日だったらしい。
 いつもの7月とは逆の現象が見られた日だ。

 昼過ぎ、ニュースをチェックしていると、インドのスズキ自動車の子会社の工場で労働者の暴動が起きて、インド人一人が死亡、日本人社員二人も負傷したという記事が気になった。
 先ほど、詳しい続報を読んでみた。

 以下、産経ニュースのweb版より一部引用:
 スズキのインド子会社、マルチ・スズキで18日に発生した従業員による暴動は、生産体制の急拡大を図る企業側と、低賃金で採用される短期契約社員たちとの摩擦が背景にあるようだ。
        (中略)
 現地の関係者の話を総合すると、スズキは約3000人の社員のうち半数以上が短期の契約社員という。契約社員の給与はハリヤナ州の最低賃金を上回るものの、福利厚生では正規社員には及ばない。契約社員には他州出身者のほか低カースト出身者が少なくない。

 インフレの進行で食料品や燃料費は高騰し、契約社員の生活は「働けど苦しくなる状態だ」(現地のエコノミスト)という。急成長する大企業で、収入が増える正規社員との格差を目の当たりにする契約社員には賃金面での不満が高まっていたようだ。
(中略)
 急成長するインドの自動車産業では、韓国の現代自動車や外資系タイヤメーカーなどでも、組合設立の要求をめぐる労使対立がたびたび問題化している。半面、これはインドに限った問題ではない。中国では賃上げや待遇改善を求めるストやデモが頻発し、バングラデシュでも同様の動きが相次いでいる。(引用終わり)

 契約社員=非正規労働者を雇い、人件費を低く抑える。行き着く所は、人間の尊厳を無視し労働者を物のように使い捨てにするのが当たり前という、人間性のカケラもない労務管理だ。
 非正規労働者にしかなれない者は、努力や根性が足りないからだという、新自由主義者お得意の論理がまかり通っている。
 そのような現状に、人々の怒りが爆発したのだろう。
 非人間的に扱われて憤る、その感性の方がまともであるような気がする。

 休みもろくに取れず、正社員と同じ仕事をしながら低賃金で抑えられ、福利厚生、各種保険も不備な状態で働かされながら、何もモノを言えなくされている、多数の非正規労働者たちの一人でも多くに、インドの怒りが伝わってほしいと思った。

 いつから日本人は、自分の不利益に声を上げることが出来なくなったのだろう。
自分の不利益には声を上げ、要求はキチンと表明する社会にしていかなければならない。

 原子力発電をめぐる最近の動きは、その萌芽であるとは、思うのだが。

2012年7月18日水曜日

幌延直下で地震頻発

一瞬の夏が過ぎてゆく。
 根釧原野では、夏とは春の後ろ姿に他ならない。
 
 朝、エゾニウの花にカミキリムシが来ていた。
 そして、ホザキシモツケも咲き始めた。

 このところ、北海道の宗谷地方南部と上川地方北部で地震が頻発している。
 15日の夜半頃から始まり、M4クラス、最大震度4の地震が4回起きている。
 この震源域は、核廃棄物貯蔵施設が作られようとしている幌延町の真下だ。

 この地域では、今まで大きな地震がなく、「比較的安定した地盤」とされていた。そのために貯蔵施設の建設が検討され、強い反対の声に押されて、「高レベル放射性廃棄物貯蔵」という冠を隠して、「深地層研究計画地下研究施設」という名称で作られている。いくら名称を誤魔化しても、その事業者は日本原子力研究開発機構なのだ。
なんと姑息なことだろう。なるべく国民に知らせないようにコトを進めようとする原子力行政の体質がここにも、にじみ出ている。
 ちなみに事業費は、第二期の整備費用だけで23,556,653,113円(税込)工期は平成30年度までである。
 今回の地震は、この足元で起きた。
 安定だと思われていた場所で地震が頻発するようになったのだ。ここに放射性廃棄物を貯蔵など狂気の沙汰であることが明白になった。
 半減期2万4000年も物質をここで貯蔵したとして、この先、2万4000年間、この地域で地震が起きないと誰が保証できるだろう。
 もっとも、日本列島のどこをとっても「安定した地盤」などあるはずがないのだが。

 原子力政策の誤りを素直に認め、原子炉をこれ以上稼働させないようにし、幌延での貯蔵計画が無謀であることをただちに認めるべきだ。
 「補助金」に尾を振ってすりよっている幌延町長や北海道知事たちは、今すぐ、この問題に対する態度を明らかにする責任がある。
 
 もう、破滅は始まっているかも知れないが、これ以上進むことを断念すべき時であることは明白だ。

2012年7月17日火曜日

知床の川で遊び学ぶ

本年度最初の生態系学習Ⅰを実施した。羅臼町内の中学生を川に連れて行き、高校の先生方が川の中の生物について教える。
 高校から二人の理科教員が来てくれたので、僕と手分けしてプラナリアと魚類と水生昆虫について捕獲と観察を中心に授業をした。
 自然豊かなはずの羅臼の子どもたちだが、川とじっくり向き合う経験は少なかったようで、裸足になって川の中を歩くだけで、大騒ぎしていた。
 でも、それで学習の目的のほとんどは達成されたのだと思う。

 今日は、水温が高めで分裂中のプラナリアが観察されたり、カワゲラ、カゲロウ、トビケラ、ヤゴなどの水生昆虫が多数みつかったりした。
 魚はオショロコマをたくさん捕まえることできた。

 天候にも恵まれ、有意義な野外学習の機会となった。

2012年7月16日月曜日

今日の短詩

少しのことで揺るがないしっかり根付いた眼を持ちたい
 霧を貫いて先を見通す鋭い眼を持ちたい
 装われたポーズの底に潜む悪意を見抜く澄んだ眼を持ちたい
 これからどうなるかを洞察する賢い眼を持ちたい
そして、
 アジテーターではなく
 イデオローグとして生きたい

2012年7月15日日曜日

映画「ホテルルワンダ」を観た

映画「ホテルルワンダ」を観た。
 1994年のルワンダ内戦で、フツ族過激派が同族の穏健派やツチ族を120万人以上虐殺した。その中で、1200名以上の難民を自分が働いていたホテルに匿ったホテルマン、ポール・ルセサバギナの実話を基にした物語である。

 ルワンダは第一次世界大戦まではドイツ、第一次世界大戦以降はベルギーの植民地であった。植民地時代、少数派のツチ族を君主及び首長等の支配層とする間接支配体制が築かれ、多数派のフツ族は差別的な扱いを受けていた。
 1962年の独立の前にツチ族とベルギーとの関係が悪化し、ベルギーは国連からの関係改善の勧告を無視して社会革命としてフツによる体制転覆を支援した。この結果、ツチは報復を恐れて近隣諸国、特にウガンダに脱出した。

 1973年に、フツのジュベナール・ハビャリマナがクーデターを起こした。彼は当初、ツチに対する和解策をとったが、やがて反ツチの傾向を強め、ウガンダに逃れたツチ系難民がルワンダ愛国戦線 (英:RPF、仏:FPR) を組織して、ウガンダを拠点に、フツのハビャリマナ政権に対する反政府運動を活発化させた。
 RPFは、1990年10月には、ルワンダ北部に侵攻し、内戦が勃発した。

 1993年8月、ルワンダ愛国戦線の猛攻と国際世論の高まりにより、アルーシャ協定が結ばれ、和平合意に至ったものの、1994年4月、フツのジュベナール・ハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領とを乗せた飛行機が、何者かに撃墜されたことに端を発して、フツによるツチの大量虐殺が始まった。

 1994年7月に、ルワンダ愛国戦線がツチ系の保護を名目に全土を完全制圧し、フツのパステール・ビジムングを大統領、ツチのポール・カガメを副大統領(のち大統領)とする新政権が発足し、紛争は終結した。

 フランス政府が、虐殺側に立ったフツの援助を組織的に行っていたなど、冷戦時代からの名残を引きずった西欧諸国の思惑が、事態を悪化させたという面もある
 なお、ルワンダ政府は、後にフランスがカガメを戦争犯罪者として告発したことなどを理由に同国と国交断絶したが、2010年にニコラ・サルコジ大統領がルワンダを訪問し、(ハビャリマナ政権に対して)外交的・軍事的な後押しをしたことについて「大きな判断の誤りがあった」と、虐殺に関する責任の一端があることを認めている。

 フツ族とツチ族は、元々は同じ言語を使い、農耕民族であるか遊牧民族であるかという違いでしかなく、貧富の差がそれぞれの民族を形成するなど両者の境界は曖昧であった。 遊牧業が主な生業であったツチは、牛を多数所有するなど比較的豊かであった。しかし、ベルギー人をはじめとする白人による植民地支配がはじまると、鼻の大きさや肌の色などを基準に境界が作られた。ツチは「高貴(ハム系あるいはナイル系)」であり、対するフツなどは「野蛮」であるという神話・人種概念を流布(ハム仮説)し、ツチとフツは大きく対立し始めた。

 元々、穏やかに共生していた民族が、植民地政策によってお互いを憎みあうように仕向けられた結果、起こった紛争の一つの典型例である。歴史、伝統を破壊されたことによって生まれる争いもある。2001年、この紛争は鎮静化に向かいつつある・・・しかし内戦で徹底的に破壊された経済は、再建の見通しは、なかなか立たない。

 ホテルの支配人だったルセサバギナの自伝が2006年4月に出版された。舞台となったホテル「オテル・デ・ミル・コリン」は、現在では営業を再開している。撮影のほとんどは南アフリカで行われた。
(以上、映画解説等から一部引用)

 このような事件は、あちこちでしばしば起きている。遠い別世界の出来事ではない。オウムによる無差別殺人もあったし、間近では大津市の中学生へのいじめ事件がある。関東大震災の時のデマに基づく朝鮮人虐殺もあるし、南京大虐殺もある。ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦もあった。
 カンボジアのポルポト一派による大量虐殺、ヴェトナム戦争におけるあまたの虐殺事件、そして、ナチスによるユダヤ人虐殺。広島や長崎への原爆投下も同じ行為だろう。

 人間は、なぜ、ここまで残虐で冷酷になれるのだろう。
 心の中に憎しみの対象を作ることで、人は特定の行動に駆り立てられやすくなる。これがしばしば世論操作や扇動に利用されている。
 先日、タレントの母親が生活保護を受給していた問題をマスコミや国会で取り上げ、一斉に袋だたきにした事例なども、このような心理を利用したのではないだろうか。

 自分を省みても、誰かを憎む時、真剣になっている自分がいる。
 それは、やむを得ない場合もあるかも知れないが、それと同じくらいに真剣に人を愛することができたら、皆がそうできたら、人間はもう少しマシに変わることができるかも知れない。

2012年7月14日土曜日

職場釣り大会

浜で投げ釣りをしたのは、何年ぶりだったろう。
今日の根室海峡は、波も穏やかで、南の風がかすかに吹いて来る程度だった。
 潮風に吹かれながら仕掛けを遠くまで飛ばし、何も考えずに竿の先だけを見つめてじっとしている。
 水平線に目をやると国後島がかすんでいる。

 一本の糸でつながる針が、海底でどうなっているか考想像する。
 口の小さな魚が集まってきて、さかんにつつき回しているかも知れない。
 竿を握る掌に伝わる感触から、その光景を思い描いて、じっと待っている。

 こんな釣りは大好きだ。いつかタップリと時間を取って、堪能してみたいと思っている。 現実には、様々の「しなければならないこと」に追われて、なかなかできない。
 今日は、職場の釣り大会ということで、久方ぶりに機会を得た。

 3時間近くやっていて、釣果はスナガレイ1匹、クロガシラ1匹、コマイ2匹というささやかなものだった。
 だが、釣果とは別に心さっぱりして、考え方がのびのびとなった、ひと時だった。

2012年7月13日金曜日

似而非科学について考えたこと

Facebookを通して、昨日の小ブログ「アウレリア ラプソディ」にKさんがご意見をお寄せ下さった。
 一部引用させて頂く。
 「ゴミも処分できない原子力技術は科学とは言えませんよネ!」

 もちろん、僕も同意見だが、この言葉を噛みしめていて気づいた。
 今こそ「科学とは何か」を問い直さなければならないのではないか。

 僕は、人生の大部分を理科教師として過ごしてきた。それ以前の学生時代から科学的なものの見方を心がけてきたし、自分の中から非合理主義てきなものを排除するように努めている。
 だから真理を見つけることを曇らせる似而非科学や疑似科学に対しては、厳しい見方を捨てていない。それはそれで正しい生き方だと自分では信じている。

しかし、Kさんの意見で、「作る」ことには熱心で、その後始末の方法には無頓着な「技術開発」は科学とは言えないということに今さらながら気づいた。
そして、身の回りには、そんな事例がいかに多いかということにも同時に気が付いた。 例えば、人工衛星の技術。
 作って打ち上げるまでは、皆が注目するし作る側も熱心だが、寿命が来たらどうするのだろう?今や地球の周囲はゴミだらけだと言うではないか。
 先日の新聞記事で、南鳥島の海面下5000メートルの海底から希少金属を多量に含む泥が見つかり、その埋蔵量は今の日本の消費量で250年分くらいあるということだった。しかし、この広大な海底の泥を採掘しまくったら海底で暮らす生物、深海を流れる海流などにどんな影響を与えるかについて、誰も気にしていないかのようだった。
 再生可能なエネルギーとして注目されている発電用大型風車を建てると鳥の衝突が後を絶たず、東北北海道において、この十数年間で16件のオジロワシやオオワシが命を落としている。
 今ではほとんど廃坑になった九州や北海道の炭鉱も壮大な自然破壊と引き替えに行われてきた産業である。
 農業技術でも同じ例はたくさんある。
 果菜類を一年中安い値段で消費者に提供するために、生物農薬のセイヨウオオマルハナバチを利用してナスやトマトのハウス栽培を行う技術を開発したのは良いが、そのハチが環境中に逃げ出して、高山植物の送粉系(昔から確立している昆虫と植物の受粉システム)を撹乱、希少植物の絶滅が心配されるようになっている。
 新しい技術を開発することは進歩につながる。悪いことではない。
 だが、その弊害や影響、廃棄物の処理なども完璧に確立してから実用化すべきはないのか。それでこそ「完成された技術」と言えるのではないか。

 基礎科学が軽視され、実生活への応用が強く求められる傾向が強まったと思う。
 科学は「真理の探究」から「札束の探求」へと変節しているかのようだ。

 原発問題は、他方では、科学と人間の関係について鋭く見直しを迫っている問題でもある。
 国際学生連盟の歌にある一節
 「平和 望む 人の幸に 捧げよう わが科学」
 この一節が、たまらなく好きだ。

2012年7月12日木曜日

アウレリア(Aurelia)ラプソディー

懐かしい名前が出ていて、心ひかれた。  ミズクラゲ。刺胞動物門鉢虫綱ミズクラゲ科ミズクラゲ属の総称。  ラテン語でAurelia 。  生物の教科書でなじみ深い。その理由は、ユニークな生活環による。 受精卵は♀の保育嚢で発生して、体長0.2ミリメートルのプラヌラ幼生となる。  プラヌラ幼生は数日間遊泳生活をしてから岩場などに固着しイソギンチャク型のポリプとなる。  ポリプは成長し分裂を繰り返してコロニーを形成する。  成長したポリプは体にくびれができて多数の皿を重ねたようなストロビラとなり、やがて「皿」が、一枚一枚離れて海中に泳ぎだしエフィラと呼ばれる段階を経て、クラゲの成体へと成長する。  まとめると プラヌラ→ポリプ→ストロビラ→エフィラ→稚クラゲ→成体 この生活環が生物教師たちにとって格好の出題ネタとして使われるわけだ。  それはさておき、一匹のメスは、一個の卵から大変な数のクラゲが生まれてくる。加えて一匹のメスから産み出される卵の数も膨大なものである。  ミズクラゲが爆発的に増える理由はここにある。  クラゲは簡単な神経系を持ち、特定の刺激に対して決まった反応をする。したがって、光や温度、海水のpHなどを感じる能力はあるだろうと思われる。しかし、中枢神経系など複雑な神経系は未発達で、統合的にものを考えたりすることはできないだろう。  そんなミズクラゲが、原子力発電所の冷却水取水口を塞いで、原発を脅かすことのは、ちょっと小気味良い。心の中で快哉を叫びたくなる。  特に、日頃「原発は、科学技術の粋を集めて作られたものだから絶対安全だ」と虚勢を張っている技術者や経営者たちの鼻を、この小さなミズクラゲたちがへし折っているのを見ていると、「どうだ!参ったか?」という気持ちになる。  しかし、冷静に考えてみると、現代の原子力技術は、こんな「原始的」な生き物に振り回される程度の水準だということだ。とても怖いことだと思う。

2012年7月11日水曜日

大学の先輩

貯金はさっぱり増えない。
 真面目に学ばないから知識も増えない。経験も乏しいまま。
 したがって「風格」も厚みが増さない。
 増えるのは歳ばかり。
 というわけで、本日誕生日。あ~あ。


 そんな今日、京都に住む大学時代の研究室の先輩が訪ねて来てくれる。
 今夜会うことになっている。

 毎年のように、家族や友人と北海道旅行を楽しんでいたらしいが、去年、近くまで来たということで声をかけてもらい、二十年ぶりくらいで再会した。
 研究室では、彼の研究テーマを僕が引き継いで卒論にした。彼のデータを引用させてもらったし、ずいぶんお世話になった。
 やはりバイクに乗る人で、冬の大学構内で、ヤマハのHT1という軽いバイクでソリを曳いて遊んだり、バルコニーに上に大きなカマクラを作ったりして「悪い遊び」を一緒にした仲だ。

 永く会うことがなくても、会えばたちまち学生時代の気分に戻ってしまうのが、この種の出会いの常だが、その例に漏れず、楽しい再会だった。
 今年は、早くから連絡をくれて会えることを楽しみにしていたが、僕の怪我で、実現が危ぶまれた。
 だが、幸いにも彼がキャンプしている釧路川の畔まででかけて夕食を共にできる程度には回復していた。
 本当は、僕も一晩キャンプして、ゆっくり過ごしたかったが、それは来年の楽しみにしようと思う。    (7月11日 朝:出勤前に)

2012年7月10日火曜日

ヘソ曲がりと思われるかも知れないが

オリンピックが近づいていて騒がしい。
 出場の決まった選手の90パーセントくらいが、インタビューに同じ台詞で答えている。その言葉がずっと気になっている。
 いわく、
 「観る人々に感動を与えるようなプレイをしたいと思います」
最近では、何かの代表になった高校生までもが、このように答えることがある。
 それを聞く度にいつも心に引っかかるのだ。
 まず、「感動を与える」という言い方だ。
 どうしても、上の方から下に向かって「与える」「分け与える」という印象を強く感じる。
 「感動していただく」などというようには言われないのだろうか。
 スポーツの優れた人々は青少年への影響力も大きいと思う。言葉遣いも模範的であってほしいと願うが、そんなことを気にしていたら強くなって勝てないのかも知れないが。

 そして、実は、そもそも感動を「与えてもらう」ものなのだろうか、ということに疑問がある。
 血のにじむような努力をし、栄冠を克ち取る話は、感動的に違いない。だが、それは観る側が自分の価値観と感性で受け止めた結果として、感動が湧き上がってくるものではないか、と考えてしまうのだ。バスケットボールでパスを受け取るように「感動」をポンと投げ与えられるようなものではない、と思うのだけれど。

 そもそも物事は、人によって受け取り方はさまざまで、全国民が一斉に同じように感動するなどということは、怖いことではないか。
 どうか感動の押しつけは、止めてもらいたい。
 オリンピックも勝った負けたばかりに注目するのではなく、国を超えて優れたプレイやたまたま滲む人間味に対して、感応できれば、観戦も楽しくなってくると思うのだけれど。

2012年7月9日月曜日

霧の底にひそむ秋への予感と経済産業副大臣の失言(ホンネ)

この3日間くらい雨が降るようになった。
 そして霧が濃い。
 梅雨前線を南へ押しやり、冷たい空気が上空に流れ込んでいるとか。
 いくらなんでも、これで夏が終わり、ということはないだろうが、日本でもっとも冷涼な夏が訪れる根釧原野(道東地方)では、もう、秋の草花が出番を待っている。
 エゾフウロ(蝦夷風露)も咲き始めた。
 その淡いピンクは、秋の原野のものだ。

霧に濡れ何も語らずフウロソウ
秋へ予感 夏草の陰

今、根釧原野は、「まだ夏じゃない」と「もう夏じゃない」の微妙な狭間に、置かれている。

大飯原発3号機の出力全開が、ミズクラゲの予想外の大発生で遅れたことへの、経済産業副大臣の今日の発言。
「近代科学の粋を集めた原発が、クラゲごときで故障するようではたまらない」
(OMAE-HA-AHOKA!)
 今もって「近代科学の粋」だなどと平気で発言することが驕りと傲慢さを捨てきっていない何よりの証拠だろう。  
大津波も自然の力、ミズクラゲも自然の力なのだよ。
 反省せよ。

2012年7月8日日曜日

ネコのように過ごした一日に考えたこと

シカと衝突した人に言われたくないだろうが、われわれ運転者は、このクルマ社会で安全運転を心がけ、交通事故防止に努めなければならない。

 ところで「交通安全」と聞いてどんな連想をするだろう。
 あの黄色い旗。ベタベタはられた標語。ポスター。講習などで繰り返される「心がけ」。
もう少し科学的に、見通しや交通量、道路の構造、運転者の心理などを科学的な根拠に基づく安全のための啓発をできないものだろうか、と思う。

 原子力発電でも、オスプレイでも、政府側の口から出る安全についての説明は、突き詰めればすべて精神論に行き着いてしまうように思う。
 曰わく、「最大限の安全に配慮する」
 「安全な運用を心がける」
 「国民のみなさまに安心していただけるように努める」

 そんな言葉を今やもう、誰一人信じちゃいないのだ。
 「原発を動かしたい」「オスプレイを配備したい」という結論が先にあり、それに反対する力をいかに小さくするか、という観点からだけで言葉を選んでいるホンネを見透かされているのだ。

 交通安全については、真剣で素朴な願いに基づくスローガンもあるだろう。しかし、原発やオスプレイに関しては、推進する側のエゴイズムと大衆蔑視の思想がその底に流れているので手に負えない。

 今日は、傷ついた腹筋をいたわるために、一日中家の中でゴロゴロしていた。ほとんど働かず、まるでネコだった。
 愉快ではないニュースを見ていて、こんなことを考えたというわけだ。

2012年7月7日土曜日

「2点」確保・・・・告白

木曜日、羅臼高校の授業で羅臼町内の熊越えの滝まで行ったことは、既に書いた。
 実は、そこに書かなかったことがあった。
 その時、崖を登ったのだった。

熊越えの滝は、滝壺から流れ出る川の岸から眺めるのが一番近い。それと、もう一つ右岸側の小高い丘の上にも木の間越しに滝の全貌を見ることのできる展望所がある。
 かつては、滝壺からその丘まで登る道があった。しかし、何年か前に古い大木が倒れてその道をふさいでしまった。
 丘の上の展望所に行くには、来た道を戻って大迂回するか、今はふさがっている道を避けて崖を直登するしかない。10メートル少々の高さでササに覆われている斜面であるから、直登と言ってもさほどのことはない。今までも何度かそこを登っていた。
 そこで、あまり迷わずに崖に取りついた。
 普通、急斜面を登る時は、梯子を登る要領で、手と足の四点のうち常に3点で身体を確保しながら登る。
 今回は、左の鎖骨を庇って、左手を全く使わないようにして登った。右手と両足のうちの2点で身体を支える「2点確保」である。
 まずまず、無事に登り終えた。
 意気揚々と帰って来たが、異変は翌朝起こった。
 出勤しようとしてクルマのドアを開け、左足を運転席の床に置いた途端、左脇腹に激痛が走った。あまりの痛みで動くことができない。
ほぼ十分間、そのまま痛みに耐え、なんとか誤魔化して出勤したが、その痛みは、時々、波状に襲ってきた。
 折れて治りかけていた肋骨がまた悪化したか、などと心配になった。しかし、今日になって、わかった。その痛みは筋肉痛であるらしい。左の肩を庇い、不自然な姿勢で急勾配を登ったことが原因であるらしい。

 今日、鍼を打ってもらい楽になった。
 完全な回復まで、まだ道は遠いのかも知れない。
 あ~あ

2012年7月6日金曜日

たまには 時代劇 ふぁんたじい

その昔、江戸の街に「彩菓堂」という菓子屋があった。
 そこの主人は、大変な吝嗇で、高価な砂糖を使うのを嫌い、南の島で採れる「裏煮倦夢」(うらにうむ)という、サボテンの一種から作る合成甘味料を菓子に使うことを考え出した。
 「裏煮倦夢」を栽培する南の島には「宇蘭村」と呼ばれ、村ぐるみで栽培し、村役人と結託した商人「糖伝屋」(とうでんや)が農民からの集荷も甘味料の合成まで独占し、彩菓堂と癒着して巨利を得ていた。
 当然のことに幕府の役人に、彩菓堂や糖伝屋から毎年、多額の賄賂を贈られていた。
 幕府勘定方 甘味奉行 野田泥縄守(のだどろなわのかみ)の名台詞
 「糖伝屋!お主もワルよのう」

 ところが、「裏煮倦夢」から作った合成甘味料を食べた人々の間で、健康を害する人が続出した。
 最初のうちは、その因果関係は良くわからなかったが、何人もの学者が調べて裏煮倦夢の害が報告されるようになった。
 彩菓堂や糖伝からお金をもらっている学者たちも、それを打ち消す研究結果を作り出して、必死で隠そうとしたのだが、裏煮倦夢が有害だといういことが人々の間に知れ渡っていくのを止めることはできなかった。

 しかし、多額の賄賂をもらっている幕府は、彩菓堂の商売を停止しようともせず、放置し続けた。
 憤った人々は、大勢で彩菓堂の周りを取り巻いて、有害な商品の販売を止めさせようとした。その時の人々が声を合わせたかけ声は
「彩菓堂 反対、 彩菓堂 反対」というものだった。

 時は流れ、21世紀。
 その時の人々の子孫たちも、まだ叫んでいる。
「再稼働 反対、 再稼働 反対」

2012年7月5日木曜日

森に はいる

昨日は海へ出た。
 今日は森に入ろうと思った。

 羅臼高校の授業。
 「野外観察」で、少し前から「熊越えの滝」まで行くことを考えていた。
 「熊越えの滝」までは、国道脇の入り口から400メートルほど。山道とも言えない森の中の小道を進み、羅臼川の支流である翔雲川が約15メートルの崖を流れ落ちている。

 昨日の船で自信を付け、今日は自分の足であるくことに挑もうと思った。
 何でもない時なら一日に何往復でもできるこの滝が、事故以来とても遠いものに感じられた。
 岩や木の根がゴロゴロしている道を歩き通せるだろうか、という不安が澱のように心の底に溜まっていた。

 だが、行ってみるとどうやら難なく往復することができた。
 多少の疲労感は足に残ったが、これはやむを得ないだろう。
 事故の翌朝、自分の足で立てない事実に愕然となっていたのだ。そこから考えると何とかここまで回復できた。

 森は、エゾハルゼミの大合唱で祝福してくれた。


2012年7月4日水曜日

海に出る

とにかく海に出たかった。
 6月6日の事故以来、自由のきかない身体で、痛む足で、揺れる船に乗ることなどできるだろうか、という不安があった。
 いろいろな人の助けで、少しずつ回復し、歩く速さも元に戻りつつあったし、手もある程度自由に動かせるようになった。
 体力の回復には、まだ時間がかかるかも知れないが、それでも船に乗りたかった。海に惹かれていた。

 町内の理科教員の研修で、今日のホエールウォッチングが計画されていた。それを楽しみにしていた。
 5日も前から気圧配置を気にしていた。最近は気圧配置が固定化し、天気が大きく動くことがなかったので、「このまま行ける」と希望半分の予想を立てていた。
 そして、今日、心配されていた霧も薄くなり、波はほとんど無い。
 勇んで知床ネーチャークルーズの「EVER GREEN」に乗り込んだ。
 陸の建物より狭い船内、急な階段。
 だが、そんなものは気にならない。
 久しぶりに海に出られるのだ。

 最近の情報では、マッコウクジラはまだ来ておらず、シャチも数日前から姿を見せていないという。その代わりイシイルカとミンククジラがかなり来ているということで、まず上手(半島基部)の方向から反時計回りに前浜を一周した。

 海は、穏やかに迎え入れてくれ、いつもの表情を見せてくれた。
 ああ、生きているのだ、とあらためて感じた。

[野帳写し]
鯨類:イシイルカ  きわめて多数
   ミンククジラ 4頭以上
鳥類:オオセグロカモメ     
ハシブトガラス
ハシボソミズナギドリ  まだ、数百羽ずつの群れが多数散在していた。
フルマカモメ   八木浜沖で海獣(アザラシ?)の死体に集まっていた。
トウゾクカモメ 1羽
ウトウ 航路全体に少しずつ
ウミガラス 海岸町沖に3~4羽
ケイマフリ 海岸町沖に2羽
オジロワシ 帰港時に1羽


2012年7月3日火曜日

「不屈の民」(¡EL PUEBLO UNIDO JAMÁS SERÁ VENCIDO! )のこと

少し前から、この歌が頭の芯で鳴り響いている。
 今となっては、古い歌だ。

 1973年9月、チリ。
 アメリカに追随しようとするピノチェトに率いられた軍事クーデターによって
 アジェンデ政権は倒された。
 アジェンデ大統領も戦死した。
 を支持する人々によって歌われた歌だ。

 アジェンデ大統領は、選挙で選ばれた大統領だ。
 銅山を国有化するなど、アメリカに追随する一部の者たちや大資本だけが巨利をあげていた当時のチリ社会を変えるべく立ち上がった。
 ピノチェト一派はそれを暴力で転覆させた。
 軍事クーデターで、アジェンデは殺された。
 最後まで抵抗しようとした多くの労働者、歌手、詩人が虐殺された。
ピノチェトらはの、いったん固有化した銅山をアメリカ資本に返還すると言明。
 その後も、軍事政権の弾圧で多くの詩人や学者が殺されたり、国外に亡命したりした。
 「サンチャゴに雨が降る」という映画に詳しい。

 この闘いからたくさんの詩や歌が生まれた。


 どういうわけか、この数週間、この歌が頭から離れない。

「不屈の民」 訳詞 はぐるま座による
¡EL PUEBLO UNIDO JAMÁS SERÁ VENCIDO!
エル プエブロ ウニド
ハ マス セ ラ ベン シ ド

立ったままで歌を歌おう
犯されたこの大地が
自由の中に生まれ変わる
その日がやがて来るまでは
このまま歩き続け
闘いの火を燃やそう

立ったままで歌を歌おう
国を追われ離ればなれ
世界の果てへ散っていった
多くの友が帰るまでは
このまま歩き続け
闘いの火を燃やそう

そしていつか夜明けの陽が
この大地をかがやかす

限りなく続いていく
陽をあびた白い道は
戦車や血のにおいを
運ぶためにあるのではなく
民衆がこの大地に育てた
愛を運ぶ

血塗られた祖国のため
祈りを込めて歌おう
殺され失われた
幾多の命のために
どこまでも歩き続け
闘いの火を燃やそう

そしていつか夜明けの陽が
この大地をかがやかす

2012年7月2日月曜日

近況報告(病状報告)

原発、沖縄の基地、消費税、社会への批判や不満が渦巻いているが、自分の身体も6月6日の事故以来、不具合な症状が渦巻いている。
 今日は、途中経過の記録という意味も兼ねて、現在の病状についてまとめることにする。
 したがって「憤りのブログ」は、今日はお休み。本当はものすごく怒りまくっているのだけれど。

 今日は病院へ行ってきた。
 退院後二回目の通院だった。
 前回は退院一週間後だった。路線バスを利用して、病院まで行ったが、今日は自分でクルマを運転して行った。
 運転は、前回の通院の翌日から、医師の同意を得て行っている。一日160kmの距離を走るし、会議等で斜里町まで行くこともあった。
 釧路までの通院もそれほど心配はしていなかったが、予想通り問題なく通院できた。

 X線写真を見たが、期待したよりも鎖骨の骨折部分が回復されていなかったことは、ちょっと残念に思えた。まあ、年齢相応の回復力なのかも知れない。
 それでも、前回の写真よりは、折れている骨の距離が縮まっていたことは、良い兆候だった。
 おそらく、折れた骨片の間に骨膜が形成され始めているのだろう。こればかりは、気力や努力や訓練で、どうにかなるものではなく、ひたすら待つしかないことだろう。

 肋骨の方は、昨日までは痛みも軽減していたのだが、昨夜から今朝にかけて、痛みが強まったように感じた。
 日曜日、ビニールハウスの水遣りや細々とした片付けなど、軽い作業をし、マニュアルの四輪駆動車を運転したことで、症状が悪化したのではないか、と心配したが、そういうことではないらしい。
 おそらく久しぶりに天候が悪化し気圧が低下したためだと思われる。
 振り返って見れば、二週間前、バスで行った時は、歩く速さも遅く、バスのステップを登るのも大変だった。この二週間で改善されたところはたくさんある。
 こちらの方も、「痛み」と折り合いをつけながら、気長に養生するしかないようだ。
 もう、夏に突入しようとしている自然界の移り変わりに比べ、いつまでもそこへ戻れない自分を思うと、いささかの焦りを禁じ得ないのでは、あるが。

気が付けば、左を庇う癖がすき 鎖骨への負担を意識する我

2012年7月1日日曜日

禍の日

あらゆる批判や危惧、反対の意見に耳を貸そうともせず、大飯原発の稼働が再開された。
 これは、まともな神経の持ち主のすることではなく、狂気や盲信が生み出す行動であろう。
 この事実をしっかりと記憶し、これから先にまだ起こるかも知れない災いの主犯がだれであるのか、すぐ見出せるようにしておかねばならない。