2013年5月29日水曜日
クールビズヘアとインポッシブルドリーム ~決められない国の決められない人たちへの子守歌~
今日、ラジオを聴いていたらニュースで「今年の男性向けクールビズヘアが発表された」ということを伝えていた。クールビズヘアは、何年か前から続けているという。初耳だった。軽く驚いた。
政府が薦めるクールビズに合わせて、全国のおよそ7万店の理容店が加盟する全国理容連合会が発表したものだという。もちろん全く強制力は無いだろうし、善良に解釈すれば、床屋さんたちが「こうすれば涼しく、かつカッコ良く過ごせますよ」と助言してくれているわけで、とりたてて問題はないかも知れない。
だが、僕は、どうしてもこのような政府のかけ声に呼応する形で提案される髪型に定向を感じる。
昔、僕の育った町の理容店のほとんどに、中高生に相応しい髪型というポスターが貼られていた。刈り上げて耳と首筋を出し、前髪は眉までかからないように、とか何とか書かれていた。おそらく日本中の少なからぬ町の床屋さんに、この種のポスターが存在したのではないだろうか。たしか、生徒指導連絡協議会とかの「お墨付き」だったと思う。ビートルズが全盛だった頃のことだ。
髪の毛は個人の身体の一部分で、それをどうデザインするかは、その人の自己表現に属する問題だ。決して「このような髪型にしなさい」と強制されるものではない。この原則が第一番目になければならない。
学校は生徒を育てる場である。だから、生徒の髪型や服装を生徒の自己表現としてまず受け止めなければならない。そのうえで、生徒がその自己表現を通して帰属しようとしている文化や価値観に問題があると判断される場合は、正面から堂々とその問題点を指摘し対等な立場で論議するべきだ。
つまり、髪型や服装に関する指導は、すぐれて鮮やかに一つに思想闘争になる。
「規則だから」とか
「中学生(高校生)らしくないから」などと安直な理由にしがみつくべきではない。力をもって強制しようとした瞬間に教育は敗北する。
ニュースを聴いて、こんなことをふっと思い出したのだ。
教師になった僕が、こんな主張をしたとき、ある先生は言った。
「キミ、それは理想論だよ。現実をみなさい」
現実を見よ、という決め台詞にもずっと長い間辟易していた。
ミュージカル「ラ・マンチャの男」の作中でドン・キホーテを演じるセルバンテスが言った言葉。
「事実は真実の敵だ。」
「狂気とはなにか。
現実のみを追って夢を持たぬのも
狂気かも知れぬ。
夢におぼれて現実を見ないのも
狂気かも知れぬ。
しかし、最も憎むべきは、
ありのままの人生に折り合いをつけて、
あるべき姿のために戦わぬことだ。」
そして、彼はドン・キホーテに扮して、この歌を歌う。
「THE IMPOSSIBLE DREAM」
To dream the impossible dream
To fight the unbeatable foe
To bear with unbearable sorrow
To run where the brave dare not go
To right the unrightable wrong
To love pure and chaste from a far
To try when your arms are too weary
To reach the unreachable star
This is my quest to follow that star
No matter how hopeless, no matter how far
To fight for the right
Without question or pause
To be willing to march
Into hell for a heavenly cause
And I know if I’ll only be true
To this glorious quest
That my heart will lie peaceful and calm
When I’m laid to my rest
And the world will be better for this
That one man, scorned and covered with scars
Still strove with his last ounce of courage
To reach the unreachable star
The fight the unbeatable foe
To dream the impossible dream
特に若い世代に問いたい。
もし、「クールビズヘア」にまったく違和感を感じなかったら、もう一度ドン・キホーテの言葉を噛みしめてみてほしい。
日本が政略戦争に転げ落ちていった頃、男性の長髪や女性のパーマや長い髪も憎しみの対象だったという事実もあることを付け加えておきたい。
本ブログは,来月から 次のブログに移動します。 http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/
2013年2月12日火曜日
心にしみた「カラス」(作詞・作曲者不詳)という歌
昨日、石橋幸さんたちのコンサートで聴いた中に印象的な歌がたくさんあったが中でも「カラス」という歌に胸を打たれた。
これは反戦歌と言って良いだろうか。
石橋さん自身が歌の前におよそのあらすじを解説してくれたが、あらためてロシア語の歌詞と日本語訳を読んでみてあらためて心が動いた。
(1)
Чёрный ворон, чёрный ворон,
Что ты вьёшься надо мной?
Ты добычи не дождёшься,
Чёрный ворон, я не твой!
Ты добычи не дождёшься,
Чёрный ворон, я не твой!
(2)
Что ты когти распускаешь
Над моею головой?
Иль добычу себе чаешь,
Черный ворон, я не твой!
Иль добычу себе чаешь,
Чёрный ворон, я не твой!
(3)
Завяжу смертельну рану
Подаренным мне платком,
А потом с тобой я стану
Говорить всё об одном
А потом с тобой я стану
Говорить всё об одном.
(4)
Полети в мою сторонку,
Скажи маменьке моей,
Ты скажи моей любезной,
Что за Родину я пал
Ты скажи моей любезной,
Что за Родину я пал.
(5)
Отнеси платок кровавый
Милой любушке моей.
Ты скажи - она свободна,
Я женился на другой.
Ты скажи - она свободна,
Я женился на другой.
(6)
Взял невесту тиху-скромну
В чистом поле под кустом,
Обвенчальна была сваха -
Сабля вострая моя
Обвенчальна была сваха -
Сабля вострая моя.
(7)
Калена стрела венчала
Среди битвы роковой.
Вижу смерть моя приходит -
Чёрный ворон, весь я твой!
Вижу смерть моя приходит -
Чёрный ворон, весь я твой!
<1>
黒いワタリガラスよ、黒いワタリガラスよ
どうしてお前は私の上を飛び回るのだ?
お前は獲物を待っているのではない
黒いワタリガラスよ、私はお前のものではない!
お前は獲物を待っているのではない
黒いワタリガラスよ、私はお前のものではない!
<2>
どうしてお前は爪を開いているのだ、
私の頭の上空で?
もし獲物を期待しているのなら、
黒いワタリガラスよ、私はお前のものではない!
もし獲物を期待しているのなら、
黒いワタリガラスよ、私はお前のものではない!
<3>
私は命に障りかねない怪我を包帯する
贈ってもらったハンカチで
そしてそれからお前に向かって
ある事についてすべてを話し始める
そしてそれからお前に向かって
ある事についてすべてを話し始める
<4>
私の郷里へ飛んで行って
私の母さんに言ってくれ
私の恋人にも告げるのだ
祖国のために私が死んだと
私の恋人にも告げるのだ
祖国のために私が死んだと
<5>
血まみれのハンカチを届けてくれ
私のいとしいあの娘に
告げるのだよ――彼女が自由であることを
私が別の女性と結婚したことを
告げるのだよ――彼女が自由であることを
私が別の女性と結婚したことを
<6>
もの静かでおとなしい花嫁と結ばれたのだ
開けた草原の、潅木の下で
結婚式には仲人もいた――
私の研がれたサーベルだ
結婚式には仲人もいた――
私の研がれたサーベルだ
<7>
真っ赤に焼けた矢が身を飾ったのだ
命を懸けた戦いのさなかに...
我が死がやって来るのが見える
黒いワタリガラスよ、私はすっかりお前のものだ!
我が死がやって来るのが見える
黒いワタリガラスよ、私はすっかりお前のものだ!
邦題は「カラス」とされているが、これに登場するカラスはワタリガラスを指すらしい。たしかに、落ち着き払って堂々と振る舞うワタリガラスの方が、この場面には相応しいと思う。
また、ロシア語の「死(смерть)」が女性名詞であることから、歌詞の5番に現れる「別の女性」や、6番に現れる「花嫁」とは、「死」のことであると解釈できるという。
今日の日本は、戦争や戦争による死が日常から遠い所にしかないと思わされているうちに、密やかに忍び寄ってきている。
そのような中で昔から歌い継がれてきた反戦、厭戦の歌を広げていくことは大きな意味をもっていると思う。
2012年12月30日日曜日
シーシェパード!よっく聞け!
古代、北海道のオホーツク海沿岸に住んでいたオホーツク文化人は、流氷の海にカヤックを駆りアザラシやクジラを捕らえる海洋狩猟民だったと言われている。
彼らは動物を図案化してさまざまな生活用具の模様に用いた。もちろん、それには単なる装飾以上の意味があったことだろう。
その後、北海道においてアイヌ文化がその影響を受け、オホーツク文化人の間に伝わっていたモノ送りの儀式がイオマンテとして受け継がれたり、さまざまな動物を神として敬い畏れながらその恵みに感謝する考え方が生まれた。
僕は、クジラを食べるとき、その圧倒的なスケールとパワーを頂き、その存在に畏敬の念をはらい、感謝しつつ頂くという気持ちになっている。
そして、わが家に昔から伝わる年末年始のハレの食べ物としてのクジラ汁を調理し、堪能している。
この豊富な脂肪を含む巨大な生き物を単なる油を採るための資源としか見なさず、産業革命で急激に需要の増した油だけを採った残りを海に棄てていたのはどこのどんな人たちだったろう。その末裔が今になって捕鯨を敵視し、無法で危険な妨害行為をしている。
食物への考え方は人や文化によって様々であって良い。多様な価値観があり、それらが互いに尊重し合って、穏やかな世界が保たれるのではなかろうか。
「鯨を食べたくない」という考え方は尊重したい。
同時に伝統的に鯨を食べている文化も尊重してもらいたい。
ああ、クジラ汁は美味しい。これで風邪気味だった体調が一気に快復した。
2012年12月18日火曜日
日本人の精神構造について、宵の語らい
今日、ふと思うところがあって、ツイッターで以下の通りにつぶやいた。
「経済的に豊かになって終わるストーリーが多いのが日本のおとぎ話の特徴。」
自民党の経済政策が多くの有権者の期待を集めて、今回の「圧勝」の原因となったという論調があり、それを補強するような(意識的に世論を誘導するような)インタビューをNHKがいろいろな番組で放送していたので、なんとなくそれに反発する気分が強くなってつぶやいたのである。
すると、すぐに以前、同僚だった友人から次のようなコメントが来た。
貴種流離譚や、英雄不死(生存)伝説が多いのも特徴かと思います。
「貴種流離譚」とは、「貴種漂流譚」ともいい、身分の高い者の子ども、若い神や貴人が、漂泊しながら試練を克服して、尊い地位を得たり偉大な神となったりするもの。
大国主命や日本武尊の伝説などが、その例だと言われいてる。
そこで、次のような返事を書いた。
その通りだと思います。(北海道では)義経伝説などが身近ですよね。
ところで、物質的に豊かになるという幸福のタイプが日本人の精神の根底にあるような気がしてしかたがありません。
今回の自民党圧勝の原因の一つとされている経済政策などをみていて感じるのです。
自然保護運動をしていると、よく「自然も大事だがまず食うことが大事だからナ」という反論に出会います。もう飽き飽きするほど出会ってきました。
もちろん、これら(経済活動と自然保護)を対立させようとは思いませんが、なんでもかんでもお金で価値を表そうとする精神構造の原因を考えてみたわけです。
英雄不死伝説は別として、機種流離譚と経済成功譚(これは僕の造語)との共通の背景がなにか考えられそうですね。
間髪を入れず、彼から返事が来た。
それが集大成として現れたのが20世紀後半の一連の藤子不二雄などの漫画ではないかと思います。『ドラえもん』『キテレツ大百科』などがその象徴で、それが高度経済成長期後の科学技術の追究と相まって流行ったのでしょう。しかし、21世紀に入るとそれは一旦「こころ」の方に大きく針が振れて一見意味深な物語が流行しました。「格差社会」の到来は、またもう一度歴史を繰り返してしまうのではないかと危惧しています。物質的な豊かさで満たされる心は素晴らしいかもしれませんが、「Can't Buy Me Love」なのであります。
う~ん。深い。
僕よりもはるかに若い彼の、ぼくよりもはるかに深い洞察に脱毛いや、脱帽の宵のひとときであった。
2012年11月6日火曜日
今夜、羅臼で「歌は風。沙漠も海も国境も軽々と越えていく」
その歌手は、コンサートの終わりにこう呟いて、最後の曲を歌った。
彼女の歌は、羅臼町内にある小さな店いっぱいに、時には切々と、時には情熱的に力強く、また、時には底抜けに陽気に響きわたる。
伴奏のアコーディオンがヴァイオリンのように、あるいはラッパのように、またあるいは、打楽器のように歌に寄り添っていた。
昨日、突然、友人からこんなメールが届いた。
「ご無沙汰しています、突然ですが、明日なんと羅臼でロシアの囚人が作ったバラード というか、ブルース、ってジャンルがあるんですが、これを歌っている石橋幸さん、っ ていう人のコンサートがあるそうです!
この人新宿のゴールデン街でガルガンチュアっていうロシア業界じゃ有名な小さな店 をやっていて、ロシアに招かれてコンサートもやる有名な人です。(以下略)」
生きる苦しみと悲しみ、愛する歓び、人生のあらゆるシーンが歌になっていく。
それも当然。ほとんどすべてがロシアの歌でロシア語で歌われているのだ。
ロシア革命前、ツァーリ(皇帝)の支配するロシアで過酷な暮らしを強いられる人々。
ロシア革命によって、解放されたと思うのもつかの間、スターリンの独裁体制による監視と密告、厳しい文化統制で窒息を強いられる生活。
第二次世界大戦でのナチスドイツの侵略。2000万人もの犠牲者を出したと言われている。
そんな厳しい条件の中でも、時には官憲の目をかい潜り、時には国外から、人々を励ます歌が、風のようにロシアの大地に吹き続けていたのだ。
多くの日本人に親しまれているロシア民謡ではなく、ロシアの普通に人々の間で歌い継がれてきた歌を中心に、18曲の歌が歌われた。
昨日の夜に、このコンサートのことを初めて知ったのだが、即座に行くことに決めた。そして、しみじみと行って良かったと感じている。
帰りにクルマの中で、僕の頭の中では、うろ覚えのロシア語の歌詞がグルグルと回転していた。
このコンサートを企画してくれた羅臼のKさん。
そして、通訳仲間の友人からの情報をわざわざ僕に伝えてくれた親友のFさん。
もちろん、歌手の石橋幸さんとアコーディオン奏者の後藤ミホコさんに深い尊敬と感謝を捧げたい。
2012年10月26日金曜日
オーストリアの美術館で買った塗り絵のこと
先月、ウィーンの美術館で世界的な定番の絵本「はらぺこあおむし」の塗り絵を買ってきた。
孫たちのおみやげにするためだった。
離れた所に住んでいるので、なかなか手渡す機会がなく、郵送することにした。
荷造りをするために、今日、それをあらためてじっくりと見たのだが、実によくできていると思った。
ほぼ絵本のストーリーの通りに、塗り絵が続いている。青虫が次々にいろいろな食べ物を食べていく、核心部分は、子どもが青虫になりきってごちそうに色を塗る様子が容易に想像できて、白紙に描かれた黒い線のみの絵を眺めているだけでワクワクしてくる。
このような幼児向けの教材が、日本ではどうして開発されないのか、残念に感じられた。 日本では、子ども向けの「文化」は一大複合産業で、テレビ番組・菓子・玩具などが一体となり、強力な宣伝によって普及している。
毎年、秋に新番組がスタートし、新しいヒーロー(どれも似たようなものだが)と新しい「武器」が登場する。そして、暮れのクリスマス(クリスマスが日本にあること自体が奇妙なのだが)に向けて、それらを模した玩具が発売される、という循環が繰り返されているのだ。
はっきり言えば、おもちゃ産業が子どもを食い物にして成長しているのだ。
そこには、玩具産業の成長はあっても、子どもたちの健全な成長は無い。
子どもを「これから発達し、未来を担う人格」とみなすなら、子どもをダシにしてお金儲けをしようなどという企業に、この国のより多くの人々が批判的であるべきだ。
それによって、企業の側も、より質の高い子どもの文化の創造を担っているという自覚が生まれてくるだろう。
これから、どうしていくのが一番良いのかを考えなければならない。
2012年10月24日水曜日
多文化共生の時代に
先週末の休日、散歩中にヤナギタケを見つけた。
笠の裏のひだが濃い茶色で、ちょっと見たところ食べられるかどうかアヤシイのだが、バター焼きにすれば美味しい。
カヌーで川を下りながら、川の上にせり出したヤナギの枝や幹に生えているものをよく食べていたので、他の種と間違えることはない。
数少ない「自信を持って食べられるキノコ」の一つである。
標準和名はヌメリスギタケという。
キノコや魚など身近で食材などに利用されている生物は、名前をたくさん持っている。一種類の生物に名前がたくさんあれば、混乱が生じ研究活動を進める時に障害になる。そのために統一した名前が必要で、それにはラテン語またはラテン語化した言葉で学名として記述される。そして、名前の付け方は「国際生物命名規約」で厳密に決められていて、研究者はそれを使っている。
日本国内では「標準和名」というものが決められていて、図鑑や論文に用いる時に一定のガイドラインとして各学会で決められた名前が使われている。
標準和名を「正しい名前」、それ以外の伝統的に使われてきた呼称を「俗名」とか「間違った呼び方」などと表現する傾向が一部にある。
研究者が学術的な場面で用いるためには、共通の標準的な呼称は必要だと思うが、その生物と永い関わりをもっていた人々の間で使われている名前も、それなりに「正しい」名前ではないか、とふと考えた。
そう言えば昔、共通語(断じて標準語ではない。日本語に「標準語」は存在しない)を「正しいきれいな言葉」とし、方言を「間違った汚い言葉」と蔑んだ時代があった。今でも少し残っているかも知れない。
われわれは、もう少ししなやかな感性を身につけて、互いの違いを認め合う文化を育てた方が良のではないだろうか。
これから多文化共生の時代だと思うのだ。
僕にとっては、これからも「ヌメリスギタケ」は、「ヤナギタケ」なのである。
2012年7月10日火曜日
ヘソ曲がりと思われるかも知れないが
オリンピックが近づいていて騒がしい。
出場の決まった選手の90パーセントくらいが、インタビューに同じ台詞で答えている。その言葉がずっと気になっている。
いわく、
「観る人々に感動を与えるようなプレイをしたいと思います」
最近では、何かの代表になった高校生までもが、このように答えることがある。
それを聞く度にいつも心に引っかかるのだ。
まず、「感動を与える」という言い方だ。
どうしても、上の方から下に向かって「与える」「分け与える」という印象を強く感じる。
「感動していただく」などというようには言われないのだろうか。
スポーツの優れた人々は青少年への影響力も大きいと思う。言葉遣いも模範的であってほしいと願うが、そんなことを気にしていたら強くなって勝てないのかも知れないが。
そして、実は、そもそも感動を「与えてもらう」ものなのだろうか、ということに疑問がある。
血のにじむような努力をし、栄冠を克ち取る話は、感動的に違いない。だが、それは観る側が自分の価値観と感性で受け止めた結果として、感動が湧き上がってくるものではないか、と考えてしまうのだ。バスケットボールでパスを受け取るように「感動」をポンと投げ与えられるようなものではない、と思うのだけれど。
そもそも物事は、人によって受け取り方はさまざまで、全国民が一斉に同じように感動するなどということは、怖いことではないか。
どうか感動の押しつけは、止めてもらいたい。
オリンピックも勝った負けたばかりに注目するのではなく、国を超えて優れたプレイやたまたま滲む人間味に対して、感応できれば、観戦も楽しくなってくると思うのだけれど。
出場の決まった選手の90パーセントくらいが、インタビューに同じ台詞で答えている。その言葉がずっと気になっている。
いわく、
「観る人々に感動を与えるようなプレイをしたいと思います」
最近では、何かの代表になった高校生までもが、このように答えることがある。
それを聞く度にいつも心に引っかかるのだ。
まず、「感動を与える」という言い方だ。
どうしても、上の方から下に向かって「与える」「分け与える」という印象を強く感じる。
「感動していただく」などというようには言われないのだろうか。
スポーツの優れた人々は青少年への影響力も大きいと思う。言葉遣いも模範的であってほしいと願うが、そんなことを気にしていたら強くなって勝てないのかも知れないが。
そして、実は、そもそも感動を「与えてもらう」ものなのだろうか、ということに疑問がある。
血のにじむような努力をし、栄冠を克ち取る話は、感動的に違いない。だが、それは観る側が自分の価値観と感性で受け止めた結果として、感動が湧き上がってくるものではないか、と考えてしまうのだ。バスケットボールでパスを受け取るように「感動」をポンと投げ与えられるようなものではない、と思うのだけれど。
そもそも物事は、人によって受け取り方はさまざまで、全国民が一斉に同じように感動するなどということは、怖いことではないか。
どうか感動の押しつけは、止めてもらいたい。
オリンピックも勝った負けたばかりに注目するのではなく、国を超えて優れたプレイやたまたま滲む人間味に対して、感応できれば、観戦も楽しくなってくると思うのだけれど。
2012年7月3日火曜日
「不屈の民」(¡EL PUEBLO UNIDO JAMÁS SERÁ VENCIDO! )のこと
少し前から、この歌が頭の芯で鳴り響いている。
今となっては、古い歌だ。
1973年9月、チリ。
アメリカに追随しようとするピノチェトに率いられた軍事クーデターによって
アジェンデ政権は倒された。
アジェンデ大統領も戦死した。
を支持する人々によって歌われた歌だ。
アジェンデ大統領は、選挙で選ばれた大統領だ。
銅山を国有化するなど、アメリカに追随する一部の者たちや大資本だけが巨利をあげていた当時のチリ社会を変えるべく立ち上がった。
ピノチェト一派はそれを暴力で転覆させた。
軍事クーデターで、アジェンデは殺された。
最後まで抵抗しようとした多くの労働者、歌手、詩人が虐殺された。
ピノチェトらはの、いったん固有化した銅山をアメリカ資本に返還すると言明。
その後も、軍事政権の弾圧で多くの詩人や学者が殺されたり、国外に亡命したりした。
「サンチャゴに雨が降る」という映画に詳しい。
この闘いからたくさんの詩や歌が生まれた。
どういうわけか、この数週間、この歌が頭から離れない。
「不屈の民」 訳詞 はぐるま座による
¡EL PUEBLO UNIDO JAMÁS SERÁ VENCIDO!
エル プエブロ ウニド
ハ マス セ ラ ベン シ ド
立ったままで歌を歌おう
犯されたこの大地が
自由の中に生まれ変わる
その日がやがて来るまでは
このまま歩き続け
闘いの火を燃やそう
立ったままで歌を歌おう
国を追われ離ればなれ
世界の果てへ散っていった
多くの友が帰るまでは
このまま歩き続け
闘いの火を燃やそう
そしていつか夜明けの陽が
この大地をかがやかす
限りなく続いていく
陽をあびた白い道は
戦車や血のにおいを
運ぶためにあるのではなく
民衆がこの大地に育てた
愛を運ぶ
血塗られた祖国のため
祈りを込めて歌おう
殺され失われた
幾多の命のために
どこまでも歩き続け
闘いの火を燃やそう
そしていつか夜明けの陽が
この大地をかがやかす
今となっては、古い歌だ。
1973年9月、チリ。
アメリカに追随しようとするピノチェトに率いられた軍事クーデターによって
アジェンデ政権は倒された。
アジェンデ大統領も戦死した。
を支持する人々によって歌われた歌だ。
アジェンデ大統領は、選挙で選ばれた大統領だ。
銅山を国有化するなど、アメリカに追随する一部の者たちや大資本だけが巨利をあげていた当時のチリ社会を変えるべく立ち上がった。
ピノチェト一派はそれを暴力で転覆させた。
軍事クーデターで、アジェンデは殺された。
最後まで抵抗しようとした多くの労働者、歌手、詩人が虐殺された。
ピノチェトらはの、いったん固有化した銅山をアメリカ資本に返還すると言明。
その後も、軍事政権の弾圧で多くの詩人や学者が殺されたり、国外に亡命したりした。
「サンチャゴに雨が降る」という映画に詳しい。
この闘いからたくさんの詩や歌が生まれた。
どういうわけか、この数週間、この歌が頭から離れない。
「不屈の民」 訳詞 はぐるま座による
¡EL PUEBLO UNIDO JAMÁS SERÁ VENCIDO!
エル プエブロ ウニド
ハ マス セ ラ ベン シ ド
立ったままで歌を歌おう
犯されたこの大地が
自由の中に生まれ変わる
その日がやがて来るまでは
このまま歩き続け
闘いの火を燃やそう
立ったままで歌を歌おう
国を追われ離ればなれ
世界の果てへ散っていった
多くの友が帰るまでは
このまま歩き続け
闘いの火を燃やそう
そしていつか夜明けの陽が
この大地をかがやかす
限りなく続いていく
陽をあびた白い道は
戦車や血のにおいを
運ぶためにあるのではなく
民衆がこの大地に育てた
愛を運ぶ
血塗られた祖国のため
祈りを込めて歌おう
殺され失われた
幾多の命のために
どこまでも歩き続け
闘いの火を燃やそう
そしていつか夜明けの陽が
この大地をかがやかす
2012年6月24日日曜日
今夜はコンサート
今夜、別海で「川原一紗◎藤川潤司 別海初コンサート」というものがあった。
実は、一昨年、熊本へ行った時、天草に近い海辺のホテルで、二人のコンサートがあり、聴く機会があった。
透明な声で、キーボードを弾きながら歌う川原一紗さんと、ギター、三線、カリンバ、からアボリジニのディジュリドゥまで多彩な民族楽器を演奏する藤川潤司さんとは夫婦で、天草での演奏は、1歳に満たないお嬢さんを背負って行っていた。
皆がよく知っている童謡や民謡から二人のオリジナル曲まで、広いレパートリーを持っているようだが、どの演奏もおかしな力の入ったものでなく、聴く人に寄り添うような心地よさを持っていて、何より演奏している二人が率先して楽しんでいるように感じられ、好感を持った。背負っている赤ちゃんまでもが、そこにいて自然に感じられた。
強い印象を受けた二人が別海町でコンサートを開いていくれるというので、出かけた。 二時間ほどの時間があっという間に過ぎ去り期待通り、素晴らしいコンサートであった。
マスコミでいつも取り上げられるわけでもない、別海町では初のコンサートで会場には空席も少なくなく、なかなか「大人気」という訳にはいかない。
だが、演奏を聴きながらつくづく考えた。
人の好みには、多様性があって当たり前なのだ。
だから、コマーシャリズムによって大量生産される音楽だけが音楽だと考えているとしたら、それこそ文化的貧困だ。
もちろん超絶的な技巧の持ち主で、広く大勢の人々に支持されているアーティストもいて良いし、その人の哲学や思想がにじみ出ていて、自分はこの人の歌が好きだという「こだわりの一人」がいても良いはずだ。
手作りパン、手作り豆腐、手作り野菜などコマーシャリズムに依らずに自分に必要な者は、自分で作ろうという流れがある中で、自分に合った音楽を自分で探し、CDや電波などの媒体を通さず、生の演奏を楽しむ機会がもっとあって良いのではないか。
心地よい音に身を任せながら、こんなことを考えていた。
実は、一昨年、熊本へ行った時、天草に近い海辺のホテルで、二人のコンサートがあり、聴く機会があった。
透明な声で、キーボードを弾きながら歌う川原一紗さんと、ギター、三線、カリンバ、からアボリジニのディジュリドゥまで多彩な民族楽器を演奏する藤川潤司さんとは夫婦で、天草での演奏は、1歳に満たないお嬢さんを背負って行っていた。
皆がよく知っている童謡や民謡から二人のオリジナル曲まで、広いレパートリーを持っているようだが、どの演奏もおかしな力の入ったものでなく、聴く人に寄り添うような心地よさを持っていて、何より演奏している二人が率先して楽しんでいるように感じられ、好感を持った。背負っている赤ちゃんまでもが、そこにいて自然に感じられた。
強い印象を受けた二人が別海町でコンサートを開いていくれるというので、出かけた。 二時間ほどの時間があっという間に過ぎ去り期待通り、素晴らしいコンサートであった。
マスコミでいつも取り上げられるわけでもない、別海町では初のコンサートで会場には空席も少なくなく、なかなか「大人気」という訳にはいかない。
だが、演奏を聴きながらつくづく考えた。
人の好みには、多様性があって当たり前なのだ。
だから、コマーシャリズムによって大量生産される音楽だけが音楽だと考えているとしたら、それこそ文化的貧困だ。
もちろん超絶的な技巧の持ち主で、広く大勢の人々に支持されているアーティストもいて良いし、その人の哲学や思想がにじみ出ていて、自分はこの人の歌が好きだという「こだわりの一人」がいても良いはずだ。
手作りパン、手作り豆腐、手作り野菜などコマーシャリズムに依らずに自分に必要な者は、自分で作ろうという流れがある中で、自分に合った音楽を自分で探し、CDや電波などの媒体を通さず、生の演奏を楽しむ機会がもっとあって良いのではないか。
心地よい音に身を任せながら、こんなことを考えていた。
2012年6月15日金曜日
「まつろわぬもの」のこと
草地へ、片道100メートルくらい散歩した。
エゾセンニュウ、ツツドリ、シマセンニュウ、コヨシキリ、カッコウ、ノゴマなどの歌が響き、晩春から初夏への移り変わりを感じさせてくれた。
怪我をしたからこそ、立ち止まって季節の移ろいをゆっくり味わうことが出来るのかも知れない。
怪我をしてありがたかったことがもう一つある。
読書の時間をたっぷりとれることだ。お見舞いに本を持ってきてくれる友人、知人がいて、ベッドサイドには数冊の分厚い本が積まれている。
僕をよく知る人たちが選んでくる本だからどの一冊をとっても興味深く面白そうな本ばかりだ。
その中に「まつろわぬもの」という一冊がある。
1918年(大正7年)北海道の屈斜路湖畔のコタンに生まれた著者シクルシイ(和名:和気市夫)の自伝だ。
彼は、生後間もない頃から神童として知られ、第二次世界大戦直前の外務大臣である松岡洋右に見いだされ、英才教育を受ける。やがて、英語、フランス語、ロシア語、中国語、モンゴル語、ラテン語、ギリシア語などを身につけて、陸軍情報部付の少尉となり、松岡の命を受けてアジア各地で諜報活動を行った。
実はまだ、読み始めたばかりなのだが、アイヌ民族と和人、日本と中国など諸外国との「界面の世界」に広がる怨嗟や欲望からなる闇に、その世界で実際に生きてきた人の視点から光を当てた本のように思う。戦後、第一生命保険相互会社の人権問題研修推進本部理事会の顧問を務めたシクルシイさんが、彼の前半生での体験を通して、これからの世界のあり方をどう考えているのかを読み取りたい。
ESD(持続可能な社会のための教育)は、今やこれからの教育の核に据えられていく必要がある。その時に多文化共存、異文化理解、人権、民族などの問題は、それぞれ具体的な課題として重要性を増してくる。
上辺だけの友好や国際交流に終わらせることなく、実効ある多文化共存教育を行い偏見や差別を払拭するには、シクルシイさんのような人について、われわれはもっと学ばなければならない。
「まつろう」とは「順う」など書き、日本列島に先住していた民族で大和朝廷に服従しない民族を「まつろわぬ民」と呼んだ。蝦夷(えみし、えびす、えぞ)なども同じ意味である。
国民の生活よりも自分たちの利権を優先し、放射能に汚染された環境で国民を生活させて顧みない政府、消費税をつり上げ国民の暮らしを破壊しようとしている政府、そこで吸い上げたカネをアメリカのために貢ぎ、米軍基地のためなら国民の生命や安全など一顧だにしない政府に、われわれは「まつろう」わけにはいかない。
エゾセンニュウ、ツツドリ、シマセンニュウ、コヨシキリ、カッコウ、ノゴマなどの歌が響き、晩春から初夏への移り変わりを感じさせてくれた。
怪我をしたからこそ、立ち止まって季節の移ろいをゆっくり味わうことが出来るのかも知れない。
怪我をしてありがたかったことがもう一つある。
読書の時間をたっぷりとれることだ。お見舞いに本を持ってきてくれる友人、知人がいて、ベッドサイドには数冊の分厚い本が積まれている。
僕をよく知る人たちが選んでくる本だからどの一冊をとっても興味深く面白そうな本ばかりだ。
その中に「まつろわぬもの」という一冊がある。
1918年(大正7年)北海道の屈斜路湖畔のコタンに生まれた著者シクルシイ(和名:和気市夫)の自伝だ。
彼は、生後間もない頃から神童として知られ、第二次世界大戦直前の外務大臣である松岡洋右に見いだされ、英才教育を受ける。やがて、英語、フランス語、ロシア語、中国語、モンゴル語、ラテン語、ギリシア語などを身につけて、陸軍情報部付の少尉となり、松岡の命を受けてアジア各地で諜報活動を行った。
実はまだ、読み始めたばかりなのだが、アイヌ民族と和人、日本と中国など諸外国との「界面の世界」に広がる怨嗟や欲望からなる闇に、その世界で実際に生きてきた人の視点から光を当てた本のように思う。戦後、第一生命保険相互会社の人権問題研修推進本部理事会の顧問を務めたシクルシイさんが、彼の前半生での体験を通して、これからの世界のあり方をどう考えているのかを読み取りたい。
ESD(持続可能な社会のための教育)は、今やこれからの教育の核に据えられていく必要がある。その時に多文化共存、異文化理解、人権、民族などの問題は、それぞれ具体的な課題として重要性を増してくる。
上辺だけの友好や国際交流に終わらせることなく、実効ある多文化共存教育を行い偏見や差別を払拭するには、シクルシイさんのような人について、われわれはもっと学ばなければならない。
「まつろう」とは「順う」など書き、日本列島に先住していた民族で大和朝廷に服従しない民族を「まつろわぬ民」と呼んだ。蝦夷(えみし、えびす、えぞ)なども同じ意味である。
国民の生活よりも自分たちの利権を優先し、放射能に汚染された環境で国民を生活させて顧みない政府、消費税をつり上げ国民の暮らしを破壊しようとしている政府、そこで吸い上げたカネをアメリカのために貢ぎ、米軍基地のためなら国民の生命や安全など一顧だにしない政府に、われわれは「まつろう」わけにはいかない。
2012年6月12日火曜日
気にいらねえナ!「ご理解頂く」という表現
朝、突然、退院許可が出た。
ちょっと予想外の展開だ。
鎖骨の方は処置が終わり、後は通院治療でも構わない。肋骨は、肺の気胸が進行していない以上、今、特別にするべきことはない。
したがって退院という結論に落ち着くのだろう。
起立と歩行の困難については、自分で努力しろということだ。
ま、確かにその通りだ。
病室には癌などで胃を切除した人、する人など容態の重い患者さんもたくさんいる。
今の僕は、普通の人よりも歩行が遅く、重病のように見える僕も、専門医の目からは放っておいてもやがて回復する、特に治療を必要としていない人に見えることだろう。
ありがたいことだと思う。
何度か同じことを書いたように思う。
いつから日本語の「理解する」という単語の意味が変わったのだろう?
沖縄の辺野古に新しい基地を作ることを地元に「ご理解頂きたい」と言う。
大飯原発3,4号機の再稼働も「地元にご理解頂きたい」と言う。
別海町の矢臼別演習場における米海兵隊の実弾演習も、沖縄の普天間基地への「オスプレイ」配備も、何でもかんでも「ご理解頂きたい」らしい。
高校生の成績を評価するとき、たいていの教科や科目に「知識・理解」という項目がある。どの程度「理解しているか」を量的に、また質的に評価するものだ。
生徒全員が授業の目標を理解してくれること願いながら、研究に努め渾身の思いを込めて授業に臨むが、なかなか一人残らず「理解」してもらえるものではない。
だからこれほど安易に「理解を求める」などと使えるはずはない。安易に使うのは本来の意味を捨て去り「ご理解頂く」という言葉を「こちら強行するから黙って従え」という意味で使っているからだ。
本来の意味をねじ曲げ、真実を覆い隠すために使っているからだ。
こんな政治家、こんな政府に国を任せていては、国とともに文化も破壊されていくだろう。言葉を失った文化は滅びる以外の道はない。
歴史が証明している。
それとも、これほどまでに言葉を軽視するのは、無神経にも他民族の言葉を平気で奪ってきた過去を持っているからだろうか。
さもありなん。
2012年4月29日日曜日
夜の阿寒湖畔、森の片隅で時空を越えた芸術の交感
28日夜、阿寒湖のアイヌシアター「イコロ」へ出かけた人は、シアターの名前の通り大変な宝物に出会ったことになるのではないだろうか。
「イコロ」のグランドオープン前夜祭として上演されたのジョイントコンサートというよりもコラボレーション。
それぞれの芸術が一体となった。
ハワイ在住の現代舞踏家、那須シズノ
アメリカのヴォーカルアーティスト、リアノン
阿寒湖アイヌコタンの阿寒湖口琴の会
セネガルのパーカッショニスト、オマール・ガイ
写真家、ジャンネ ワトソン
新しく建てられた「イコロ」のステージは、低い舞台の前にせり出した空間を半円形にこむように座席が配置されている。木の香りも新しい。
ステージ奥のスクリーンにワトソンさんの写真が大きく映し出されている。それは、蛇紋岩の露頭にも見える写真だった。
やがてトンコリの演奏に乗って舞踏が始まり、途中から客席にいたリアノンさんが歌い出す。「歌」というより、その前半部は、意味を持たない「音」あるいは「声」である。それは、言葉の壁を越えて伝えられる情念であった。
「歌から言語が抜き取られると、『言葉による芸術』は成り立たなくなるか?」漠然とそんなことを考え始めたとき、彼女の声の中に英語が混じり始めた。
それは、霧の中の物の形が少しずつ見えてくるように、言葉が歌の中から浮かび上がってくるような、不思議が現れ方だった。
そしてムックリの演奏、アフリカのドラムが加わり、徐々に融合していく。
密度の高い演奏会が終わり、外に出ると、月齢9日、上弦前夜の月が木星とともに天頂に近くに浮かんでいた。
その下には黒々と阿寒の森。その夜、僕らが眠った場所は、森の一隅だった。
人間は、互いに憎み合い、利己的で、争いや差別や搾取を繰り返し、いつまでも佳い方向を向かないと思い知らされることが多く、失望を味わう日々に疲れた心が、慰められた夜だったと思う。
「イコロ」のグランドオープン前夜祭として上演されたのジョイントコンサートというよりもコラボレーション。
それぞれの芸術が一体となった。
ハワイ在住の現代舞踏家、那須シズノ
アメリカのヴォーカルアーティスト、リアノン
阿寒湖アイヌコタンの阿寒湖口琴の会
セネガルのパーカッショニスト、オマール・ガイ
写真家、ジャンネ ワトソン
新しく建てられた「イコロ」のステージは、低い舞台の前にせり出した空間を半円形にこむように座席が配置されている。木の香りも新しい。
ステージ奥のスクリーンにワトソンさんの写真が大きく映し出されている。それは、蛇紋岩の露頭にも見える写真だった。
やがてトンコリの演奏に乗って舞踏が始まり、途中から客席にいたリアノンさんが歌い出す。「歌」というより、その前半部は、意味を持たない「音」あるいは「声」である。それは、言葉の壁を越えて伝えられる情念であった。
「歌から言語が抜き取られると、『言葉による芸術』は成り立たなくなるか?」漠然とそんなことを考え始めたとき、彼女の声の中に英語が混じり始めた。
それは、霧の中の物の形が少しずつ見えてくるように、言葉が歌の中から浮かび上がってくるような、不思議が現れ方だった。
そしてムックリの演奏、アフリカのドラムが加わり、徐々に融合していく。
密度の高い演奏会が終わり、外に出ると、月齢9日、上弦前夜の月が木星とともに天頂に近くに浮かんでいた。
その下には黒々と阿寒の森。その夜、僕らが眠った場所は、森の一隅だった。
人間は、互いに憎み合い、利己的で、争いや差別や搾取を繰り返し、いつまでも佳い方向を向かないと思い知らされることが多く、失望を味わう日々に疲れた心が、慰められた夜だったと思う。
2012年4月28日土曜日
森と湖での祭・・・「イコロ」グランドオープン前夜祭
三日ぶりに晴れた。
気温はまだ上がらないが、オオジシギが急降下を繰り返し、ウグイスが鳴き、エゾアカガエルの声もする。
すっかり春らしくなった。
今年初めてのキャンプで阿寒湖畔まで来ている。
今夜は、アイヌ民族の伝統文芸の発信拠点になる「阿寒湖温泉アイヌシアター『イコロ』」のグランドオープン前夜祭が開かれる。
「日本とハワイのアーティストの共鳴」と題して「連・蒼き響」というテーマでパフォーマンスが繰り広げられる。
その余韻を阿寒の森のそばでじっくりと味わいたい。
2012年3月24日土曜日
「日本海」の旅路 ②・・・播州赤穂
兵庫県立美術館に行く前、播州赤穂へ行った。
「播州赤穂」というのはJR西日本の駅名で、町の名前は「赤穂市」だ。
今さら書くまでもない「忠臣蔵」の舞台である。舞台は、江戸と言うべきだから、「国元」とでも言った方が良いのか。
特別に忠臣蔵に興味があったわけではないが、せっかくの機会だから訪ねてみた。いわば野次馬的な動機である。前夜泊めてもらった義弟宅のある明石から新快速に乗って20分で姫路に着く。姫路から普通列車に乗り換える。山陽本線の相生から赤穂線に入って、ほどなく播州赤穂に着いた。
忠臣蔵の町だから、さぞ義士饅頭とか義士最中などというお土産品が並び、観光客歓迎色で派手に彩られているかと思っていたが、さにあらず。駅前は、しんとして、普通の地方都市のよくある日曜日という佇まいだ。ぼんやりしているとここが、あの超有名な歴史的事件のお国元だとは気づかずに通り過ぎてしまいそうなくらいだ。
だが、よく見るとあちらこちらに地味な案内板がある。赤穂城跡まで1kmという案内標識もある。駅前からお城跡へとまっすぐに続く商店街は、どの店も白壁で統一されていて、派手な看板は一切ない。これが観光客へのアピールだと気づくのに時間はかからなかった。そう気づくといろいろなものが目に付くようになる。
押しつけがましく派手にアピールしてくる観光地よりも、はるかに好感のもてるやり方で、時間が経つほど、心の中で印象が輝きを増してくるような町だと思う。
ホテルの駐車場のゲートが「車置き処」という冠木門風になっている。
街角にその当時の上水道の水をくみ上げる井戸が復元されている。
赤穂は、製塩技術を高め、塩の産出で財政を潤していた藩のようだ。その財力を使って上水道を整備するなど、住民の暮らしの向上にも努めていたのかも知れない。見かけ上は(失礼ながら)田舎の小さな町、小藩に過ぎないだろうが、財政の安定や技術の向上で豊かな暮らしを営んでいたのだろう。そこに、藩主の江戸城内における刃傷沙汰があって、この小さな町は大揺れだったのだと思う。
事件は、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」になり、浄瑠璃や講談などにもなった。赤穂へ行ったこともない人々の間にもその評判は広がった。現代の日本人の間でも、その物語は広く知られている。
だが、僕はある違和感を感じた。
僕自身は、歌舞伎や浄瑠璃、講談などにそれほどの知識はないが、赤穂の町を歩いてみた印象と「物語」の中で語られている「忠臣蔵」との間に、相当な違いを感じた。これは、ほとんど直感のようなものだから、上手く説明できないのだが、赤穂の町を歩いてみて、「忠臣蔵」というのは、史実に基づいてはいるが、本質的にはフィクションなのだ、という思いを強くした。
吉良邸討ち入りなど実際の行動は、もっとずっと地味で、野暮ったく、それだけに必死で余裕のない行動だったに違いないと感じた。
「忠臣蔵はフィクションだ!」などとここで批判するつもりは毛頭無い。
それで良いのだと思う。フィクションはフィクション、現実は現実なのだ。
そして、その現実の「忠臣蔵」を肌で感じることが出来た分だけ、今回の赤穂市訪問の収穫は大きかった、と思うのである。
2012年3月23日金曜日
「日本海」の旅路 ①・・・アール・ブリュット
16日、「寝台特急日本海」最終列車に乗ってから1週間が経った。早いものだ。
あの夜、「日本海」は、1023キロを走破し、僕を大阪に連れて行ってくれた。
大阪に着いてまず、行った場所は大阪天満宮。
さすが、学問の神様へお参りに行くんだ!と思った人は、いないと思うが、その推察通りだ。大阪天満宮の隣にある「大阪繁昌亭」に行ったのだ。
翌日の夕方、僕は神戸にいた。
朝から播州赤穂を訪ねて、赤穂城跡などを歩き回った。赤穂市立歴史博物館も見学したが、その受付に置かれていたパンフレットが目にとまった。
兵庫県立美術館で開かれている「解剖と変容」というタイトルの展覧会だ。副題に「アール・ブリュットの巨匠たち」とあった。
「アール・ブリュット(Art Brut) 」というのは、フランス人画家・ジャン・デュビュッフェがつく語で、「生(なま、き)の芸術」という意味なのだそうだ。
英語では、「アウトサイダー・アート(outsider art)」と言う。ただし、このカテゴリーについては、芸術家たちの間で論争があるようで、「両者は微妙に違う」という主張もある。
一般に、正式な美術教育を受けず、発表することを目的としないで作品を制作しつづけている人々の芸術のことを意味している。
この展覧会では、「専門的な美術教育を受けていない作り手が、芸術文化や社会から距離を置きながら制作した作品」と説明されていた。
多くの場合、社会との交渉を断っている人々が、団体に所属して発表することをせず、もちろんその作品で生計を立てることもせず、独学で制作を続けた芸術作品で、知的障害者、精神障害者あるいは精神病患者の作品なども含まれる。
中には、その人が創作活動をしていたことすら知られず、死後に作品が発見されたというケースもある。
以前、アロイーズという人の作品展を観たことがあった。今回はアロイーズの作品は含まれていなかったが、日本初公開のチェコ出身の画家アンナ・ゼマーンコヴァー(1908‐1986)とルボシュ・プルニー(1961‐ )の作品が展示されていた。
ゼマーンコヴァー の絵は、学生時代に顕微鏡を覗きながら一心不乱に描いたスケッチを思い出させてくれた。もちろん描かれているものは、作者の頭の中にだけ棲んでいるバクテリアや原生動物たちなのだろう。あるいは、生物体内の架空の組織や器官。
展示を観てまわっているいるうちに、その生命感がこちらの体内にも注入されてくるような不思議な高揚を覚えた。
無計画な旅だったのだが、最後の「日本海」が導いてくれた縁だったように思う。
兵庫県立美術館 http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_1202/index.html
あの夜、「日本海」は、1023キロを走破し、僕を大阪に連れて行ってくれた。
大阪に着いてまず、行った場所は大阪天満宮。
さすが、学問の神様へお参りに行くんだ!と思った人は、いないと思うが、その推察通りだ。大阪天満宮の隣にある「大阪繁昌亭」に行ったのだ。
翌日の夕方、僕は神戸にいた。
朝から播州赤穂を訪ねて、赤穂城跡などを歩き回った。赤穂市立歴史博物館も見学したが、その受付に置かれていたパンフレットが目にとまった。
兵庫県立美術館で開かれている「解剖と変容」というタイトルの展覧会だ。副題に「アール・ブリュットの巨匠たち」とあった。
「アール・ブリュット(Art Brut) 」というのは、フランス人画家・ジャン・デュビュッフェがつく語で、「生(なま、き)の芸術」という意味なのだそうだ。
英語では、「アウトサイダー・アート(outsider art)」と言う。ただし、このカテゴリーについては、芸術家たちの間で論争があるようで、「両者は微妙に違う」という主張もある。
一般に、正式な美術教育を受けず、発表することを目的としないで作品を制作しつづけている人々の芸術のことを意味している。
この展覧会では、「専門的な美術教育を受けていない作り手が、芸術文化や社会から距離を置きながら制作した作品」と説明されていた。
多くの場合、社会との交渉を断っている人々が、団体に所属して発表することをせず、もちろんその作品で生計を立てることもせず、独学で制作を続けた芸術作品で、知的障害者、精神障害者あるいは精神病患者の作品なども含まれる。
中には、その人が創作活動をしていたことすら知られず、死後に作品が発見されたというケースもある。
以前、アロイーズという人の作品展を観たことがあった。今回はアロイーズの作品は含まれていなかったが、日本初公開のチェコ出身の画家アンナ・ゼマーンコヴァー(1908‐1986)とルボシュ・プルニー(1961‐ )の作品が展示されていた。
ゼマーンコヴァー の絵は、学生時代に顕微鏡を覗きながら一心不乱に描いたスケッチを思い出させてくれた。もちろん描かれているものは、作者の頭の中にだけ棲んでいるバクテリアや原生動物たちなのだろう。あるいは、生物体内の架空の組織や器官。
展示を観てまわっているいるうちに、その生命感がこちらの体内にも注入されてくるような不思議な高揚を覚えた。
無計画な旅だったのだが、最後の「日本海」が導いてくれた縁だったように思う。
兵庫県立美術館 http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_1202/index.html
2012年1月30日月曜日
続 富良野への小さな旅
昨日の続き。
環境を汚すことを批判したり反対したりする時、われわれはどのような理由を並べるだろう。
普通は、健康への心配というのが一般的によくあるのではないだろうか。子どもやお年寄りなど弱者の立場に立って考えてみる。
それは、もちろん必要なことだし、大切なことだ。今回の原子力発電所事故に際しても子どもへの影響がもっとも心配されている。
それは、まったく正しいことだ。
だが、同時にその自然環境で生きるあらゆる生物、生命活動を営んでいる存在のことも考えるべきなのだ。そうしなければ、生態系を保全することにはならず、生物がつながりをもって生きているシステムが保全されなければ意味がない。
希少種だけを保護して、「種の保全を果たせば、開発行為が許される」という発想は、開発を推進する側の論理として、しばしば派手に振り回されるが、そんな考え方は何十年も前から破綻している。どうして、いまだにそんな綻びた論理がまかり通るのだろう。
もちろん、それは、何が何でも開発行為を推し進めたいからに他ならない。
「マロース」はそんな人間の奢りを諫める野生生物たちの無言の訴えを形にして見せてくれたと思う。その真摯な訴えが心を動かしたのだと思った。
日頃から野生動物に接する機会が多く、浅学であっても彼らの事について学んでいると、野生動物が人間にどんなことを訴えたいのかが伝わって来るように感じていた。
彼らは決して主張しない。反対運動も起こさない。人間が環境に手を加えれば、黙って立ち去るだけで、後から訴訟を起こしたり恨み言を言ったりはしない。
だが、その心の内を、僕たちは想像するのだ。
そして、その想像の通りの台詞を、倉本聰さんは、芝居の中で言わせてくれたのである。
昔、根室と釧路の間に高規格道路を通し、根室市の温根沼に新たに高い橋をかける計画が持ち上がったことがあった。その時の環境影響評価書に
「ハクチョウの衝突なども予想されるが、ハクチョウは特に重要な種ではない」という記述があった。
僕はそれを読んで、心の底から怒りがこみ上げてきたのを覚えている。
20歳代の頃から興味を持ち、深い関わりをもっていたハクチョウが侮辱され、悲しくやりきれない気持ちになっていたのだ。
おそらくその時の僕と同じ気持ちで(いやそれ以上に深く理解した上で、であろうが)この物語が創られていたこと、そして、富良野の森の中にある劇場で、その物語と出会うことが出来たことが、たまらなく嬉しかった。
一泊二日間の短い旅だったが、40年間の放浪の末に安住の地を得たような、満たされた思いを味わった。
環境を汚すことを批判したり反対したりする時、われわれはどのような理由を並べるだろう。
普通は、健康への心配というのが一般的によくあるのではないだろうか。子どもやお年寄りなど弱者の立場に立って考えてみる。
それは、もちろん必要なことだし、大切なことだ。今回の原子力発電所事故に際しても子どもへの影響がもっとも心配されている。
それは、まったく正しいことだ。
だが、同時にその自然環境で生きるあらゆる生物、生命活動を営んでいる存在のことも考えるべきなのだ。そうしなければ、生態系を保全することにはならず、生物がつながりをもって生きているシステムが保全されなければ意味がない。
希少種だけを保護して、「種の保全を果たせば、開発行為が許される」という発想は、開発を推進する側の論理として、しばしば派手に振り回されるが、そんな考え方は何十年も前から破綻している。どうして、いまだにそんな綻びた論理がまかり通るのだろう。
もちろん、それは、何が何でも開発行為を推し進めたいからに他ならない。
「マロース」はそんな人間の奢りを諫める野生生物たちの無言の訴えを形にして見せてくれたと思う。その真摯な訴えが心を動かしたのだと思った。
日頃から野生動物に接する機会が多く、浅学であっても彼らの事について学んでいると、野生動物が人間にどんなことを訴えたいのかが伝わって来るように感じていた。
彼らは決して主張しない。反対運動も起こさない。人間が環境に手を加えれば、黙って立ち去るだけで、後から訴訟を起こしたり恨み言を言ったりはしない。
だが、その心の内を、僕たちは想像するのだ。
そして、その想像の通りの台詞を、倉本聰さんは、芝居の中で言わせてくれたのである。
昔、根室と釧路の間に高規格道路を通し、根室市の温根沼に新たに高い橋をかける計画が持ち上がったことがあった。その時の環境影響評価書に
「ハクチョウの衝突なども予想されるが、ハクチョウは特に重要な種ではない」という記述があった。
僕はそれを読んで、心の底から怒りがこみ上げてきたのを覚えている。
20歳代の頃から興味を持ち、深い関わりをもっていたハクチョウが侮辱され、悲しくやりきれない気持ちになっていたのだ。
おそらくその時の僕と同じ気持ちで(いやそれ以上に深く理解した上で、であろうが)この物語が創られていたこと、そして、富良野の森の中にある劇場で、その物語と出会うことが出来たことが、たまらなく嬉しかった。
一泊二日間の短い旅だったが、40年間の放浪の末に安住の地を得たような、満たされた思いを味わった。
2012年1月29日日曜日
мороз(マロース)・・・富良野への小さな旅
帰宅は22時30分であった。
約300キロの道のりを帰って来た。
富良野から。
富良野GROUPの公演を観に行ってきたのだ。
「マロース」は2011年初演、倉本聰が、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』をヒントに、『ニングル』に次いで書き下ろした自然とニンゲンを描く小さな神話とパンフレットで説明されている。
ホテルの宿泊とセットになった鑑賞券があった。一流の芝居が観られて、宿泊もできる。ちょうど旭川へ行くことを計画していたので、ホイホイとチケットを予約し、気軽な感覚で出かけた。
演劇も、倉本聰さんの芝居だから、きっと楽しめるだろう、という安直な心構えだった。
しかし、芝居を観て、圧倒された。痺れた。ココロが固まった。
どう表現すればよいのだろう。
帰路、ハンドルを握りながら、昨夜受けた感動の表現をあれこれ考えてみたのだが、まだまとまりきらないでいる。
これまで続いてきた野生の生き物に対する僕の思いと、この芝居に流れている精神とが強く共鳴するのを感じた、と言って良いだろう。
今日のところは、まだ、十分にまとまっていないので、後日、この続きを書こうと思う。
とにかく、とてもいい演劇だった。
より多くの人に関心をもってもらいたいと思った。
約300キロの道のりを帰って来た。
富良野から。
富良野GROUPの公演を観に行ってきたのだ。
「マロース」は2011年初演、倉本聰が、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』をヒントに、『ニングル』に次いで書き下ろした自然とニンゲンを描く小さな神話とパンフレットで説明されている。
ホテルの宿泊とセットになった鑑賞券があった。一流の芝居が観られて、宿泊もできる。ちょうど旭川へ行くことを計画していたので、ホイホイとチケットを予約し、気軽な感覚で出かけた。
演劇も、倉本聰さんの芝居だから、きっと楽しめるだろう、という安直な心構えだった。
しかし、芝居を観て、圧倒された。痺れた。ココロが固まった。
どう表現すればよいのだろう。
帰路、ハンドルを握りながら、昨夜受けた感動の表現をあれこれ考えてみたのだが、まだまとまりきらないでいる。
これまで続いてきた野生の生き物に対する僕の思いと、この芝居に流れている精神とが強く共鳴するのを感じた、と言って良いだろう。
今日のところは、まだ、十分にまとまっていないので、後日、この続きを書こうと思う。
とにかく、とてもいい演劇だった。
より多くの人に関心をもってもらいたいと思った。
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