2009年8月31日月曜日

夕焼け



 台風が接近しているせいだろうか?血のように赤い夕焼けだった。
 凄味のある空。秘めた怒りか?

2009年8月30日日曜日

羅臼湖





 今年は仕事の関係と天候に恵まれず羅臼湖へ行っていなかったので、今日が今年初の羅臼湖行となった。
 雨が多かったせいかいつも以上に道がぬかるんでいて歩きにくかった。木道の傷みも相当なもので、厳しい気象条件と利用者が多すぎることが原因かなあ、などと考えながら歩くうちに五の沼を過ぎて短い下りにかかる。足下ばかり見ていた視線を何気なく上に上げると遠くの羅臼湖が目に飛び込んできた。
「やっと来たね。今年は遅かったね。」端正な表情で、呼びかけてくる声が聞こえたような瞬間だった。

2009年8月29日土曜日

ウミガメ放流会の罪悪

 ウミガメの孵化放流事業というのは「保護」という名目のもとに卵を掘り返して集め、孵化させて、子亀を放流していると知った。カメが産卵する海岸の環境を守りきれなくなったニンゲンたちの苦肉の策であるらしい。
 それはさておき、ウミガメの専門家から子亀の放流を賑々しく行う「放流会」がカメの生存に対して良くない影響を与えているという指摘が出ているらしい。

 ウミガメが産卵に上陸する海岸から卵を集め、孵化させて子亀を放流する、という形の保護活動が行われているらしい。「放流会」を行うためには、一定数の子亀がそろうまで子亀の畜養が必要になる。この期間が子亀の体力を消耗させ悪影響を与える危険性が指摘されている、というニュースを聞いた。そこで「放流会」を取りやめる所も出てきているという。その対応は好ましく感じた。だが、同時にそのニュースの中で「環境教育のために放流会を取りやめることは困難」との意見があると紹介されていて、耳を疑った。いまだに信じられない。野生動物の負荷を意味なく増大させて、何のための「環境教育」なのだろう?本末転倒も甚だしい。

 「環境教育」を標榜する運動の中に相当量のアヤシゲな運動が混ざり込んでいるとかねがね感じていたけれど、こうあからさまに自らの正体を暴露してししまうこともあるのだなあと呆れた。

 それにしても日本人はどこまで自然に対して傲慢になるのだろう。自分たちの快適な生活を優先させるあまり、ウミガメの繁殖環境を破壊してしまったことは敢えて黙過しよう。残り少なくなった砂浜に産卵された卵を守るために回収と人工的な孵化が必要なことも、場所によってはやむを得ないと思う。しかし、孵化してきた子亀の命は誰の物でもない。子亀たちにとって最善の条件で放流してやることが当然ではないだろうか。どうしてそこにニンゲンの側の都合が介在するのだろう?なんたる欺瞞。なんたる偽善。
 ホタルの放流運動も同様なのだが、これらは「教育」ではなく大人のノスタルジーに基づいた自己満足追求以外に何の意味もない。こんな貧困な精神に基づいた運動を「環境教育」などと称することは、迷惑千万なことである。

2009年8月28日金曜日

前線

 前線通過により波が高まり、二学年で予定されていたホエールウォッチングは中止。
雨も強くなっていた。
 再来週に期待。

2009年8月27日木曜日

期日前投票

 期日前投票をしてきた。選挙の時、各政党や候補者の言っていることがそのまま全部実現できたなら、世の中バラ色になるはずだよなあ。
 そう言えば、前の衆議院選挙の時も世の中がバラ色になるような話ばかりを聞かされて、ふたを開けてみたら、正反対。世の中ガタガタ。

 たしか、ウソつきはいけないって、言われ続けていたよな。

 さよなら 日本 散る日本

2009年8月26日水曜日

海からの贈り物





 昨日は久しぶりにマッコウクジラの近くに寄って見ることができた。いつ見ても、何度見てもクジラは大きいと感じる。しかし、どういうわけか昨日はそのクジラを小さく感じた。いや、大きさは間違いなく巨大なのだが、あらためて海の大きさが大きく広く感じたのだ。
 あの、巨大なクジラが生まれ成長し、生きる場が海だ。大暴れしたり全速力で泳いだりクジラたちも生きている以上思い切り身体を動かすことがないはずはない。海は、黙ってそれを受け入れ、クジラたちをものびのびと生活させている。なんと大きなことだろう。
私たちは「ホエールウォッチング」と称してクジラを追いかけ、それを鑑賞し、その大きさに感嘆している。クジラの魅力で人生が変わってしまった、という人も少なくないはずだ。もちろん、そのことは理解できる。あの大きさ、あの動き、あの噴気の音が魅力的でないはずはない。
 だが、それにも増して、海の広さと大きさを感じ取ることが、ホエールウォッチングの第一の目的かも知れない。
 そんな海からの贈り物のお話。

 一昨日、夏休みが明けて初めての授業があり、高校へ行ったら一人の女生徒が
「はい、先生、おみやげ」とペンダントをくれた。一見してサンゴで作った物かと思った。沖縄のおみやげ屋さんなどでよく売られているあれだ。しかし、よく見るとどこか見覚えのある形の物でできている。僕は嬉しくなった。
 別に女子高生からペンダントをもらったから嬉しいのではない。彼女の次の言葉によって嬉しくなったのだ。
「番屋のある浜で集めた物で作ったんです」と彼女。
 知床の海岸で見つかる貝殻、それを漂着していたテグスのような糸でペンダントにまとめてある。
 あらために眺めてみた。彼女のセンスの良さで、美しくまとまっている。もちろん世界で一つだけの物だ。すべて知床の海岸にあった物で作られているのだ。彼女の家の番屋は岬まで数キロという知床半島の先端近くにある。これは知床からのプレゼントでもあるのだ。
 大切な宝物が一つ増えた、この夏の出来事である。

2009年8月25日火曜日

今日のクジラ





 高校生の授業でホエールウォッチングへ。
 三年生は二年越しの念願が叶った。
 イシイルカとマッコウクジラを見ることができた。

 その他、トウゾクカモメ、フルマカモメ、ミツユビカモメ、アカエリヒレアシシギ、オオセグロカモメ、ウミウ、ウトウなど多数。

2009年8月24日月曜日

今日という一日

 羅臼小学校生きものクラブで昆虫採集の手伝い。

 急な雨が予報されていたが、終日気持ちの良い晴れだった。もっともそれは知床だけだったのかも知れない。局地的には雨の降った地域もあったようだ。

 根室海峡を挟んで、国後島がくっきりと近くに見えていた。

 岬から帰ってきて、つくづく知床は高山だ、との思いを強めた。ちょうど高山を横に寝かせたようなものだと思う。もちろん岬が山頂で羅臼は山麓の高原というところだろうか。岬に行く、ということは山頂に登ってくるようなものだ。事実、岬の方に行くと海岸線でも高山植物のイワベンケイなどが咲いているのだ。

2009年8月23日日曜日

尻羽岬(シレパみさき)



  この地名を聞いて、
 「ああ、あそこね!」と答える人は何人いるだろう?北海道の人でもそう多くないと思う。道東だ。厚岸(あっけし)という町がある。釧路市と根室市の中間、厚岸湾に面する町だ。知名度は高くないが北海道の中では歴史の古い町だ。釧路や根室などよりも古い。江戸時代は道東(東蝦夷地)の中心都市だった。
 厚岸湾は南に口を開いて奥が深く、天然の良港であることがよくわかる。内地から東蝦夷地へ航海してきた船は、この湾に入るとホッと一息ついていたことだろう。湾口には、東に愛冠(アイカップ)岬、西に尻羽岬がそびえている。市街地は東側に偏っている。昔からそうだったようで、国泰寺など古いお寺もあるし北大の臨海実験場などもある。だからバラサン岬側は何度も行ったことがありなじみ深かった。
 ところが反対側の尻羽岬は、天気の良い日は厚岸市街地からよく見えているのだが今までずっと行く機会がなかった。普段通っている国道から15kmほど離れていて、近くへ行く「ついで」が無いというのが最大の理由だ。

 昨日、釧路からの帰り、思いがけなく時間ができたので立ち寄ることにしたのだ。天気は申し分なかった。
 釧路から根室へ向かう国道44号線と並行して海岸線を道道が走っている。「北太平洋シーサイドライン」と麗々しく名付けられている。この道は、昔から好きだった。釧路・根室間の太平洋岸は、地殻が隆起しているという場所で切り立った断崖が連続している。内陸から流れてくる沢の出口に狭い浜が出来ていて、漁をする人たちはそんな場所で昔から暮らしている。背後の山中に道路が通っていて、急な坂になっている枝道を下って行くと行き止まりの所に小さな集落がある。釧路を出て、このような道を厚岸に向かって進む。
それぞれが昔のまま(と思われる)名前が付いている。アイヌ語の地名に無理矢理漢字を当てはめなければ気が済まなかった時代の人々の執念が感じられる。

 一応メモしたのだが、間違いがあるかも知れない。釧路市側から以下の通りである。

「又飯時」またいどき
「昆布森」こんぶもり
「宿徳内」しゅくとくない
「来止臥」きとうし
「十町瀬」とまちせ
「浦雲泊」ぽんとまり
「跡永賀」あとえか
「初無敵」そんてき
「入境学」にこまない
「賤向夫」せきねっぷ
「分遺瀬」わかちゃらせ
「老者舞」おしゃまっぷ
「知方学」ちぽまない
「去来牛」さるきうし
「別尺泊」べっしゃくどまり
「仙鳳跡」せんぽうし

 道道とは知方学で別れて岬方向へ向かう。やがて駐車場で道は行き止まりになり、丈の低いササが生えた段丘が続いていた。およそ2キロほどの距離を徒歩で進むとやっと岬の先端に達した。海難物故者供養塔がポツンと立っている。さらに「尻羽岬」という名前とその由来の書かれている小さな看板。向かい側には厚岸湾口に浮かぶ大黒島が横たわっている。
 海面からの高さは、かなりあるのだが、台地上が草原になっていること、崖が優美で曲線的なことなどから、来る前に予想していたよりもソフトな印象を受けた。知床の海岸線よりも女性的かもしれない。それでも、アッサリとしたこの場所には、なぜか心惹かれた。また、行きたいと思う。

2009年8月22日土曜日

キツネと




 キツネに会った。
 中ギツネ。
 厚岸町の尻羽岬(しれぱみさき)の近くで。

 人への警戒心をもちながらもあまり逃げようとしない。カメラを向けるとじっと見返してくる。この若いキツネたちが健全に育ってほしい、と思いながら写真を撮った。

2009年8月21日金曜日

幼稚園児

低気圧が通過して知床は雨。このところ5日間連続し、雨の降らない日は無い。
 天候のことで嘆きたくはないが、思わず愚痴を言いたくなる。

 そのような中、羅臼幼稚園の園児にビジターセンター内を案内した。幼稚園児というのは、なかなか言うことを聞けないし、普通の言葉が通じないので、専門的な訓練を受けていない僕には、手強い相手だった。
 しかし、動物や花に素直な興味を示してくれる。打算の無い様子は、快く感じるものである。彼らも、やがて小中学生、そして高校生になっていくわけで、あの年頃からの体験は、大きな意味をもつことになるだろう。

youtienji

低気圧が通過して知床は雨。このところ5日間連続し、雨の降らない日は無い。
 天候のことで嘆きたくはないが、思わず愚痴を言いたくなる。

 そのような中、羅臼幼稚園の園児にビジターセンター内を案内した。幼稚園児というのは、なかなか言うことを聞けないし、普通の言葉が通じないので、専門的な訓練を受けていない僕には、手強い相手だった。
 しかし、動物や花に素直な興味を示してくれる。打算の無い様子は、快く感じるものである。彼らも、やがて小中学生、そして高校生になっていくわけで、あの年頃からの体験は、大きな意味をもつことになるだろう。

2009年8月20日木曜日

知床岬行(7) ダスビダーニヤ(さらば)モイルス

8月4日(火)

 モイルスを去る日が来た。昨日のクマは、個人的には良い体験だったが、「小中学生の加わった集団」にとってはきわめて危険で、対応せざるをえなかったわけで、個人的には強いジレンマを感じて忸怩たる思いもあった。

 そんなことも含めてたくさんの思い出が作られ、とても5泊6日の短期間の滞在だったようには感じられない。皆が起床前、毎朝の磯の散歩、イタドリで壁を作ったお風呂、岬の夜光虫や星たち。そして、知床の地にドッカリと腰を据えて子どもを育てようと「探検隊」に取り組んでいるスタッフの大人たち。どれ一つとっても強い印象となって心に刻みつけられた。スタッフの一人一人の印象は、また別の機会に書き留めておきたいと思うのだが。

 早朝、帰路についた僕たちは、モイルスの出入り口ともいえるタケノコ岩でまず足止めされる。相泊側への急傾斜を下るために、ザイルにスリングをブルージック結びで結びつけ、安全を確保しながら一人ずつ降ろすのだ。僕と同様に銃を持っているトウちゃんが先発し、僕は最後尾で待機する。
 タケノコ岩を降りてから化石浜まで、水冷火砕岩(ハイドロライト)の塊がゴロゴロしている迷路のような中を進む。デバリと呼ばれる磯だ。干潮の時間を選んできたし、波もないので楽に通過することができた。化石浜を過ぎようとしたとき、休憩中の班があって、その付近に強い異臭が漂っている。近くを見るとアザラシの死体が波打ち際に打ち寄せられている。こんな場所はクマにとって、非常に魅力的で、近くにクマが潜んでいる可能性は高い。隊列の中程を歩いていた僕が近づいていくと、それまでそこで休んでいた一行が腰を上げた。僕の後ろには二つの班がいる。それも「わんぱく隊」、小学校4~5年生を主体とする班だ。それらの班が通過するまで、一人でそこに残ることにする。たった一人でアザラシの死体=クマのご馳走とともにそこに残るのは、さすがに心細いなあ、など考えつつ、ボンヤリ海を眺めていた。生命が誰の助けも借りずに自分の力だけを頼んで生きる場所、いま、そんな場所にいるんだなあ。これはすごいことだなあ。
 幸いなことに特別なこともなく、全員がその場所を通過した。

 やがて観音岩を超えると人里がぐっと近づいてくる。ゴールの相泊はもうすぐだ。

2009年8月19日水曜日

知床岬行(6)  静かなるクマ

 この日は、テーマ別の個人活動ということでスタッフが用意したテーマに子どもたちが自由に参加して活動する催しがもたれた。
 僕は、「森のお茶会」ということにして、森に生えている植物を何種か採集してきてお茶を煎れるという活動を提案した。はたして何人の子どもたちが来てくれるのか、と不安に思っていたが、7人も集まってくれた。
 早速子どもたちとともに森に向かう。森に入る前に少し気取って儀式をした。アイヌ民族の伝統に則ったつもりだ。宮沢賢治先生の童話も取り入れて
「これからお茶の材料を採りに行ってもいいかあぁ?」と森に問いかける。
腹話術的に
「いいぞおぉ」などと答えて笑わせたりしながら楽しく植物を採っていた。採りながら植物の名前やお茶にしたときの性質や薬としての性質などを解説した。子どもたちは、ほぼ一列に並んでいた。説明の最中、先頭のK君が突然声を上げた。
「あ、クマ!」
 振り向いた僕の視野にちょっと大きめのクマの顔が飛び込んできた。距離は7~80メートル。あわてる様子もなく、ゆっくりと横に移動していた。(ように見えた)ほんの短い時間だったのだろうが、僕にはひどく長く感じられた。自分がしなければならないことが頭の中で渦巻き、そうとう焦っていたのだろう。
 まず、子どもたちへの指示だ。
「静かにして」(すでに静かにしていた)
「なるべくくっついてかたまって」(すでにかたまっていた)
「大人の後ろに付いて」(すでに他のスタッフが前に出てきていた)
(ああ、なんと情けない)
 …それから、えっとえっと、あ!そうだクマ撃退スプレーだ!
 いつもイメージトレーニングの時には、片手でスッと抜いて構えられるスプレーが引っかかって出てこない。慌てて両手で抜き、安全装置をはずして構えた。
(ああ、情けない)
 クマは、そんな僕に「情けないヤツ」と軽蔑するような視線を送りながら、そして、かなり迷惑そうな表情をしながら、ゆっくりゆっくり移動し、距離を開けていった。クマが離れつつあることを確認して、僕たちも静かに森から出た。

 この出会いは、網膜に焼き付けられるような強烈な出会いになった。特に威嚇されたわけでなく、襲われたわけでもない。危険を感じることは全くなかった。森で静かに暮らしているヒグマを出会った、というだけなのである。
 おそらくあのクマは僕たちが森に入っていくことをはじめから知っていたのだろう。できるものならそのままやり過ごそう、と思っていたのかも知れない。ところが、僕たちがどんどん近づいて来るのでしぶしぶ立ち上がって動き始めたのだろう。
 クマと出会った経験は今回が初めてというわけではないのだが、落ち着いて堂々とした態度から発せられる威厳に、圧倒された今回の出会いだった。
 モイルス(静かな湾)の静かなクマ!一生忘れられない出会いとなった。



 ところが、問題はまだ残っていた。他にも森に入ったグループがひとつあるのだ。川釣りをするグループだ。急いで本部に知らせ、無線で連絡をとる。追い払いのために、数名の大人だけで森に入る。遠くに去ることなく、やや離れた所でとどまっていたクマを追い払う。たった一頭のクマで、午前の予定は大きく狂い、キャンプ場は大変な騒ぎを抱え込んでしまった。

2009年8月18日火曜日

知床岬行(5)





8月2日(日)
 朝食後灯台まで往復することになった。海路を使ったとは言えせっかく岬まで来たのだ。初めて来た子もいることだろう。知床岬の象徴である灯台に行きたい思いはだれの胸にもあった。しかし、岬のすぐ近くの兜岩にいた「脅しの効かない雄グマ」というのが大いに気になる。だが、広い台地の上は見通しもきくからなんとかなるだろう。

 文吉湾から灯台までは、2キロ足らず。片道30分前後の距離だ。周囲をよく見ながら一列で行進する。やがて灯台下の階段の登り口に到着した。灯台からの眺望は素晴らしい。遠くが雲で霞んでたが国後島の山々、知床岳などもよく見えた。昨日とは違って風が強く、海面に白い波が立っていて帰り、船の揺れが増すことが予想された。

 灯台を降り、来た道を引き返す。文吉湾では、乗ってきた船が静かに僕らを待っていた。美しいが荒々しい自然に囲まれた中で、あらためて船を見ると、実に力強く頼もしく見えるものだ。

 やがて、その船は僕らを乗せて文吉湾を後にした。岬を回ると舳先に当たる波が砕け、後部甲板にいた人々はバケツで水をかけられたようにずぶ濡れになっていた。波が当たらないのは後部の小さな船員室と舳先の波切りの陰の部分だけだ。手元のGPSで測定すると時速40キロで走っている。あらためて漁師の仕事の厳しさの一端を見た気がした。

 やがて、船はモイルス湾に入って投錨した。

2009年8月17日月曜日

知床岬行(4)




8月1日(土)
 「たいちょう」自らが操船する19トンの漁船は静かな海を岬を目指して進む。舳先に立って海面を眺め回したがイルカの姿や噴気も見えない。時折フルマカモメ、ウトウ、ウミウが通り過ぎるだけだ。
 やがて、岬の岩礁を大きく迂回し、半島の西側(斜里町側)へと回り込む。羅臼海域をテリトリーにしている「たいちょう」は、海底地形を注意深く探りながら慎重に岬の避難港である文吉湾に船を入港させた。
 上陸後、さっそく啓吉湾まで徒歩で移動。干潮の時間帯だったので岬の台地に登ることをせず、磯づたいに移動することにする。「啓吉湾で泳ぐ」というのは探検隊の定例行事だったようで、スタッフの大人たちも子どもたちも、同じように海水浴を楽しんでいた。とは言えここは知床岬である。万一の場合に備えて僕は動くことができない。夏の太陽が照りつける浜で、皆が海で遊ぶ様子を見守っているしかなかった。けれども、この時間は決して退屈で無意味ではなかった。岬の空気を呼吸し、岬の空を見上げ、岬の風に吹かれる幸福なひと時だったことに違いはない。

 知床半島の西側は夕陽が美しい。夕食後、海岸まで出てみる。オホーツク海に沈む夕陽とその残照が美しかった。しばらくの間、あの太陽は、今頃ウルムチの街をも照らしているのだろう、などと取り留めのない思いに耽った。

 夜は船のデッキで寝ることになった。ふと思い立って長い竿で海水をかき混ぜてみる。予想通り、水中で青白い光が生じる。それは竿の先を追うようについてくる。夜光虫だ。見上げると空には星。

 風も弱く、かすかに揺れる船上の寝心地は最高だ。夜半、眠りが浅くなった時に何度か目を開けてみた。暗闇に慣れきった網膜に、これまで一度も見たことのないような星空が映った。星が明るすぎて、星座がわからないくらいだ。今になって思い返すと、あれはペガサスの四角形だったと思う。ということはその時刻は明け方近くだろう。
 知床岬の船の上で寝ながら見た星たち。一生忘れられない夜になった。 

2009年8月16日日曜日

知床岬行(3)

 夕方、バイクのオイル交換。

  知床岬(3)
 二日目、岬への出発が延期されたので、班別活動を行った。僕は3班に付き合ってビーチコーミングと磯遊びに付いて歩いた。海岸にはいたる所で漂着物が見つかるが、この日の最大の収穫は、中国製または台湾製と思われるミネラルウォーターの空きボトルとハングル文字の書かれている魚箱の破片だった。
 海岸がほとんどコンクリートの護岸で覆われている羅臼町の子どもたちは、漂着物を集めて観察するビーチコーミングの体験が乏しいようで、これらの発見に大喜びしてくれた。

 その夜のミーティングで、翌日、船で岬に向かうことが決定された。

2009年8月15日土曜日

スクイズ好きの国民性

 不思議なことがある。
 「敗戦」と言わず「終戦」という。
 「戦死者」と言わず「戦没者」という。
 言葉を弄び、新しい言葉を作り出すことで本質を曖昧にする。

 日本人は野球が好きだ。野球にはスクイズという手段がある。三塁にランナーがいる時、内野にゴロを転がし、野手がそれに対応している間に三塁ランナーがホームインして得点する。もちろんこれはルールに則った正当な攻撃法で、このこと自体が悪いわけがない。しかし、投手が剛球を投げ強打者が打ち返して得点するという正統?なプレイに比べるとなんとなくウラをかいて得点するように思えてならない。

 野球なら変化に富んだ攻撃法の一つとして面白さが増すスクイズであるが、言葉を弄んで言い方を変えることで本質のウラをかいて隠蔽するような態度や思考法には辟易する。そんなことが多すぎるのだ。「終戦」の日の今日、戦争をまるで自然災害ででもあったかのように表現したりする姿が目立つようで気になる。
 世論も「二度と戦争はするべきでない」とか「平和が大切だ」とか言いながら選挙をすれば憲法九条を変えようとする政治家や政党が大量得票をする。その場だけの気分で、無責任で実の伴わない言葉を弄しているからこのような国になってしまっているのだろうか。

 環境問題についても全く同じようなことが言える。たとえば、「ヤシ実の油から作った洗剤だから安全」などと言っていても、ヤシの畑を広げるために熱帯雨林伐採していることをどれだけの人が知っているのだろう。

 言葉を弄ぶのは、いい加減にするべきだろう。

2009年8月14日金曜日

明日は羅臼湖

 台風8号崩れの低気圧が通過して、昨夜から雨が降った。けっこう強い雨であった。来客があったので、家の中の模様替えと掃除がはかどった。羅臼の家も本別海の家も両方ともにだ。
 明日、羅臼湖へ行く予定なのだがかなりぬかるんでいることが予想される。天候は回復傾向にあるようだが。

2009年8月13日木曜日

知床岬行(2)

 モイルスに到着してテントを張り、ベースキャンプとしての様々な施設を設置する。予定より早い到着だったので、余裕をもって作業できた。同時に、出発前から気がかりだったことがだんだん現実味を帯びてきた。それは、ヒグマの問題だった。実は、出発前に岬近くに人慣れしていて、轟音玉(野生動物撃退用の大音響を発する煙火)や花火弾で追い払おうとしても逃げない個体がいるという情報を得ていた。知床は、世界屈指のヒグマ高密度生息域であるから、「出没する」と言うのは少しおかしい。もともと「そこに居る」のであるから。
 ヒグマは北海道で長い間アイヌ民族と共生してきた。アイヌは森に入る前に、神への祈りを捧げることで、ニンゲンが近づくことをあらかじめヒグマに知らせる。ヒグマもニンゲンが近づくとさりげなく立ち去ったり隠れたりして無用の接触を避けていた。こうして普通は一定の秩序が保たれていた。このような関係は、知床でも最近まで続いていた。だが、近年、この均衡が破れつつある。そして、今年になって、このような銃声を恐れないクマが急増した。どうしてこのような問題個体が出現したのだろう。その理由は、まだハッキリと解明されていないが、ニンゲンの側からクマへ、何らかの過剰な働きかけがあり、クマが人の活動について学習してしまった結果ではないのかと言われている。例えば知床岬地区への人の出入りは、このところ急増していると言われる。その結果、人と接触した経験が豊富な個体が増加しても不思議ではない。今までは、母グマと別れて一本立ちした直後の個体にこのような傾向が見られる例が多かった。それが最近、成獣の雄にもそのような性格の個体が増えてきているらしい。僕たちが到着する前からモイルスでキャンプしていた登山者も岬方面でそのクマと遭って引き返してきたという話だった。
 岬へ向かう「チャレンジ隊」は翌朝出発する計画だった。しかし、その夜、スタッフのミーティングで、出発の中止が決定された。小中学生を連れて行動するのだから状況判断が慎重になることは仕方がないことだろう。危険な場所を苦労して海岸線を行き、岬に到達することで達成感や成就感が得られるわけだが、一頭のクマのために全体の計画が狂ってしまうのだ。やむを得ないことではあるが、あらためて「クマの威力」の大きさを思い知らされた。

2009年8月9日日曜日

ホエールウォッチング




 久しぶりにホエールウォッチングに出かけた。根室海峡は風弱く、波も穏やかで暖かな航海だった。
アジサシが来ていた。船長によれば今季初認とのことだった。
リスト
  鳥類:アジサシ
   オオセグロカモメ
   フルマカモメ
   トウゾクカモメ
   ウトウ
   アカアシミズナギドリ
   ハイイロミズナギドリ
   ウミウ
 
 ほ乳類:イシイルカ
  ツチクジラ
※マッコウクジラの鳴音は無し
     (半径10km程度;ハイドロフォンによる確認)

2009年8月8日土曜日

知床岬行(1)

 出発の朝は雨だった。強い雨の中を次々と参加者が集まって来る。大ホール出発式を行った後、皆、バスに乗り込んで出発点の相泊(あいどまり)へと向かう。相泊に着く頃、雨は止んでいた。
 「海岸線を歩く」というと波打ち際を淡々と歩き続けるような印象を持つかも知れないが実際は違う。第一日目の行程は、相泊からモイルス(モイレウシ川河口)までだ。距離は約8km。カモイウンベ→崩れ浜→観音岩→化石浜→でばり→タケノコ岩の順に通過していく。カモイウンベまでは、昆布採りの番屋が立ち並び電気も来ている。漁業者が陸路も利用するので石浜ではあるが、比較的平坦で歩きやすい。崩れ浜に近づくにしたがって大きな石が混じり始め、歩行のリズムが乱される。この傾向は進むにつれて大きくなる。それでも、観音岩までは、普通の浜歩きである。
 海岸は、観音岩で行き止まりとなる。進むためには海岸線より少し山側にある岩の鞍部を超えなければならない。浅いチムニーがルートになっている。岩を登ると鞍部はちょっとした広場だ。小さな観音像が岩のあちこちに安置されている。沖縄にもこんな場所があったなあ。子どもたちの安全を考えてこの場所はザイルを使って一人ずつ登る。全員が通過するのに一時間以上を要した。 
観音岩を過ぎると道は、少しの間、低い海岸段丘上の森の中を進む。やがて海岸に出ると化石浜である。ここは、崩れ浜よりも一層歩き難い不揃いな岩から成っている。この石浜が尽きると「でばり」と呼ばれる海食台の上を進む。ここは、満潮の時や時化の時には通行できなるのだという。でばりを過ぎると大きな火山岩屑のかたまりが崩落して散らばり迷路のようになっている海岸を進む。この岩屑は、知床岳の火山活動によるもので、ガラス質の 大きな晶が鋭く突出していて体のあちこちが傷つけられる。僕もここでズボンのお尻に大きなかぎ裂きを作ってしまった。
 そして、道はタケノコ岩で行き止まる。タケノコ岩もザイルを使って、ちょっとした鞍部を乗り越えた。小一時間かかった。
 タケノコ岩の上に立つと眼前にモイルス湾が広がる。ふと千島列島のウシシル島の景色を連想した。ここにベースキャンプを設ける。