2011年5月31日火曜日

トキシラズ


 台風二号が変わった低気圧が釧路のはるか東の海上にあり、そこへ向かう風が強く吹いた一日だった。
 低気圧は北風を呼び、気温が下がった。

 海には無数の白波が立っていた。
 何かに抗議するデモ隊のように見える。
 あれは、放射能で環境を汚してなお反省の無い者たちへの抗議のデモなのだろう。

 放射能に汚されない、環境を返せと叫んで押し寄せる波たち。
 風のシュプレヒコールが聞こえた。?

 幾千の波頭きらめき押し寄せる 不浄なる者を詰るごとくに
 押し寄せるスクラムのごとき白波の 振り上げるこぶし 泡立つ怒り
包囲する千万の波 途切れずに 白き波頭の旗を打ち振り

その海が、僕に一匹のトキシラズ(春に道東の沿岸を回遊するシロザケ)をもたらしてくれた。
 この豊かさを失いたくない。

2011年5月30日月曜日

何度でも言おう。これは風評じゃない!!

 何度も言う。
 何度でも言う。
東京電力福島第一発電所周辺の農産物や海産物は食べたくない。子どもたちには特に食べさせたくない。
 そして、これを「風評だ」とする人に反論しておきたい。
 原子力発電の安全神話を宣伝してきたのと同じ方法で「風評だ」と宣伝されている。
 マスコミもそれの片棒を担いで「風評説」を垂れ流している。
 マスコミを操り、膨大な費用をつぎ込んで宣伝した「安全神話」のと同じやり方で、「風評説」が流されている。

 さらに福島県の農漁業者の苦しみと悲しみの表情を重ね合わせて、見る者の情に訴えるのだ。
 見る側は、義侠心を刺激され、つい
「ヨオシ、ワカッタ!福島の野菜買いましょうヨ」となる。

 このやり口は相変わらずキタナイ。安全神話をばらまいた事への反省など微塵もない。権力の横暴である。ファッショである。

もし、本気で農水産物の安全性を伝えたいのなら、次の点を明らかにするべきだ。

 放射能の汚染がどの程度なのか、
汚染している核種はどのような種類のものが、どのくらいの割合で含まれているのか、
 そして、その危険性について、どのように解釈されているのか、

 以上の三点を数値を含めて明らかにした上で、消費者の判断を待て。
 それなら、こちらも購入の検討をしてもよい。
 そこには、感情の入り込む余地はない。


ただし、事故が起こってから現在まで、正確できめ細かな情報が、適時に伝えられたことがあっただろうか?
 われわれは、全く何も知らされていない。
 知らされていないにも関わらず「安全です。信じて下さい」などと言われても、信じられる訳がない。

 われわれは今、すっぽりと不信の霧に包まれているのだ。
 こうなった責任は、過去の原子力政策、電力会社、現在の政府、提灯持ちの専門家にある。
 したがって、当分原子力発電所周辺を産地とする農作物や海産物を我々は食べない。

 これは「風評」などという根拠のないウワサではない。歴とした根拠に基づく拒絶である。
 
このことを「風評」と言ってはばからない者は、原発事故、放射能汚染の隠蔽に手を貸す者だと断せざるを得ない。

 繰り返す。事故原発周辺の一次産品は拒否する。

 そして、東京電力や国は、直ちに(「ただちに」は流行るなあ)生産者に十分な保証をしなければならない。

 マスコミを操っての「風評説」キャンペーンは、生産者への補償金額の値切りでもあるのだ!

※追記:複数の産地のトマトを一袋に入れ、その中にコッソリ(のように見える)疑わしい地域のトマトを混ぜて売るやり方が行われている。
 なんと姑息な!
 そうまでして売りたいか?
 恥を知れ!

2011年5月29日日曜日

オオバナノエンレイソウのこと



 エンレイソウが咲き出した。
 オオバナノエンレイソウだ。

 特にこれと言った理由はないが、この花が咲くと、ホッとするような穏やかな気持ちになる。
根釧原野でも早いところは、2週間以上前から咲いていたが、我が家の周りでは先週の半ばに、花を初めて見つけた。
 昨日、南の風で気温が一気に上がったことに合わせたように、一斉に咲き始めた。

 純白の三枚の花びら(内花被片)を持つ。
 めしべ(花柱)の断面は三角形、子房3室、おしべ(花糸)の断面も三角。おしべの数は6本、萼片三枚、葉も三枚。おまけに顕微鏡で花粉を見ると三角形をしている。
 よほど三という数字が好きなんだろう。

学名のTrillium kamtschaticum は「カムチャツカの3のユリ」という意味らしい。

北大の寮歌「都ぞ弥生」に

  雲ゆく雲雀に延齢草の
  真白の花影さゆらぎて立つ

という一節がある。

「真白の」とあるので、この歌の「延齢草」はオオバナノエンレイソウかシロバナノエンレイソウのことだろうが、「さゆらぎて立つ」のだからそれなりに大型の花であろうから「オオバナノエンレイソウ」を指しているのではないかと思う。

 本種は、種の周りが甘味のあるゼリー状の物質で包まれていて、アリを誘引して種を運ばせる事が知られている。こうしてアリを利用して繁殖地を広げている。
 ただし、種が発芽から、10~15年間は花を付けることはない。

 だからエンレイソウが咲いている土地は10年から15年間は人手でかく乱されることなく自然のままに置かれていたことを意味している。

 可憐に見えてしたたか、したたかに見えて繊細な早春の花のひとつだ。

2011年5月28日土曜日

サクラから






 南から暖かな強い風が吹いて気温は上昇。
 一気に春の気配が濃くなった。

 草地のサクラは今が盛り。
 花が散ると、長い長い月日を光合成によってひたすら養分を蓄えることに費やす。秋が過ぎ、冬を耐えると、また、花の時期が巡り来るのを待つのだ。

 この一瞬のために生命を燃やしているようだと言われるが、本当にそう思えて来る。

 樹の周りの地面を見て、驚いた。
 昨年、樹の周りに散らばった実が芽を出している。よく見ると樹の周りに無数に実生がある。

 古木が次の世代の子孫を準備しているのだ。
 それは、やがて来る死に黙って備える生命の厳粛な意志だ。

 地球上の生命の多くは、みな例外なくこのような営みを繰り返してきた。

 それを断ち切るのが放射線であり、濃厚な放射線源を作り出してばらまいたのがニンゲンである。

 みな、声を出さず黙って見守っている。黙って次代の子孫の用意をととのえている姿は、生命と生命同士の営みを無視し続けるニンゲンへの無言の抗議に感じられる。

2011年5月27日金曜日

誰が、いったい?

 少々辛口。
 抵抗もあるだろうが、一応・・・。

 日本の国家権力は、歴史上国民の生命や財産を守るという立場に立ったことはないと思う。日本だけではないだろうが。

 権力とは本質的にそういうものだ、という見方もあるだろうが、それは別として、民主主義社会の国家権力は国民の生命財産を守るのが建前というものだ。
 という前提に立てば、戦前や江戸時代やそのもっと以前も含めて、国民のための国家は存在したことがないと言えよう。

 戦争が終わって、60年あまり経ち、「奇跡的に」(と言われている)大きな災害は起こらなかったし、なんとか平和も守られてきた。沖縄は筆頭に、全国の演習場や基地周辺の住民へはそのツケを回してきているが。

 そんなやや生ぬるい環境で、多くの選挙民が政治家を選ぶ基準は、鉄道(新幹線なんかネ)を引っ張ってくるとか、大きなダムを造って仕事を増やすとか、道路を作るとか、○○会館を建てるなどという利益誘導だったのではないか?

 電力会社は、情報操作・隠蔽・手抜き運転など好き放題のことをやっているように見える。 今回の東電の事故でその一部がやっと少し明らかになった。

 それに対して人々が怒りを覚えるのは当然なのだが、ちょっと待ってもらいたい。
 頭から湯気を出して怒っている人たち、大声で補償を求めている人たちに質問してみたい。
 「あなたはどんな政治家に投票してきましたか?どんな基準で投票する候補者を選んできましたか?」と。

 安保条約の破棄が争点になっていた時、小選挙区制が取り上げられた時、最近では、国鉄の分割民営化や教育基本法の改悪が取りざたされていた時、問題を真剣に考えて投票行動に結びつけていたのだろうか?
 自分たちに利益をもたらしそうだから、知り合いに頼まれたから、世話になっているから、信じる宗教の推薦だから、あるいは労働組合の指示だから、エトセトラエトセトラ。

 こんな理由で政治家を選んでいた人は少なくないのではあるまいか。
 あるいは、政治に失望して選挙権を放棄したのではないか?

 どちらにしても、結果的に、そこで選ばれた政治家が、原子力中心のエネルギー政策を進め、福島第一原子力発電所の今回の破滅的な事故に、福島県とその近県に膨大な被害を作り出し、、さらには日本中に、また世界の海を汚したわけである。
 となれば、真の加害者は・・・・・?
 ということになる。

 つまりある意味では、この原発事故の原因は日本の政治風土、あるいは日本の選挙民の民度の低さにあった、ということにならないか。

 さて、そこで、次に何をなすべきか(「次」があればですが)、ハッキリしている。保守でも革新でもかまわないし何教の信者でも構わないが、どのような立場で政治を預かろうとしているか、われわれは、冷徹に見極める眼を持たねばならない。
 少しでもアヤシイ気配を漂わせる候補者には投票しないこと。
 同じように、企業に対しても厳しく見極め、少しでもアヤシイ気配の企業は社会的に葬ってしまうような行動が求められるだろう。

 テレビに良く出ていたとか、発言が景気いいとか、二枚目スターの兄貴であるとかいった馬鹿げた理由で政治家を選び続けると、この国に未来は無くなるだろう。

2011年5月26日木曜日

「原子力発電」と書いて「おおうそつき」と読みます

 読売新聞や時事通信の記事によると、福井県の若狭湾周辺では。1586年の天正地震の時に大津波が起き、たくさんの家屋が流され、多数の死者が出たという文献があることを敦賀短期大学の外岡慎一郎教授(日本中世史)が指摘しているという。
 その記録は、京都・吉田神社の神主が著した「兼見卿記(かねみきょうき)」という文書や、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが書いた「日本史」にあり、信憑性の高いものだそうだ。

 若狭湾周辺には関西電力の原子力炉が14基もあり、日本原電のの原子炉もある。
しかし、関西電力は、同湾周辺で大津波の記録はないと自治体などに説明してきた。

 また、福島第一原発事故後の3月18日に、関電美浜原発がある福井県美浜町議会に配った資料では「日本海側には巨大な津波の原因となる海溝型プレート境界はなく、文献では過去に若狭湾周辺で津波による大きな被害記録はない」などとしている。

 鷺をカラスと言うようなウソをついていたわけだ。

 そんなにまでして、原子炉を造りたいのか?
 安全確認など原子炉を造るまでの、通過手続きにすぎないと軽視している証拠がここでも明らかになった。

 こんなウソツキとウソツキを後押しする国家権力など、さっさと退場するべきだ。
 今こそ、すべての原子力炉を止めなければならない。
 そうでなければ、われわれは未来の子孫たちを裏切ることになってしまう。

2011年5月25日水曜日

僕は歌わない

 日本の原子力発電推進政策は破綻した。

 客観的事実だ。
 もちろんそう認めることができず、原発の安全と必要性という虚構に、いまだにしがみついている人たちも少なくない。まるで信仰のように。
 完全に破綻した論理にしがみついた者たちが、破綻を認めようとせず、論理より情を優先させて、保身と延命を画策するところが、この国の怖いところだ。

 そうやって、われわれは、侵略戦争に敗れながら「終戦」と言い換え、平和憲法があるのに「自衛力」と言い換えて軍事力を持ち、平和憲法に呼応して制定された教育基本法を圧殺した。
 得意技は、「既成事実の積み上げ」と「慣らし」だ。
 国民は、もうそれに慣れきっていて、自分の意見を表明しようとする意欲を失っているばかりでなく、自分で考えようともしなくなっているようだ。
「出る杭は打たれる」という諺もある。

 もちろん例外的な人も少なくないが。

 東電が「メルトダウン」という言葉を使おうとしない事実ひとつとっても、この体質は変わっていない。
 そして、そんな国が、いま地球を放射能で汚し続けている。これを恥と言わずに何というのだろう。

 真に自分の国の文化を誇りたかったら、国際社会で尊敬されたかったら、そして、大衆受けのする「サムライ精神」とやらを賞賛されたかったら、潔く原子力政策の敗北を認めるべきだ。

 そのように振る舞ってこそ自分の国の国旗や国歌に誇りを持てるのではないだろうか。
 プライドは感情だ。法律や条令などの「力」で強制できるものではない。
 愛は強制できない。
 大阪の知事が、「君が代」で起立しない教員はクビだと言ったとか。
 条例で強制しなければ敬愛の意思表示ができない国歌や国旗など、真の国旗や国歌ではない。

 今の状況が続くなら、あの旗やあの歌は恥ずかしくて、敬愛する気になど金輪際なれない。 

2011年5月24日火曜日

本の紹介




 伯母の葬儀ででかけた札幌では、例によって数冊の本を仕入れてきた。
 その中に「地球クライシス」という本があった。
書名:地球クライシス・・・自然の猛威と人災の狭間で
 著者:石弘之
 洋泉社 新書 760円+税

 石さんは、1940年東京生まれ。
 東京大学卒業。環境学専攻。
 世界の約130カ国を現地調査する行動的研究者である。
 朝日新聞編集委員、国連環境計画上級顧問、東京大学大学院教授、ザンビア全権大使、北海道大学大学院教授などを歴任。
 主な著書に「地球環境報告Ⅰ・Ⅱ」「キリマンジャロの雪が消えていく」(いずれも岩波新書)「子どもたちのアフリカ」「名作の中の地球環境史」(いずれも岩波書店)、「地球環境『危機』報告」(有斐閣)、「火山噴火・動物虐殺・人口爆発-20万年の地球環境史」(洋泉社歴史新書)、「環境と文明の世界史」(共著・洋泉社新書)などがある。

 今年1月に斜里町で講演会を開いたが300人くらいの人が集まった。

 この本は、石先生の最新の著書で、5月21日に出版されたばかりである。
 以下が目次である。

第一章 原発エネルギーの危機
 原発事故を巡る国内・国外の大きな温度差/スリーマイル島・チェルブイリ原発事故から見えてくること/天災と人災は同時にやってくる・・・日本の未来を揺るがす東日本大震災

第二章 食料・海洋資源の危機
 飢饉の足音が聞こえてくる・・・高騰する食料/世界の淡水魚の三分の一が絶滅の危機/口蹄疫の流行はワラ文化崩壊のツケか/乱獲漁業から覇権の先兵まで・・・驚異となった中国漁船

第三章 動植物の危機
 ライオンが地球上から消える日/世界中で野鳥の大量死・・・鳥インフルエンザが原因か/世界の森林の「明」と「暗」

第四章 海洋・湖沼の危機
 ついに消滅する巨大湖・アラル海/地球に穴が開いた・・・メキシコ湾の石油流出事故/世界の海を侵略する日本産ワカメ

第五章 人類存亡の危機 
マリファナの解禁と環境を巡る熱い戦い/誘拐大国になった中国・・・一人っ子政策の悲惨な余波/崩壊する米国のインフラ・・・後を追う日本/アラブ民主化の原動力になったユースバルジ

 石先生はジャ-ナリスと出身だからだろう、詳細なデータを使って読みやすい文章でわかりやすく書いてある。
どちらかと言えば景気の良い話ではないが、現代の環境問題を考える上で、もっともわかりやすい手がかりになる本だと思う。

 実は、彼の「火山噴火・動物虐殺・人口爆発」を「環境保護」の教材として活用しいる。

 今回の震災とそれに続く原子力発電所事故の問題を環境史の流れの中で捉えるなら、この本は最適ではないだろうか。

2011年5月23日月曜日




草地のエゾヤマザクラが咲き始めた。

 今の家に引っ越してきた時にはすでに「古木」であった。
 引っ越してきて16年。変わることなく春が来るたびに花を咲かせる。

 サクラは毎春、変わることなく咲くが、人は老い、花を愛でる顔ぶれは移りゆく。
 人の暮らしの変化のテンポは、サクラの樹の刻むリズムとは比べものにならぬほど早い。

 サクラの正確な時の刻みに自然のリズムの正確さとおおらかさ、そして、圧倒的なスケールを感じる。
 それは、あの津波のように、想像を超えたスケールであろう。

 そして、原子核が崩壊して解放される、核エネルギーのスケールも同じであろう。

 デルス・ウザーラの言葉を思い出す。
「火、怒る時、怖い。
 水、怒る時、怖い。
 風、怒る時、怖い。
 火・水・風、三人の強い人」

 ヒトは長い時間をかけ、火を制御する智恵を獲得した。
 次に、電気を使いこなす技術を身につけた。
 もちろん、今になってもまだ、火事で大きな犠牲を出したり、電気の事故を起こしたりしているが、
「危険だから火や電気はゼッタイに使わない」というヒトはまず、いないだろう。

 原子力は、そのエネルギーを完全に制御し、使い終わった核燃料などの廃棄物を安全に処理し、悪意ある不正な使用を完全に封じ込める方策やモラルは確立されていない。

 「原子力」と聞いて、即座に否定するつもりはない。けれども、少なくとも現段階ではヒトが使いこなせるモノになっていないと思う。

 それを作ったり輸出したりして、多くのメーカーが儲けているのだから、その行為は愚の骨頂と言わざるを得ない。
 どんなものでも金儲けのタネにしようとする者たちの犯罪が、今も進行している。

2011年5月22日日曜日

モラトリアまない若者たち

 伯母の葬儀で、長い間会うことの無かった親類と会って話をすることができた。
「故人の引き合わせ」というモノだろう。
 前回会った時は幼稚園児や小学生だった子が大学生になっていて驚いた。
 
 今年、従妹の息子で、大学に入学した男の子が、自分の進路についの悩みを話してくれた。
 どんな進路を選ぼうかという悩みではない。それどころか彼は、自分の進路をハッキリ決めていた。そのうえで、その道に進むことに失敗したらどうしようか、と悩んでいた。

 いわく。
 「自分の就きたい職業に向けて勉強を進めるのだが、いざ就職となった時に、経済情勢や政治状況で採用されなかったら、それまで勉強してきたことが無駄になってしまうんじゃないかな」。

 自分の目指す大学に入学し、次の段階で卒業後の就職を考えているという堅実さに感心した。
 同時に、自分の生涯にわたる職業経験の展望を硬直的にとらえすぎているところに一種の危うさを感じた。

 帰ってきてから新聞を読んでみると、驚いたことにこれとそっくりの相談が載っていた。 それによると、
 「自分の夢に関係のない事柄にはまったく興味がわかないし、やる気も起きません。人 に対しても、自分にプラスの影響を与えてくれそうと思えば積極的に関わろうとします が、この人は自分に何ももたらしてくれないと感じると接触を避けてしまいます」というものだった。(5月21日朝日新聞:「悩みのるつぼ」より)

 今の「しっかりした若者」は、このように自分の利益につながることには積極的で、そうでないものとの関わりを避けようとする傾向を持っているように思う。

 自分の人生や進路について真剣に考えている真面目な若者ほどこの傾向が強いようだ。

 彼らの受けたキャリア教育は、その根底に致命的な誤りを含んでいる思う。
 つまり、人は、何のために学ぶかという問いにキチンと答えないまま、利益誘導ばかりを全面に出した、貧弱なキャリア教育しか行われていないということだ。

 キャリア教育に限らず、科学技術教育でも「役に立つ」ことしか教えず、「無駄なこと」は教えないという選択が行われている。
 そして、その行き着いた結果が原子力発電所の事故だ。
 「国策」の旗を押し立てて、無理を通して道理を蹴散らした原発は、いま、牙をむいて国民を蹴散らし始めた。

 若者たちに感じた危うさは、教育全体から立ち上る危険な匂いであり、この国の禍々しさであるような気がする。

2011年5月21日土曜日

死について

 母方の伯母の告別式があった。
 どうしても仕事の都合がつかず、昨夜の通夜には間に合わなかったが、今日の告別式から葬儀に加わることができた。

 伯母は、比較的高齢で亡くなったので、友人や近親者の数も限られていて、身内だけのひっそりとした葬儀だった。

 しかし、今回の震災では、2万人を超す人々が亡くなり(不明も入れて)厳しい環境で葬儀を執りおこなわざるをえなかったようだ。
 一口に2万人と言っても、その一人一人につながる親子、兄弟、友人、知人がいるはずで、一人の死をどれだけのたくさんの人が悲しむかは明白である。

 昼前、火葬場に行った。
 火葬場の建物は近代的で、まるでホテルのようだ。
 遺体を焼く炉が16基もずらりと並んでいる。   今回の震災で亡くなられた方々は、火葬が間に合わなくて、仮に土葬にされた方たちもいると聞いた。その人たちに比べたら伯母は恵まれているなとつくづく思った。

 しかし、亡くなってしまえば貧富貴賤の別なく、みな「仏様」であるし(仏教では)、生命体から死者という「物」になってしまうという事実は変わらない。

 生命とはかくも簡単に失われるもの、儚いものなのだ。

 その儚くかけがえのないひとつひとつへ、東電や政府は本気で気遣っているのだろうか。 なんだか机上の数字だけで扱っているように思えてならない。

 電力会社が、生命の尊厳を尊重しない会社なのであれば、たとえ社会の基盤をなす重要な企業であっても、存在すべきでない。われわれは、どんなに不便であってもそのような企業の世話になって生きていたくはない。

2011年5月20日金曜日

セイヨウオオマルハナバチ

 桜が咲き始めた。
 今は、チシマザクラが主のようだが、内陸の中標津ではエゾヤマザクラも咲いているようだ。

 この時期になるとセイヨウオオマルハナバチの駆除が盛んになる。
 黒地に鮮やかな黄色い帯を巻き、腹部末端が純白という出で立ちの大型のハチだ。

 このハチはヨーロッパ原産で、ハウス栽培作物のトマトやナス、イチゴなどの受粉のために農薬のような扱いで巣ごと輸入されている。一年間の輸入量は、あまり明らかにされていないが6~7万巣だということだ。

 このハチは他の近似種よりも舌が短い。だから筒状の花の奥にある蜜を吸引できず、花の横に穴を開け、しばしば「盗蜜」という行動をする。穴を開けられた花は、受粉されることなく蜜をただ盗りされ、結実の機会を失う。

 長い時間をかけて育まれた在来生態系の花粉を媒介するシステム=送粉系がかき乱され希少な植物群落が打撃を受けることが予想される。

 そこであわてて「特定外来生物」に指定し駆除が行われている。

 だが、一方で予算を使って(つまり税金を使って)駆除作業をしているものを他方で輸入・販売して利益を上げている企業があるという矛盾をこの時期、いつも感じている。

 これも構造は、原子力発電と同じだ。
 このハチのために、高山植物などが大幅に失われたら、未来に禍根を残すことになる。 その責任は、今、この国の仕組みを作った人たちが負わねばならない。

2011年5月19日木曜日

バイクの上から

 職場でサクラマスを3本頂いた。
 小定置網よるマス漁が始まったのだ。サクラマスは本当に美味しい。
 夜、素焼きにして食べた。アラで潮汁も作った。
 カレーに、シチューに、食べ方はたくさんある。

今日は、南から優勢な高気圧が張り出し、好天で暖かく、穏やかな日和になった。
 そこで、今年初めてオートバイで通勤した。

バイクに乗っていると、音楽を聴くわけにもいかず、おやつを食べることも出来ない。
 頭の中でコトバをもてあそび、歌を詠むマネゴトをすることが多い。

 本日詠んだうた。

スロットル開ければ躍る速度計 五月の風をみちづれにして
スロットル開いて時を追い越して もう一度会いたい人を数える
新しき絵本のページめくるごと コーナーに今、飛び込んでゆく
ステップを踏み込み身体傾けて 雲の峰へと車体を向ける

2011年5月18日水曜日

ヒグマと放射能


 今日、授業でルサ川へ行ったら大きめのヒグマの足跡を見つけた。
 後肢のものらしい。
 普通、クマの足跡は横幅を計測してその「持ち主」の大きさを推定する。
 写真に写っている携帯電話の長さは、約12センチメートル。したがって、この足跡の幅は約15センチメートルということになる。15センチメートル以上は雄の成獣だと言われているから、この足跡の主も雄の成獣かも知れない。

 ヒグマの高密度生息地域に接する町で育った高校生たちとはいえ、こんな足跡をしげしげと眺める機会はほとんど無く、生徒たちは、足跡から直に伝わってくる「山の神」の威厳感じ存在感を畏れ、強い印象を受けた様子だった。
(「クマのお陰で良い授業になった」と授業を行った側としてもクマに感謝している)

クマを見る機会は非常に少ない。
 まるで居ないかのようだ。
 そのため、内地から来る観光客の中には、クマの存在を意識せずに、よく出現する場所に平気でテントを張ろうとする人々もいる。時々いるのだ。

 だが、間違いなく知床の山には、たくさんのクマたちがひっそり息を潜めるようにして暮らしている。
 ニンゲンに、その気配をさえ気取られぬよう細心の注意を払って行動しているように思う。

 そして、時々、その存在の証をわれわれに見せる。
 ふと気が緩んだ瞬間に、見せたくなかったものを見せてしまう失敗のように。

普段は存在しないかのように振る舞っていて、ふとした時にそれを知られてしまうような存在。世の中にはこいう存在のしかたもある。

 原子力発電所から飛び散った放射能もこのような存在だろう。
 欲の皮の突っ張った姑息なニンゲンの作った原子力発電所、生命活動ともっとも無縁な原子力発電所からまき散らされる忌まわしい放射能と、アイヌ民族が「キムンカムイ(山の神)」と呼び、最高位の神の一つに位置づけていたヒグマとを一緒にしたら、ヒグマたちからクレームが集中するかも知れない。
 もう、怖くて知床を歩けなくなるだろうか?

 いや、そうではあるまい。
 あくまでもヒッソリと暮らしている熊たちが、急に自己主張し始めることはないと考えられるから。

2011年5月17日火曜日

エゾシカたちのジレンマ

 羅臼町で春のエゾシカ有害駆除が始まった。
 羅臼町内の唯一の農家地区である峯浜地区を中心に牧草地を食害するエゾシカの数をコントロールすることが目的だ。

 牧草地は広く、何百メートルも見通しがきくので、エゾシカ気づかれないように近づくのは難しい。
 シカたちは、人の姿を見つけると一目散に逃げていく。

 ところが、日没を過ぎるとシカたちの動きが変わる。
 人間を見ても逃げないのだ。

 日没過ぎには発砲できないことを知っているようだ。

 それとも明るいうちに出てくるシカたちが先に倒されて、日没後に採餌する行動パターンの個体群が残ったのだろうか。
 有害駆除が行われるようになって、まだそれほど期間が経っていないから、そんなことはないと思うが。

 いずれにしても、およそ100年前にエゾオオカミを滅ぼしてしまったツケを今になった我々が払わせられているのだ。
 そしてこれからもしばらくは、払い続けなければなるまい。

 原子力発電所の事故は、環境に計り知れない影響を与えている。
 その結果について、現段階では誰も予測できないのだという。

 エゾシカ問題と同じように、このツケもわれわれの子孫が払うことになる。
 大変な負の遺産を、今、われわれは残しつつある。

2011年5月16日月曜日

日常化の幻想と幻想の日常化

 今朝の放射線量は0.08μSvだった。
 実は、この線量計の設計上、この数値が最低で、これ以下の値の時は正確に測定されていない。

 だから、今朝の放射線量は人為的な影響を受けていないと解釈できそうだ。

 それにしても、毎朝、まるで温度計でその日の気温を測るように放射線量の測定を行う日が来ようとは、誰が予想しただろう。
 放射線の存在が日常化したわけだ。
 それこそ想定外の出来事だ。

 正確な情報が開示されていない。たとえば放射線量は発表されるが、その放射線がどんな放射性物質から発せられているかかが全然明らかにされていない。

 こうなると国家は国民を護るものだという信頼感が持てない。

 原発の作業員を
「命がけで国民の安全のためにがんばっている」と賞賛しているし、実際作業に携わっている人々もそういう意識を持っているだろう。

 だが、
 本当にそうだろうか?
 そう、思い込まされて、実際は国民より国家を上に置きたがるこの国の権力を守るために動員されているではないか?

 太平洋戦争の犠牲者を
 「国を護るために尊い命を捧げた」と賞賛している。
 もちろん、進んで犠牲になった人々は、そう思い込まされ、純粋にそう信じて亡くなっていったのだろう。

 だが、冷厳な歴史的事実は、違うと思う。
 愛する者を護るためではなく、国家権力を守るために狩り出されたというのが客観的事実ではないだろうか。

 犠牲になった家族を美化したい遺族の心情は理解できるが、心情と歴史的事実を混同すべきではない。

 そして、意識的に混同しているとしたら、それは次に同じような過ちを犯す原因にもなりかねないだろう。

 繰り返すが、僕はその心根は尊いと思うし尊重したい。
 だが、それを利用して上手に立ち回ろうとする者の存在を指弾したいのだ。

放射線測定が日常化した国で、
 本当に恐ろしいのは、放射能よりも人の心を弄ぶ権力の存在である。

2011年5月15日日曜日

5.15 という日のこと

 TV番組「笑点」は、今日45周年を迎えたそうだ。
 賑々しく記念の放送をしていた。
 「笑点」はワープロでも変換される、標準的な単語になっている。
 TVには、あまり関心ないが、これだけ続くのは立派なものだと思う。

 そして、実は今日は、沖縄返還から39年になる記念日でもある。沖縄が本土に復帰した時、すでに「笑点」は放送されていたわけだ。
 「笑点」の司会者は今までに5人くらい変わり、出演者も入れ替わってきた。故人になった人も少なくない。

 それに比べて沖縄の問題は少しも解決されていない。

 1972年当時、
 「基地付き、核隠し返還だ」との当時の指摘が、今になって次々と的中していたことが明らかにされている。
 早い話が国民を欺き、騙して「返還」が行われていたのだ。
 嘘をついたことへの謝罪や反省は一向に聞こえないし、当時、返還協定の虚構と危険性を指摘した人々からの怒りの声もあまり聞こえてこない。

 事実は、自民党やアメリカの
 「時の流れが曖昧にしてしまうだろう」という思惑通りになってしまった。

 そして、その後も米軍基地があることによる弊害は取り除かれないばかりか、ますます重い頸城となって沖縄県民を苦しめている。

 このような国と国民との関係の構造は、今、われわれの直面する原子力発電の問題にも通底している。

 もう、こんな支配のされ方はマッピラだ!と考える人はいないのだろうか。
 ボロボロに負けた戦争でもまだ目覚めることなく、いや、意識的に目を逸らして、かな? 時の政府に苦しめられながら暮らしていくのだろうか? 
あまりにも情けなさ過ぎるのではないか。

2011年5月14日土曜日

早春の根北峠

 知床ユネスコ協会の総会が開かれ、根北峠(こんぽくとうげ)を越えて斜里まで往復した。
 この峠は知床半島の脊梁山脈から斜里岳などと含み摩周湖・屈斜路湖、さらには阿寒方面へと続く道東を二分する山塊を越える峠で、国道244号線が通っている。
 早い話が知床の山を横断する峠だ。
 夏の間は知床峠・国道334号線が通って半島を横断できるが、冬期間の半島横断には根北峠を使うしかない。
 現在、知床峠は午前10時から午後3時半まで開通しているのだが、総会の開会時間に間に合わせるためには、午前10時を待っていられなかったし、昨日からの悪天候で確実に開通するかどうかわからなかったので、334号線は使わなかった。

忠類川に沿って登り、斜里川の流れに沿って下る。
 根室管内標津町から網走管内斜里町まで約40キロメートル。昼間でもその間にすれ違うクルマは一桁だ。一台のクルマにも出会わない時も少なく無い。
 それでも、この道は、江戸時代の国名で根室の国と北見の国を結ぶ重要なルートだ。北海道に和人が入り始めた頃、標津と斜里を結ぶ船便は知床岬を大迂回しなければならなかった。その道のり150キロメートル。
 山に分け入り、陸路を開けばずっと楽な通行ができる、というのでこの道は江戸時代・19世紀初頭に幕府によって開削されている。
 もちろんそのそれよりはるか以前からアイヌ民族の人たちは、知床半島を横断するルートをいくつか使っていて、この峠もその一つだった。

 この峠の斜里側から旧石器時代の人々の野営の跡のような遺跡が発見されている。この旧石器時代人は、マンモスを追って移動する人々=マンモスハンターであったと言われている。
 そして、人類はこの時代、マンモスに対して非常に大きな狩猟圧をかけていて、これがマンモス絶滅の原因の一つになったのだそうだ。

 素朴に自然の恵みを享受していたように思える人たちですら、もう既に結果的に自然を大きく変える働きかけをしていたのだろうか。
 ヒトという生物が背負っている業(ごう)のようなものを感じる。

 峠はまだ所々に雪があり、冬と春が交錯しいる景色だった。
 フキノトウなどもまだ顔を出したばかりのものもあり、頂上に近づく道程は季節を遡っているかのようだった。
 ああ、こうやって時間を逆行することができたら震災も津波も原子力発電所事故も防ぐことができるだろうか、などとふと考えた。

 今日の総会ではセイヨウオオマルハナバチの駆除事業について説明した。
 セイヨウオオマルハナバチも人の欲望が作り出した侵入昆虫である。

 ニンゲンは、もうどうしようもなく自然と対立する所まで来てしまっているのだな、などと考えて、なんとなく気の重い峠越えを終えた。

放浪と定着の狭間で

5月13日(金)

昨日、サーバーにつながることができなかったので、昨日の分

 昨日のシャチは、根室海峡では、今季初めての観察だそうだ。
 昨日は、シャチの他にイシイルカも観察できた。
 「今年のイシイルカは例年と違い、向こうから船に近づいてきて長い時間、船の周りで遊ぶんですよ」とクルーのEさんが教えてくれた。
 確かに、船を挟んで右へ左へと激しく動き回っていて、まるで、何かメッセージを伝えようとしているみたいだった。
 と、こう書けば、クジラやイルカに特別の思いを抱いている方々からは、何か参考になるご助言を頂けるかも知れない。

 彼ら海生ほ乳類が、何かの特別な能力や高い知性を持っているかどうかは置くとしてとして、毎年毎年、同じ場所の同じ季節の自然の姿を観察して記録に残しておくことは、大変意義深いことだと思う。
 いわば「定点観測」である。

 自然との関わりとは、そんな自分なりの定点を持つことだと思う。

 定点にジックリと腰を据え、自然を見つめるためには、その前にタップリ放浪することも重要だと思う。

 放浪と定着の狭間で、ヒトはつねにジレンマを抱えて生きている。

2011年5月12日木曜日

シャチとの邂逅 根室海峡の午後

 久しぶりに船に乗った。
 知床ネーチャークルーズの「エヴァーグリーン」
 船長の毒舌も懐かしい。
 午後の根室海峡は、昨日までとは打って変わって風も弱く、波もない良い凪だった。

 午前中にシャチが見られたという海域に向かう。
 出航後30分少し経ち、午前中の航海でシャチと出会った場所を通り過ぎたが何もいない。船長の毒舌が鋭さを増す。




 右舷の方にオットセイが浮いているというので舳先を向け、しばらくの間オットセイを見守る。
 やがて気を取り直してシャチ探しを再開する。

 それからさらに小三十分、ついにシャチの群れに追いついた。




 船を取り囲むようにシャチの群れが展開している。
 「レプンカムイ(海の神)」とアイヌ民族が崇敬を込めて呼んでいた通り、船が近づいてもとりわけ急ぎもせず、ゆうゆうと泳いでいる。

 背びれが高く突き出た雄、丸みを帯びた背びれの雌、子どものシャチもいる。30頭ほどのポッド(群れ)だ。

 夢中でカメラを向け、シャッターを押し続ける。
 突然、涙がこみ上げてきてファインダーの向こうがぼやけた。
 頭の中が真っ白になった。
 
 なぜだろう?

 いま、僕らニンゲンが、この幸せそうな家族が暮らす海を放射能で汚している事実を思い出したからだ。




 海は、体長8メートル、体重6トンのこの巨大な生きものたちが暮らす場でもある。家族の絆が強く、7年前に知床の海岸で流氷に閉じ込められた群れは、大人のシャチが子どものシャチを護るように取り囲んで息絶えていた。

 こんな動物たちの幸福を奪う権利がニンゲンにあるだろうか。
 電気が足りないからという理由で、この愛情深い、堂々とした動物たちを平気で殺せるのだろうか。

 ファインダーを覗いている時にこみ上げてきた涙は、そんなニンゲンの悪行への怒りだ。

 なんの保障も要求せず、東電の社長の土下座を受けることもせず(そんなもの何の役に立たないけど)だまって放射能に汚染されていくかもしれない、存在。

 「放射能汚染水は、海水中に拡散するから問題はない」
 こう発言した保安院の職員の言葉が再びよみがえる。

 われわれは、このシャチや先ほどであったオットセイなどに、どうやって詫びればいいというのだ。


 アイヌ民族は「海の神」と呼んでいた。

 東京電力や原発推進を主張する人々は、神を冒涜してしまったのだ。

 やがてシャチは、水面から高々と背びれを突きだし、夕映えの中を去っていった。




 

2011年5月11日水曜日

原子力発電事故からの二ヶ月を振り返って

 大震災から二ヶ月。
 この間、毎日、原子力発電に反対する立場から書いてきた。
 書くネタがよく続いたと自分でも感心する。
 原子力や電気について特に専門家でもなく、なんの知識も持ち合わせていない自分が、と思うからだ。

 そんな素人でも見えてきたものがいくつかある。
 その一つは原子力発電から生じるお金に群がる様々な人々の構図である。
 電力会社はもとより大手ゼネコン、学者、広告会社、CMに出演するタレント、官僚の天下り先などなど。さらに、補助金を当てにする自治体も含めて、実に多くの組織やヒトが巨額の税金が投入される原子力発電に群がっている。
 さらに、そこに地球温暖化二酸化炭素原因説が「追い風」となって吹いている。
 「安全神話」は同時に「儲かる神話」でもあった。

 僕は、反科学技術論者でもない。それどころか、科学技術は人類の進歩に貢献するものだと信じている。
 「平和望む人のために捧げよう、わが科学」という一節を学生時代からずっと心に刻んできた。だから、例えば殺虫剤が一定の段階までは人類の食料生産を伸ばすことに貢献し、様々な疾病から人類を救ってきたと考えている。

 もちろんそ農薬は、環境の悪化を招いたマイナスの側面をも持っているわけだが、物事を一面的に見ることはしないつもりでいる。

だから、ひょっとしたら原子力自体は将来の人類にとって、幸福をもたらすエネルギーになり得るのかも知れないとも考える。今の原子力利用のあり方には強い批判を持っているが、原子力そのもを将来にわたっても頭から全面否定しようとは思っていない。

 だが、現在の日本の原子力利用に関しては、安全性に関してあまりにも公平さを欠く評価しかなされていないと思った。カネの力で最初から強引に結論を押しつける、一種のファシズムがまかり通っている。

その強引さ、その非人間性、その独善性、その犯罪性に対して強い憤りと危険を感じる。

 だから、原子力発電所の問題は、原子力発電という技術の問題である以前に、社会構造とか政治体制の問題であるのだと思う。

 今まで、深く考えることのなかった問題だったが、原子力発電をめぐる構造について、少しずつ見えるようになったことがこの二ヶ月間の大きな収穫だった。

 以上、一つの節目としてこの二ヶ月間を振り返って、感じたことをまとめてみた。

2011年5月10日火曜日

恥はどこへ行った?

 寒い一日となった。
 現在、羅臼町の気温3℃。
 根釧原野は軒並み一桁の気温だ。本州の真ん中を前線が横切り、その北側を寒気が西へ流れている。五月に入ってしばらくこのような気圧配置が続いている。

 今朝も冷たい雨が降っていたが九時過ぎた頃に小降りになり十時には上がった。
 そこで、予定通り町内の幼稚園の五歳児と一緒に裏山への自然観察にでかけた。幼稚園の先生が事前に作っておいたビンゴを手にした子どもたちは、山の斜面に散らばりエゾエンゴサク、フキノトウ、クサソテツ、キバナノアマナなど春の草花を探し回った。

 フキの茎を使って「吹き矢」を作ってみせると、全員が欲しがった。
 全員の分のフキを切り取ったので手にフキのさわやかな匂いが着いた。
 吹き矢を吹くために茎を咥えた子どもたちもこの香りを楽しめたのではないだろうか。

 子どもたちは素直で、損得を考えず自分の感じたことをストレートに表現するものだ。いつごろから「打算」や「駆け引き」を覚えるのだろう?
 嫌なものは「嫌だ」。危険なものは「危険だ」と素直に言う前に、「こういう発言をしたら自分は周りからどう見えるか」とか「どうしたら自分がカッコ良く見えるか」という視点からものを見るようになるのはいつ頃からだろう。
 目が曇り、お金儲けのことばかりを考えるようになるのはいつ頃からだろう。

 あちらこちらで吹き出している原子力発電擁護の発言は、すべてが「経済活動をどうするか」という根拠から出発している。

 目の前で繰り広げられている危険で悲惨な現実を自分の問題として感じ取る想像力すら「カネの魅力」によって奪われているわけだ。そして、沖縄の米軍基地に対する態度も同様である。

 原子力発電の問題を経済問題にすり替える人々は、自分のクルマの中さえきれいにしておけばいい、ゴミは窓からポンポン捨ててしまう、というような人々と同じ匂いを感じる。

 利潤追求は、即、悪いこととは思わない。
 だが、利潤追求のためにどんなことも許されるだろうか?

 そして、利潤追求というのは目的となりうるのだろうか?

 人類がその歴史の中で積み重ねてきた倫理や道徳といった文化遺産を踏みにじってまで利潤を追求することが許されるはずはない。

 ところが、最近はなりふりかまわず「儲けることは良いことだ」と単純に信じて、何の恥じらいもなく「経済活動」だの「利益追求」だのと大声で堂々と語る人が多すぎるように思う。

 一方的に利益を求めるとその陰で踏みつけられる人や生物、傷つけられる人や生物が泣いている場合もあり、それらに配慮しながらコッソリ行うものじゃないかと思う。
 「お金を儲ける」などと大きな声で言うのは恥ずかしいことじゃないかなあ。

 最近は、どこかの大きな都市の市長だとか知事だとかのエライ人たちで、得意そうにお金儲けのことばかりを吹聴し、多くの国民もそれに同調していく。そうやって、原子力発電所や米軍基地が、次々と作られてきたのではないだろうか。

 お金を得ることが悪いと言うのではない。
 だが、それは目的ではなく皆が幸福になるための手段でしょう?
 しかし、いつの間にか「お金に支配される世の中」が完成しかかっている。

2011年5月9日月曜日

大腸菌と放射線

 昨夜は羅臼特有の「局地風」がわが家を直撃して、眠っている途中で何度も目を覚ました。
 「風が強くて眠れなかった」と言い切るほど繊細ではないので、眠っていないわけではないが、なんとなく寝不足のようなスッキリとしない気分で一日を過ごした。

 「汚染と腐敗は違うんだ」
 かなり昔のことだが、僕の親しい友人が彼の奥さんに向かって言った言葉だ。
 前日の残り物の匂いが少し怪しくなっていたにもかかわらず、それを食べてしまおうとした彼女に言ったのだ。

 彼は獣医師だ。
 獣医師は、病畜の診療だけでなく、食肉の検査や公衆衛生、食品衛生などの仕事をする。いわば食品管理のプロだ。
 腐敗とは、食品が種々の腐敗原因菌の増殖によって変質し、不快な臭気など伴う物質に変わることで、必ずしも有害な物質が生まれるとは限らない。
 汚染とは、食中毒菌が増殖し、その菌自身や菌の作り出す毒素が人体に有害な作用をすることで、食品の味や匂いに何の変化も起きない場合もある。まあ、たいていは有害な菌も無害な菌も同時に増殖していくから「腐った臭いのするものはアブナイ」と考えて間違いないのだが。
 ただ、ほとんどの食中毒は、味にも匂いにも変化のない食品で起きている。

 食中毒を起こした焼き肉店の生肉も一見したところ、新鮮で安全に見えたのだろう。

 目に見ない危険との戦いがいかに難しいか、何度も繰り返される食中毒の例を見ればよくわかる。

 放射線も目に見えないという点では食中毒菌と似ている。知らないうちに身をさらしてしまうこともありうる。多くの一般の人が、累積被曝線量を正確に特定することすら難しい。

 もうひとつ厄介なのは、被曝による障害のあらわれ方がはっきりしないことだ。
 「1000人のうち50人に癌が発症する」というような言い方しかされないから、自分人の運命がどうなるかがわかりにくいわけだ。
 まあ、食中毒菌が身体に入っても食中毒を発症する人としない人がいるわけだが。

 どちらも人為的な原因で起きている点も似ている。
 コストを切り詰めたために危険が増大した、という点も共通している。

2011年5月8日日曜日

ゾッとする精神の持ち主たちだゾッ

 本日の放射線量:0.08~0.11μSv

 管首相の中部電力浜岡原子力発電所運転停止要請が発表されてから、予想通りあちこちから反発が出てきたが、その人々の発言を聞いていて笑ってしまった。

 運転停止要請の根拠は今後30年以内に発生が予想される東海沖地震によって、今回と同様の事故が心配されるから、というものだ。

 それに対する反論は、「唐突すぎる」というものだったり、「原発補助金に頼っている自治体としては困る」とか、「原子力発電所で働く人々はどうする?」というものばかりだ。

 これでは議論が全く噛み合わない。滑稽だ。

 首相が心配しているのは地震と津波による被害だ。それは唐突にやってくる。
 発電所が事故を起こし、避難することになったら補助金どころではないだろう。
まさか危険きわまりない状態になった福島第一発電所で行われているような復旧作業を「原発での仕事」と期待しているわけではないだろう。

 電力不足にどう対応するか、というような問題なら真剣に議論する価値があるだろう。 しかし、自然現象である地震や津波からの危険回避の提案(ちょっと遅かったけど)に対して、「人間社会の混乱」を前面に出して反論しても議論にならない。論点が違う。
 小学生並の反発でしかない。

おそらく「地震なんて起こらない」と腹の底に根拠の無い確信を持っているに違いない。つまり自然を舐めきっているワケね。

こういう人々は実は身の回りに少なくないのだ。交通事故や山での遭難などの例によくみられる。
しかし、これは放射能に関することだ。一度事故が起きれば、周辺への影響は見当もつかないものになる。少数の当事者だけの問題ではないのだ。

 こういう発想の人たちがまだ数多くいるのである。ゾッとする精神の持ち主たちだ。 

2011年5月7日土曜日

本日の放射線量

 台風1号発生(フィリピン東方海上)

 本日の放射線量0.11~0.19μSv
 いつもは0.08程度だからやや強い。
 瞬間的には0.21μSvも記録した。

 やはり雨のせいだろうか。 
この線量増加の原因は、東京電力の原子力発電所事故のためだろうか。それとも何もなくても降雨の時はこの程度の線量増加がみられるのだろうか。

 核兵器が世界中に配備され、原子力発電所がハリネズミのように林立する環境で生活させられていながら、こんな基礎的な知識さえ提供されていない。

 今は江戸時代か?と思ってしまう。
 知らしむべからず。寄らしむべし。というわけか。

 こんな国であるなら、いつまでも住んでいられない。
 「国民の安全」を言うなら、具体的な行動でそれを示してほしい。

2011年5月6日金曜日

環境のお話 二題

 きょうの「海洋生物」で次のような話題を取り上げた。
海の動物は陸上の動物に比べてより複雑な生態系の中で生きている。
 なぜなら海の中は陸上に比べて圧倒的に生物の種類が多い。つまり種の多様性にとんでいる。したがって食べる・食べられるの関係が陸上よりもずっと複雑で、生物同士が複雑に絡まり合っている。

 簡単に例えてみる。
 牛肉を食べる場合、「植物(牧草)→ウシ→ヒト」という図式が成り立つ。
 では、タラを食べる場合はどうか。
 「植物プランクトン→動物プランクトン→小型魚種(イワシ・コウナゴなど)→中型魚種→タラ→ヒト」となる。
 ウシなら三段階、タラなら六段階だ。

 環境中の汚染物質が、上位の消費者に行くに従って濃縮されていくことは、生物濃縮と言い、よく知られている。
 単純には比較できないが、海水中に満遍なく広がった有害物質が、上位者に行くほど濃くなっていくということだ。
 水俣病など水質汚濁に起因する公害はこうして発生した。私たちはそういう経験を持つ。

 放射能についても同じ事が言える。
 福島第一原子力発電所から40キロメートル離れた海底の泥から、通常の100倍から1000倍のセシウムなどが検出されたと報じられている。
 これが海の複雑な食物網で濃縮されると考えるのが普通だろう。

 東京電力の原子量発電所事故の影響は、これからジワジワと広がってくることになる。

これに関連して理屈っぽいお話をもう一つ:
 ここにコップ一杯の水がある。これを海水に混ぜ、まんべんなく混ざり合った場合、最初のコップに入っていた水の分子はどのくらい広がるだろう。 

放射能で汚染された水を海に流した時、原子力保安院のヒトが
 「汚染水は海の水と混ざり合って拡散するから何ら問題はありません」と言い切った言葉がまだ耳に残っている。

 地球上の全海水量は約140京トンあるのだそうだ。(ウィキペディアより)
 140京トンは1.4×10の24乗グラムになる。

 コップ一杯の水は180mlつまり180グラムとする。
 つまり10モルだから6×10の24乗個の分子がコップの入っていることになる。
 (アボガドロ数を6×10の23乗とする)

当然ながらその比は
地球上の全海水:コップ一杯の水=1.4×10の24乗(グラム):180(グラム)となる。

分子量を18とすれば
 地球全体の海水は、
  8×10の22乗モルであり、分子の個数に直すと4.8×10の46乗になる。

 仮に汚染されたコップ一杯の水を海に流し、海水と完全に混ざり合ったとする。その後、海水を同じコップですくい取る。その中に元の汚染された水の分子が何個含まれているかを計算する。
 コップに戻ってくる水分子の数をxであらわす。
比例式を建てて
全海水の分子の量:汚染された水の分子の量=4.8×10の46乗(個):x(個)

比例式を建てて
地球全体の海の水分子の量:コップ一杯の水分子の量
        = 汚染された水分子の量:コップに戻った汚染水の分子の量
4.8×10の46乗(個):6×10の24(個)=6×10の24乗(個):x(個)

計算すると
 x=750となる。
 つまりコップ一杯の水を海に混ぜ、完全に混ぜ合わせたと、再びコップですくうと、元の水分子が750個戻ってくる、ということだ。

 これは世界中どの海水にもこれだけの割合で、最初のコップ一杯の水分子が混じることを意味する。

 もちろん、これば水分子の話で、そこに混入している放射性物質の分子(または原子)の数はもっと少ないから、これをそのまま放射能汚染の広がりに当てはめるわけにはいかない。
 しかし、一度汚染された物質を環境に捨てると、その影響は思いのかほ広がるということなのである。

あの「ホアンイン」の担当者は、この程度の小学生並の比例式を理解した上でああいう発言をしたのだろうか?
 そうであってほしいのだが。
「ホアンインゼンインアホ」という回文が小学生の間で流行っていると聞いた。
まさか、と思いたい。

2011年5月5日木曜日

旅で得たもの

 今日は、羅臼の中学校の先生たちと羅臼湖へ行く計画を立てていたが、国道334号線の知床峠が積雪のため通行止めになり、登山口まで行けず、中止となった。
 きわめて残念。

 しかし、おかげでまとまった自由時間が手に入った。
そこで、「長旅」を終えたキャンピングトレーラー「アフローラ」の整備にじっくりと取り組むことができた。

 今までのキャンプは、ほとんどテント泊が主流だった。もちろんいつになってもそれが原点だと思っている。
 車で引っ張って移動する住居など贅沢の極みだ。
 「走るホテル」と言えば少々ほめ過ぎだが、まあそれに近いだろう。

 四泊して、その間のホテル代が浮く。
 さらに車中で調理すれば外食にかかる経費が浮く。テントのように設営や撤収に時間がからない。
 利用の仕方によっては、ありがたい存在である。

 もうひとつ、身に染みたことがあった。
 トレーラーの清水タンクやバッテリーの容量には限りがある。また、排水を溜めておくタンクの容量にも限度がある。
 顔を洗ったり、歯磨きをしたり、夜に室内を照明したりする時、水の量やバッテリーの残量を気にしながら使うようになっった。日常生活でも本当はそれが大切なことなのだ。

  水や電気を必要最小限にすることを常に考えていた。
 この感覚は、日常生活ではなかなか持つことができない。
自宅に戻って食器を洗う時、コーヒーを飲んだり選択をしたりする時に、自分が水や電気をいかに浪費しているかを改めて思い知った。

 そんな資源の無駄遣いにも気づかせてくれた、有意義なキャンプだったと思う。
 あればあるだけ何も考えもずに無駄遣いした挙げ句、まだ「足りない」と言い立てて、原子力発電にしがみつこうとする人々に、この旅行を体験してもらいたかった。  

2011年5月4日水曜日

旅の終わりに気づいた 錯覚の国



今日は旅の最終日。ひたすら帰路を進む予定だ。

 昨夜は上富良野町の深山峠パーキングで停泊した。
 駐車場の後ろ側に「トリックアート美術館」という施設がある。高さ数メートルの建物で、どう見ても一階しかないと思われるのだが、外壁に三階建てに見えるよう窓が立体的に描いてある。今まで、前を通り過ぎるばかりだった。
 午前9時開場ということだっし、以前から気になっていたので、出発前に中を見学することにした。

 中には、大小50点あまりの作品が展示されていた。ほとんどすべて錯覚によって立体的に感じるように描かれたものだった。
 平面に描かれているのに見る角度をが変わると手足のプロポーションが違って見える人物画、床に描かれているネコが立体的に見える絵などがあり、十分に楽しむことができた。

 その中の一枚に興味を感じた。
 円の中で二人の子どもが互いに反対向きで向かい合っている絵だ。これは、中国で子孫繁栄を象徴するおめでたい図柄だという説明が付いていた。

 この絵で、子どもは二人しか描かれていないのだが、垂直方向に(つまり左右に)向き合っているようにも、水平方向に(つまり上下に)向き合っているようにも見える。つまり4人見えるのだという。

 不思議な絵だ。

 人の脳は精巧に作られているがゆえに、錯覚を起こすものだ。
 この美術館の絵画は、すべて錯覚を利用したものだ。

 今まで自民党政府によって進められた原子力政策は、お金と人材をつぎ込んで、力尽くで国民に原発を押しつけてきた。
 その過程で、地元住民や自治体へは、多額の補助金を支払うことで反対意見を封じ、それ以外の国民へは、「電気が足りなければ日本はダメになる」とか「原子力発電は安全で、もっともコストがかからない」などとあの手この手で言いくるめてきた。
 要する国民全部に錯覚を起こさせてきたわけだ。
 その効果は絶大で、今でも
 「原子力発電はもっと進めるべき」と考えている世論調査結果もあるという。
     (その精度と真偽は定かではないが)
 多くの国民がいまだに錯覚だと気づいていないのも事実だ。

 笑って済ますことのできない錯覚からは、少しでも早く覚めなければならない。

2011年5月3日火曜日

あれば便利だけど無くてもなんとかなる物

昨夜は富良野市山部に停泊。東大演習林入り口のパーキングだ。

 今日は憲法記念日
 震災を口実に憲法改悪を企む者たちが蠢動し始めた。
 なりふり構わず、何でも改憲の口実に使おうという野蛮きわまりない策動は許せない。
 
 改憲の策動よりも地震・津波被災住民や原子力発電所事故の被災住民の生活の保障を憲法に基づいて速やかに行うのが先であろう。

 キャンピングトレーラー「アフローラ」を牽いての旅は、楽しい。
 スパルタンなキャンパーからは「そんなのキャンプじゃない」と軽蔑されるだろうが、宿泊地に着いてからテントを建てたりする必要がない。
 着いてすぐ眠っても良い。
 快適だ。

 今回の旅は、本格的に使うための実地試験の性格が強い。
 いくつかの課題も明らかになった。
 たとえばトレー-ラー側のバッテリー容量の低下という問題が起きた。
 いわゆる電源喪失だ(笑)
 電源が失われると灯りが点かなくなり、清水タンクからくみ上げるポンプが機能しなくなり「水道が出ない」という状態になる。
 しかし、予備のポリタンクが室内に持ち込んである。水は20リットル準備してあるから問題は無い。
 使い終わった食器などはティッシュペーパーで拭けば水は使わない。普段行っている普通のキャンプ生活だと思えば、水が十分になくても、灯りがつかなくても全く気にならない。
 そうなるとトレーラーの電源など無くても構わないのだ。
 このように「あれば便利だけど無くても平気だ」というものが身の回りにずいぶんあるもので、それに気づくことも旅やキャンプの効用かもしれない。

 停電を怖れる人たちは、はたして、生活上の備えをした上で、それでも怖れているだろうか。
 僕には停電より東電の方がはるかに恐ろしい。

2011年5月2日月曜日

鶏と原子力発電

 昨夜は十勝管内中札内で一泊した。
 道の駅で「停泊した。

 朝、「中札内地鶏の唐揚げ」というのを買ってみた。胸肉を大きなブロックに切り、カリッと香ばしく揚げられていた。味付けも薄味でとても美味しかった。
 5つの入って700円だった。1個140円。
味には満足したが、
 「ちょっと高いね」という感想が出た。

 そう口に出した途端にハタと気づいた。
 僕たちは、知らず知らずのうちに「安いこと=良いこと」という価値観が強烈に染みついてしまっているのではないだろうか。
 いつの間にか、「コスト意識」なる化け物に取り憑かれているのではなかろうか。

 ある一定の条件の下では安いことは、消費者として望ましい。

 しかし、なんでもかんでも
 「より安く、さらに安く」と血眼になっているうちに、素朴な手作りの唐揚げの味よりも、アメリカ発の「健太式鶏の唐揚げ」などの味に慣らされ、それが一番だと思い込むようになってしまったのではないだろうか。
本当は、狭いケージで大量に飼育され、管理優先のため、短期間で肥育できるように、調整された飼料を多量に給与されたニワトリを使い、調理にも添加物などが使われているかも知れないのだ。
 そうでなければ、あれほどの安い値段のフライドチキンはできないだろう。

 以前から言われていることだが、高くてもそれだけの値打ちのある物も世の中には少なくないのだ。

 そして、発電にもそのことは当てはまるのだ。
 原理力発電を普及させるために「原発は安い」という口実が使われていた。頻繁に使われていた。今も使われている。
 本当は、今回の東京電力の事故でわかるとおり、一度事故が起きると、見当もつかないほど高上がりなのだけれど、とにかくそう理由づけられていた。

 そして「安い」というのはそれなりの説得力を持つ。

 電力会社の言う通りに(随伴する間接的な経費や使用済みウラン処理のコストなどを無視して)本当にコストが安かったとしても、その安さと引き替えに失う物が大きすぎるのではないだろうか。農家の財産、水産業者の収入、そして子どもたちの健康、などなどなど。

 世の中には、コストだけで考えてはいけないものもあるのだと、中札内のアラアゲ屋さんのおばちゃんに教わった気がする
 

2011年5月1日日曜日




 旅に出た。

 行く先も日程も決めず。

 もうずっと前からやってみたかったのだが、勤めのある身の悲しさで予定をきっちりと立てた旅しかできなかった。

 古いキャンピングトレーラーを牽いて、年季の入ったランドローバー ディフェンダーで、生きたい所へ行く。いつ帰るかも決めていない。

 生憎低気圧と前線に遭遇してしまったが、それは結果。自分をそれに合わせればよい。

 昨日は屈斜路湖半和琴半島で泊まった。
 今夜は中札内に来ている。外はかなり激しい雨だ。

 気ままな旅は楽しい。ロマの人々のような気持ちか。
 寒いキャビンで眠るのもそれなりに体力が要る。だがそれも楽しい。

 だがそれは、帰る場所があるからだ。
帰る当てのない人々には、どんなに残酷な仕打ちだろう。
 まして、高齢者や子どもたちなど体力や気力が衰えを見せている人々には、どんなに辛いことだろう。
 機械的に線引きし、「避難区域です」と宣告する側の人間にそれがどのくらい想像できているのだろう?
 まして、避難の原因を作った東京電力の人間、「原子力発電は安全です」と言い続けた者たちは、この事実を前にしてどんな態度をとるのだろう?

 あまりも、あまりにも想像力がなさ過ぎる。
 ああ、嘆かわしい。