2011年5月21日土曜日

死について

 母方の伯母の告別式があった。
 どうしても仕事の都合がつかず、昨夜の通夜には間に合わなかったが、今日の告別式から葬儀に加わることができた。

 伯母は、比較的高齢で亡くなったので、友人や近親者の数も限られていて、身内だけのひっそりとした葬儀だった。

 しかし、今回の震災では、2万人を超す人々が亡くなり(不明も入れて)厳しい環境で葬儀を執りおこなわざるをえなかったようだ。
 一口に2万人と言っても、その一人一人につながる親子、兄弟、友人、知人がいるはずで、一人の死をどれだけのたくさんの人が悲しむかは明白である。

 昼前、火葬場に行った。
 火葬場の建物は近代的で、まるでホテルのようだ。
 遺体を焼く炉が16基もずらりと並んでいる。   今回の震災で亡くなられた方々は、火葬が間に合わなくて、仮に土葬にされた方たちもいると聞いた。その人たちに比べたら伯母は恵まれているなとつくづく思った。

 しかし、亡くなってしまえば貧富貴賤の別なく、みな「仏様」であるし(仏教では)、生命体から死者という「物」になってしまうという事実は変わらない。

 生命とはかくも簡単に失われるもの、儚いものなのだ。

 その儚くかけがえのないひとつひとつへ、東電や政府は本気で気遣っているのだろうか。 なんだか机上の数字だけで扱っているように思えてならない。

 電力会社が、生命の尊厳を尊重しない会社なのであれば、たとえ社会の基盤をなす重要な企業であっても、存在すべきでない。われわれは、どんなに不便であってもそのような企業の世話になって生きていたくはない。

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