2011年5月10日火曜日

恥はどこへ行った?

 寒い一日となった。
 現在、羅臼町の気温3℃。
 根釧原野は軒並み一桁の気温だ。本州の真ん中を前線が横切り、その北側を寒気が西へ流れている。五月に入ってしばらくこのような気圧配置が続いている。

 今朝も冷たい雨が降っていたが九時過ぎた頃に小降りになり十時には上がった。
 そこで、予定通り町内の幼稚園の五歳児と一緒に裏山への自然観察にでかけた。幼稚園の先生が事前に作っておいたビンゴを手にした子どもたちは、山の斜面に散らばりエゾエンゴサク、フキノトウ、クサソテツ、キバナノアマナなど春の草花を探し回った。

 フキの茎を使って「吹き矢」を作ってみせると、全員が欲しがった。
 全員の分のフキを切り取ったので手にフキのさわやかな匂いが着いた。
 吹き矢を吹くために茎を咥えた子どもたちもこの香りを楽しめたのではないだろうか。

 子どもたちは素直で、損得を考えず自分の感じたことをストレートに表現するものだ。いつごろから「打算」や「駆け引き」を覚えるのだろう?
 嫌なものは「嫌だ」。危険なものは「危険だ」と素直に言う前に、「こういう発言をしたら自分は周りからどう見えるか」とか「どうしたら自分がカッコ良く見えるか」という視点からものを見るようになるのはいつ頃からだろう。
 目が曇り、お金儲けのことばかりを考えるようになるのはいつ頃からだろう。

 あちらこちらで吹き出している原子力発電擁護の発言は、すべてが「経済活動をどうするか」という根拠から出発している。

 目の前で繰り広げられている危険で悲惨な現実を自分の問題として感じ取る想像力すら「カネの魅力」によって奪われているわけだ。そして、沖縄の米軍基地に対する態度も同様である。

 原子力発電の問題を経済問題にすり替える人々は、自分のクルマの中さえきれいにしておけばいい、ゴミは窓からポンポン捨ててしまう、というような人々と同じ匂いを感じる。

 利潤追求は、即、悪いこととは思わない。
 だが、利潤追求のためにどんなことも許されるだろうか?

 そして、利潤追求というのは目的となりうるのだろうか?

 人類がその歴史の中で積み重ねてきた倫理や道徳といった文化遺産を踏みにじってまで利潤を追求することが許されるはずはない。

 ところが、最近はなりふりかまわず「儲けることは良いことだ」と単純に信じて、何の恥じらいもなく「経済活動」だの「利益追求」だのと大声で堂々と語る人が多すぎるように思う。

 一方的に利益を求めるとその陰で踏みつけられる人や生物、傷つけられる人や生物が泣いている場合もあり、それらに配慮しながらコッソリ行うものじゃないかと思う。
 「お金を儲ける」などと大きな声で言うのは恥ずかしいことじゃないかなあ。

 最近は、どこかの大きな都市の市長だとか知事だとかのエライ人たちで、得意そうにお金儲けのことばかりを吹聴し、多くの国民もそれに同調していく。そうやって、原子力発電所や米軍基地が、次々と作られてきたのではないだろうか。

 お金を得ることが悪いと言うのではない。
 だが、それは目的ではなく皆が幸福になるための手段でしょう?
 しかし、いつの間にか「お金に支配される世の中」が完成しかかっている。

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