2013年4月30日火曜日

4月29日 持続可能性をもとめて会議は一日じゅう続いた

 ホテルから一歩も外に出ることなく朝から会議が続いた。  終わったのは夕方。2キロくらい散歩した。  昨夜は2時近くまで今日の発表の準備をしていたので、今朝は朝食の始まるギリギリまで寝ていたので、このままでは狭いケージで餌だけはたっぷり与えられるブロイラーと変わりないと思ったので散歩に出かけることにした。  ホテルの裏側はサンフランシスコ湾で、湾を挟んで向こう岸に市街地が見える。空港からこのホテルに直行したので、まだダウンタウンには行っていない。  海岸に沿って気持ちの良い遊歩道があり、犬を散歩させている人が目立った。一瞬、アメリカの大都市にいるという緊張感を忘れるような長閑で良い夕方だった。  会議では、ESDについて論議されたが、ほとんどが日米の現役の教師たちなので、自分の実践や経験を披露する発言が目立った。  ESDのいう「持続可能性」の真偽についてとか、ESDを構成する各種の課題教育の中で環境教育の優位性(あるいは基盤性)について多くの人の考えを聞きたかったのだが、ちょっと物足りない印象があった。  しかし、他の参加者の意欲に水を差すのはマズイので、しばらくは聞き役に徹することにした。明日、小グループのディスカッションがあるので、その場で議論できたら良いと思う。  ソルトレイクシティを回ってきたグループで、各自が分担して報告したのだが、僕には「まとめ」を書く役割が回ってきた。  その文を載せておこう。  私たちの仲間に南太平洋のサモアに行った経験を持つ人がいます。出発前、彼はこんなことを問いかけた人がいました。 「サモアの人々は、お金もITも自動車もないのに皆、自分は幸福だと思っている。それに比べて、われわれ先進国ではどうだろう」  私たちの今回の旅は、人間の幸福とは何かを考える旅だったかも知れません。  そして私たちは、旅の終わりにこの「Reverence for nature=自然への畏敬の念」というキーワードに行き着きました。  これは、ソルトレイクシティのホークウォッチ・インターナショナルというワシタカ類の調査研究と教育活動をしている組織にいたアカオノスリ(RED TAILED HAWK)です。有刺鉄線で傷つき、もう空を飛べません。  この目は何を訴えているのでしょう??  ソルトレイクシティは、周りを山や沙漠や湖にとりまかれた近代的な都市です。私たちはそこで、このように考えました。  生物は地球上で37億年間、命をつないできました。  これからも自然から離れて生きてはいけません。  持続可能で幸せな世界を未来の子どもたちに遺すために、何が必要か。  自然環境の持続なしには、文明や文化の持続もありえません。  そのためには自然を正しく読み解く能力が必要です。  自然環境や資源を利用する時、立ち止まって考える自制心も欠かせません。  それには、目的をもっていつまでも学び続ける心、あらゆる生命を愛し平和を求め続ける心がなくてはならないでしょう。  部屋に戻ると夕焼けと街の灯りが美しかった。

2013年4月29日月曜日

SEE YOU SALTLAKECITY! 「アメリカ」というシステムについて

 サンフランシスコに着いた。  ソルトレイクシティ空港までは、デビットがポルシェで送ってくれた。彼が宝物のように大切にしているクルマだ。最大の親切心をもって見送ろうというユーウェルさん一家の意志の表明であろう。  ありがたいことだ。  ソルトレイクシティ空港からボンバルディアCRJ200という小さな小さなジェット機で飛び立ち、午後1時過ぎ、サンフランシスコ空港に到着した。  ホテルはヒルトンという超豪華なホテルだった。自分の一生ではもう二度とこのような豪華ホテルに停まることはなかろうという部屋だ。  着陸前の機内から海が見えた。久しぶりに見る太平洋は、なんだかとても懐かしく感じた。望郷の念のようなものだろうか。ヨーロッパやニュージーランド、ヴェトナムなどでは、あまり意識しなかった感情だ。  他の国を旅した時に比べて、アメリカにいると妙に居心地の悪さを感じる。アメリカ人の家庭にホームステイし、温かく親切に迎えてもらい、行く先々で親しくもてなしてもらっていながら申し訳ないのだが、本音と述べるとそういうことになる。  やはり圧倒的な物量で世界を支配しようとし、弱い者、小さな者を気にかけないこの国の気風がどうしてもなじめない。  一人一人のアメリカ人は、明るく人が良く、情にも厚い。標準以上に親切かも知れない。しかし、国のレベルでなくても集団としての傾向がどうしてもそのように傾斜しているように思えてならない。  このことは、いずれもう少しじっくりと考えてみたい。

ソルトレイクシティの休日

4月27日(土)  連日の学校訪問等の日程から解放され、一日ゆっくり休養をとることができた。  昨日からホームステイしているデビッドさん夫妻は、まるで親戚のように親しく遇してくれている。  今朝は、彼が所有する二匹のポインター(鳥猟犬)の運動と訓練に連れて行ってくれた。  行った先は、西部劇に出てくるような荒野であった。    一度帰宅して、朝食を摂ってからダウンタウンに行った。 ここまで咲きそろうと人工の花壇も見事なものだ。  モルモン教の総本山の寺院を見学。2万人以上が収容できるという大ホールを見せてもらう。  古い電車の車体を作り直したレストランで食事をした後、ロッキー山脈の南端に当たる山岳地帯に連れて行ってもらった。  そこで、小高い峠からはるかに東の方向を望見することができた。19世紀の半ば、大勢のモルモン教徒がこの峠を越えてソルトレイクシティに入植してきたのだそうだ。  もう一つの幸運は、この場所でエルクを見ることができたことだ。 一日のうちで、沙漠と都会と山をすべて経験できた。

2013年4月26日金曜日

4月25日

密度の高い日程の一日だった。  朝、第一番にボンヴィル・エレメンタリースクールを訪問。  午前中はここで過ごし、昼食を食べてからユタ州立大学植物センターを見学した後、ソルトレイク研究所のガイドでアンテロープ島州立国立公園を見て回るツアーを行って、市内に帰ってきた。  圧巻だったものの一つは、ソルトレイクという塩湖の風景とその中の最大のアンテロープ島の広大な草原、湖と空の広がる景観 だ。  そして、もう一つは多、フランクリンカモメやwhite front ivis(Plegadis chihi)(和名 カオジロトキ)などが集まる湖の北東の湿原だ。  これらの二つの見学先については、いずれ改めて記録しておこうと思う。  実は、もう一つ、驚いたことがあった。  それはボンヴィル・エレメンタリーリースクールでのことだが、ここは特に芸術教育に力を入れてESDを展開してるということで、子どもたちによるミュージカル(彼らは「グリーンオペラ」と呼んでいた)を見せてもらった。4年生の小型の作品と3年生3クラスがそれぞれ環境をテーマに演じるオムニバス形式の作品が中心だった。  それら3つの作品群の中のに現代の子どもを蝕んでいるテレビゲームやファーストフードのことを取り上げたものが2つもあった。  特に食物と農業、食品資本が歪める農業の問題を真正面から取り上げた作品は、「これがモンサントやマクドナルドなどのお膝元の国の作品か?」と思うほど痛烈な批判を含んでいた。  「批判的思考」はESDの重要な要素であるが、本当に「ここまで!」と驚かされる内容だった。  

2013年4月25日木曜日

4月24日(火)

 ソルトレイクシティで迎える初めての朝は、快晴で風もなく、どこまでも空気が澄んでいた。  標高1200メートルのところにあると聞いたが、市街地の中心部からビル越しに雪をかぶった高い山が見えていた。  この場所は基本的には砂漠地帯だが、そこに突然高い山がそびえていることで、山の裾野に肥沃な土地が広がって、人々が暮らしやすい場所となったのだろう。降水量が少なく乾燥気味の気候と山から流れてくる水によって、まるで理想郷のような土地ができることは、天山山脈の麓に広がるタクラマカン砂漠のオアシス都市トルファンに似た空気だと思った。 トルファンはユーラシア大陸の中心部にある、ソルトレイクシティはアメリカ大陸の中央にあることが共通点だから、似ていて当然かも知れない。  今日は、中学校と高校の二つの学校、広大な谷をゴミで埋め立てつつリサイクルに取り組んでいる企業の三カ所を訪問した。  最初の訪問先はレイクリッジジュニアハイスクール。 ここでは、日本の三年生にあたる生徒たちが模擬国連会議を行っていた。一人一人の生徒が世界各国の代表に扮して、国連会議の場で農業の持続性の維持について討論するという授業で、議事の運営についての協議も、議長もすべて生徒たちの手で行っていた。  次に訪れたのはリーハイハイスクール。  校内にstudent councilという生徒会に相当する組織があり、プレジデントと呼ばれる生徒会長を中心に執行部があるところは、生徒会に似ているが、50人に近い生徒が様々なの役割を分担していて、まるで行政組織のようになっており、日本の高校の生徒会よりも大学の自治会に近いように感じられた。  ラッセル先生という生物の先生が中心になり、後はスクールカウンシルの生徒が我々を歓迎してくれた。  訪問の最後は、ゴミの埋め立て場だ。  ソルトレイクシティの南にあり、なんでも規模のおおきな米国だが、10年以上にわたってゴミを埋めたてている。しかしあと17年で満杯になるので、次の計画が必要だということだった。  周辺は砂漠につながる荒れ地で、住宅や農地があるわけでもないので、ここに処理場(埋め立て処分場)をつくることへの抵抗は無いのだろう。  しかも、処理会社では、できるだけリサイクルに努めていて、それを児童生徒に普及させてゴミを減らすキャンペーンに力を入れているようだった。  しかし、乾電池もそのまま埋めていて、含まれる水銀(最近の乾電池には含まれていないものがほとんどだが)はどうするのか、と質問したら 「完全に防水しているので問題ない」という答えが返ってきた。  良い意味でも悪い意味でも、これがアメリカ的な発想なのかも知れない。  原子炉の使用済み燃料も、結局こんな発想で対処しているに違いない。それは、アメリカのような広大な国土の国で言えることであり、世界中どんな国にも当てはまることではない。  原発問題の根の一つがこの辺にあるような気がした。

2013年4月24日水曜日

西部へ!

 朝、曇り空だった。  厚い雲で、いかにもこれから雨になりそうだったが、昼過ぎから青空も少し見えてきて、降ることはなかった。  朝、7時30分にホテルを出て、T.C.ウィリアムズハイスクールという公立の高校を訪問した。  ワシントンDCのすぐ隣だがメリーランド州のアレキサンドリア市にある。  生徒数が3200人、教員が279人という大きな高校だ。生徒の出身国は40カ国にもおよび、白人は20パーセントしかいない。そして、20パーセントの生徒は英語が母国語でない生徒たちで、一般教科の指導との中に英語の指導も含めている。  ただ、英語の指導のために特別な時間を設けてはおらず、あくまでも一般教科の指導の中で行っているということだった。  生物の授業を見せてもらった。生徒数19人でDNAの基本的なはたらきや糖と酵素の関係など、生物の基礎としてはそれなりのレベルの授業を行っていた。全員がPCを持っていて、ウェブサイトをみながらプリントに書き込む授業をしていた。中にはスペイン語で書かれたサイトを見ている生徒もいたが、先生の講義はすべて英語だった。  代数の授業を見てきた人によると、代数の先生は英語とスペイン語の両方を使って説明していたということだった。  多くの移民を抱えて苦しむアメリカ社会の一面がここにあるのだろうと思って見てきた。しかし、政府から3年間で200万ドルとい巨額の予算を特別に配当され、さまざまなクラブ活動や教科のメニューが用意されて、生徒たちは底抜けに明るく学校生活を楽しんでいるようだった。  悪い意味ではなく、問題を圧倒的な物量の投入で問題を解決するというアメリカらしさが、こんなところにも表れているように感じられた。  午後、ダレス空港に移動。15:05発のシカゴ行きでシカゴオヘア空港着。  空港だけとは言え、初めてシカゴを訪れることができて、なんとなく得した気持ちになった。  やや長い待ち時間の後、小さなジェット機に乗り継ぎ、3時間飛び続けやっとソルトレイクシティ空港に到着した。  ホテルはモルモン教の本山のすぐ近くのこぢんまりした所だ。  すでに現地時間で夜10時近くになっている。ワシントンから3時間の時差があるからワシントンでは、深夜1時ということだ。  シカゴで軽食を食べたが、少し空腹を感じていた。だが、アメリカに来て、毎回、十分すぎるほど食べているので、そのまま眠ることにした。  そろそろ旅の後半である。

2013年4月23日火曜日

 バスは  バスは9時に出発。  ワシントンDCから約1時間の距離にある、チェサピーク湾の環境教育施設CHESPAX(チェスパックス)を訪問した。午前中は説明と記念植樹、午後は実際のアクティビティを体験した。  この施設はメリーランド州のカルバート郡内のすべての学校が利用する環境学習施設で、25の学校の16300人の生徒が一年間を通してクラス単位で利用している。チェサピーク湾とパックス川に挟まれた半島に位置していてボランティアを含む6人くらいのスタッフで運営している。  われわれはアメリカハナズオウを記念植樹し、昼食の後は腐葉土と土、草地の水の透過性の違いについての実験、水の透明度の測定、地引き網による魚の捕獲、そしてバードウォッチングの4つのアクティビティを体験した。  日本の野外体験も盛んになってきているが、児童生徒の数に対して指導者が少なく、一人で20人も30人ものの子どもを指導することが少なくない。 「野外」という場に出ると、子どもたちはどうしても気分が高揚する。それは悪いことではないが、「野外での活動=遊び」という受け取られ方をされてしまいがちだ。  この意識は、教師の側にも生じる。  それに対しては、きっちりとしたカリキュラムと指導案、少人数による指導によって対応するのが最良だと思う。  ここでは、そのような緻密な環境教育が行われていた。 9時に出発。  ワシントンDCから約1時間の距離にある、チェサピーク湾の環境教育施設CHESPAX(チェスパックス)を訪問した。午前中は説明と記念植樹、午後は実際のアクティビティを体験した。  この施設はメリーランド州のカルバート郡内のすべての学校が利用する環境学習施設で、25の学校の16300人の生徒が一年間を通してクラス単位で利用している。チェサピーク湾とパックス川に挟まれた半島に位置していてボランティアを含む6人くらいのスタッフで運営している。  われわれはアメリカハナズオウを記念植樹し、昼食の後は腐葉土と土、草地の水の透過性の違いについての実験、水の透明度の測定、地引き網による魚の捕獲、そしてバードウォッチングの4つのアクティビティを体験した。  日本の野外体験も盛んになってきているが、児童生徒の数に対して指導者が少なく、一人で20人も30人ものの子どもを指導することが少なくない。 「野外」という場に出ると、子どもたちはどうしても気分が高揚する。それは悪いことではないが、「野外での活動=遊び」という受け取られ方をされてしまいがちだ。  この意識は、教師の側にも生じる。  それに対しては、きっちりとしたカリキュラムと指導案、少人数による指導によって対応するのが最良だと思う。  ここでは、そのような緻密な環境教育が行われていた。

2013年4月22日月曜日

スミソニアン・アメリカ・インディアン国立博物館

 4月21日(日) 午前中は、「教育における日米関係」というテーマで草原克豪氏の講演  日本は、明治維新以後欧米の社会機構や技術、思想等を取り入れる時、アメリカを経由したルートが結構あったという指摘は興味深かった。  そう言えば、日本人が「西洋」を見る時、アメリカの向こうにヨーロッパを置く見方とロシアやアジアの向こうにヨーロッパの姿を見る見方があると思った。  言わば西回りに見るか東回りに見るかの違いだ。  産業革命から出発したヨーロッパ文明が今日の環境問題を生み出した大きな原因であろうから、そのヨーロッパを西回りで観るか、東回りで観るかで、文明に対する見方が大きく違って来るかも知れないと思った。  続いてノースカロライナ大学のエイミー・ギャレット・デッカーズ博士による「米国の教育とESD」という講演があった。  アメリカの教育制度は、州ごとに異なっていて、なかなか一概に「こうなっている」と言えない難しさがあるようだ。ただ、その中でも家庭で英語以外の言語を使っている児童生徒が23%もいること、国際的な学力比較で低迷している状況からの脱出のために「COMMON CORE(コモン・コア」(私訳だが「共通基礎学力」)を設定して基礎学力向上に努めていること。その一方では「STEM(ステム)」(科学・技術・エンジニアリング・数学)の能力向上にも重点を置いていることなどが紹介された。  また、新採用教員のうち5人に一人が5年以内に離職している現実、教師の待遇などアメリカの教育の抱えている課題も示してくれた。  しかし、その一方でノーベル賞受賞者が圧倒的に多いという事実をどう説明するのか、というような議論も出て、非常に面白い講演になった。  午後からは、ホワイトハウスやリンカーン記念堂などワシントン市内の視察に出かけた、スミソニアンの博物館見学では見学先を自由に選べたので、「アメリカ・インディアン国立博物館」に行くことにした。  この博物館に行くのは初めてだったので期待していた。ただ、滞在時間が1時間と少々しかなく、急ぎ足での見学にならざるを得なかったことが、残念に思われる。  それでも、北極圏から中央アメリカまで、この広大な大陸でその風土に順応して暮らしてきた人々の息吹に触れることができたのは幸せなことだった。

2013年4月21日日曜日

長い長い一日・・・アメリカ初日

 僕にとって今年の4月20日(土)は37時間だった。時差のためだ。  成田空港を出発したのは4月20日の15時40分。ユナイテッド航空804便だった。そして、この便が米国ワシントンDCのダレス空港に到着したのは4月20日15時ちょうどくらいだった。この間の飛行時間はおよそ13時間。  今は、4月20日の夜9時半になるところだ。  だから僕にとっての4月20日は37時間になるわけだ。  ワシントンDCに来たのは2回目だがほぼ12年ぶりだ。前回は2月に来たので、結構寒くて時々雪も降っていた。大雪で交通機関が麻痺したりしたこともあった。  今日は気温は14℃くらいだが青空が明るく日差しが非常に強く感じられた。  ホワイトハウスの近くにあるWESTIN Htel という立派なホテルだ。割り当てられた部屋は、普段利用するビジネスホテルの部屋の3倍くらいの広さだ。あまりに立派すぎてちょっと落ち着かないほどだ。  このホテルに2泊して、4月23日(火)にユタ州ソルトレイクシティに移動する。

2013年4月19日金曜日

なかなか センチメンタルジャーニーの始まり

 新千歳発 1410の成田行き全日空 2154便 成田空港到着 1610 高齢の父が入院中であることが気がかりで、正直なところ後ろ髪を引かれる思いだ。そんな感傷を出発準備の慌ただしさが薄めてくれていたことは、旅が始まって独りになってから気づいた。 病室で父とほんの僅か言葉を交わした。  「気を付けて行ってくるように」と言ってくれた言葉の陰には「与えられたチャンスを最大限に利用して、自分の可能性を思い切り伸ばせ」という親として思いが込められているのだろうと思った。     北日本全体に寒気が流れ込んでいるため、大気が不安定でボーイング737-700は何度も大きなローリングをして成田空港の滑走路に降りた。  第一ターミナル前からホテルのバスに乗って5分ほどで到着しチェックインした。バスで5分かかったが、大部分は信号で停車してたので、歩いてもそれほどの距離ではないと思われる。  そこで、夕方ホテルの周りを散歩したついでに第一ターミナルまで歩いてみた。想像通り徒歩でも5分くらいだった。夕食はターミナルビルでとり、ゆっくりと戻った。  行き会う人々は皆、寒そうに身体を縮めていたが、気温は11℃。歩いていれば長袖のシャツ1枚で十分暖かい。快適な夜に感じた。  明日は午前中にオリエンテーションを受け、午後の便でワシントンDCに向かう。

2013年4月18日木曜日

出発前夜

 いよいよアメリカへの出発が明日に迫った。    ESD日米教員交流プログラムという事業だ。2010年、ニュージーランドの環境教育を視察してきた。今回はアメリカの現状を学んで来る。ESD(持続可能は発展のための教育)がアメリカでどう展開されているかは非常に興味深い。地球上の資源のほとんどを利用し消費し続けるアメリカという国で、ESDがどのように実践されているのか、是非、この目で見てきたい。  明日、成田空港に集合し、いよいよこの訪問団が結成される。

2013年4月17日水曜日

出発の時

今日は、ビジターセンターにサンショウウオを預け、羅臼高校で授業を3時間行ってから夕方出発した。 この後、札幌の父を見舞ってからアメリカに向かう。 長い旅が始まることになる。

2013年4月16日火曜日

愚の骨頂 大沼のミズバショウ ライトアップ・・・・いい加減にしてくれよナ

 ボストンマラソンの爆発事件を詳しく知りたかったので、珍しくTVをつけてニュースを見ていた。  すると、ローカルニュースで道南の大沼公園のミズバショウ群生地をライトアップするという話題を報じていた。  えっ、と思いだんだん腹立たしくなってきた。どうしてなりふり構わずそんなことをする?なんと愚かしい。この愚かな者たちは、暗闇を人工の光で切り裂くことは罪悪だという認識を持てないのか、と。夜は暗闇のままにしておくがいい。いいに決まっている。  ライトアップが全て悪いとは言わない。思っていても言わない。町中の公園にある桜をライトアップするのは、まあ良いだろう。たしかに夜桜は綺麗だと思う。しかし、ミズバショウはその湿地に自然に生育しているものだ。人の手で植えたものではない。それを客集めのために人間側の都合だけでライトを浴びせるのは自然への冒涜だと思わないか。自然物はすべて人間に都合に奉仕すべきものという考えはもう過去のもののはずだ。  現実問題として自然環境への影響も考慮せねばならない。湿地には数多くの生物が暮らしている。たとえばカエルの産卵場所になっている。たくさんの種類の小さな虫たちの暮らす場でもある。カエルの繁殖に影響はないか、虫への影響はどうか、これを企画しているヒトたちが配慮しているとは思えない。ただただ観光客をたくさん集めて少しでもカネ儲けをしたいという欲に目が眩んでいるとしか映らない。  万が一カエルの繁殖に影響が出れば、カエルをエサとして利用している多くの動物たちにダメージを与える。それを考慮できないのは愚かだ。  個人的なことを述べれば大沼公園は高校三年生の時、一年間暮らした場所である。観光地として、あちこちに人手が加わっているが、随所にすぐれた水辺の環境が残されている良いフィールドだった。その大沼からこれ以上収奪することは止めてもらいたい。  もう一つ。こんな馬鹿げた発想が生まれるのは、そこに需要があることも原因だ。普段見向きもしないような湿地にミズバショウが咲き、そこをライトで照らして闇夜に浮き上がらせれば、「どれ、行ってみようか」という人が増えると読んでいるのだ。  自然環境に配慮できる観光客として、このような愚かしい企画に乗せられないような良識と環境リテラシーを身に付けてもらいたい。もっと言わせてもらえるなら、観光客の立場からこんな企画を正しく批判してもらいたい。  高校生だった僕を優しく包んでくれた大沼のミズバショウ群落が哀れでならない。 

2013年4月15日月曜日

旅の支度を調える

落語を聴きながら今週末出発する旅の支度をしている。古今亭志ん朝さんの「付き馬」。歯切れの良い語り口が心地よい。  旅立ちは水曜日。もうあまり日が無い。今度の旅は仕事がらみの集団行動だから出発から帰着まであまり自由な時間は無いだろう。しかし、集団であるがゆえに旅先での組織的な交流や関係者との情報交換の機会は多くありそうで、自分の知識や経験を高めるためには大きな意義がありそうだ。  旅は苦手で住み慣れた場所でずっと過ごしてる方が好きだという人もいるようだが、僕は、どんな形でも知らない土地を訪ね、そこの空気に触れるのが好きだ。だから旅立ちの前は、期待に心躍る思いでワクワクしている。  生きているということは物質の流れを作り出していることなのだそうだ。ヒトの身体は、常に新しい物質を取り入れて自分の身体を作り、古くなった材料はどんどん排出する。1~2週間もすれば、身体を作っている分子は、たとえ同じ化学物質であってもすべて入れ替わっているのだそうだ。  そんな動的平衡状態を保っているのが「生きている」ということなのだという。2週間も旅していれば、身体を構成する分子や原子はすっかり新しくなって帰って来ることになる。  そんな「新しい容れ物」に新しい価値観や世界観が備わるだろうか。  「脳力」の衰えが気になる身としては、少々心許ないが、せいぜい頑張って勉強してくるつもりだ。

2013年4月14日日曜日

そろってまとまり整列していると腐朽が進む

 退職して時間ができたらゆっくりカヌー作りでもしようと考えて材料をこつこつと集めていた。  僕が作るのはカナディアンカヌーで、幅15ミリ、厚さ5ミリくらいの細い木材を貼り合わせて船体を作る。そんなサイズの材料は市販されていないので、製材所に注文して作ってもらう。以前勤めていた学校の授業で作っていたので、その材料を注文するとき、製材所に頼んで自分の分も作ってもらっていた。  そんな木材を束にして縛ったものを10把ほど、車庫として使っている農業用のD型ハウスの天井から吊して保管していた。  ところが見込みが外れ、退職してもまだ、自由な時間を思うように持てない状態が続いていた。  今日、車庫の中を整理したときにそこに木材の腐りが出ているのを見つけた。驚いてよく調べてみるとほぼ2把の木材が駄目になっていた。実にもったいないことをしてしまった。  農業用D型ハウスと言っても要するに鉄板一枚を貼り合わせたもので、永年の風雪ですっかり錆び、ところどころ穴が開いている。車庫に使っているハウスは特に傷みがひどい。そんなボロいハウスで保管していたために雨漏りがして材料の一部が濡れ、なかなか乾かない箇所があったらしい。  森で育ち、切り出され、町に運ばれ、製材されて、新たな人生に向かおうとしていた木材たちを何も使わぬまま腐らせてしまった自分のふがいなさが情けなかった。せめて冬の暖房に役立ってもらおうと木片を拾い集めた。  それにしても、切り口を揃え、しっかりと束ねていたものが腐ってしまった。考えてみれば同じ形、同じ長さのものをきちんと重ねて縛っていたので一旦水を含むとなかかな乾き難かったのだろう。そこにカビが生え腐朽が進むのは当然のことだ。  ひょっとしたら人間社会も同じかも知れない。  同じ規格、同じタイプのニンゲンを大量生産し、同じ格好で同じ生活をさせ批判を許さず、基準から少しでもはみ出した者は排除する社会は、風通しが悪くすぐに腐敗していくのだろう。  日本では、本当は少し前にそういう時代があった。 今、歴史そのものを書き換え、そういう時代を無かったことにして批判を許さないというヒトが増えているようだ。  それによって、社会の腐朽菌が再び活発になりボロボロに腐らせてしまうことになるだろう。

2013年4月13日土曜日

震源直上の原子炉

 今朝の地震で朝、5時半に起こされた。5時33分、淡路島を震源とする最大震度6弱の地震があった。別に僕の所が揺れたわけではない。北海道の東のはずれ、テポドンの射程からも外れているこの地まで、揺れが伝わって来るはずはない。  しかし、情報だけはどんどん送られてくる。土曜日の朝、「春眠」を楽しもうと思っていたところに枕元の携帯電話に地震情報が次々と入信してくる。寝ぼけ眼に映ったものは「震度6弱」の文字。あららら、と一気に目が覚めた。  それから起き出してTVをつけた。震度の分布を見て驚いた。四国を東西に横切って紀伊半島の中部にかけての構造線に沿って揺れの大きかった地点がきれいに並んでいる。素人目にも構造線に沿った地震だということがわかった。  四国の地図を思い浮かべてほしい。東西に背骨のような山脈が走っている。そして東の端から南東に向かって、まるで尻尾のような佐多岬半島が細く長く、九州の方向に延びている。  本州を真っ二つに分断する中央構造線は糸魚川から静岡に達した後、大きく東に向きを変えて伊良湖岬から伊勢湾を渡り、紀伊半島の真ん中を通って四国に達し、佐多岬から九州の大分県臼杵に向かって行く。日本最大の断層帯で、まさに日本列島を分断している。  報道では、盛んに(取って付けたかのように)稼働中の大飯原発は異状がみられない、と報じている。しかし、本当は一番怖いのは佐多岬半島にある伊方原発ではないだろうか。 ここには3基の原子炉があり、3号機はプルトニウムを混合した燃料を使っている。今は停止しているが核燃料がそこにあることは間違いし、原子炉は停止中でも燃料の崩壊熱が出続けているから休み無く冷却し続けなければならないことは、もはや多くの人が知っていることだ。  今朝の地震が、伊方から少し離れた淡路島を震源としていたことで、伊方原発事態はさほど大きく揺れなかったと見られるが、中央構造線上にある以上、いつか大きな揺れに襲われるだろう。それは100年後かも知れないし明日かも知れない。  淡路島で被害に遭われた方々には心からお見舞いを伝えたいが、今朝の地震が伊方方面だったら、今頃はもっと大変なことになっていたに違いない。  そんなゾッとした朝の出来事だった。

2013年4月12日金曜日

ポーランドからきた食器たち・・・・ちょっと柄にもないけど

 これらの写真を見て頂きたい。  模様や形はさまざまだが、どこか共通点があるように感じられないだろうか。これらは、みなポーランドから来た食器たちである。厳密にはポーランドのボレスワヴィエツという表記もある)という町で作られた陶器だ。  ボレスワヴィエツはポーランドの南西の端、ドイツとの国境近くにある町だ。市街地は歩いて簡単に一回りできるくらいの本当に小さな町だが、このような食器を作っている工場がいくつもあり、ポーランド食器の生産地として世界中に知られている有名な町なのだ。  などと偉そうに書いたが、チタンのシェラカップが最高級の食器だと確信し、それでウィスキーを飲んでいればもうそれ以上の幸福な無いと信じているガサツで朴念仁の僕には、ちょっと縁遠い所だ。ゆえに「ボレスワヴィエツ」という難しい名前もなかなか覚えられなくて情けない思いをした。  最近、当ブログでは、政治や社会に対してやたら批判を書くことが多く、自分でも食傷してきたので、何かホッとするようなネタはないかと考えていた。本日の夕食後、食器を片付けていて、ふとこのポーランドを代表する食器のことを書いてみようかと考えた次第だ。  一つ一つ微妙に違っているのに全体から感じられる統一感はどこから来るのだろう。それが「伝統」というものなのだろうか。これらの食器は、一つずつ手描きで彩色されている。それが多様性の元となり、「手描きである」ということ自体が統一性を生み出しているのだろうか。  これらの点もセンスの無い僕にはよくわからない。  ただ、綺麗だなあとは感じる。それに加えて、写真からは伝わりにくいが、手で持った時の重量感が実に適切で、食事する楽しさが増すように思う。また、マグカップなどの唇を付けた時の感触がとても気持ちいい。  長い歴史を経て伝えられた伝統が食器作りの技術に生かされているのだろう。  ボレスワヴィエツの人口は4万人くらいだそうだ。郊外は丘陵地帯で豊かな森が町を囲んでいた。日本では、最近、一つの町が何かを売り出し、評判を上げるとすぐに他の町がその真似をし、終いには、どの町でも同じような「地元産品」が売り出され、飽きられるといつの間にか消えていくということが繰り返されている。  売れようと売れなかろうと頑固に良い物を作り続け、200年後とか400年後にそれが伝統になっているというような物作りをしてみようという気構えがほしい。  陶器などの焼き物は、元来は森の産物だ。柔らかな土、それをこねる水、そして焼く時の燃料として薪が必要だ。今でこそ激減している、ヨーロッパにはかつて大森林が広がっていた。ポーランドはその中で、まだまだ豊かな森が残されている。  これらの食器たちからそんなポーランドの森の息づかいが聞こえて来るような気がする。

2013年4月11日木曜日

生命の刻印を乱すのは誰だ?・・・ヒジキ記念日に寄せて

 昨年の今日、祝島のヒジキを食べ、ヒジキの印象が一変した。ヒジキは立派に主役を演じられる役者だと気がついた。  だから4月11日はヒジキ記念日だ。  ヒジキは、褐藻類ホンダワラ科ホンダワラ属の海藻でラテン語名はSargassum fusiformeという。実はこの名前は2001年に決まったものだ。以前は(Hizikia)という独立した属で、「ヒジキ」という日本語がそのままラテン語化されて属名になっていた。DNAの分析でホンダワラ属(Sargassum)に変更された。  変更前の属名が「Hizikia」(ヒジキア)と命名されているところからもわかるように、日本近海の固有種である。1万年前ごろの縄文時代の遺跡に見られると聞いたことがある。古くから食べられていたと考えられている。平安時代の『伊勢物語』には鹿尾菜藻(ひじきも)という古名で記載があり、その他の古典にも出ているそうだ。  分布域は北海道南部から九州までの外海に面した波のやや荒い岩礁の潮間帯の下限から低潮線に生息している。  褐藻類だからコンブやワカメと同じ仲間だが、ビタミンA、B群、E,K、各種ミネラルなどが含まれて食材としても優れている。  僕の中では今日がヒジキ記念日だが、実は「ひじきの日」というのが本当にあって、9月15日だ。ヒジキを食べると健康で長寿を保てるから敬老の日をひじきの日にきめたのだそうだ。  ヒジキに限らないが海で獲れる食材には生命維持のために欠かせない栄養素が豊富に含まれているものが多い。生命が海で生まれたためだろう。われわれの身体にも海の刻印がはっきりと残っているから海の産物は美味しいし、健康維持に欠かせないのだろう。 いま、その海をむやみに汚していることが残念でならない。福島第一原発で、放射性物質によって汚染された水が大量に漏れだしている.漏れた水は地下に浸透し最終的には海に運ばれるだろう。直接たれ流されている分もあるかも知れない。  海の汚染は静かに、しかし確実に進んでいるようだ。  これまでもわれわれ人類は、様々な形で海を汚してきたと思う。だが、放射性物質による汚染は今までとは質が全く異なるもののように思う。放射線が傷つけるのは遺伝子DNAである。だから、大袈裟な表現かも知れないが、ヒジキをヒジキ属をホンダワラ属に繰り入れたような生物分類の根拠が撹乱される危険性さえ含むかも知れないのだ。  少なくとも38億年かかって受け継がれてきたDNAを無神経に撹乱していることは間違いない。  われわれはもはや取り返しのつかない領域に踏み込んでいるのかも知れない。

2013年4月10日水曜日

愛は命令できると思い込んでいる安倍政権の大間違い

 今日のニュースによると衆議院予算委員会は、教育をテーマに集中審議を行い、安倍総理大臣は、教科書検定の基準について、「愛国心、郷土愛を書いた、改正教育基本法の精神が生かされていない」と述べ、見直しを検討していく考えを示した。 下村文部科学大臣は「日本に生まれてよかったと思ってもらうような歴史認識を教科書に書き込むことは必要で、今後、教科書検定の現状と課題を整理し、見直しを検討していきたい」と述べた。  「愛する」という心の働きは、教科書に載せ、学校の授業で教えなければ、持てないならないものらしい。教科書に載せ、学校で教えて、初めて身に付く歴史認識とは何か。裏返せばありのままの歴史を教えることがどれほど彼らにとって不都合なことかを物語っているわけだ。  よし。わかった。トコトン日本を愛せる子どもたちを育てようじゃないか。そして、愛する祖国が、一部の無法者によっていかに血塗られた歴史をたどらされたかをはっきりと知らせてやろう。  卒業式や入学式の「『国歌』斉唱」で、口を開いているか、声を出しているかを厳しく点検する必要があるほど愛されることへの自信を失った支配者を叩き出してやろうじゃないか。  現在のような首相を選び、政権の生命を長らえさせていることこそ恥辱だ。「日本に生まれてよかった」と思うためには、まず最初に、原発にしがみつき沖縄を切り捨て、弱者をいじめ抜いている政府を打ち倒さなければならない。  皆が目を覚まし、このような気持ちになれたら、「日本に生まれて良かった」と感じるだろう。

2013年4月9日火曜日

突然現れた幻の沼・・・水鳥たちの王国

 土曜日からの雨と暖気で根釧原野の雪が一気に融けた。全ての水は川に集まる。わが家の裏には西別川が流れている。河口まで800メートル程度だ。  大袈裟に言えば根釧原野の水の大部分が流れている。昨日になって水嵩が一気に増えた。めったに冠水しない牧草地も広い広い沼になった。  渡りの途中の水鳥たちがあちこちに舞い降りて嬉しそうに翼を休めている。  今朝、確認しただけだが以下のような種類が観察できた。 マガモ、ヒドリガモ、コガモ、ハシビロガモ、オナガガモ、オカヨシガモ、シマアジ、ヨシガモ、キンクロハジロ、オオハクチョウ。  時間をかけてゆっくり探せばもっと別の種類が見つかるだろう。  夜になっても、闇の中からカモたちの鳴き声が賑やかに聞こえてくる。  突然出現した水鳥たちの一大帝国。やがて水が引けば消えていくことだろう。  唐突に現れ、繁栄を極めた後にいつの間にか消え去る。  ウーム、何かに似ている。

2013年4月8日月曜日

「地球環境の未来学」をあらためて読み直した

 わが家の裏を西別川が流れている。根釧原野でもっとも長い川だ。  昨日からの雨と雪解けで一気に水嵩が増え、夕方帰宅したときは川幅が2倍くらいになっていた。もう数十センチ水位が上がったら川向かいの家は床下浸水になる。  これ以上の増水がないよう祈るばかりだ。 年度の始まりにあたり今年度の羅臼町の環境教育の課題と基本方針をまとめる作業を続けている。環境教育は、「持続可能なDevelopment(発展あるいは開発)のための教育」へと進化し、今や世界に広まっている。  そこで、先日からずっと「発展」あるいは「開発」ということについて考え続けているのだが、今日のように様々の環境許容量の限界が明白になり、開発がもたらした環境破壊の歴史が明らかになっている状況下では、もはや無条件な開発が人々に幸福をもたらすものではないことははっきりしている。  だから「開発」に種々の形容詞を冠したり、「発展」と言い換えたりすることが堂々と行われていると思われる。  そこでドイツの環境学者ヴォルフガング・ザックスの著書である「地球環境の未来学」をあらためて読み替えしてみた。すると示唆に富んだ記述があちこちにあって、ハッとさせられることが多い。  まだまだ未熟で不勉強な自分がそこにいた。 「開発というフィルターを通すと、常に何が欠けているかという目で世界を見るようになる。その結果、それぞれの土地に根付く豊かな選択肢を見る目が曇ってしまう。開発の対立概念は決して停滞ではない。-中略-開発という概念は、かつて高くそびえているモニュメントとして世界に熱狂を巻き起こした。今日その骨組みは朽ち、倒壊の危機さえ迫っているのだが、その威圧的な廃墟はあらゆるものの上に君臨し逃げ口をふさいでいる。今しなければならないのは、瓦礫をどかし、新しい地面を見出すことだ。」 (今、あらためて読み直しているヴォルフガング・ザックス著「地球文明の未来学」・・川村久美子・村井章子訳)にある一節だ。

2013年4月7日日曜日

低気圧に追われながら生命について考えた

 昨日は夜遅くなってこともあってブログは、お休みしました。  札幌に行っていた。金曜日に出発し、今日帰ってきた。 父の見舞いのためだ。  12月に自宅で転倒して病院へ運ばれて以来、病態は悪化する一方だった。最初に入院した病院を一旦退院したが、食欲が回復せず、衰弱するばかりだったので約三週間で別の病院へ再入院となった。  今回入院した病院は非常にきめ細かな看護・介護としてくれるうえ、医師を始めとしてすべてのスタッフが細やかな心遣いを欠かさないので家族としては安心しているのだが、食欲不振と衰弱の原因がまだ突き止められない。「歳が歳だから」と言ってしまえばそれまでなのだが。事実最初に入院した病院の医師はそう発言した。  しかし、現在、父を診てくれている医師は、そのような考え方はせず、病因をきちんと突き止めたいという考えでいるらしい。  生命には限りがある。90年以上も生きたのだから、という考えも決して間違っているとは思わない。しかし、僕の考えは少し違う。  生命は、不可逆的なものだと思っている。平たく言えば、生命はこの宇宙の時間の流れの中で一回限りのものだと考えるのだ。それゆえに、生命を与えられた者は、可能な限りそれを大切にし、長く保たねばならないと思う。生きるのが辛いとか苦しいということは誰にでもあるだろう。もちろん他者から強制されるような性質のものではないが、生きている「本人」はそう努力するべきだと思うのだ。  今回の札幌行きで、そんなことを考えた。  そして今日、二つ玉低気圧に追い上げられるように這々の体で逃げ帰ってきた。  札幌午前9時に出発。  病院に立ち寄り、道央道、道東道を通り足寄、阿寒と進んだ。  接近する低気圧から逃げるようなコースで走る。  雨は激しくなったり弱くなったりしている。十勝平野にさしかかると風が強まった。  道東道をなんとか走り抜け阿寒を目指す。足寄峠は霙。路面はシャーベット状になっていて非常に滑りやすい状況だ。  阿寒湖を通過しながら、このまま阿寒横断道を通るとこの危険なシャーベット状の路面の峠道を下らなければならない。数十分の時間を余分に費やしても安全なルートへ迂回した方がいいだろうと決意して、阿寒町を回ることにした。

2013年4月5日金曜日

札幌へ向かいながら

札幌へ向かいながら 久々にクルマで札幌に来た。  高速道路の虚しいスピード競争に辟易しながら。  どうして、あれほどムキになってすっ飛ばすのだろう。到着時間はそれほど違わないというのに。  そこで、ハッと気づいた。  「高速道路」は、一種の一次元空間だ。「前」と「後ろ」の直線しかない。否応なくそのような環境に追い込まれて走っているわけだ。そこには「先」と「後」という「勝ち」か「負け」しかない。  そんな環境で、ニンゲンという動物は、反射的に他者より先に、という気持ちになるのかも知れない。  なんと貧困な精神だろう。そして、それ以上にそのような環境に追い込む構造とは。  どこか今の世界に似ている。

2013年4月4日木曜日

アニマルからモンスターへのDevelopment

 年度始めだから「今年度の方針」なるものを書き起こす作業が増えている。  今日は、朝から「今年度のESDと環境教育の方針」などを書き続けていた。書き続けながら、実は大きな壁に行く手を阻まれていた。いや、正直に言えば今日に始まったことではない。ずっと以前からくすぶり続けていたある疑問だ。それはESDの「D」をどう解釈するか、という問題である。    ESDとは、Education for Sustainable Developmentの頭文字だ。「Education」は教育。「for」は~のための。「Sustainable」持続可能な。そして、問題は「Development」である。この言葉に該当する日本語はたくさんある。「①成長 ②発達 ③開発」などなど。  日本では、外務省は「持続可能な開発」という訳を採用している。環境省と文科省は「持続可能な発展」と訳している。その訳し方からして意図が透けて見える。「Development」は、その誕生から多義性を持たされて採用された言葉だったのだろう。  なぜなら、1970年代、様々の地球環境問題が起こったとき、いわゆる先進国の国家機関や企業が開発途上国で資源を開発し収奪することで環境問題が悪化するという構図があることが指摘された。しかし、途上国の側は、地球環境問題を理由に開発途上国の「発展」を遅らせることで、地球上の貧富の格差を広げることは許されないと主張した。これは「南北問題」と呼ばれた。  「南北対立」の典型を地球温暖化防止のための京都議定書に見ることができる。  このような情勢の下で、より多くの国の合意を得るためには「Development」という言葉は使い易く便利だったに違いない。  以上のことは、かなり以前からわかっていた。今回、さらに気になったのは、「Development」をどう訳すかというような技術上の問題ではない。「開発」にせよ「発展」にせよ、一つの国や地域、社会をdevelopさせようと決める主体はだれなのか、ということだ。当然のことながら、developさせるのは、そこの住民を幸福にさせたいという理由からだろう。もちろんそれが飽くまでも表向きの口実である場合も少なくないが。  とにかく多くの開発援助は、そういう理由を高く掲げて行われる。だが、一つの国や社会の幸福度を第三者が勝手に規定していいだろうか。その国や地域の住民の幸福は、すべて経済学でお金の価値に換算して比べられるのだろうか。  ESDで教えるところの「多文化共生」とか「異質平等」という概念で考えても、地球上にこれほどの民族や宗教がり、多種多様な環境があるのだから、幸福のあり方ももっと多様であっても良いのではないか。  昔、列強と呼ばれた国々が競って植民地を拡大したのは、そこにある天然資源などが欲しかったからだ。いま、開発途上国を援助し、その社会を「発展」させようとするのは、資源が欲しいというところもあるだろうが、それ以上にそこの住民に小金を持たせ、購買力を上げて、いろいろな物を買わせようという、市場拡大への思惑があるからだ。  それほど注意しなくても、ニュースでは、頻繁に「中国は巨大な市場だ」とか、「ミャンマーは、今後大きな市場となる」というようなことを大威張りで言っているではないか。これらの思惑は、欲望ムキ出しの恥ずかしい発想で、そのように正々堂々と大声で言えることではないと思うのだが。  もう、死語になったようだが「エコノミック アニマル」という言葉があった。現代では、「エコノミック モンスター」と呼ぶべきだろう。

2013年4月3日水曜日

最後まで過疎路線をしゃぶり尽くすJR商法・・・これぞ新自由主義

 今日、ニュースを読んでいたら「emerging mediaESPONSE」(http://response.jp/article/2013/04/03/195131.html)という主として乗り物のことを扱う(らしい)サイトにこんな記事が載っていた。 <以下に引用>  JR北海道函館支社は、4月28日に「ありがとう江差線企画臨時列車『えさし号』で行く江差の旅」を実施する。  同社では、江差線・木古内~江差間の廃止に合意した関係自治体、利用者に、これまでの利用に謝意を示すため「ありがとう江差線企画」を実施する。  第1弾として、普段は江差線を走行しない特急形気動車キハ183系を使用した団体臨時列車の乗車と、昼食の弁当や江差町内のシャトルバス、観光施設の入場券をセットにした旅行商品として企画した。4月4日14時から発売する。  今回の臨時列車は3両編成で、先頭車2両の間にグリーン車両を連結、専用のヘッドマークと方向幕を掲出する予定。江差では3時間の滞在時間があり、町内の観光施設などを循環する参加者専用のシャトルバスを運行する。一部施設の入場券も付きで、参加者100人を募集する。  旅行代金は普通席利用が1万2000円、グリーン席利用が1万5000円。                               <以上>  この記事を読んで大きな違和感を感じた。  鉄道は公共交通機関で、沿線住民が買い物に出かけたり通学したり病院へ通ったりする時のかけがえのない「足」であるはずだ。その線区だけの採算を度外視し、その線区の赤字は全体が吸収する形で地方路線を維持すべきものではないだろうか。なんでもかんでも「競争だ、競争だ」と喚き立て、赤字の部分は切り捨てるという発想は歴史によって裁かれるに違いない。  このツアーは、廃止されることを前提にして集客をはかり一儲けしようという、下卑た発想によって企画されたものだ。江差線が廃線になると聞けば、「葬式テツ」ならずとも思い出のために乗りに行こうかなと考えるのは人情だ。そこで素朴なノスタルジーに浸るのは、まあ、仕方がないとしも、なぜここで廃止にならなければならないのか。この路線を廃止すると決めたのはどういう思想を持ったニンゲンたちだったのかは、きちんと考えておくべきである。  そして、その決定が絶対に間違いだったことを心に刻むべきである。  それにしても、廃線を惜しむ感情に付け入って、一儲けをたくらむ商魂には、呆れてはてて開いた口がふさがらない。  これ以上過疎地を食いものにしないで欲しい、と言いたい。

2013年4月2日火曜日

ジンパを禁止された北大生に 衰退を思いこの国の凋落を予感する

 4月1日をもって北海道大学が構内のレクリエーションエリアを廃止し、北大名物の「ジンパ」ことジンギスカンパーティが禁止されることとなった 。  北大の農学部東側と総合博物館南側には「レクリエーションエリア」と呼ばれる場所があり、大学生協で買ったジンパセットでバーベキューをするジンパが北大名物となっていたという。僕に言わせればそんなことは最近始まったことで、それほど長い歴史があるようには思われないのだが。 大学側の言い分では、最近になってマナーの悪い学生が騒いだり、芝生への影響が出たりしたことが問題となり、大学施設部がバーベキュー禁止を表明し、構内でのジンパが禁止されることになったらしい。  たかがバーベキューの問題だ。食べたければ北大の周辺には焼肉屋さんは数多ある。一見どうでもいい問題のように思えるだろう。  だが、「ジンパ問題」の背後にある構造を考えるとやっぱり気が重くなってしまうのだ。70年代に学生だった僕たちの感覚では、大学構内における学生の行動を簡単に規制する実力を「大学側」が持っているということが信じられない。これじゃまるで高校か中学と同じではないか。  大学の自治というのは、もはや死語なのだろうか。  そう言えば日本では、大学の入学式や卒業式に保護者が付き添うのは当たり前になった。それどころか入学試験当日や合格発表にまで保護者がつきまとっている姿を見かける。大学には「生徒指導部」があり、家庭訪問や校門での朝の指導までする所があるという。  嘆かわしい。  ヒトは、幼小中高とステップアップするごとに成長していくのが自然な姿ではないのか。これでは、いつまで経っても保護者による庇護から抜け出せず自立した個人が育つとは思えない。  かくして日本の民力はひたすら衰退へと向かうのだ。  ヒトとしての成長をテストにおける得点能力にすり替え、ペーパーテストで1点でも多く得点することにのみ血眼になってきた「教育」の結果がこれだ。  もっともある種の人々にとっては、こんな大学生が増え、その中の「成績優秀」な者が官僚として行政機関に入ってくることは、望ましいことに違いない。その思惑は見事に達成され、引き替えに若者の幼稚化が著しく進行したというわけだ。かくして、物言えぬ有権者を大量生産するシステムが完成する。  北大生よ、正しい伝統を受け継ぎたいなら、見事ジンパを奪い返してみよ!

2013年4月1日月曜日

新年度のスタートに

 2013年度がスタートした。  羅臼町教育委員会で働くようになって5年目を迎える。早いものだと思う。2005年、長い間勤めた標津町の高校から羅臼高校へと転勤した。その年の今日は、金曜日で初めて羅臼高校の職員室を訪ねたのだった。 「学校に顔出し、職員室をのぞく。二間口用の校舎は、小さく狭い。『小さな学校』という感じが強い。生徒数は標津より多いのだが。」初めて羅臼高校を訪ねたときの印象がこう書かれていた。  その4年後、高校を退職し羅臼町教育委員会の今の職に就くことができた。環境教育のカリキュラム編成と実践から始められた僕の仕事は、やがてESD(持続可能な発展の為の教育)と出会って、肉付けされていった。  ESDについては、内容が多面的で、幾通りもの解釈が成り立つ概念で、場合によっては「開発による環境破壊の免罪符」とか「国家間の格差を固定化する」などの批判もある。(「地球文明の未来学」ヴォルフガング・ザックス)そして、その批判が当たっている面もあると思う。  だが、多義的な解釈が可能であるからこそESDは世界中に広がり多くの人に支持されている。  そして、ESDの基盤は環境教育であるという共通認識を広げていくことで、多くの批判や危惧に応えていけるように思う。  今年度の羅臼町のESDは、以上のような考え方で展開していくつもりである。

今年度最後のエゾシカ有害駆除

 31日、羅臼町で今年度最後のエゾシカ有害駆除が行われた。  羅臼のエゾシカ駆除は、基本的に巻き狩りというやり方である。シカのいそうな場所を大勢の勢子(せこ)が取り囲み、包囲網を縮めながら一定の方向に追い出し、あらかじめ決められた場所に展開していた射手それを撃つというものだ。  勢子は、雪が深くても斜面がどんなに急でも、あらかじめ決められた方向にシカを追うので、若くて体力のある人が受け持つ。当然、僕はいつも勢子に指名されると思っているのだが、どういう訳かいつも射手に回される。不思議だ。  冗談はさておき、巻き狩りではこの射手のことを「マチ」という。おそらく「待ち」から来た言葉だろう。  気配を消し、太い樹の陰などに入って、シカが出てくるのをじっと待つのだ。森の中で自分の気配を消しているので、待っている間に思いがけない森の表情に接することができ、なかなか楽しい時間でもある。  ある時など、シマリスが目の前を行ったり来たりしたことがあった。今回は、いろいろな野鳥が訪問してくれた。  今日来た鳥たち:エナガ、ハシブトガラ、シジュウカラ、ヒガラ、ゴジュウカラ、コゲラ、ヤマセミ、カワガラス。それにハイタカ、ワタリガラスなども通っていった。  森はじつに賑やかである。  エゾシカの生命を奪うかどうかという瀬戸際で、神経を張り詰めている自分が、のどかに「日常生活」を送っている森の小動物たちの姿に心和ませているというのは、どこか矛盾したような奇妙で不思議な状況である。  こんなことを考えながらスコープを覗いていた。