2013年4月4日木曜日

アニマルからモンスターへのDevelopment

 年度始めだから「今年度の方針」なるものを書き起こす作業が増えている。  今日は、朝から「今年度のESDと環境教育の方針」などを書き続けていた。書き続けながら、実は大きな壁に行く手を阻まれていた。いや、正直に言えば今日に始まったことではない。ずっと以前からくすぶり続けていたある疑問だ。それはESDの「D」をどう解釈するか、という問題である。    ESDとは、Education for Sustainable Developmentの頭文字だ。「Education」は教育。「for」は~のための。「Sustainable」持続可能な。そして、問題は「Development」である。この言葉に該当する日本語はたくさんある。「①成長 ②発達 ③開発」などなど。  日本では、外務省は「持続可能な開発」という訳を採用している。環境省と文科省は「持続可能な発展」と訳している。その訳し方からして意図が透けて見える。「Development」は、その誕生から多義性を持たされて採用された言葉だったのだろう。  なぜなら、1970年代、様々の地球環境問題が起こったとき、いわゆる先進国の国家機関や企業が開発途上国で資源を開発し収奪することで環境問題が悪化するという構図があることが指摘された。しかし、途上国の側は、地球環境問題を理由に開発途上国の「発展」を遅らせることで、地球上の貧富の格差を広げることは許されないと主張した。これは「南北問題」と呼ばれた。  「南北対立」の典型を地球温暖化防止のための京都議定書に見ることができる。  このような情勢の下で、より多くの国の合意を得るためには「Development」という言葉は使い易く便利だったに違いない。  以上のことは、かなり以前からわかっていた。今回、さらに気になったのは、「Development」をどう訳すかというような技術上の問題ではない。「開発」にせよ「発展」にせよ、一つの国や地域、社会をdevelopさせようと決める主体はだれなのか、ということだ。当然のことながら、developさせるのは、そこの住民を幸福にさせたいという理由からだろう。もちろんそれが飽くまでも表向きの口実である場合も少なくないが。  とにかく多くの開発援助は、そういう理由を高く掲げて行われる。だが、一つの国や社会の幸福度を第三者が勝手に規定していいだろうか。その国や地域の住民の幸福は、すべて経済学でお金の価値に換算して比べられるのだろうか。  ESDで教えるところの「多文化共生」とか「異質平等」という概念で考えても、地球上にこれほどの民族や宗教がり、多種多様な環境があるのだから、幸福のあり方ももっと多様であっても良いのではないか。  昔、列強と呼ばれた国々が競って植民地を拡大したのは、そこにある天然資源などが欲しかったからだ。いま、開発途上国を援助し、その社会を「発展」させようとするのは、資源が欲しいというところもあるだろうが、それ以上にそこの住民に小金を持たせ、購買力を上げて、いろいろな物を買わせようという、市場拡大への思惑があるからだ。  それほど注意しなくても、ニュースでは、頻繁に「中国は巨大な市場だ」とか、「ミャンマーは、今後大きな市場となる」というようなことを大威張りで言っているではないか。これらの思惑は、欲望ムキ出しの恥ずかしい発想で、そのように正々堂々と大声で言えることではないと思うのだが。  もう、死語になったようだが「エコノミック アニマル」という言葉があった。現代では、「エコノミック モンスター」と呼ぶべきだろう。

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