2009年12月30日水曜日
12月26日(土) アロイーズ展を観に行く
道立旭川美術館で「アロイーズ展」と「北海道のアウトサイダー・アート」を観てきた。
アロイーズという画家は今回初めて知った。アロイーズ・コルバス1886年、スイス、ローザンヌ生まれ。明治18年生まれか。11歳の時に母親が過労で死亡し、母親代わりとなった長姉に育てられるが、恋愛が原因で25歳の時、この姉によってドイツのライプツィッヒに追いやられる。 その後、ローザンヌに帰ってくるが「統合失調症」と診断され、1918年、ローザンヌになるセリー大学付属精神病院に入院した。 病気は治癒することなく、1920年にスイスのジメルにあるラ・ロジェール精神病院に転院し、1964年に死亡するまで44年間をここで過ごした。この病院で、衣類のアイロンかけなどの作業をするかたわら絵を描くようになったという。 はじめのうち彼女の絵に関心を持つ人は少なかったが、次第に評判が高まり、多くの人に知られるようになっていく。
彼女の作品のは「その辺の紙」に無造作に描かれているように思われた。多くは紙の両面に描かれている。そのため展示は透明なアクリル板に挟んで、展示室の壁ではなく空間のあちこちに浮かぶように配置されていた。そのため、見る側が魚になって色とりどりの海藻の間を泳ぎ回っているように感じられ、個々の作品の良さは言うまでもないが、展示そのものが温かで心楽しい海底のような空間を形成していた。
病院でアイロンをかける作業に没頭するアロイーズの写真も展示されていたが、この小柄で不機嫌そうな表情のお婆さんと温かな色調の作品群を結びつけることは、正直に言って難しく感じられた。そこに彼女の心の深い闇が介在していることが暗示されていると思う。
人に見せるためではなく、表現せずにはいられない自らの内なる欲求に基づいて作品を作り、結果的にそれらの作品が高い芸術性をもっていること。特に芸術の伝統的な訓練を受けることなく、名声を目指すわけでもなく、流行や既成の流派にとらわれずに生み出された芸術作品をフランス語で「アール・ブリュ」と言うらしい。英語には「アウトサイダー・アート」と訳されている。
アロイーズ展と同時に開催されている「北海道のアウトサイダー・アート展」にも、印象的な作品が多数あった。
ふと、考えたのだけれど芸術は、本来こうやって生まれたのではないだろうか。 「現代の物差し」に当てはめると、「統合失調症」だったり「高機能自閉症」であったり「知的障害」だったりする人々も、原始社会、いや江戸時代などでも、芸術家や職人として人々の尊敬を集めていたのかも知れない。
たとえば、知的障害をもつ人達の描いた絵はがきやカレンダーを僕たちは、半分資金カンパのような気持ちで購入することがある。しかし、それら「障害をもつ」とされている人々の中には、ずば抜けて優れた才能をもっている人がいるかも知れない。僕らが「健常」で彼らが「要支援」だなどと断定するのは、傲慢な見方だろう。
大きな収穫を得た美術展であった。
アロイーズという画家は今回初めて知った。アロイーズ・コルバス1886年、スイス、ローザンヌ生まれ。明治18年生まれか。11歳の時に母親が過労で死亡し、母親代わりとなった長姉に育てられるが、恋愛が原因で25歳の時、この姉によってドイツのライプツィッヒに追いやられる。 その後、ローザンヌに帰ってくるが「統合失調症」と診断され、1918年、ローザンヌになるセリー大学付属精神病院に入院した。 病気は治癒することなく、1920年にスイスのジメルにあるラ・ロジェール精神病院に転院し、1964年に死亡するまで44年間をここで過ごした。この病院で、衣類のアイロンかけなどの作業をするかたわら絵を描くようになったという。 はじめのうち彼女の絵に関心を持つ人は少なかったが、次第に評判が高まり、多くの人に知られるようになっていく。
彼女の作品のは「その辺の紙」に無造作に描かれているように思われた。多くは紙の両面に描かれている。そのため展示は透明なアクリル板に挟んで、展示室の壁ではなく空間のあちこちに浮かぶように配置されていた。そのため、見る側が魚になって色とりどりの海藻の間を泳ぎ回っているように感じられ、個々の作品の良さは言うまでもないが、展示そのものが温かで心楽しい海底のような空間を形成していた。
病院でアイロンをかける作業に没頭するアロイーズの写真も展示されていたが、この小柄で不機嫌そうな表情のお婆さんと温かな色調の作品群を結びつけることは、正直に言って難しく感じられた。そこに彼女の心の深い闇が介在していることが暗示されていると思う。
人に見せるためではなく、表現せずにはいられない自らの内なる欲求に基づいて作品を作り、結果的にそれらの作品が高い芸術性をもっていること。特に芸術の伝統的な訓練を受けることなく、名声を目指すわけでもなく、流行や既成の流派にとらわれずに生み出された芸術作品をフランス語で「アール・ブリュ」と言うらしい。英語には「アウトサイダー・アート」と訳されている。
アロイーズ展と同時に開催されている「北海道のアウトサイダー・アート展」にも、印象的な作品が多数あった。
ふと、考えたのだけれど芸術は、本来こうやって生まれたのではないだろうか。 「現代の物差し」に当てはめると、「統合失調症」だったり「高機能自閉症」であったり「知的障害」だったりする人々も、原始社会、いや江戸時代などでも、芸術家や職人として人々の尊敬を集めていたのかも知れない。
たとえば、知的障害をもつ人達の描いた絵はがきやカレンダーを僕たちは、半分資金カンパのような気持ちで購入することがある。しかし、それら「障害をもつ」とされている人々の中には、ずば抜けて優れた才能をもっている人がいるかも知れない。僕らが「健常」で彼らが「要支援」だなどと断定するのは、傲慢な見方だろう。
大きな収穫を得た美術展であった。
12月23日(火)
第1回「知床学士」認定試験。
町内の中高生47名が受験してくれた。1級に6名、3級に41名。
第1回の特例措置として、1級受験者で、基準点に達しない場合2級の合格と見なす場合もある、としたことから2級の受験者はいなかった。
3級の問題数が少なめで時間を持てあます生徒が多くいたが、全体としてはまずまず無事に終わることができた。
一安心。
町内の中高生47名が受験してくれた。1級に6名、3級に41名。
第1回の特例措置として、1級受験者で、基準点に達しない場合2級の合格と見なす場合もある、としたことから2級の受験者はいなかった。
3級の問題数が少なめで時間を持てあます生徒が多くいたが、全体としてはまずまず無事に終わることができた。
一安心。
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第1回「知床学士」認定試験。
町内の中高生47名が受験してくれた。1級に6名、3級に41名。
第1回の特例措置として、1級受験者で、基準点に達しない場合2級の合格と見なす場合もある、としたことから2級の受験者はいなかった。
3級の問題数が少なめで時間を持てあます生徒が多くいたが、全体としてはまずまず無事に終わることができた。
一安心。
町内の中高生47名が受験してくれた。1級に6名、3級に41名。
第1回の特例措置として、1級受験者で、基準点に達しない場合2級の合格と見なす場合もある、としたことから2級の受験者はいなかった。
3級の問題数が少なめで時間を持てあます生徒が多くいたが、全体としてはまずまず無事に終わることができた。
一安心。
2009年12月22日火曜日
12月21日(月) 知床学士検定
明日、斜里町での会議に出席するので、今日のうちに「知床検定」の問題印刷を終わらせた。
これで実施の準備はほぼ整ったことになる。
今回は47名の生徒が受検する。
第一回ということで、実施するこちらの方が妙に緊張するものだ。
12月20日(日)釧路
職場の忘年会で釧路に泊まった。 昨日とは打って変わって好天。 一時期に比べて、街が衰退していると言われているが、この街も師走にはまだまだ賑わいを見せている。 とは言っても、勢いが衰えていく街の独特の匂いが漂う。この「香り」実は好きなのだ。
2009年12月19日土曜日
JA共済の罪
自動車を持っている人で自動車保険(任意保険)に入っていない人はいないだろう。インターネットによる通販型の保険、外資系から農協や漁協の保険など、実に多様な損害保険がある。
実は、今年の9月13日に車をぶつけられた。9月5日に納車されたばかりの新車だ。まだ、一週間くらいしか乗っていなかった車で、駐車中に無理に割り込んだ車が、後ろのバンパーの部分に大きな凹みを作ってくれた。事故は仕方がない。こちらがいつ加害者の立場になるかわからないのだから、お互い様のようなものだ。
問題は相手の契約してた保険会社である。JA共済。盛んにコマーシャルも流している大手の保険だろう。ぶつけた相手と話をして、相手の加入している保険がJA共済である、と聞いて、安心感を覚えた。
ところがである。JA共済は、僕のそのような信頼感が全く根拠の無いものであったことを思い知らせてくれたのだ。
まず、現場で待たされた時間の長さだ。
事故が起きたのは釧路市内。日曜日の夜7時半頃だったろうか。相手の方はすぐに警察とJA共済に連絡してくれた。警察官は比較的すぐに来てくれた。一通り事情を調べ、双方から聞き取り、「事故を受け付けた」ということで帰って行った。それからいくら待ってもJA共済は来ない。かなり待たされて現れたのは警備会社の社員だった。聞けばJA共済の事故処理業務を代行しているのだそうだ。
その時点では、長時間待たされたことは、あまり気にならなかった。損傷した双方の車の写真を撮り、僕の連絡先などもメモして帰って行った。
僕がどうしても納得できないはその後のJA共済の対応である。翌日、僕の車の修理に関してすぐに連絡があるだろうと思って待った。だが、どんなに待っても何の連絡も無いのだ。その日は結局何の連絡も無かった。
JA共済という保険会社は、どうなっているのだろう。夜にまで待ったがなにも連絡がない。相手の方からは、あらためて丁寧な謝罪の連絡を頂いた。その際、相手方に対しJA共済の担当者からはきちんと連絡があったということを知って、愕然とした。契約者とはすぐに連絡をとるが、被害を与えた側は放置しておいているのだ。いたたまれない気持ちで中央の「相談室」という所に連絡してみた。それが夜の8時頃だろうか。
返ってきた答えは、
「現地の担当者(要するに地元の農協の職員であるが)は、勤務時間が過ぎたのでもう連絡がとれず、本日中の連絡は不可能」というものだった。
単なる物損事故だから被害者への連絡は急がなくても良い、と考えたのだろうか。そうに違いない。
その後、気の進まないような連絡が何度かあったが、真っ先に出てくる言葉は翌日、即座に連絡できなかった言い訳ばかりが先行して、誠意の感じられない態度に終始した。
JA共済というブランドへの信頼が、僕の中で失墜した出来事だった。
12月18日(金) 釧路の魔法の夜
「知床検定」の問題準備がほぼ整い、ゆとりある気持ちで釧路へ。
夜、「大航海」というスナックで少し飲んでからホテルへ。驚いたことには、飲み屋に入る前は雪など全く無かった釧路の町が、数時間お酒を飲んで店外に出た時には、一面雪に覆われていた。魔法のような夜だ。
「忙中閑あり」というところだろうか。比較的ゆっくりできた。
12月17日(木) それからのウルシかぶれ
漆カブレは大体快方に向かった。そんな時、授業でまたツタウルシの茂る森に入った。ちょっと心配だったけれど、「なに、負けるものか」という気持ちもあって、少しだけがんばった。
何でもなかった。よかった。
12月16日(水) 羅臼川調査
昼前の二時間、北見工大中山研究室の調査と羅臼高校の授業をリンクさせた、羅臼川水質調査のサンプリング。
かなり寒い日で、腰まで浸かった川の水が冷たかった。
それが終わるとすぐに羅臼中学で知床検定の講習。久しぶりに中学生を前にして「授業」を行った。話を進めるにつれて生徒たちがうちとけてくるのがよくわかり、楽しい授業だった。
その後、「知床学士検定」の試験問題作成作業部会。
今日は、今年最大の多忙な一日だったかも知れない。
2009年12月15日火曜日
「平和通りと名付けられた街を歩いて」 目取真俊
目取真俊の「平和通りと名付けられた街を歩いて」を読んだ。彼の初期の作品だという。
沖縄を故郷とする人、沖縄戦で肉親を失ったり自らも心身を傷つけられた人にしかわからない感覚を鋭く突き付けられる作品だった。理解できないだろうが理解しろ、という矛盾きわまりない要求で迫ってくる力を感じた。
そしてアイヌ民族のことを連想した。現在も過去にも存在するアイヌ民族への差別や不利益について、僕は実感をもって想像することはできない。苦しい思いをしている人たちは、やはり、理解できないだろうが理解しろ、と迫ってくるのではないだろうか。
気候風土も歴史もまったく別々の沖縄と北海道だが、日本の中央政府から理由のない差別を受け続け、人権を侵害され、貧しさを押しつけられてきた。
実は、現在でも都市部で暮らしている人々の感覚で、僕らのような僻地の暮らしに大きな影響を与えるような法律や政策が決められ、生活上のいわれのない不便を押しつけられることが少なくないのだ。時には都会への憎しみのような感情を覚えることさえある。
憎しみをどのような形で訴えるか。この作品はそのことを問うていると思う。そして作者の目取真さんは、そこを原点として作家活動を始めたのだろう。
目取真さんは、平和通りから歩き始めたのかも知れないな、とぼんやり考えた。
2009年12月14日月曜日
冬型の気経つ配置
朝、冷え込み強まって知床は抜けるような青空。羅臼だけが純白の全容を見せて美しい。時間に追われ写真を撮っている時間がないのが悔しい。今週は冬型の気圧配置が強まるという。
「暖冬だ」と言われているが、引き締まるときには引き締まるのかもしれない。
2009年12月13日日曜日
捕獲技術講習2日目
朝、7時集合。朝食のお弁当を受け取って食べる。
昨夜のみぞれと雨が一晩のうちに凍り付き、林道の通行が危険になったとのこで、巻き狩りによるシカ猟は中止になってしまった。
あらかじめ捕獲してあったシカを利用して解体の実習だけをすることになった。場所は、シュンクシタカラ林道を少し入った砂防ダム近くの空き地だ。シュンクシタカラ川は阿寒川の支流だ。阿寒川自体それほど大きな川だという実感を持っていなかったので、その支流も小さな川だろうと考えていた。
ところが川そのものも案外大きく、その氾濫原というか河畔の平地が広々としてている。明るい良い沢であるように感じた。
今回初めて行ったのだが、まだまだ知らない場所はたくさんあるものだなあ、とつくづく感じた。
12月12日(土)
野生動物捕獲技術講習会のため阿寒公民館。
この12月で唯一予定のない土曜日曜だったのだが10日くらい前、急に決まった予定で少し気が重かった。ただ、狩猟に関して自分の技術を高めておくことは必要だし、猟友会の優秀な技能を持つ人達から直接教わる機会はなかなか得られないので参加を決めた。
午後1時から講義。
明日は実技講習ということで山へ入る。
2009年12月11日金曜日
昨夜から目の周りが・・・
昨夜から目の周に異常な痒みを覚えた。 あれ? これは・・・? やっぱり! ウルシにかぶれたらしい。ものすごく久しぶりだ。もう、ほとんどかぶれることはないだろうと思っていたし、しかも今までは春から初夏にかぶれていた。 秋から初冬にかぶれたのは初めての経験だ。 森に入ったとき、ツタウルシにやられたのかも知れない。 ちょっとショック! と言うわけで羅臼の病院へ行ってきた。 割に空いていたが診察、処置、薬局で1時間半くらいは、かかったか。 待合室でおばあさん同士が話していた。 「ワシねえ、刺身は夕食に食べないで朝に食べることにしてるの。 夕方食べて、夜、腹痛くなったら救急車で中標津まで運ばれることになるでしょう。 そんなのイヤだからね。」 笑えない話だが、なんだかホッとした。
12月10日(木)
今日は羅臼高校3校時環境保護の授業 午後は羅臼小学校で理科支援員の授業。 夜は、別海。 「検定」の問題ほぼ完成。 30人ほどの中高校生が「第一回知床学士認定試験」を受験する。 「学士」の資格を取ったからと言って、特別にどうということもないが、学習の励みになれば、と作られた制度だ。 来年2月には何人の「学士」が誕生するだろう。
2009年12月10日木曜日
2009年12月5日土曜日
塩ブタとジャガイモの雑穀入りスープ
2009年12月3日木曜日
待ち遠しい
今日の日の入り時刻15時43分。
明日から12月14日まで15時42分で、13日から再び43分になる。
一年で昼間の長さが最も短いのは冬至だが、日没が最も早いのは今頃から10日間あまりの期間なのである。なんだか、最も陰鬱な時期だ。
しかし、あと10日あまり経つと日没の時間は少しずつ遅くなっていく。冬至の到来も、一日の日照時間が回復しはじめる日としては待ち遠しい。しかし、夕方の日没がこれ以上早くならない、という日も待ち遠しい。
もうすぐ春が来る、という気になってくる。
2009年12月2日水曜日
国道244号線
朝、根北峠を超えて出勤。
通勤で峠を、それも知床半島の背骨の峠、しかも一部ではあるが凍結路面のある峠を越えるのは、なかなか辛いものでもあるが、同時にちょっと嬉しい。
朝日に輝く山々が美しかった。
思えば、この国道244号線に沿って生きてきた人生だった。
12月1日(火)
午後、中高一貫の講演。サーモン科学館学芸員Iさん。久しぶりでゆっくり話すことができた。
夕方、斜里で知床岬エゾシカ密度操作事業の反省会。早い話が岬におけるシカ撃ちの反省会だが、捕獲したしかの全ての個体の年齢査定を行った結果を教えてもらった。すると、特定の年の個体が極端に少ないなどエゾシカの繁殖状況の推移がはっきりわかって興味深かった。 様々な成果と問題点も浮き彫りになり有意義な会議だった。 斜里に泊まる。
夕方、斜里で知床岬エゾシカ密度操作事業の反省会。早い話が岬におけるシカ撃ちの反省会だが、捕獲したしかの全ての個体の年齢査定を行った結果を教えてもらった。すると、特定の年の個体が極端に少ないなどエゾシカの繁殖状況の推移がはっきりわかって興味深かった。 様々な成果と問題点も浮き彫りになり有意義な会議だった。 斜里に泊まる。
2009年12月1日火曜日
11月29日(日)
試験問題を作り、部屋の片付けをして一日が過ぎた。
なんとなく考えただけのことだが、いま、話題の「事業仕分け」で科学技術への予算もやり玉にあげられ、削減や見直しを迫られている。それに対してノーベル賞受賞者などが反論を展開していることが話題になっている。 それらの発言はいちいちもっともに思われる。予算の無駄遣いが良いわけはないけれど、科学技術の研究や開発には必要な無駄は多くあり、ソロバンづくでは判断できないことが多くあるのではないか。 この一連の「仕分け人」の発言や態度を見ていて不快に感じることがある。この不快感は、どこから来るのだろうと考えてみた。おそらく、「仕分け人」の傲慢な態度に対して不愉快を感じているのだという気がする。あまりにも独善的で、自分(たち)の考え方こそ世間を評価する基準だ、という根拠のない確信がギラギラと表れている。 謙虚さや多様性を認め合うココロの豊かさこそ、これからの地球に必要だと思うのだが、それらはみじんも感じられないからだ。
ふと思った。彼らの年代は、高校の「理科Ⅰ」の世代だ。物理、化学、生物、地学の4つの領域を十分に学習して来なかったのではないか。 さらに、「生物」では分類や生物地理学など基礎的自然理解に必要な学習が切り捨てられた教育課程で学習してしてきた世代が多い。 このような背景が、かれらのあの不愉快な態度の原因だ、と考えるのは飛躍だろうか。
午後から釧路へ。 明日はトド調査。
なんとなく考えただけのことだが、いま、話題の「事業仕分け」で科学技術への予算もやり玉にあげられ、削減や見直しを迫られている。それに対してノーベル賞受賞者などが反論を展開していることが話題になっている。 それらの発言はいちいちもっともに思われる。予算の無駄遣いが良いわけはないけれど、科学技術の研究や開発には必要な無駄は多くあり、ソロバンづくでは判断できないことが多くあるのではないか。 この一連の「仕分け人」の発言や態度を見ていて不快に感じることがある。この不快感は、どこから来るのだろうと考えてみた。おそらく、「仕分け人」の傲慢な態度に対して不愉快を感じているのだという気がする。あまりにも独善的で、自分(たち)の考え方こそ世間を評価する基準だ、という根拠のない確信がギラギラと表れている。 謙虚さや多様性を認め合うココロの豊かさこそ、これからの地球に必要だと思うのだが、それらはみじんも感じられないからだ。
ふと思った。彼らの年代は、高校の「理科Ⅰ」の世代だ。物理、化学、生物、地学の4つの領域を十分に学習して来なかったのではないか。 さらに、「生物」では分類や生物地理学など基礎的自然理解に必要な学習が切り捨てられた教育課程で学習してしてきた世代が多い。 このような背景が、かれらのあの不愉快な態度の原因だ、と考えるのは飛躍だろうか。
午後から釧路へ。 明日はトド調査。
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