2011年9月29日木曜日

秋のひととき

原野は今、秋

光る草は、真っ盛り


 セイヨウオオマルハナバチの標本整理をした。
 何やかやと言って、今年200頭を超す数を捕獲している。
 今まで、特定の種をこれだけたくさん捕獲したことはないかも知れない。
 
野生生物の生息数を人工的にコントロールしようという試みは、大体が芳しい結果にはならないものだが、昆虫を相手にした時は、特にそう言えるかもしれない。

2011年9月28日水曜日

攻城戦





 羅臼町内にセイヨウオオマルハナバチの巣があるらしいことは、少し以前からわかっていた。そばに小学校があり、その付近での捕獲数が突出して多かったからだ。
 一ヶ月くらい前にハチの出入りする地点が突き止められた。そこはクマイザサの密生する崖の下の方だった。
 場所はわかったのだが密生するササが邪魔になって、地中の巣を掘り出すまでには至っていなかった。大がかりに周囲のササを刈り取って土を取り除かなければ巣を掘り出すことはできないことがわかったからだ。

 そして、ついに、今日、巣の掘り出し作業を行うことになった。
 小学校に連絡したら4年生の子どもたちが理科の時間ということで見学(応援)にきてくれた。

 午前10時、環境省のレンジャー二人と知床財団の職員に僕も加わって作業が始まった。

 やがて子どもたちも到着して、巣から飛び出してくるハチたちを捕まえる仕事を一手に引き受けてくれた。
 子どもたちの網捌きは、ちょっとおぼつかないが人数が多いことで十分効果を発揮して、50頭近いハチを捕らえてくれた。
 今は、新女王が現れる時期で、巣を壊滅させたとしても新女王を逃がしたのでは、防除の効果は半減してしまう。
 そのため、子どもたちの存在は、非常に重要だった。

 激闘一刻。
 ちょうどお昼になる頃、地中の巣は完全に掘り出され、知床に根を下ろそうとしていたセイヨウオオマルハナバチの巣が一つ終焉を迎えた。

2011年9月27日火曜日

38億年の息づかい

「生物はなぜ生きているの?」
 生物の授業をしていて、ごくたまに生徒に質問されることがあった。
 「生殖のためだよ」
 そんな時は、わざと詳しい説明抜きにこう答えてみる。
 質問したのが男の子なら
 「キミだってそんなもんじゃないのか?」と付け加えたりする。

 たいていは、
 「ええええっ!ギャハハハハ」となり、お互いに笑って誤魔化す。

 だが、ヒトの場合はともかく、それ以外の生物について、この答えは間違っていないと思っている。
 生きるためには、まず食べる。食べなければならない。
 つまり自己の生命の維持を図る。
 そして、それが満たされ、時が満ちてくると次の段階は生殖のための行動をとるようになる。つまり種族の維持だ。
 種によっては、極端に利他的な行動が見られる場合もある。
 生命には限りがある。
 誕生した者は、必ず死ぬ。
 いや、「生命活動」とは、「死」へ向かって一方通行の道を進むことそのものだ。
 だから、生命は、自分の生命を受け継い生きる、「次の世代」を生み出すことに、自分の生の全てをかけるのだろう。
 みずからの個体を維持しようとするはたらきも、できるだけ次世代の生命を残す機会を多くしようとするためだろう。

生命は、そうやってみずからの有限性の本質に基づいて、生命を受け継いでいく方法を確立し38億年の地球上の時の流れを旅してきた。
 その生命の流れを、無理矢理押しとどめ、ねじ曲げようとしたのはニンゲンの作り出した放射線であり、放射性物質であろう。

 出張から帰ってみるとアファン(犬)の発情が始まっていた。
 現在生後16ヶ月。
 2回目の発情だ。
 相変わらず年齢の割には子どもっぽい行動が治まらないが、部屋で黙っている時にはずいぶんおとなしく、一見憂鬱そうにも見えるほど、普段の行動と異なる。

 イヌの成長は早い。生後一年目がヒトの15~16歳にあたるという説もある。だからわが家のイヌはもう20歳前後だろうか。
 横顔には母の雰囲気さえまとい始めているようにも見える。
 (まあ、次の瞬間には子犬に戻っているのだが)

2011年9月26日月曜日

北海道へ

 無事に北海道に戻ってきた。
 今回はユネスコ協会連盟主催のユネスコ教員研修会という会合で、持続可能な発展のための教育(ESD)に関する研修会だった。

 「持続可能な未来」と簡単に言うけれど、以前にも書いたように、実際にはそこへ至るまでに解決すべき問題はたくさんあり、そう簡単にはいかない。
 ただ、実際に教育の現場で、児童生徒に伝えるためには、悲観的なことばかり言ってもいられないわけで、現在直面する問題を率直に伝えるとともに、それを解決しようとする意志も伝えていく必要があるだろう。

 そんな感想を持ち帰った。

2011年9月25日日曜日

危険なマチ

 東京三日目。
 何でも簡単に用が足り、こちらの欲求が満たされる便利な街だがとにかく人が多い。
 多すぎる。

 「経済成長」を夢見た政治家や資本家は、今日のこの姿を「繁栄」と受け止めているのだろうか?「豊か」と感じているのだろうか?
 僕には、やはりこれは失敗例のように感じられてならない。
 この街を快適と感じているのは、たっぷりとお金を持っている一部の人たちだけではないだろうか。
 他の人々は、狭い空間に押し込められ、押し込められているという状態に馴らされ、あまり不条理を感じなくなり、この都会暮らしが満足なものだと思わされているのではないだろうか。

 この人の集中をみていると、少子化なんてまったく問題なく、むしろ大歓迎すべきではないかと思えてくる。

 そして、この場所が、事故を起こした福島第一原発からそれほど遠くないという事実も頭から離れない。こんなに人が密集している場所が、原子力発電所事故の影響をジワジワと受ける場所であるということは、この先10年後20年後に、様々な形の放射線障害が多くの人に顕れる可能性がぬぐい去られていないのだ。
 政府は「収束しつつある」という宣伝に躍起だ。事故そのものの沈静化は進んでいるに違いない。だが、長期にわたる影響は、これから徐々に現れてくる。

 オソロシイことである。

東京の地下鉄で知床の海岸を思う。

9月24日(土)
 羅臼町の「ふるさと少年探検隊」がベースキャンプにするモイルス湾の直前に、巨大な岩が海岸を埋め尽くしている場所がある。
 地質のことはよくわからないが、古い海底噴火活動の溶岩が隆起して崖となり、割れて崩れ落ちた岩が積み重なったもののようだ。住宅一件分もあるような岩が、昨日転がり落ちてきたばかりのようにゴロゴロと積み上がっている。
 岬へ行く時は、底を突破するしかない。
 這いのぼる、隙間をくぐり抜ける、飛び降りるなどあらゆる方法で通過する。巨利にすればさほどの長さではない。せいぜい数百メートルくらいだろう。だが、そこの通過には時間がかかる。
 時間が掛かるもう一つの理由は、ルートを見つけにくいことにもよる。僕も昨年、クマの追い払いのために単独で先行したとき、ルートを誤り10メートルくらいの高さの断崖で立ち往生したことがあった。

 網の目のように張り巡らされた東京の地下鉄で、移動しているとき、ふとこの経験を思い出した。
 地下鉄の駅やコンコースも構造はよく似ていると思う。
 ただ、地下鉄の方は、案内の標識が「これでもか」と言わんばかりに案内標識がどこにでもある。インターネットで調べると、安いルート、早く着くルート、乗り換えの少ないルートなど細々と出ている。乗り場や、乗り換える時はどの辺の車両に乗ればよいかまで書かれている。親切で便利なものだ。

 ふと考えてみた。
 これらの情報が突然、一切合切消えてしまったらどうなるだろう。
 試行錯誤を繰り返し、わずか数百メートル進むのに何十分もかかるに違いない。
そんな構造は知床半島の海岸と大きな違いはないだろう。
 違っているのは、知床の海岸には、標識の代わりにあちこちにヒグマの糞があることくらいだ。

 都市は便利で快適だ。
では、知床の難コースにももっと標識を設置すれば良いだろうか。
 「この先モイルス湾」とか、「こちら相泊」とかのように。

 いや、そんなものは要らない。 

2011年9月23日金曜日

夜間飛行から

 日本の上空を夜、飛行機で飛ぶと蛍光菌の培地を連想する。
 光の濃い部分があちこちに散らばる。菌のコロニーだ。
 コロニーとコロニーは光る糸のような道でつながっている。

 ニンゲンは、この美しく小さな極東の島に、蛍光菌のようにへばりつきながらそのコロニーを広げ、増やし、コロニー同士をつなぐ道を太くして「繁栄」してきたのだろう。

 久しぶりに東京に来た。
 飛行機の窓から見える東北から関東にかけて、以前より光が少なくなり、暗さがジワリと増したように感じる。

 「気のせい」かも知れないが。

 そして、このくらいの暗さがちょうど良いのではないかと思う。

 地上から見える星空もちょっぴり見やすくなったのではないだろうか。

 夜は、暗い方が良い。

2011年9月22日木曜日

ちょっと待てよ。石原さん。

 台風15号、朝8時頃、根室半島東方沖を通過。
 わが家の気圧計977hPa。

 台風は速度を速めたため、一瞬で通り過ぎていったという感じだった。
 さしたる被害は無かった。

 昨日、「帰宅難民」のことについて、ちょっと書いた。
 なぜ、会社は、社員をギリギリまで働かせるのか。鉄道が運休になることが予測される場合、十分に余裕をもって社員を帰宅させれば済むことなのだが。
 まだまだ、日本の社会の「エコノミックアニマル(懐かしい!)」の体質は変わっていないことが、今回証明されたわけだ。

 と考えていたら、今日、石原慎太郎東京都知事が、まるきり正反対のことを発言していた。
 やっぱりね。
 彼とは、とことん意見が合わないのであるね。(ああ、よかった!ホッ)

 石原知事は記者会見で、「家庭の事情が許すなら、無理して帰宅せず、職場にとどまってほしい。企業も災害に備えた備蓄を、ある程度いつも用意しておくほうがいい」と呼び掛けた。(読売新聞)

 それは、発想が逆じゃないかな?
 非常事態への備えをすることは良いことだと思うが、社員を職場にとどめておくことを前提に対策するべきではない。
 皆がもっと家庭を大切にして、危険な事態が起きそうな時には、なるべく早めに退社して家に帰るという原則を確立することが先ではないだろうか。
 それをせず、職場にとどまることを真っ先に考えるところに、石原氏の個人を無視して全体を優先させる、化石のような頭から湧く発想がある。
 さっさと引退して、金魚の世話でもしていればよいものを。

 こんな人がリーダーでは、いつまで経っても日本は良くならないだろう。いや、危険ですらある。

2011年9月21日水曜日

台風接近

 気圧計の針が立ってきた。
 現在21時。
 998hPa。
 近づく台風の足音のようだ。

 気象衛星をはじめ、観測技術はずいぶん進んできているのだから、台風の場合は動きがよくわかっているはずだ。
 進路予想のズレはあるだろうが、地震のように突発的に起こる災害と違うのだから、会社や学校をあらかじめ休みにしておけばいいのにと思ってしまう。
 そうすれば、帰宅できなくなる人はもっと少なくなるだろう。

 自然の力よりもニンゲンの都合を優先させようとする発想がぬぐい切れていないことのあらわれだ。

 もう少し学習をつまなければ、わからないのだろうか。

2011年9月20日火曜日

台風15号

 台風15号が近づいている。
風もほとんど無く、穏やかな一日だったが、高い空には輪郭のくっきりとした雲が浮かんでいた。つまり、高層では風が強まっているようだ。

 1954年9月26日、台風15号が津軽海峡付近を通過し、青函連絡船「洞爺丸」など5隻が沈没し、2000名近い犠牲者が出た。

 翌日は、カラリと晴れた日だったように思う。
 4歳だった僕は、近くの浜に父に連れられて行った。夏には海水浴に行く場所である。 浜では警察官や消防団員が次々に流れ着く犠牲者の遺体を集め、海岸に並べてムシロを被せる作業をしていた。

 子どもながらに、異常な雰囲気を感じ取ったが、恐怖感や不快感はなかった。
 それが、海難史上「タイタニック号」沈没事故とも並ぶ悲惨な出来事であったということは、かなり後になって知ることになる。 

父は、どういうつもりで幼い僕を、そんな現場へ連れて行ったのかわからないが、歴史的大事件を直接体験したことは貴重で、深く感謝している。

 洞爺丸台風の国際名は『マリー』という。今年の15号は『ロウキー』というそうだ。おとなしく通り過ぎてくれればいいのだが。

2011年9月19日月曜日

思い出すのは国鉄分割民営化の頃

 古い話だが、国鉄が巨額の赤字を抱えて喘いでいたとき、首都圏のサラリーマンへのインタビューが今も忘れられない。

 「過疎地のローカル線の赤字をわれわれ首都圏の人間が負担するのは、納得いかない」その人は、そうとう激しい調子でこんなことを言っていた。
 通勤のため、毎日鉄道を利用する人にとって、自分が負担する鉄道運賃が、日本のどことも知れないイナカで、鉄道の赤字を補填するために使われるとしたらやりきれないと感じるのだろう。

 かくして国鉄は分割され、民営化になってJRができあがった。
 そのお陰で、首都圏など大都市圏の通勤電車には、201系から始まり、速くて乗り心地の良い電車が次々に投入され、安い料金で便利に好きなところへ行けるようになった。 大都市で生活する人々は、そんな快適さ、便利さを享受できるようになったわけだ。

 その一方、過疎地では、一日3~4本の列車を無人駅で一人ポツンと待って、近くの地方都市の病院へ一日がかりで通うお年寄りの姿が見られるようになった。
 鉄道のある所はまだ、良い方で、バスしかなくなり、路線バスも廃止が検討されている地域も少なく無い。

 こんな現実を一方に放置しておきながら「一つになろう日本」だなんて、虫が良すぎやしないだろうか。
 「俺はなりたくないね。一つになんか」と言ってやりたい。

 「被災地の(直接の加害者は電力会社なのだけど)痛みを全国で分け合う」と号令をかけて、放射能を含む廃棄物を全国に分散させるというが、かつて国鉄再生のために地方に犠牲を押しつけたことをどう説明するつもりだろう。

 復興増税をするというが、国鉄赤字のツケをもっとも多く払わされたのは誰だったか、もっとよく考えてから決めてもらいたいものだ。

 被災地は気の毒だ。
 被災者を応援したい。
 誰もが素朴にそういう感情を抱く。
 そこにつけ込んで、自分たちの都合の良い方に物事を進めようという魂胆が見え透いている。

 冒頭に紹介した、首都圏のオトーサン!
 まさか今頃大声で
 「日本は一つにならなければいかん!!」なんて叫んでいないでしょうね。

2011年9月18日日曜日

ひとつの旅から

 昨日までと違い、前線の北側に入ったため、同じ雨降りでも肌寒い一日だった。
 こんな寒い日には、ヒトの心に潜む暗黒について考えてしまう。

一昨日見学した公開授業で、小さな小学校5・6年生による模擬討論が行われていた。テーマは、鹿追町にある山の湖然別湖の自然環境保護ついだった。

 子どもたちが地元の自然環境として誇りに感じている然別湖の環境を守るために、カナダのレーク・オハラのように利用人数制限を設けることに賛成か反対かという討論だった。

 8人の児童が2グループに分かれ、それぞれ「賛成」と「反対」の両方の立場で模擬的に討論する授業だった。

 「規制反対」の側にまわった子どもたちは、共通して、
 「野生動物や植物、自然環境に興味をもって訪ねてくる人たちは、自然環境を守る大切をよくわきまえているのだから、敢えて利用制限を加える必要はない」という趣旨の発言をしていた。

 小学生たちの、人に対する純粋で力強い信頼感に打ちのめされた。

 自然保護運動をするうちに、いつの間にか、心が濁り、思惑とか策略とか打算、裏切り、欲望などおよそ純真な心とは縁遠い薄汚れた垢のようなものが厚くこびり付いたわが身を顧みて、心から恥ずかしくなった。

 今回は、そんな旅でもあった。

2011年9月17日土曜日

十勝地方のセイヨウオオマルハナバチ




 鹿追町で研究会があった。
 昨日は晴天で気温が高かった。
 公園の花壇でセイヨウオオマルハナバチをたくさん見た、と聞いていたので今日、いってみることにした。

 公園に限らず、ちょっとした花壇には、かならずセイヨウオオマルハナバチが飛来していた。と言うより、飛来するマルハナバチはすべてセイヨウであった。
 試しに捕獲を試みてみたが、約10分間で10頭のセイヨウを捕獲した。
 つまり、1分に1頭の割合である。

 何と言うことだろう。
 この状況を北海道や環境省は知っているのか?
 知らないから、この「特定外来生物」が、これだけ野放しになっているのだろうか。

 それとも知っていて放置しているのだろうか。

 知床で、エゾオオマルハナバチやトラマルハナバチなどに混じって活動しているセイヨウオオマルハナバチを市民が必死で防除していることを考えると、この違いは何なのだろう?
 納得いく説明を求めることにする。

 しかも、十勝では地元の住民は、セイヨウに対する危機感をほとんど持っていないように感じられた。

 「環境教育に力を入れている」といくら胸を張っても、この現実がある限り、それは中身の伴わない虚構としか言いようがない。
 そのような「環境教育」を受けさせられる子どもたちも被害者だ。

 「行政」とは、これほどいい加減なものなのだろうか?
 まあ、そうかも知れないけど。

2011年9月16日金曜日

環境教育の憂鬱

 新エネルギーに関する授業を見た。
 よく工夫された、優れたじゅぎょうだったが、惜しいなと思ったところがいくつかあった。

 新エネルギーへの模索をするのはいい。
 しかし、今のエネルギー消費の形態をそのまま持続するという前提で展開するのはどうだろう?
つまり、工業生産を中心に、経済活動が無限に成長するということを前提にしているのだ。これでは、エネルギー源がどれだけ豊富にあっても足りないわけで、原子力発電からの脱却など実現できるはずはない。

 エネルギー問題を考える大前提は、経済成長の持続がなければ社会が成り立たない、という盲信を捨てることだと思う。
 世界の人口が70億人に達し、農地の生産性を限界まで引き上げ、狭い農地から可能な限りの食べ物を収奪する一方で、モノを作って売りまくってカネを儲けることだけを狂ったように追い求める世界では、命をはぐくむ環境など望めるはずはない。

 せっかく、大平原の農業地帯にある学校でのエネルギー授業なのだから、この根幹に切り込んでほしかった。

 バイオマスだ、太陽光だというのはあくまでも技術上の問題で、重要なのはそれを推進する価値観や世界観、哲学ではないだろうか。
 教室というのは、そういうことを語る場ではないだろうか。

 想像だが、教師は、気後れしたのではないだろうか。
 自己規制が働いたのではないだろうか。
 もっと信念をもって環境の未来を語ってほしい。

 信念のない教師は、信念のない生徒しか再生産することはできない。
 

2011年9月15日木曜日

曖昧で うつくしい 日本語の危険性

 日本語のLogicalityが問われている。

それは、
「ただちに健康に影響がない」という表現から始まったように思う。
だれもが
「ゆっくりなら影響が出るのだろう」と考えただろう。
「あるいは、時間が経てば悪影響が出る」とも受け取ったかも知れない。
「ただちに」とはどのくらいの時間なのか?
数秒か?
数分か?
数時間?
数日?
数ヶ月?
数年?
数十年?

 「除染」という言葉も不思議だ。
 放射能はそのすべてが放射線を放出して原子核の崩壊を繰り返し、安定な原子に落ち着くまで決して消えて無くなることはない。
 トランプのババ抜きのジョーカーのように、ある場所から取り除いてもどこかに存在し続ける。
 「除染」ですべてが片付いて、ハイ!おめでとう!というわけにはいかない。

 自分の家の中だけキレイにすれば、周りがどんなに汚れてもかまわないというモラルの持ち主ならともかく、命に関わるような危険なものをどう片付けるか、真剣に考えたうえで「除染だ、除染だ」と言っているのだろうか。

 ちなみに、東京電力福島第一原子力発電所では、冷却水を「除染」することによって、行き場のない放射性の廃棄物がどんどん溜まっている。その量は刻々と増え続けている。

 「風評被害」も検証されることなく使われている。
 風評とは、根拠のない評判、ウワサのことだ。
 放射性物質が大量にまき散らかされたのは事実だし、それが原因でいろいろな場所の放射線量が増えている。
 このような事実に基づいて、農水産物が売れなくなったとしたら、それは「原発事故による被害」であって、「風評」によるものではない。
 買わない消費者は、判断の結果買わないのであり、必ずしも「風評」に惑わされたのではない。そんな消費者の行動を「風評」と決めつけるのは、人を愚か者扱いした失礼な表現と言っていい。 

2011年9月14日水曜日

今日は羅臼泊まり

会議でウトロまで行った。
久しぶりの峠越え。

羅臼側は曇っていたのに、峠の頂上から向こうはカラリと晴れていた。
これは、知床の夏型の天気。

今年は、秋になっても天候がおかしいように思う。

せめて、天候だけでも気持ちよく移り変わってほしいものだ。

2011年9月13日火曜日

ペーチャのブログから

実は、ウチにはピョートル(愛称「ペーチャ」)という黒猫が一匹いる。
とても賢いネコで、家族思いでもある。

その彼がブログを書いていることが最近わかった。
そして、しばしば、僕のブログを引用している。

だから、今日は、彼のブログを引用することにした。

(以下、ペーチャのブログから)

ネコは、昔からニンゲンと暮らしてきた。

ニンゲンと暮らすようになったのは6000年くらい前からだと言われている。

ニンゲンが農業をおこない、収穫した穀物を貯蔵するとネズミなどに狙われるようになった。
僕らの先祖は、穀物貯蔵庫でネズミなどを簡単に捕まえられること、より強力な外敵に襲われにくいことなどの理由でニンゲンのそばで暮らすことが有利だったからそんな道を選んだのだろう。

実際、現在の僕もニンゲンの親方たちのお陰で、雨露をしのげるし、冬でも快適な部屋で過ごせている。
食べものは親方がどこからか採ってくるので、不自由しなくていい。

もっとも、自分でもきちんと狩りをしているし、多少暑くても寒くてもガマンして生きていける。
ちゃんと自立しているから、全面的にニンゲンに依存しているイヌ族なんかとは違うのだ。

でも、最近のニンゲンを見ていると、世界のことを真面目に考えているのか疑ってしまうようなヤカラも少なくないと思う。

3月に東京電力の原子力発電所が、地震と津波でぶっ壊れて、放射能をまき散らかしたのだろう?
原子力発電所は地震や津波など天災に襲われると非常に危険な状況になり、その周辺何十キロとか百キロ以上もの範囲で、数年や十数年では回復できないほどの汚染をまき散らかすことが実証されたのが3月の震災だ。

それなのに、原子力発電所を再稼働すべきだ、と考えているニンゲンがまだかなりいるらしい。
今朝、聴いたNHKのニュースでは、世論調査をすると3分の1くらいのニンゲンが、再稼働に賛成だと答えていると言っていた。

言っておくが地震は必ず起こるんだゼ。
そりゃあ、今は大丈夫かも知れない。だが、明日に起こるかも知れないし、100年先かも知れない。

「100年先ならオラヮ、死んじまってるか、カンケー無い」ってか?
おいおい!
それが、「地球最高の知的生命体」とか「万物の霊長」と自称するニンゲンの言うことかい?


もっとも、最近は、そんな言い方は思い上がりだって気づいているニンゲンが増えてきているがね。
本当にそんな考え方は、ナマコやクラゲにも劣ると思うな。

ニンゲンは地表にはびこりすぎている。
少し淘汰されても仕方がないのかも知れない。

でも、そのために、多くのネコ族やイヌ族、その他の野生動物たちまでもが巻き込まれるのは、許せんね。


福島県を中心にイノシシなどの野生のほ乳類に汚染が広がりつつあるという調査結果も出ている。

それでも再稼働に賛成なのかねえ?

いま、僕たちネコ族やイヌ族は、つくづくニンゲンと共に暮らすのがイヤになってきている。
身近な親しいニンゲンたちを連れて、どこか、この国の悪いニンゲンたちのいない所へ引っ越してしまいたいね。

僕も、親方たちやイヌのアファンなどを連れて、脱出を考えておかなきゃならないなあ。

2011年9月12日月曜日

名月は明るいものとその人は 驚いており 都会で生きて

 今夜は、中秋の名月。
 雲が多く、見ることはできそうにない。
 せめて、お団子でも買おうかと思っていたが、帰宅途中にあるお菓子屋さんは、すでに閉店していて、諦めた。

 ああ、団子たべたかったNa!
 「月より団子」

 月の直径は、赤道方向が3,475.8 kmで、曲方向は3,471.3 kmである。
 その差は4.5kmしかない。
 秋のそらに冴え冴えと浮かぶ満月は、ほんとうにまん丸に見えるけれど、数字の上からもそれが証明されている。

 気になることが一つある。

 僕は、いつの間にか時代小説が好きになっていて、いろいろな作家のものを読むが、たまに月の形と時刻がまったくバラバラの作品に出会う。

 例えば、丑三つ時(真夜中)に三日月が出ていたり、宵の口に東の空に上弦の月が出ていたり、といった描写に出会うことがある。

 こんな重箱の隅を突くようなあら探しをしていては、楽しむものも楽しめないから、小説の世界を存分に味わうためには、このくらいの事は片目をつぶって通り過ぎるのが良いと思う。しかし、その一方で、作者がいかに天文の基礎知識を軽んじているかが伝わってくるようで、機会があれば注文をつけたいなと思うことの一つだ。

 月だけではないだろうが、自然現象全般への関心が希薄なのだと思う。
 
 先日読んだ本でも、江戸時代、静岡県あたりの渓流でニジマスを釣る話に出会った。外来魚のニジマスが日本各地の河川で生息し始めたのは、明治になってからだと思っていたのだが。(まだ調べていないが)

 今日、運転しながらラジオを聴いていたら、「節電で街灯が消えて、月の光が本当に明るいことがわかった」とアナウンサーが話していた。
 何をいまさら、と思ったのだが、考えてみると、光のあふれる都会の夜ばかりを経験していると、こんな感慨も感じるものなのであろう。

 自然から切り離されたニンゲンの姿が、こんな所にも垣間見られる。

2011年9月11日日曜日

岬へ行った






 今日は、久しぶりに家でゆっくりすることができた。

 昨日は、一日かけて岬まで行って来た。
 知床財団主催のセイヨウオオマルハナバチ防除とセイヨウオニアザミ(アメリカオニアザミと行った方が通りが良い。ただし、この外来植物の原産地はヨーロッパなのだという)駆除の市民参加型行事に参加したのだ。

 知床岬は国立公園の特別保護地区であり、「知床半島先端部地区利用適正化計画」によって通常、観光目的での動力船による上陸はしないことが申し合わされている。
 これによって、一般の人が知床岬に立ち入ろうとするなら、羅臼町の相泊から海岸を徒歩で行くか、シーカヤックなど手漕ぎの舟で岬を目指す以外に方法はない。

 マルハナバチとアザミを採る作業をするためとは言え、自分で苦労せずに岬に上陸できるというので、このツアーは人気があった。

 一部の海域で少し風が強く並があったが、船は大揺れというほどではなかった。
 天候にも恵まれ、快適な岬行きとなった。

 夏に、「探検隊」で海岸を歩いて岬まで行った日のことを思い出しながら、波に身をゆだねて、片道約一時間半の航海を楽しむことができた。 

2011年9月10日土曜日

ヒシクイ

 今朝、ヒシクイの鳴き声を聞いた。
 姿は確認していないが、間違いなくヒシクイの声だった。

 来るべき時にやって来る、律儀とも言えるガンたちだが、今年は、その渡来を素直に喜べない。
ヒシクイなどのガンの仲間は、今は北海道に滞在しているが、寒さが厳しくなるとさらに南下し、関東北部から東北地方で越冬する。
 福島県や茨城県にも有名な越冬地がある。
 夜は川や湖で寝て、夜明けと共に稲の刈り取りを終えた水田などで餌を採る。水田の落ち穂や雑草などを食べていると言われる。

 彼らの身体に放射能が蓄積し、内部被曝を引き起こすのは明白だ。
 
 それが心配でならない。
 小林一茶でなくても
 「今日よりは日本の雁ぞ気をつけよ」と詠じたくなる。 

2011年9月9日金曜日

天動説にサヨナラしたい

今でこそ、
「大地は不動で、太陽や月がその周りを巡っている」などと
本気で信じている人は、ほとんどいないだろう。

だが、
それを順序立てて説明してみろ、と言われたら
僕は、かなりたじろぐかもしれない。

少なくても簡単にはいかないと思う。
だって、実際に大地は不動で、月や日が周囲を巡っているように見えているのだから。
地球の方が回っているという証拠を示すのは、難しい。

誰も思いもよらなかった地動説を思いつき、それを証明する方法を考え出し、皆を説得した労力は大変なものだったろうと思う。
しかも、ローマ法王庁という強大な権力からの圧力とも闘う必要もあったのだ。

ところが、今となっては、地動説を疑っている人はほとんどいないだろう。
小学生だって知っている。

地動説の証明は?と問うたならば、老若を問わず、何人かは
「常識だ」と答えるに違いない。


ガリレオやコペルニクスの時代、
天動説が「常識」であったに違いない。



いま、不思議なことに「経済成長がずっとつづく」
ということが常識であるらしい。
モノを作って、それを売る市場が無限にあるというのが常識になっているらしい。
他者と競争するために、コストを切り下げるのが常識になっているらしい。
コスト削減のためには、人件費を抑制することが常識になっているらしい。
人が、人らしく生きるために必要な賃金ではなく、働く人を死なせない程度に食わせればいい金額に押さえ込むことが美徳とされている。

人の健康や命が大事にされないことが常識になっているらしい。
その考えの延長線上にフクシマが立ちはだかっている。

2011年9月8日木曜日

原発事故の影

 京都から大学の時の研究室の先輩夫妻と、その友人夫妻が訪ねてきてくれた。
 キャンプ場でバーベキューを囲み、昔話に花が咲き、初対面のその友人夫妻とも親しく話すことができた。
 海辺のキャンプ場の静かな夕暮れ。
 楽しい語らいの場には違いないのだが、放射能汚染の話が出た。

 皆、これからの平穏な社会の持続と自分につながる人々の幸福な人生を願い、放射能による汚染に心を痛め、行く末を心配している。
 
いったい、誰のせいで、こんなささやかでたわいのない宴が、深刻な討論会になってしまうのか。

 この事実ひとつとっても、今まで日本の原子力政策は、取り返しのつかない負の遺産を残したことは明白だ。

2011年9月7日水曜日

さすがは食費添加物の防腐剤AF2を作り続けた武田薬品社長の発言だ!

 レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を書いてから来年で50年になる。
この50年間、彼女の予言は、ほぼ的中し続けてきたと言えるだろう。
科学者や技術者の必死の努力で一定程度、被害が食い止められたりしている例はあるが、本質的な構造はカーソンの指摘通りだ。
 むしろ予言以上の惨禍をもたらしているものもある。

 例えばダイオキシンによる汚染は、ベトナムにおびただしい胎児性の畸形の出現をもたらした。
 米軍は「枯葉作戦」と称して、ベトナムの熱帯雨林に2・4・Dや2・4・5・Tなどの除草剤を大量にぶちまけた。これらの除草剤の製造過程で、副反応が起き、ダイオキシンが生成されるのだ。
 ダイオキシンは、染色体の異常を引き起こし、催畸形性をもっていることが知られている。
 カーソンの時代には、まだそこまでの詳しい作用は知られていなかったのだろう。そこを見通して、あの本を出したところに偉大さがある。
 そして、世間の人々は、はじめのうちカーソンの警告に耳を貸そうとしないばかりか激しい反発も起きている。

 どちらが正しかったか、今となっては明らかである。

 放射線によって生物が受ける障害も、ダイオキシンと同様に染色体異常が引き起こされるという点でよく似ている。
 急性の障害は別として、障害が顕在化するまでにある程度の時間を要するというところも似ている。
 今年の原子力発電所事故の影響を皆が理解するまで、あと50年を要するのだろうか。
 ニンゲンは、そこまで愚かな生き物なのだろうか。

 少し前の産経新聞に、経済同友会の長谷川閑史代表幹事(武田薬品工業社長)が、都内で講演し「原発は50年先に必ず貢献する」と述べたという記事があった。
驚いた。

50年経ったら、原子力発電廃止という主張と、推進するという主張のどちらが正しかったか、どちらが愚かだったか、決着がつくだろう。
 その時は、もう長谷川さんも僕もこの世の人ではないだろうが。

 しかし、このことは誰かにきちんと見極めていてもらいたい。

2011年9月6日火曜日

ムックリの音色 心から心へ

 31日、前ユネスコ事務局長 松浦晃一郎さんを迎えた羅臼町の歓迎交流会で、阿寒湖のムックリ奏者、アパッポさんと彼女のお姉さんカピウさんよる演奏を聴いてもらった。

 松浦さんは、世界無形文化遺産の設立と推進に情熱を注いだ人であり、能や歌舞伎とともに琉球舞踊やアイヌ民族の舞踊も無形文化遺産に指定されている。
 そのような事情からか、久しぶりに訪れた北海道でアイヌ民族の文化に直に触れたいと強く希望されて、この演奏が実現した。

 僕にとっては、彼女たちの演奏を聴くのは、二回目だった。

 歌とトンコリの演奏、ムックリの演奏が行われた。どれ一つとっても民族の伝統をしっかりと受け継ぎながらも、美しいハーモニーや力強いリズムにあふれた若々しい新鮮さを感じられる素晴らしい演奏だった。

 演奏の半ばでムックリの演奏が始まった。
 僕は、聴きながら目を閉じていた。突然、涙があふれてきて、ちょっと慌てた。

 実は、以前にモンゴルへ行ったことがある。僕を招いてくれた家のお母さんが国立劇場で行われているモンゴルの歌と踊りのショーに連れて行ってくれた。
 それはモンゴルを去る前日のことだった。
 目をつぶってホーミーの演奏に聴き入っていると、突然草原の風景がまぶたに浮かんだ。 それはフラッシュバックのような現象だった。
 モンゴル式の鞭で馬を駆り立て、草原を疾走した時のことが甦ってきた。
 気がつくと、大量の涙が目からあふれていた。
 なぜ、涙が出たのか、自分でもわからない。いまだにわからない。
 しかし、ホーミーの倍音とリズムが、身体の奥の何かを呼び覚ましたのだろう。
 ホーミーはモンゴルの草原によく似合っている。

 ムックリの音色にも倍音が含まれているように思った。それは、もちろん演奏者の技術が優れているからだ。
 ムックリの音色もホーミーの音も、複雑な機器を通すことなく、人の身体を使って奏でられた音楽で、その場所の風土や環境と強く結びついているからだろうか。
 そのために、聴く人の心にも自然に入り込んでくるのだろう。

 ムックリの音色はアイヌモシリ(北海道)の森と湖を思い出させてくれる。
 一時期、屈折した思いを抱いて悶々と過ごす日々が続き、毎日のようにチミケップ湖に通ってカヌーを漕ぎ続けた時期がった。
 その時、湖上から見た風景が思い出されるのだ。
 正直なところ、モンゴルと同じことを羅臼で体験するとは予想していなかった。

 遠い道を、羅臼まで演奏に来てくれた姉妹に感謝したい。

2011年9月5日月曜日

「持続可能性」ということ その2

 昨日、「持続可能性問題」について書いたが、書いているうちに問題の大きさと深刻さで、頭が混乱してきた。
 混乱して、思考の持続が不可能となった。で、途中で投げ出してしまった。

 今日、その続きを考えてみた。

 やはり、どうしても引っかかるのは、再生不可能な資源の利用に関する問題だ。
 ブルントラント委員会報告によると
「再生不能資源は、それを使用すれば当然将来利用可能な量は減少する。しかし、だからといってこれを使用してはならないということではない。その資源の重要性、減少速度を最小限に抑える技術をどれだけ利用できるか、それに代わる資源の可能性も考慮したうえで使用すべきである」としてある。
 だが、これは、
「枯渇するまで注意してゆっくり使いましょう」と言っているようなものではないか。
 つまり、枯渇資源依存からの脱却のシナリオが示されていないのである。

ブルントラントさんに悪意は無かったかも知れないが、多くの企業や個人は、「持続可能性」を環境負荷増大の免罪符に使っているのではないか。
 「持続可能性」という言葉に対して漠然と危険な匂いを感じる根拠はこれである。

 石油に代わるエネルギー資源として、天然ガス、オイルシェール、石炭など次々に化石系の燃料を使うアイディアが提案されている。だが、これらも使えばいつか無くなるものだ。
 原子力に依存したところで、ウランの埋蔵量は有限だし、今回の事故の規模とその悲惨さを考えれば、とうてい「未来のエネルギー源」にはなれそうもない。
(してはいけない)

 有限なエネルギー資源は、使い尽くしたら終わりという冷厳な事実から逃れることはできない。
 結局は、再生可能なエネルギー資源を開発するしか道は残されていないのだ。

 再生可能なエネルギー技術の開発は何よりも優先されなければならない。
 しかし、現実は、石油の利権を確保するためにアメリカなどは、(多量の燃料を使ってまで)戦闘機を飛ばしたり戦車を走らせたりして武力行使も辞さない姿勢を示す。
 そこに投下する情熱とエネルギーで、再生可能なエネルギー技術の開発になぜ取り組もうとしないのか。
 やはり、投下したエネルギーに見合う利益が上がる確証がないからだろう。
 つまり近視眼的に「費用対効果」を考えるからだろう。
 競争原理や資本主義の限界がそこに見えてくる。

彼らは、自分たちの子どもや孫、その子どもたちの暮らす世界のことを考えないだろうか。

2011年9月4日日曜日

「持続可能性」への疑問

 前から感じていたことだ。
 カタチになっていなかったが、漠然とした不安のようなココロのざわめきとして、それはあった。
 「持続可能性」という言葉には、ある種の危険な匂いが含まれているのではないかということだ。

 「持続可能性」は、現代の環境教育のキーワードだし、持続可能な社会をつくることは、現代の人類に課せられた重要な課題であり、そのための教育がESDである。いま、多くの国の学校ではESDを実践し、ESDを標榜するユネスコスクールも増えてきている。
 日本国内においても同様だ。
 「持続可能な発展のための教育」、または、「持続可能な未来のための教育」は、今後ますます重要性を増していくし、教科横断的に展開されるだろう。
 現代の教育が突き当たっている様々な課題の壁を突き破る突破口ともなりうるかも知れない。

 「持続可能性」という概念は、1987年に国連のブルントランド委員会報告書である「Our common Future(地球の未来を守るために)」によって確立されたとされている。  ブルントランドさんは医師で、当時ノルウェーの総理大臣だったと聞いた。
その功績は大きい。

 だが、「持続可能性」という言葉を多くの人が口にするようになるにつれてその解釈は多様になり、内容の異なったいくつもの定義が出現してきた。
 この報告書によると「持続可能的開発」とは、
1:未来の世代が自分たち自身の欲求を満たすための能力を減少させないように現在の世  代の欲求をみたすような開発。

2;地球上の生命を支えている自然のシステムーーー大気、水、土、生物ーーーを危険に  さらすものであってはならない。

3:持続的開発のためには、大気、水、その他自然への好ましくない影響を最小限に抑制  し、生態系の全体的な保全を図ることが必要である。

4;持続的開発とは、天然資源の開発、投資の方向、技術開発の方向付け、精度の改革がすべて一つにまとまり、現在および将来の人間の欲求と願望を満たす能力を高めるように変化していく過程を言う。

 以上の4点にわたって定義されている。
 要するに「自然生態系の保護」と「未来世代の利益を守る」ことの二点に集約されていると言える。

 しかし、例えば化石燃料について考えてみれば、現実には未来世代と現在の世代との間で資源の奪い合いが生じる構造になっている。
 
 実際、
 「1970年代までの保護運動は、生命重視の価値観にもとづき、森林、水、土壌、野生生物は、それ自体が保護に値すると考えられていた。しかし、1980年をもって世界的な認識の変化が顕在化する。その結果、自然を保護することよりも、経済利用のために自然資源の経済性を保護することが重要視されるようになる。持続可能性の位置づけは、いつの間にか自然から開発に移って行く。一言で言えば、持続可能性は自然の保護ではなく、開発の保護になったのである。」(ヴォルフガング・ザックス「地球文明の未来学」)

 ブルントランド報告書とそれへの批判は有名な論争だが、もっと皆が真剣に考えてみなければならないだろう。
 「持続可能」と唱えただけで、すべて許されるほど現実は甘くない。
  特に、化石燃料など再生不可能な資源の扱いについては、いまだに論争が続いている。
  さらに汚染物質の持続可能な排出速度についても同様だ。
 
 「持続可能性」は、今後の問題を考える出発点と位置づけなければならない。

2011年9月3日土曜日

根室海峡の魚介の放射線量

 昨日、羅臼で、エビとイカ、ホッケを買った。
 例によって放射線量を測ってみた。

 すべて0.11μSv/h。
 過日買ったサンマ(釧路沖など太平洋産)は0.21だったことを考えると、明らかに低い値だ。
 根室海峡産の魚介類は、サンマよりも放射線量が少ないと言えるのではないだろうか。放射線量計の性能の限界があるから、数値そのものが正確かどうかはわからないが、放射線量計の仕組みはそれほど複雑なものでないはずだから、同じ線量計で測定した場合、相対的な差は信頼できるはずだ。

 ただ、福島で事故が起こる前に、この線量計がどれだけの値を示すのか、知っていれば、汚染の状況をもっと正確に捉えることができただろうに。


 今、被災地への同情心から、多少の放射線による被曝はガマンしようという気になっている人々が増えているように思う。
 僕は、それは間違っていると思う。
 食品に含まれる放射能の規制値だって「暫定」であり、安全の基準の根拠が曖昧だ。

 放射線の本質を考えると、「安全な量」など存在しないと思うし、そう主張している学者もいる。
 なぜなら、一瞬発射されただけの放射線で遺伝子が切断される可能性もあるわけだから。

言ってみれば、ライフルの銃弾が飛んでくる横断歩道を渡りきるようなものだ。発射の間隔が10秒に一回なのか、0.1秒に一回なのかというような違いでしかない。
 だから、「安全な最低量」など原理的には存在しないという説を僕も支持する。

 病院の検査による被曝は、病気になるリスクの方が大きいから治療という利益のためにやむを得ず被曝しているわけで、
「病院で使われる程度だから安全だ」という主張は成り立たない。

 それらは、すべてある種の政治的意図をもって行われる宣伝だ。

 同様に今、さかんに言われている「国の暫定規制値」というのも、ある種の政治的思惑に基づいて定められているはずだ。
 そんなもの、アテにならない。

 政府が守ってくれない以上、自分で線量を測定し、気をつけていかねばならない。

 日本は、いつからこんな国になったのだろう。 

2011年9月2日金曜日

経済成長を礼賛する人々への三つの質問

 前から気になっていたのだが、「経済成長」というのは、いつまで続くものなのだろう?

 一般的に生物の「成長」は、ある到達点(目標と言っても良いかもしれない)に達したら止まり、あとは徐々に衰えて死を迎えるものではないだろうか。

 「成長」には、停止と死を必ず伴う。

 それとも「経済成長」だけは、特別なのだろうか?
 いや、特別だと思いたいだけじゃないのか?
 悲しい願望か?

 物理的に考えても、資源には限りがあり、使い続ければいつか枯渇する。さらに、廃棄物が増え続け、やがて処分しきれなくなる。
 放射性物質を含む廃棄物なら、現段階でも処分方法は定まっていない。処分法が未確定なのに、実用化を見切り発車したこと自体が、モラルに反しているし、地球の自然環境が人類だけのものでない、という認識に立てば、あってはならないことだ。

 このような状況になってもなお、経済成長を推し進めるべきだという思想の人がいたら、是非とも次の点をご教示願いたい。

 第一に、経済成長がどんどん進んで、世界中の人が携帯電話や自動車やコンピュータや音楽端末などの家電製品をもれなく手に出来たら(本当にそうなれたら素晴らしいけど)次は、それらの工業製品をどこの誰に売れば良いのか。
 どこを探したら、その市場があるのか。

 第二に、それらの工業製品を作る過程で地下資源を採りまくり、森林を伐りまくり、石油を使い尽くして、海を汚し農地面積を減少させて食料の生産量を減らしたら、僕らは何を食べれば良いのか。

 第三に、工業生産の過程で出る廃棄物、使い終わって廃棄した工業製品をゴミとして処分するには、どうすれば良いのか。
 中でも発電所の原子炉から出てくる放射性廃棄物の安全な処理はどうすればいいのか。

 以上三点について、是非ともご教示頂きたい。
 もし、その説明に納得できたら、僕はこれまでの考え方を変える用意がある。

 しかし、やはり、マトモな説明はできないだろうな。彼らには。
 だから、こんなゴマメの歯ぎしりみたいな質問にちゃんと答えられず、黙殺するに決まっている。

 こうして、反論を黙殺して、ひたすら黙って環境を破壊し続けるのが新自由主義者の本性だろう。
 そこに、僕はそこに、ファシストの影を感じる。

2011年9月1日木曜日

夕暮れは そして哀しく




 今日は、ユネスコ前事務局長の松浦さんを見送って女満別空港まで行き、いつもより若干早めに帰宅した。

 そこで、散歩に出かけると草地の向こうの夕焼けが美しかった。

 こんなに美しい風景を今も自然は見せてくれる。
 このシーンは、ニンゲンの力ではどうしても作り出すことは出来ない。
 こんな簡単なことがなぜわからないのだろう?
 力で無理矢理環境をねじ伏せて、思い通りの快適さを追い求めても、それには限界があるし、いつか行き詰まって破綻する。

 こんな簡単な事実が認識できないほどニンゲンは愚かなのだろうか。

 ちょっと悲しい夕暮れであった。