2009年1月31日土曜日

АРКТИКА(アルクティカ)号復活

 昨年12月27日、斜里町オシンコシン付近で航行不能に陥ったわがАРКТИКА号(ランドローバー110 車齢15年 走行距離32万キロ)が本日やっと復活した。修理に一ヶ月以上も要した原因はただ一つ。 部品の到着が遅れたから。  知床財団のY中事務局長は、  「だから外国車は、困るんだよナ。カッコつけて乗っているから、そんな目に遭うだ」とさんざんからかわれた。しかし、彼のお世話で、斜里町内の修理工場を紹介してもらった。そこには、腕の良い技術者がいて、完璧に修理してくれた。ありがたいことである。 折しも土曜日だ。昨日に続いて根北峠を越えて引き取りにでかけた。  工場の駐車場で、АРКТИКАは、静かに待っていてくれた。静かだったのはその時までで、動き出すと車内は、建設機械のような轟音が満ちあふれてしまうのは、いつも通りだったが。その一瞬だけは、代車として借りた、ホンダ「トルネオ」と離れがたい思いがしたけれど。  いま、道東には低気圧が近づき、明日の知床は荒れ気味だ、という予報が出されている。何はともあれ、АРКТИКАが帰ってきて嬉しい。

2009年1月30日金曜日

月を見守る一つ星


 斜里町立知床博物館で会議があり午後から峠を越える。
 帰りは夕方になる。凍結した峠道をソロリソロリと超えた頃、西の空で、月と-4.5等の金星がごく近くに並んで輝いていた。
 残念ながら高層雲がかかっていて、全体的にぼんやりとしていたけれど、それもまた味のうちだったかも知れない。
 月と星が近くで並んでいると、どうして僕たちは見とれてしまうのだろう?

2009年1月29日木曜日

恐るべきナマズ



 実は、東京の「伊せ喜」で「どぜう丸鍋」を食べた時、同時に「なまず鍋」も食べたのだ。昨年まで羅臼ビジターセンターで働いていたYさんが横浜の実家に帰っていて、今回「ジンガロ」鑑賞に同行してくれたので、そのついでに「伊せ喜」にも付き合ってくれた。そこで、ドジョウとナマズをそれぞれ一人前ずつ注文し、両方味わうことができた、と言うわけである。

 このナマズが、ドジョウに勝とも劣らない美味しいものだった。
 まず、鍋はすき焼き風の味付け。甘辛い醤油の味でやや濃い目の味。ナマズの身は大きめに切られていて、胃や肝臓、卵巣とおぼしき内臓も含まれている。野菜とともにサッと煮て生卵に浸けて食べる。

 ナマズは子どもの頃、たまに川で捕れた。ドジョウやフナなどを捕まえるために川底を網でかき回すのだが、ごく稀にナマズが入ってくる。子どものことだから、獲物の珍しさに応じてランクをつけて分類していた。ナマズは、間違いなくかなり「上位」の方である。もちろん、この「ランク」は僕の育った函館近郊に限ったことであろうけれど。
 そんなナマズが、よそ行きの表情?でお皿に載っていた。もちろん変わり果てた姿で。 
 煮えて、味が染みこんだ頃合いに箸でつまみ上げ、卵を絡ませて口に運んだ。コリコリとしているが柔らかい。第一印象は「フワッとした食感」だった。カジカに似ていないこともないが、身全体が柔らかいという点で、大きく違っているとも感じた。正直なところカジカのよりも美味しく、すき焼き風の味付けに良く合っている。

 食べたのがナマズだっただけにじしんが付いたように感じた、体験でありました。

2009年1月28日水曜日

社会復帰の日

 旅から戻ってくると、いつも「社会復帰」に苦労する。特に海外から帰ってきたときは甚だしいのだが、今回も旅がゆったりとした日程で、割に好きなことし放題の旅だったので、社会的馴化にやや苦労した。
 おまけに、昨夜、敬愛するアーティストの奈良裕之さんに釧路で出会い、演奏を聴いたりしたのでますます、ハードルは高かった。
 しかし、まあ、頑張った、と自分では評価しておこう。
 温泉に入って早寝する。

2009年1月27日火曜日

葛西水族館






 26日、夕方の便で帰ってきたので出発までの間、葛西臨海公園水族館に行った。博物館や美術館は、月曜日が休館になっている施設が多い。水族館は水曜日が休みというところが多い。洒落だろうか?と思ったら動物園も水曜休園が多かった。
 そんなことはともかく、快晴の空が広がる月曜日、JR京葉線に乗って水族館に来てみた。
 この水族館には、マグロの回遊水槽があってクロマグロやキハダが高速で泳ぎ回っている。マグロは低速で泳ぐ時、胸びれを水平に伸ばして浮力を生じさせ安定させているが、高速で泳ぐ時は体に密着させるのだという。胸びれの付け根にはひれを収納する窪みがあって、ひれを体に密着させると体表面の突起がなくなり、高速での遊泳に適した状態になるのだそうだ。マグロが急旋回する時には普段、折りたたんでいる第一背びれが伸びて、安定を助けていることなどがわかった。
  考えていみると、マグロが泳いでいるところを見たのは初めてだった。今まで食材としてしか見ていなかったマグロの生物としての面白さに初めて触れた一日だった。
 気軽に立ち寄った葛西水族館だったけれど、思いがけず多くを学ぶことができた。

愛の無常

 愛の無常について、このごろよく考える。  自分は、いろいろな人に愛されている、と思う。  例えば、突然友人に電話して、「今日、会いたい」と言う。すぐに返事が返ってきて、落ち合う場所と時刻、初めて訪ねる場所であればそこに関する詳しい情報を知らせてくれる。行ってみると、自分の予定を投げ出して、僕のためにいろいろと気遣いをしてくれる。「ああ、この人から僕は愛されている」と感じる。  数ヶ月会っていなかった友達を食事に誘う。二つ返事で出てきてくれて、共に食事をし、話に花を咲かせる。こんないい友人は、他にないな、と感じる瞬間が幾度もある。この時に介在するのも一種の愛だろう。  旅を終えて、帰ってくる。  「お帰りなさい。お疲れ様」という声が集まってくる。何気ない、そんな言葉にも愛を感じる。夫婦間や男女間の愛だけではなく、人と人を結びつける糊みたいなものが愛かも知れない、と思う。  しかし、人の心は移りゆき、愛は無常なものなのだろうか。  そうであるように思うし、そうであって欲しくない、とも思う。何十年生きていても、こればかりはわからない。

2009年1月26日月曜日

どぜう恐るべし







 実は、昨日、「ジンガロ」を観てからドジョウを食べた。友人から紹介してもらった「どぜう屋さん」がジンガロの会場近くにあった。
 高校生の頃、自分で捕まえたドジョウを食べてみた経験はある。その時は、ただ骨がうるさく、味も泥臭いようなカビ臭いようなもので美味しいとは感じなかった。しかし、東京には「どぜう」と書かれた看板を挙げている店が結構ある。一度、そういう店で「正式な」どぜう鍋というものを食べてみたかったのだ。良い機会だと思った。
 店は、深川。小名木川にかかる高橋(たかばし)近くにある「伊せ喜」という。いかにも老舗らしい構えで、ちょっと敷居が高い感じだった。友人の推薦がなかったら若干尻込みしたからも知れない。
 いろいろなメニューがあったが迷わず「どぜう丸鍋」というのを注文した。
 小さな円形の浅い鉄鍋に10cm足らずの小さめのドジョウがびっしりと並んでいる。火にかけて割り下を注ぎ足しながらじっくりと煮込む。他に入れるのはネギだけ。柳川ではないのでゴボウなどは入れないらしい。
 どぜうには日本酒だな、と考えて冷酒を注文した。島根のお酒その名も「どじょう舞」無農薬有機米100パーセントを原料に作られた酒で、ぴりっと引き締まった味でスッキリした飲み口。それでいて芳醇。(なんだかどこかで聞いたような表現だなあ)「日置桜」に似た味わいの美味しいお酒だった。
 そして、店員さんがはじめに持ってきた僕のグラスにヒビが入っていた。そのことを言ってグラスを交換してくれるよう頼んだ。すると、なんと「どじょう舞」1本(360ml)をサービスしてくれるではないか!
 さすが老舗。(どこが「さすが」なんだろう)これで、「軽く一杯」のつもりが「二杯」になり、そのまま飲み逃げでは失礼だから3本目を頼まざるをえなくなった。う~んありがたい。(何が「ありがたい」んだろう?)

 肝心のドジョウ。臨席の上品なおばさまはかなりの「どぜう通」の様子だったので、丸鍋の食べ頃というのを教えてもらった。身が丸くなり始めた頃が良いらしい。煮上がってきたので一匹を口に入れてみる。柔らかく、香ばしく、甘く、骨はサクサクとしている。舌の上でとろけるような食感。素晴らしい。

 親しい友人の栄養士が以前に情報をくれていた。ドジョウの栄養成分。ビタミンE、
カルシウムはサケの78倍、鉄は11倍、リン、レチノール(眼に良い)、などなど。大変な栄養食品らしい。
 味といい、酒との相性といい、最高の食事を楽しむことができた一夜でありました。

ジンガロ



 昨日、「ジンガロ」の公演を観てきた。
 「バトゥータ」という演目。
 言葉にできない世界が、そこにあった。疾走する馬。馬上で跳ね踊る人。馬の体臭や体温までが直に感じられるステージ。
 ひとつひとつを取り出してみると「曲芸」と言えない訳ではないのだが、それらを貫いている糸は、「生命」あるいは「人生」を考えさせる。そんなステージである。

 バックの演奏も素晴らしかった。それは、二つの楽団からなっていた。
 「ファンファーレ・シュカール」はモルドヴァ地方のブラスバンド。
 「タラフ・ドゥ・トランシルヴァニア」はトランシルバニア地方弦楽アンサンブル。
  音楽とウマとヒトの調和が快い。

 公演そのものを撮影できないことになっていたことが残念である。

2009年1月24日土曜日

逗子の一日






 逗子を歩いた。親友のロシア人Aさんとそのパートナーの.Rさんが住んでいる逗子市を訪ねた。朝、突然電話をし、「これから行っても良い?」と乱暴に訪問したにもかかわらず、A&R夫妻は快く迎えてくれた。
 駅前で落ち合い、まず披露山に向かった。登り口に東京都知事をしているというI原S太郎という人の自宅だか別荘だかがあった。有刺鉄線を張り巡らせたその家は、白を基調とした外壁で、中南米あたりの独裁者の邸宅のようだった。
 そんな家を見下ろしつつ山に登る。山頂は360°が展望でき、富士山も見えるのだそうだ。今日は、雲が厚く富士の姿は見えなかったが。また、ウコッケイやクジャク、ニホンザルなどを展示したちょっとした動物園もあって、結構たくさんの人が集まっていた。 頂上から見える相模湾は、暖かそうな光に満ちていて、多くの人がウインドサーフィンやシーカヤック、ディンギーなどで遊んでいた。
 逗子は、気候が温暖で昔から保養地として知られていた、という。ロシア人のAさんは、クリミヤ半島のようだ、と表現していた。そのため、別荘などもおおくあったようで、たとえば徳富蘆花や国木田独歩などの文人が住んだり滞在したりして、彼らの足跡もあちこちにあるようだった。
 本格的な中華料理店で美味しい昼食をごちそうになった後、披露山とは湾を挟んで反対側にある桜山の方にある郷土資料館に向かった。この資料館は、徳川家第16代の家達(いえさと)さんの別荘だったとのことで、さほど大きくはないけれど明るい縁側から湘南の海を見渡すことができて、実に快適そうな建物だった。徳富蘆花や徳富蘇峰などの文学者に関する資料や、近くの古墳から出土物などが展示されていた。
 見晴らしが良く、静かで落ち着いた館内はこの上なく居心地が良く、丸々一日いてもいいなあ、と思える場所であった。

 その後、夫妻の居宅に招かれ、A氏手作りのボルシチをごちそうになって東京に戻った。しばらくロシアに行っていたA氏と久しぶりに再会できたことはもちろんだが、神奈川県逗子の魅力を深く印象づけられた一日だった。
 それにしても、突然の訪問をここまで手厚く歓迎してくれる友情とホスピタリティにあらためて深く感謝である。 

夜間飛行

 昨夜、夜間飛行をしてきた。
 女満別発20時20分東京行きJAL1190便。
 空港に辿り着くまでにもドラマだった。発達しつつある低気圧が接近し、雨雲がワシワシと押し寄せてくる様子を気象レーダーの画面が示している。
 羅臼から女満別まで100kmと少々なのだが知床連山に連なる峠がある。冬期間はしばしば通行止めになる。昨日も、昼から美幌峠が通行止めになった。僕が超えるのは美幌峠のお隣の根北峠(こんぽくとうげ)だ。十分すぎるほどの余裕とり、早めに出発した。
 しかし、降雪の量は多かったものの通行に問題はなく、二時間とちょっとで空港に着いた。時間がタップリあったのでギネスなどを飲みながら出発時刻までゆったりと過ごした。(これで、飛行機が欠航になったらどうやって帰るんだ?とは考えなかった。)

 気圧配置は冬型になりつつあり、雲の切れ目から町の灯りが見えていた。夜間飛行の時に見える光景は、なぜか顕微鏡で覗くバクテリアの世界を思い出させる。発光バクテリアのコロニー。
 あの、灯りのしたにニンゲンの生活があるのだろうなあ。
  悲しんだり、喜んだり、生まれたり、愛したり、憎んだり…
 僕たちが顕微鏡で、バクテリアのコロニーを覗いた時、その下で繰り広げられているバクテリアの生活(そんなものがあれば)をたまに考えてみることがある。
 なんだかセンチメンタル

2009年1月23日金曜日

靴のおはなし


    靴を買ってしまった
 今、雪道で履いているのは2001年に買ったソレルの短いブーツだ。8年間はき続けて、まだ履くことができる。ただし、靴底はツルツルになってしまっている。先日、学校の坂を下りていて、連続して3度転んだ。ツルッと足を掬われたように見事に転倒した。 思えば、この靴は雪の無いワシントンの街を歩き回った。本州の市街地を歩くことも多かった。靴底が減るのは仕方がない。今シーズンいっぱいは我慢しようと考えていたが「下り坂の一撃」で考えが変わった、ということか。
 新しい靴は雪道によく食いついてくれそうだ。古い靴は雨の日などに履くことができる。新しい靴では、なるべく雪の上だけを歩くことにしよう。

2009年1月22日木曜日

サトイモ




 先日、我が家に遊びに来た友人がサトイモを持ってきてくれた。僕は、サトイモの煮物などは好きなのだが、自分で調理したことがなかった。あのネバネバした感じが、取っつきにくさの主因だ。それと、身近に無い食材だったということもある。
 非サトイモ文化圏で育ったわけであるね。

 友人は、サトイモを皮のまま茹でた。茹であがったサトイモは実に皮が剥けやすかった。茹でて皮を剥いたサトイモに彼女の手作りの味噌を付けて食べた。こんな美味しいものを今まで知らずに生きてきたことが悔やまれるほどの味だった。丹念に作られた味噌があったから、ということもあるが、素材の持っている食感と味がそのまま生かされていた。



 今夜、夕食のメニューを考えた。明日から東京に行く。だから残り物の整理を兼ねた夕食となった。大きすぎて茹で時間が違う、という理由でその時食べられなかったサトイモが一つ残っていた。
 もちろん、茹でて、味噌を付けて……




2009年1月21日水曜日

思わぬ効用

 昨年暮れ、わがアルクティカ号がウトロ手前15kmの地点で故障し立ち往生して以来、ホンダ製の「トルネオ」というセダンに乗っている。「スポーティ」な車らしく、周囲から「似合わねえなぁ」という声があがっている。これを無視してOD付4速オートマッチクによるスポーティ?な走りを楽しんでいる。この車は、間もなく新車登録から10年を迎える。走行距離も20万㎞に達しようとしている。だが、それはかまわない。よく走ってくれる。
 だが、一つだけ大きな問題点がある。この車はFFなのである。つまり二輪駆動だ。幸い、今冬は雪が少ないこともあって今まで一度もスタックしたことはない。慎重に運転しいる限りさほど大きな問題はない。これからも大丈夫だろう。ただ一点を除いて。
 実は、僕の職場は急な坂の上にある。羅臼の海岸から300m程の急坂を登らなければならない。この道路の斜度は相当なもので、アイスバーンになっている時など、四輪駆動でも登れなくなるほどなのだ。そして、その坂を下る時はもっと恐ろしい。

 そこで、毎回坂の下に車を駐め、歩いて坂を登ることにした。これが、始めてみると実に気持ちが良い。わずか300m足らずの坂だが、引き締まった朝の空気を吸いながら斜面を踏みしめて登るのは、健康的だ。なぜ、もっと早くこれを始めていなかったのか、と悔やまれる。わずか4~5分の時間を惜しんで、こんな気持ちにも身体にも良いことをしてなかったのだ。
 今は、アルクティカ号が復活してきてもこれを続けよう、考えている。 

2009年1月20日火曜日

吹雪を待ち望むココロ

 昨夜から道東はちょっとした吹雪に見舞われた。
 本日13時30分より、斜里町で会議が一つ予定されていたが、国道244号線根北峠が視程不良のために通行止めとなり、出席を断念した。
 でも、実は断念したことで思わぬ自由時間が手に入り、部屋の片付けなどをして豊かな時間を送った。
 「ちょっとした吹雪」でこれだけ恩恵があるのだから、「ちょっとしない吹雪」つまり本格的な大きな吹雪もたまには来て欲しいものだなあ、とフラチなことを考えてしまうのでありました。

2009年1月19日月曜日

「チェ」観てきた

 「チェ・29歳の革命」を観た。
  1958年からのゲリラ戦でバティスタ政権を倒すまでが縦糸になっているが、1964年の
国連での演説、1956年のカストロとの出会い、さらにはカストロにいよる最初の蜂起だった1953年7月26日(「M26」と呼ばれている)のエピソードも織り込まれて、時間を行き来しながら、ストーリーが展開されていた。
 全体的に緊張感に満ちていて、ゲバラの人となりがよく伝わってくるように感じられた。
 同時に、アメリカに代表される進んだ資本主義国が、貧しい第三世界の国々に犠牲を強いて「発展」を享受してきた、ということが再認識でした。
 グローバリズム経済、新自由主義とその系譜は、体裁と名称をすり替えながら、現代の世界にまで連綿と続いているのだ、ということをあらためて考えた。
 いま、世界はやはりゲバラを必要としているのだ。

2009年1月18日日曜日

シマフクロウのヒト

 北海道東部にはシマフクロウというフクロウが住んでいる。
 個体数を減らし、もう百数十羽しか残っていない。
 「特別天然記念物」と言って大威張りしているあのタンチョウでさえ生息数1000羽を超えた、と言われている。それよりずっと少ないのだ。
「少ないのだ」などと言って威張っておられないのだ。大変なことなのだ。何か全面的に「のだ」が続いているのだけれども、このシマフクロウを守って、増やしていこう、という人々が道東には何人かいる。
 もっとも古くからたった一人で取り組んできた根室市のYさんを知っている人は少なくないし、シマフクロウを語るときに絶対に外されない情熱と業績を持った方だが、実はそれ以外にも「シマフクロウのヒト」はいるのである。
 その一人に僕の友人のSさんがいる。彼は、世界を股にかけて報道関係の華々しい仕事をしていたのだが、それを捨てて、シマフクロウの保護に後半生を捧げている。そして、昨年、「シマフクロウエイド」というNPOを立ち上げ、組織的に持続可能な形でシマフクロウの保護増殖活動を展開しようとしている。
 僕も、ほんの少しだけその活動をお手伝いさせて頂いているのが、お金も無い、人手も無い、後継者もまだ無い、という厳しい状態の中で巣箱を掛け、生息場所で給餌を行い、自分の財産と労働力のすべてをなげうって保護活動をしている姿には頭が下がる。
 少しでも多くの人にその活動の実態を知って欲しいものだと思う。
 というわけで、そのHPのURLを載せるので是非、のぞいてみて頂きたい。
 http://homepage3.nifty.com/fish-owlaid/

ああ、筋肉

  先日の眼科で目の病理検査を受け、「健康」と診断された。正直なところホッとした。同時に数年前から感じている視力の衰えの原因が気になっている。何しろ両眼2.0だった視力が0.5~0.7になってしまったのだ。
 狩猟免許の更新や運転免許の更新の時、僕の息子くらいの職員に
「がんばって!」と励まされて検査を受けるのは情けない気持ちだった。
 原因は眼球で焦点や瞳孔の開き方を調節している筋肉の衰えだろう、と医師に説明された。確かにそうに違いない。眼に限らず脚も、腕も、心臓もあらゆる筋肉の性能は低下しているのだろう。そのうち膀胱括約筋なども弛んできて、すわりションベンなんかもするようになるのだよなあ。ああ~あ。
 そんな妄想(いや、現実だ!)にとらわれながら、なんとか筋力の衰えを先延ばしする方策を考えよう、とするこの頃である。運動、訓練、食物……
 良い智恵はないものだろうか?

2009年1月17日土曜日

光の道


昨夜、真夜中に別海に向かった。
ゴローニン海岸と呼んでいる床丹の海岸にさしかかった時、下弦の月が昇っていた。
真っ黒な海面に金色の光の道が延びていた。
たった一人でこんな風景を見ているのは、もったいない、と感じた。

この道を走ってみたいどこまでも 光の粉を巻き上げながら
オリオンの高き空より 玲瓏の大気の底のきみを見守る

雪上のひととき


 雪上のひととき
 新雪の上を歩いた。オコジョの足跡があちこちにつけられていた。前夜は夜半に月が昇り、森の中の雪を照らしたに違いない。月光を浴びながらオコジョたちは、自分たちだけの世界を楽しんでいたのだろう。
 雪に顔形を作ってみた。今は、僕らだけの世界だった。

2009年1月16日金曜日

塩酸フェニレフリン

 塩酸フェニレフリン  というのは、散瞳剤つまり目の瞳孔を広げる薬だ。
 視力の衰えがはげしい。2.0あったものがいつの頃からか0.5~0.7になってしまった。 星が二重に見えるようにもなった。
 自分の眼に絶対的な自信を持っていただけに衝撃だった。数字の並んだ成績一覧表を読み違えるなど職務上のトラブルも増えた。周囲に迷惑をかけることがあってはならないから眼鏡をかけようかな、と弱気になった。 数年前から思い始めた。
 それにしても、視力低下の原因が気になった。様々な病気も考えられるの眼科を受診してから眼鏡を誂えた方が良いと考えた。そうなるとさあ大変。半径100km以内に眼科は一つしかなく、受付は9時から11時までの三時間。それに向かって人々がドッと押し寄せる。通院時間と待ち時間、診察・検査の時間合計で4時間30分。そのうち検査と診察に要する時間は、15分くらい。5.6パーセントだ。なかなか受診の機会は巡ってこなかった。
 しかし、年があらたまり、年頭に「目医者に行く」という決意をキッパリとした。で、本日の受診とわけである。

 器械を使ったいくつかの検査に続いて散瞳剤の点眼を受け、医師による診察となった。痛くも痒くもないが、「めいっぱい」に開いた瞳孔をライトの灯りで照らし、眼球内部をくまなく見てくれたことは、心底ありがたかった。結果「異常はありません」と告げられた時は嬉しかった。60年近く酷使に耐えた自分の眼球にまだ異常は無く、単にピントなどを調整する筋力が弱まったことよる視力低下だと診断された。
 「ウーン。よく頑張ってきたな、俺の眼の筋肉たちよ」としみじみ思った。これからはもっと労ってゆっくり休ませ、チカラを回復させてやりたい、と考えながら診察室を出た。 しかし、料金を支払い、病院を一歩出たところで、目がくらんだ。瞳孔が全開になっているので冬至を過ぎ、「光の春」に向かっている太陽光がガガガッと眼球に飛び込んで来たのだ。眼球の中が光であふれた。不快ではないけれど、何も見ることができなくなってしまった。瞳孔の開閉を行う虹彩の反射がいかにありがたいものなのか、よくわかった。サングラスのありがたみも身に染みた。
  なんだかあちこちに感謝の念が湧いた一日であった。

2009年1月15日木曜日

強者の論理

 岡山に住む義母が夏だけ我が家に滞在するようになって、もう何年にもなる。渡り鳥のようだ、と自ら笑いながら避暑地と温暖な越冬地との間を往来している。「二地域居住」などという大きなお世話的な造語が生み出されるずっと以前からのことである。その義母もだんだんと年をとってきた。昨年、こんなことがあった。
 僕の家では食事の時、たくさんの食器を使うことを避けている。洗うのが面倒だから。仕切りの付いた大きめの皿がよく使われる。薄手の皿もあるが最も愛用しているのは、25センチ×20センチくらいの厚い皿である。重い皿は安定感があり、使い心地が良い。スクランブルエッグやサラダなど洋食風のメニューの時は当然だが、米のご飯を食べる時もこの皿を使っている。
 ところがある時、義母から、この皿は重くて持つのが辛い、と言われた。なるほどこの皿の一端を片手で持つのには、かなり力が要る。しかも食器棚に収納する時、スペースを節約するために当然のように長辺を奥に向けて入れるから、確かに重い。全盛期に比べ、明らかに筋力の衰えている彼女にとって、重い皿を日に何度も出し入れすることは耐えられない苦行だったことだろう。
 僕は、そんなことに思い至らなかった自分を恥じた。恥じたけれど、このような事柄は身のまわりにたくさんあることにも気づいた。僕らは、どんなに善意であっても、自分の物差しで自分の環境を整えてしまう。そうすることが自分に一番都合が良いのだから当然なのだが、その「環境」を他者と共有する場合様々な配慮が必要になってくる。たとえ夫婦間でもそのような「軋轢」が生じることはあるだろう。もちろん、家の中の問題であれば工夫のしようもあるし、解決の方法はいくらでもある。そう大きな問題ではない。
 しかし、これが社会的な問題だとしたらどうだろう。僻地の郵便局がどんどん無くなっていく。学校も消えていく。少し前まで、日本中に張り巡らされていた鉄道網は、大半が姿を消した。病院も無くなる。
 労働者の派遣を合法化する派遣労働者法を成立させた時、何万人もの弱い立場の者が、山の中に隔離され、奴隷のような労働を強制される事態が生じることを何人が予測したろう?そして、そのような問題が顕在化した時、その人たちは、どんな責任を感じただろう。
 このような政策を推し進めているのは「強者の論理」ではないだろうか。全てを「採算性」という唯一のパラメータで評価しようとする姿勢を持つ時、その人はすでに強者の論理に陥っている。そして、それを指摘されて恥じ入ることをしないで、開き直った瞬間、その人の感性は鈍り始める。それは、ヒトとしての堕落の始まりかもしれない。今や金儲け最優先の姿勢は、恥ずべきもの、という価値観が成立しても良い頃合いだと思う。
 「先進国」の大部分は、かつて軍事力という物理的な力によって他国に押し入り、その資源を奪って「繁栄」した歴史を持っている。それも「強者の論理」であったし、その反省の上に今日の社会が気づかれたはずではなかったか?軍事力に頼る傾向は、僅かに減少している(ように見える)が、それに代わって「資本」という力によって、依然として富を独占しようとしているのではないだろうか。個人の単位でも、国や地域の単位でも、弱い立場の者が収奪され不当な苦しみを背負わされている現実は、昔も今も変わりはないのではないか。いや、はっきりと目に見えて理解しやすい軍事力による侵略よりも、より姑息に隠蔽された悪意による侵略が、現代の世界で横行している。
 そしてその「強者の論理」は、知らず知らずのうちに僕らの内面に入り込んできているのではないだろうか。

2009年1月13日火曜日

立ち待ちの月

月が出ていた。
 黒い海の上に
 広がる銀の道
 それは
 鯨の表皮のようにも
 見える

 月齢17日
 満月を過ぎてはいたが
 久しぶりに
 落ち着いた大気と波は
 立待の月を
 取り囲み
 祝っているかのようだった

 帰り道
 大きな火球が飛んだのだと言う

2009年1月12日月曜日

冬の海岸

 低気圧の置き土産で、海は、まだ荒れていた。カモメが群れて、打ち寄せられた漂流物の中から、食べられる物を熱心に探している。

 繰り返し寄せてくる波を眺めていると様々な思いが脈絡なく意識にのぼってくる。海底に沈んだ物が、水流に巻き上げられ、波で運ばれ、浜に打ち上げられるように。たぶん、海と心がどこかで響き合うのだろう。
 心の深層から、波が巻き上げて運んできた古い記憶や苦い想い出を食べてくれるカモメは、いるのだろうか。

 カモメたちが啄まなかった物は、渚に散乱しているが、これらもやがて波が持ち去ってしまうのだけれども。

 荒れる根室海峡を眺めていて、こんなことを考えた。

2009年1月11日日曜日

吹雪の夜は明けて


 吹雪は予想よりずっと小さかった。
 いや、吹雪かなかった、と言うべきだろうか。
 風は強かった。湿った雪は、除雪車「ポチョムキン」の窓に白く貼り付いた。
 停電もあった。断続的に何回も繰り返される停電だった。蝋燭を点けて風呂に入り、電灯が点いている間は本を読む。電灯が消えたら薪ストーブの火をかき立てる。久しぶりに良い夜だった。
 積雪もほとんどなく、除雪作業も必要ない。風が強く、路面状態も危険だから不要不急の外出は中止して、ずっと家で過ごした。昼食にカレーを作った。
 夜は野鳥の会根室支部の集まりがある。

2009年1月10日土曜日

吹雪た!


 低気圧が来た。
  今、午後2時。気圧は、今朝より10hPaも低くなった。
 いよいよ低気圧が近づいてきたことが実感される。
 さきほどから湿った雪が横に吹きつけてきて、視程は、まだ200メートルくらいはあるだろうか。いろいろな予定がキャンセルされた。
 除雪車「ポチョムキン」も出動態勢をとって待機している。
 自然の力の前で、あらためて無力感を覚える。同時に本心では、ちょっと快感でもある。ワクワクしてもいる。低気圧は、愛おしくもある。

2009年1月9日金曜日

反省したこと

 昨日、父とちょっとした言い合いをした。
 妹から携帯電話のEメールが来た。帰る僕を見送りたいが、どこで合流したらよいか、というような内容だった。それに対して僕は、込み入った内容だから直接話し合って決めようと考え、「電話で話そう」という返事をEメールで送った。
  父が傍にいて、妹がどこからそのメールを送ってきたか、ということをしきりに気にしていた。彼女にはその日、朝から出かける予定があることがわかっていたからである。
 携帯電話のメールだから詳しい内容は書かれていない。彼女がどこにいるかなど、わかる訳がない。わかる訳のないことをいつまでも気にする父に、僕は少しだけイライラした。そこで、「わからないことについてあれこれ考えるよりも、いま手に入っている情報を基に、次の行動を考えた方が合理的ではないか。」というようなことを言った。

 しかし、言った後で、すぐ次のようにも考えた。
  僕らは、いつも何気なく携帯電話やパソコンのEメールなどを使って会話(情報交換)していることが多い。いつの間にかそれを当たり前のことと感じている。だからメールの限界もわきまえているつもりだし、「手に入らない情報をあれこれ考えるのは無駄」という意識が知らないうちに出来上がっているのかもしれない。昨年米寿を迎えた父は、携帯電話やメールなども使ってはいるが、間違いなく一世代前の価値観で生活している。そのため、思考のテンポがゆっくりしているのかも知れない。いや、それは逆で、携帯やインターネットの世界がいつの間にか「日常」になっている僕(たち)の方が、思考のテンポを異常に早めて、「無駄なことは考えない」などと賢しげに口にしているのでは、あるまいか。
 日頃から近代文明に対する疑問と不信を感じているつもりだったが、いつの間にか僕自身も近代文明のスピード感に自分を合わせ、それからほんの少し遅れた思考テンポを持つ父に、ある疎ましさを感じたのではないだろうか。
 自分の了見の狭さを痛感し、反省した一コマでありました。

2009年1月8日木曜日

昨日のそれから・・・・・僕の悪癖





 午後、小樽まで行った。札幌で浪人をしていた頃、里心が起こってくるとよく小樽へ行ったものだった。何かほっとする空気を感じたし、街の規模、坂道の先に港があるという風景が、函館を思い出させてくれたからだろう。その頃は、蒸気機関車がまだ全盛で、小樽築港機関区を眺めるのも好きだった。

 しばらく小樽を訪ねることはなかったが、最近また、小樽行きが増えてきた。駅前の的な蕎麦屋さんが目的だ。
 「藪半」という名のその店は、小樽駅前の国道より一本だけ浜側を通っている狭い道にある。間口は小さく、あまり目立たないのだが奥行きはかなりある。行く時はJRで行くことにしている。他人には「汽車で行く」と言う。「デンシャ」などとは口が腐っても言わないのだ。電車というのは鉄道車両の一種でしかない。たしかに日本の都市部の鉄道はほとんど電化されていて、正真正銘の「電車」が走っている。しかし、日本にはまだまだ非電化区間があり、そこでは気動車(ディーセルカーですね)が活躍している。ごく一部だが客車列車(動力のない客車を機関車が牽引する列車)も走っている。
 僕は鉄道マニアではない(つもり)だが、鉄道の列車を見ると何でもかんでも「デンシャ」と呼ぶ人とは距離を置きたいと思っている。言葉へのデリカシーがなさ過ぎるように感じるのだ。そうやって都会風を吹かせているように感じるヒガミもあるのかね?

 まあ、とにかく、小樽へは汽車で行く。蕎麦屋ではまず、酒を注文する。一合だけ。注文した蕎麦が運ばれてくるまで、チビチビとやり、香り高い蕎麦をすすっと食べて出てくるのだ。普段、あまり日本酒は飲まない。まして昼酒などしない。だから真っ昼間から酒を飲んでいるだけで小心者の僕は罪悪感を覚える。だが、少量の酒で熱くなった胃袋に冷たく滑らかな蕎麦が入っていく感覚は、少々の罪悪感で増幅され、楽しいひとときとなる。だから、いつの間にか、なかなか止められない習慣になってしまった。



2009年1月7日水曜日

都会のヨクボウ


 札幌に来ている。ほとんど私用だが、仕事もすこしばかりある。ゾンメルを買うのだ。
ゾンメルとは、山スキーのことだ。短く幅が広い。裏面にシールが貼られている。造林や狩猟など山仕事をする人々に愛用されてきたスキーだ。

 来年度から始まる「野外活動」の授業で使う。20足ほどのゾンメルを買う予算がついた。しかし、このスキーは現在、札幌の秀岳荘という店でしか扱われていない。
 というわけで、似合わない「商談」に来ているのである。

 そして今、紀伊國屋書店の二階で「アラビアの真珠」を手に入れた。その真珠は熱く濃い。触れるとしびれるように熱が伝わってくる。琥珀色をしている。唇に近づけると表面からの熱が輻射してくる。かすかに、濃厚に甘い香りがする。手に持つと、生き物のように震える。すこしだけ口に含む。香りはさらに強まり、心地よい苦みが喉の奥へと広がっていく。飲み込むと、胃の中からも香りが立ってくるように感じる。もちろん「アラビアの真珠」とは、コーヒーのことでした。
 そんな真珠がたった530円。しかもサービス券があるから支払うのは、430円。

 それにしても、都市というのは、ニンゲンの欲望にとことん応えるようにできているなあ、と思う。何を今更、といいう気もするが。
 朝、ホテルを出て、地下鉄に乗る。目的地近くに黙って運んでくれる。書店に行き欲しかった本を手に入れ、そのまま二階でインターネットに接続して自分の書きたいことをこうやって書き散らかしていられるのだから。
 便利でありがたいのだが、この状況が当たり前と感じるようになったら、それはとても怖いことであるような気がする。いや、怖いことだ。

 人間は、こうやって「文明」をどんどん巨大化させてきたのだろうなあ。 

2009年1月6日火曜日

ジンガロ

 ジンガロがやって来る。1月24日から東京で公演が始まる。初来日は2005年だった。「ルンタ」(風)というタイトルで、チベットの祈りの世界におけるウマと人のつながりを幻想的な舞台で演じていた。圧倒されあたまがボオッとなって帰ってきたのを覚えている。
 ジンガロとはフランスに根拠をおく騎馬劇団の名前だ。1984年の創立。バルタバスという人が主宰している。この人のウマの扱いは超絶的だ。円形の舞台を10頭以上のウマが疾走する。こんな曲芸的な騎乗にももちろん驚かされるが、スポットライトに浮き上がったウマが真横に移動したり後ろに下がったり、まるで踊っているよう動きを見せる。そんな幻想的なシーンが美しい、と思ったし技術的にも難しいのだろうなあ、と感じた。ほんの少しだけ僕も乗馬をしているから。
 今回の出し物は「バトゥータ」という。ルーマニアの二つの楽団の生演奏に乗せて繰り広げられる、生命力に満ちた熱狂的な大スペクタクル。なのだそうだ。駆け抜ける馬上の花嫁、暴走する馬車、大衆の生活と喧噪………

 以上、公式HPからの受け売り

 だが、それにしても、やっぱり楽しみだ。
公式HPのURLは以下の通り
 http://www.zingaro.jp/

2009年1月5日月曜日

知西別の谷で

巨大な獣のチェーンストークが
谷を駆け下りていく
獣は
確かに最後の個体である
この個体の死と
この種の死は
同じ意味を持つ

この谷は
獣たちの息の通り道
一息に海まで駆け下りて
海峡に広がる
ニンゲンの
思惑や打算を無視し打ち砕き
一息に脊梁山脈から駆け下りた風は
この谷を出て
一挙に海面に散開する

散開した風は波を呼び起こし
呼び覚まされた波は向こう岸にある島をバネにして
大波となって帰ってくるのだ

そして
すべてを洗い流す

塩化ナトリウムの溶液に乗り
無気力に運ばれていく物たち
都会への回帰を夢見る眼球
「評判」だけを気にする耳
男の誘いを待ち続ける乳房
「思惑」に毒された大脳
「まさぐる」ことしか知らない指

これらは海峡に流れ出し
巨大なマッコウクジラに飲み込まれる
これらの現象を前にして
生態学者は誠実そうな眼差しで
「海と陸との物質循環」を語り続ける。

2009年1月4日日曜日

「エコ」がオジロワシを殺した






 携帯用の箸を持ち歩いていると、よく
「エコですか?」と声をかけられる。正直なところこのように見られると照れて戸惑ってしまう。なぜなら、自分の使う割箸1膳くらいで、森林が救えるとか温暖化が防げるとか思い込めるほど僕はお人好しじゃないし、そんな大それた理由で持ち歩いているワケじゃないからだ。自分で使う食器のうち、簡単に持ち歩けるものを一つくらい歩いてもいいじゃないか、と思う。それに今はチタンなど優れた素材の箸があって、ちょっとオシャレでもある。

 それよりもまず、「エコ」という言葉の軽さに戸惑う。どうやら環境問題に関心を持ち、環境保護に貢献することを「エコ」というらしい。同時に「地球にやさしい」とか「環境にやさしい」という表現もつきまとってくる。どこの世界に「やさしい」という形容詞を自分に対して使う者がいるだろうか。「僕は女にやさしいヨ」などと言う奴が信用できるワケがない。話が逸れたけど「エコ」とは「エコロジー」のことで、そもそもは「生態学」のことだ。それが拡大して、生態学的な知見を反映しようとする文化的・社会的・経済的な思想や行動に使われるようになったのだろう。だから、厳密に言えば「Ecology movement」などの英語から来ているわけで、もちろん間違っているわけではない。

 だが、どこか安っぽい底の浅さを感じて、僕は使いたくない言葉なのだ。!
  その実例のひとつに風力発電用風車への鳥の衝突、という問題がある。風力発電に対してまさに「環境にやさしく、エコである」というイメージ作りが先行しているが、発電用風車に激突する鳥はかなりの数にのぼっているのだ。
   例えば、2002年以降の調査記録(昨年12月に出された日本野鳥の会のプレリリースに付帯した資料による)2004年以来、オジロワシの衝突事例が11例取り上げられている。いずれも北海道内で起きているものだが、このうちの11番目の事故の発見には僕も関わっている。(未発表の事故例もあり、合計で13例起きている、という説もある)
 風車への衝突が、どれほど凄惨な事故になるか、写真を見てもらいたい。
これらは、2008年10月19日に発見された、釧路管内浜中町の発電用風車に激突したと考えられるオジロワシの死体である。なお、成鳥の衝突事例が明らかになったのは、この事故が最初、と考えられている。さらに事故の起こった時期から、この成鳥が北海道内で繁殖していた個体である可能性が極めて高い、と指摘されている。

2009年1月3日土曜日

空中の黒猫


   空中の黒猫(習作)

 空中を黒猫が漂っている
 ブラブラ

 単振動する黒猫
 脂身を狙って
 単振動する黒猫
 脂身は金網に囚われていて
 窮屈な隙間を出ることができなかったのだが
 脂身を狙って
 単振動する黒猫

 金網は藤棚から
 ぶら下げられ
 黒猫の跳躍を誘った

 爪一本でぶらさがり
 単振動する黒猫
 北西の風に吹かれて
  単振動する黒猫
 僅かな脂身のために
 単振動する黒猫

 それは
 黒猫の揶揄だったのかも知れない
 プレカリアートを
 演じてみせた黒猫は

  脂身をせしめて
 黙って立ち去ったけれども

2009年1月2日金曜日

続編「知床横断鉄道」

   知床空想列車…ある夏の夕景
 知床斜里発カムイワッカ行き、三両編成の637列車は定時に0番線を滑り出した。一旦廃止され、復活した根北線のレールを辿って以久科駅を過ぎる。やがて越川駅に着く。以久科でも越川でも部活帰りの高校生が賑やかに下車した。まるで小鳥の群れが飛び去った後のようだ。高校生たちの通学の手段として、知床線は重宝されている。それまで自家用車で送迎されていた高校生たちも通学列車に戻ってきたという。バスでは望めない開放感とくつろぎを列車に感じるからだろうか。
 越川を過ぎるといよいよ知床半島部に乗り入れる。午後の斜光に照らされて金粉をまき散らしたようなオホーツク海が眼前に広がる。夏のオホーツク海には、「北の果ての海」という陰鬱なイメージはない。薄い青色の海面がどこまでも広がり、穏やかで明るい。列車は、峰浜駅を出るとウトロ駅まで、オホーツク海を左手に見ながら走るのだ。この季節、北緯44度の知床半島の日没は遅い。
 17時46分、斜里から54分でウトロ駅に到着する。乗客の大部分は観光客で、ウトロで下車した。今夜の温泉と海の幸をふんだんに使った夕食への期待で、唾液腺の活動が高まっていることだろう。網走を観光してから知床に来た人が多いようだ。中には旭川市の旭山動物園を楽しんで来た人もいる。
 夏季の輸送繁忙期のため増結された二両をウトロで切り離し、一両になったキハ54は、ようやく水平線に近づいた夕陽に照らされた幌別台地に向かって長い上り坂を軽快に登っていく。この車両は、従来のキハ54に高性能蓄電池とモーターを組み込んでハイブリッド化したものである。車内には、岩尾別のユースホステルへ行く旅行者、木下小屋に泊まって明朝羅臼岳に挑む登山者、自然センターを訪ねる研究者らしい人物が2人乗っている。さらに、「横断鉄道」の最終列車に乗り継いで羅臼町を訪ねる旅行者が7~8人、意外にたくさんの人が乗っている。
 列車は、自然センター駅のホームに到着した。島ホームの反対側、2番線に知床横断鉄道の小さな赤い客車が待っている。半分ほどの乗客を降ろしたキハ54は、そそくさと岩尾別台地に向かって幌別台地を下っていった。終点カムイワッカ駅では、知床山系縦走を果たした登山者たちが待っている。この車両が折り返し上り638列車となって、斜里駅に帰り着く頃には、長かった夏の日もとっぷりと暮れていることだろう。
 637列車を追いかけるように、ひときわ高い汽笛とともに2番線の羅臼行きも出発した。出発してすぐ、レールは大きく右に曲がり、知床峠へと伸びている。客車と同じ赤く塗られた機関車は、この長い登りに挑むように進んでいく。この列車が羅臼に着くのは19時を少し過ぎているだろうか。知床横断鉄道の最終列車には、大きな三脚を持ち込んだ人々がいた。この人たちは、夜の知床峠で一晩中星を眺めて過ごそうというのだろう。
  知床横断鉄道ができて、一般の自家用車の通行が禁止された知床横断道路は、約三〇年ぶりに原始の闇と静けさを取り戻した。そのため、最近になって天体望遠鏡を持ち込み星空を楽しむ人々が多くなった。しかし、この地域はヒグマの高密度生息域であり、国立公園を管理する知床財団では、ヒグマとヒトの偶発的事故防止に神経をとがらせている。今頃は、羅臼行きの車内で、添乗している知床財団職員からヒグマへの注意を受け、クマ撃退スプレーなどの装備のチェックを受けていることだろう。
  知床峠をゆっくり登っていく登山鉄道を後押しするようにな光を投げかけ、夏の太陽が水平線に沈んでいった。
 こうして知床の夏の一日が過ぎていく。

「知床横断鉄道」への夢



 早起きしてテレビをつけたら「世界SL紀行」という番組を放送していた。スイスの山岳鉄道とルーマニアの森林鉄道が紹介されていた。経済性や採算だけでなく、文化=産業遺産として鉄道を今でも大事にしていることがよく伝わってきた。
 昨年末、「知床自然大学検討会」で斜里町の人々と語り合った時、斜里町と羅臼町を結ぶ交通機関として、知床横断鉄道の必要性をあらためて感じた。昨年の春、「レールライフ」という鉄道雑誌に書いたものだった。お正月だ。夢のある話もいい。
                     (イラストは 山富士ままこさん)


 1.なぜ、知床に鉄道を、と考えたか。
  知床半島は2005年、世界遺産条約に登録され注目を集めた。それは一時の観光客誘致の手段ではない。この地域の自然環境を未来にわたってより良い状態で継続させる必要がある、という人類共通の意志が示された、ということである。
 現在の知床では一部の観光スポットに来訪客が集中し、自家用車は飽和状態である。

2.知床鉄道の概要
 「知床鉄道」は次に二つの路線からなる。
  ①斜里・ウトロ・幌別台地・カムイワッカを結ぶ普通の鉄道(JR線)
  この路線は、ウトロを訪れる観光客、知床連山への登山者、知床半島先端部の漁業者の生活物資や水産物の輸送を主とする。

  ②幌別台地と羅臼を結ぶ知床横断鉄道(本格的な山岳鉄道)
  知床横断鉄道は、国道334号線に代わる路線とし、自動車の通行に伴う自然へのインパクトを現在、将来にわたって軽減することを目的とする。したがって、①に比べ、観光客の輸送に重点が置かれるが、羅臼町とウトロ地区や斜里町との文化的な交流を支える役割も小さくない。従って冬期間の運行可能性も視野に入れる。
 横断鉄道の輸送対象は知床峠への観光客、羅臼湖への登山者、羅臼・ウトロ間を移動する観光客、さらに知床財団や行政関係者、地元で自然環境について学習している高校生などが主になる。

3.各論
3-1.車両
  車両は、整備の利便性やコストの低さを考えて動力集中方式にする。動力は、環境への負荷を考慮すると電気が望ましい。しかし、景観への影響を抑えるためには架線を用いない方が良い。これらのバランスをとるために、ディーゼルエンジンを電気によるハイブリッド機関車を新たに開発する。ハイブリッド機関車は、まだ実用化されていないが、この点は最新の技術を集約してこの鉄道の最大の特徴として位置づけたい。

3-2.登坂方式
 幌別台地・羅臼間は、距離が短い。また、知床峠の景観を楽しむ目的の乗客も多いと思われるのでそれほどの高速は必要ないと考えられる。
 したがって、急勾配への対策としては技術が確立されているアプト式がふさわしい、と思われる。また、羅臼側の急峻な地形への対策としてはループ式も併用せざるを得ないだろう。鉄橋を多用することで冬期間の運行も可能になると考えられる。

3-3.運行期間
 観光を目的に考えると冬期間の運休もやむを得ないようにも思われるが、冬期間の魅力を積極的に売り込むためには通年運行が望ましい。生活路線として定着させるためにもこのことは重要である。
 国道を廃止し、その跡を利用して敷設する路線であるから、自動車との差を明らかにするためにも冬期間の運行確保は不可欠である。

4.まとめ
 ローカル線が「赤字」を理由に次々に廃止されていった中で、新しい路線の建設など絶対にあり得ないことだろう。「現実」にはほぼ実現不可能なことがらに違いない。実現できないからこそそれは夢であり、人は夢によって生きるエネルギーを得てきた。
 しかし、「知床鉄道」は、突拍子もない夢ではなく、実現可能性のある夢なのである。
 社会的な価値観がほんのちょっと変化するだけで、このプロジェクトは現実に走り出す。外国には同じような鉄道路線が存在しているし、知床に鉄道を敷きたい、と願い続けてきた人々は少なくない。「瓢箪から駒」という言葉もある。
 ここで論じたプロジェクトは、個人のささやかな思いつきであって、もっと具体的に「知床鉄道」の計画を描いている人もいるはずだ。そのような人たちが、いろいろな機会に夢を述べ合うことで、「知床鉄道建設計画」は埋み火のようにこの土地でいつまでも息づいていくだろう。
 知床半島は海底火山が造った半島である。知床の山々の地下には、今も火山のエネルギーが眠り続けている。そんな密かに息づく地球の熱い息吹とともに、「知床鉄道」の夢も、永く語り継がれていってほしい。

2009年1月1日木曜日

新しい年、映画との出会い

 昨年暮れ、一つの映画に出会った。正確には二本の映画。
 「チェ・28歳の革命」と「チェ・39歳 別れの手紙」
 南米の革命家エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナを描いた映画である。

  今更説明の必要もないと思う…
 1928年アルゼンチン生まれ、カストロと共にキューバ革命を成功させ、
 1967年10月、ボリビアで殺害された。
 「チェ」とは、アルゼンチンのスペイン語で「ねぇ君」などと相手に呼びかけるときに使う言葉に由来するあだ名である。彼が「Che」とサインに使っていたのだそうだ。


 今この時代に、ゲバラや彼の著作や行動が注目されている、というこに僕は、大きな意味を感じる。時代がゲバラを求めているのではないだろうか。
  ニンゲンをコストとしかみなさいような世の中、「儲かる」ことが善で、そのためなら何をやって許されるような世の中、フリーターや派遣労働者になるのは本人の責任だ、という「強者の論理」が堂々とまかり通る世の中への不信感、閉塞感を打ち破る、ひとつの明確な方向をゲバラの生き方に見いだす人は多いのではないだろうか。

 予告編のコピーが泣かせてくれる。
「かつて世界を本気で変えようとした男がいた
アメリカがもっとも恐れた男、世界がもっとも愛した男」
 「愛と情熱、正義と信念」
「20世紀最大のカリスマはなぜ39歳で死に至ったのか」
「すべてが真実、すべてが劇的」

http://che.gyao.jp/

http://www.youtube.com/watch?v=1yNnUre8J_w