2009年1月15日木曜日

強者の論理

 岡山に住む義母が夏だけ我が家に滞在するようになって、もう何年にもなる。渡り鳥のようだ、と自ら笑いながら避暑地と温暖な越冬地との間を往来している。「二地域居住」などという大きなお世話的な造語が生み出されるずっと以前からのことである。その義母もだんだんと年をとってきた。昨年、こんなことがあった。
 僕の家では食事の時、たくさんの食器を使うことを避けている。洗うのが面倒だから。仕切りの付いた大きめの皿がよく使われる。薄手の皿もあるが最も愛用しているのは、25センチ×20センチくらいの厚い皿である。重い皿は安定感があり、使い心地が良い。スクランブルエッグやサラダなど洋食風のメニューの時は当然だが、米のご飯を食べる時もこの皿を使っている。
 ところがある時、義母から、この皿は重くて持つのが辛い、と言われた。なるほどこの皿の一端を片手で持つのには、かなり力が要る。しかも食器棚に収納する時、スペースを節約するために当然のように長辺を奥に向けて入れるから、確かに重い。全盛期に比べ、明らかに筋力の衰えている彼女にとって、重い皿を日に何度も出し入れすることは耐えられない苦行だったことだろう。
 僕は、そんなことに思い至らなかった自分を恥じた。恥じたけれど、このような事柄は身のまわりにたくさんあることにも気づいた。僕らは、どんなに善意であっても、自分の物差しで自分の環境を整えてしまう。そうすることが自分に一番都合が良いのだから当然なのだが、その「環境」を他者と共有する場合様々な配慮が必要になってくる。たとえ夫婦間でもそのような「軋轢」が生じることはあるだろう。もちろん、家の中の問題であれば工夫のしようもあるし、解決の方法はいくらでもある。そう大きな問題ではない。
 しかし、これが社会的な問題だとしたらどうだろう。僻地の郵便局がどんどん無くなっていく。学校も消えていく。少し前まで、日本中に張り巡らされていた鉄道網は、大半が姿を消した。病院も無くなる。
 労働者の派遣を合法化する派遣労働者法を成立させた時、何万人もの弱い立場の者が、山の中に隔離され、奴隷のような労働を強制される事態が生じることを何人が予測したろう?そして、そのような問題が顕在化した時、その人たちは、どんな責任を感じただろう。
 このような政策を推し進めているのは「強者の論理」ではないだろうか。全てを「採算性」という唯一のパラメータで評価しようとする姿勢を持つ時、その人はすでに強者の論理に陥っている。そして、それを指摘されて恥じ入ることをしないで、開き直った瞬間、その人の感性は鈍り始める。それは、ヒトとしての堕落の始まりかもしれない。今や金儲け最優先の姿勢は、恥ずべきもの、という価値観が成立しても良い頃合いだと思う。
 「先進国」の大部分は、かつて軍事力という物理的な力によって他国に押し入り、その資源を奪って「繁栄」した歴史を持っている。それも「強者の論理」であったし、その反省の上に今日の社会が気づかれたはずではなかったか?軍事力に頼る傾向は、僅かに減少している(ように見える)が、それに代わって「資本」という力によって、依然として富を独占しようとしているのではないだろうか。個人の単位でも、国や地域の単位でも、弱い立場の者が収奪され不当な苦しみを背負わされている現実は、昔も今も変わりはないのではないか。いや、はっきりと目に見えて理解しやすい軍事力による侵略よりも、より姑息に隠蔽された悪意による侵略が、現代の世界で横行している。
 そしてその「強者の論理」は、知らず知らずのうちに僕らの内面に入り込んできているのではないだろうか。

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