2009年3月31日火曜日

わたりの季節

 午後、少し時間が空いたので海のそばまで来た。このところ低気圧がいくつか通ったためだろうか。根室海峡には、うねりが入って来ていた.朝からハクチョウたちが渡っている。大きな群れは少なく、家族単位での渡りが目立つ。日本を発って一気に大陸を目指す渡りではなく、濤沸湖や風蓮湖などを目指す移動のように思われる。彼らは一度オホーツク海岸沿いの湖に集まって、より大きな群れを編成して海を渡るようだ。その群れは、家族がいくつか集まった「親族」、いくつかの「親族」が集まった「町内会」のようなものだ、と僕にハクチョウのことを教えてくださった故玉田誠先生がおっしゃっていた。まさにその通りだろう。

 今日は、人事異動に伴う引っ越しの日でもある。こちらの方は家族単位だろうか。

 かく言う僕自身も明日から新しい職場に行くことになる。 

2009年3月30日月曜日

学校の大晦日に

 学校というところは3月31日が大晦日のようなものである。一年間の教育活動が締めくくりを迎え、4月1日から新しい年度がはじまるのだから。
 今年こそ心機一転して頑張ろう、と決意するのは生徒ばかりではない。教師たちも同じなのである。

 朝から職員室にいて、机周りの荷物の整理をしていた。そんな教師たちの決意も伝わってくる。新年度の来ない僕には、そのような空気がより鋭敏に感じ取れるのかも知れない。同時に、そのようなリズムの繰り返しから逃れ得たことにホッと安心している自分がいる、ということも確かなことである。

 もっとも、「環境教育専門員」という今までにない職務に就く緊張感をもっているのも事実である。肩に力をいれず、さりとて着実に仕事をこなしていこう、と決意している。

2009年3月29日日曜日

雪の日


 朝、目覚めると雪。
 「女の腕まくり」と言うのだろうか。現代なら性的偏見に満ちている、と糾弾されるだろうが昔の人の表現だ。つまり、春先のこの時期の雪は、それほど怖れることはない、すぐに解けてしまうという意味だ。
 ほとんど一日中、外で作業をしていたが、身体の芯まで冷えてしまった。現代の「女の腕まくり」はなかなか侮れない怖さである。
 朝8時半。まだ、雪は降り続いている。昨夜から今日にかけてが寒気の底だという。 

2009年3月28日土曜日

年度末の休日


 寒の戻り。寒い一日だった。
 昨日の夜の道は、山岳地帯だけが凍結していて、路外に落ちている車も何台かあった。
 今日は、吹雪のような降り方をした時間もあった。そのような中、АРКТИКАのオイル交換を行った。ずっと懸案だったので一安心した。

 「もう一度」も含め、遠近、高低、難易に関係なく行きたい場所をリストアップしてみた。
  国だけでもピックアップしてみよう。一部、都市も入っている。
 ノルウェー
 スペイン
 オーストリア
 ルーマニア
 イタリア
 パタゴニア
 モンゴル
 コスタリカ
 ニュージーランド
 ガラパゴス
 ウルムチ(トルファン)
  バンクーバー
 バイカル湖
 カムチャツカ半島
 ハバロフスク
 ヴェトナム

 あまりの多さに自分でも驚いた。これらの一部でもいいからゆっくりと旅して回りたい。
 写真は夕陽に照らされたコップ。屈折した光が美しかった。

最近の鳥便り

 昨日3月27日の分  26日、羅臼でハクセキレイ初認。  3月17日、釧路湿原でアオサギ初認。本日も釧路川でアオサギを観察。根釧原野にヒシクイが帰ってきている。ワタリガラスはいつの間にか姿を消した。

2009年3月26日木曜日

落語とジャズ




 明日、早朝から精密検査があるので釧路泊。
 夜は、一切の飲食禁止ということで、ジャズ喫茶「ジスイズ」で少し過ごした。カウンターにあったネコたちのバンドが魅力的だった。マスターが落語好き、ということもわかった。同じ題の噺でもその場に合わせて即興的に語るところがジャズと似ているのだ、とおっしゃっていた。深く感心した。たしかにその通りだ。授業もまた同じだ。
 人生、いつ勉強ができるか油断がならないものだ。
 そう言えば、先日、浅草演芸ホールで聴いた桂米丸さんの噺も落語というより、一人の芸人の半生記と芸についての考え方「落語観」のようなものが含まれていて、講演のようだった。単なる落とし噺ではなく、深い思想が基底に観じれて、聴いて良かった、と思った。

今夜も

 今日も送別会。
 今日は、教務部の。
 連日の送別会。
 
 もう、いい。

2009年3月25日水曜日

離任式とモバイルと

離任式であった。
 三十数年働いた。しかし、「やり終えた」という満足感より、解放感の方が大きい。学校をめぐる状況が息苦しく先行きが暗く感じるからだろう。沈みゆく船から自分だけ先に脱出できたような感じだ。

 札幌でモバイル端末なるものを買った。職場にもインターネット環境はあるのだが、道立高校は「スクールネット」という一括管理されたネットワークに入っている。しかし、スクールネットはやたらに規制が厳しく、一般の掲示板やブログにも繋がらない。そのために、教材研究などで興味深い情報を見つけても「規制」という画面が立ちはだかって、悔しい思いをしたことが何度も何度もあった。

 未成年者の生徒もわれわれ教師も十把一からげにして管理しようという怠慢な管理主義者のために、現場の我々が苦労させられているのである。
 だからモバイル端末が必要だ、とずっと思っていた。

 これで、どこにいても(携帯電話の圏内であれば)インターネットが使えるようになった。めでたしめでたし。

2009年3月23日月曜日

HR通信への寄稿

「お別れに何か書いて下さい」副担任をしているクラスの担任からそう言われた。案外いざとなると何をどう書いたらいいのかわからなくなるものだ。 だから、あまり、あらたまったことはしたくなかった。 だが、やはりあの生徒たちに何か書き残してやりたい、というスケベ心が出て次のように書いた。   365日の2年B組  風が吹いている。山全体を揺さぶるような風。  「風の又三郎」が山の小さな小学校に転校してきた日も、転校して去った日も台風のような強い風が吹いていた。風は旅する人を招き寄せ、また旅立たせる力を持っているのだろうか。風は、出会いと別れを作り出すのかも知れない。    今年、2年B組の副担任にさせていただいて、実に気持ちの良い一年間を送らせてもらった、と思っている。もう、ヨレヨレでロクにクラスに関する仕事もしていない僕をみなは「副担任」として行事の時などに仲間に入れてくれた。学校祭のクラス旗やクラス写真に担任のY先生と並んで登場させてくれたりしてもらったことは、とても嬉しく、心浮きたつことだった。これが、僕を勇気づけ、環境について学びたいという高校生が全国から羅臼高校に集まって来るような学校にしたい、という夢に力を与えてくれた。このことは、この先もずっと僕の記憶に深く刻まれて残ることだと思う。  そのため、来年も引き続いてみなと同じクラスに残り、卒業を見守りたい、という気持ちがふとした時に心に浮かんでくる。心が揺れるのである。知床の風は、そんな僕の迷いを吹き消すかのように、激しく激しく吹いてくる。時は、すでに満ちているのだ。  いつまでも元気で。健康で。  いつかまた、他日。           (3月23日夕方 風の音を聞きながら)

2009年3月22日日曜日

札幌で

 午後から天候悪化とのことで、早々に帰路に就きたいが、少々の買い物もあり出発は昼前後になるだろう。やむを得ない。
 あさ、魂込め(まぶいごめ)…目取真俊(めとりましゅん)を読む。

 公立高校の合格者発表も終わり、街には「○○高校全員合格」などと誇らしげ書かれた塾の看板をよく見る。こうやって新年度の生徒を募集しているのだろう。
 塾の講師陣を派手に宣伝している所も少なくない。「××大学卒業」と名の通った国立大学、いわゆる偏差値の高い大学の卒業者が講師として誇らしげに紹介されている。だが、どうしてもこの手のコマーシャルに違和感を感じる。

 大学に入るのは何のためだろう。それは、学問に打ち込み真理を探究するためではないのだろうか。高い収入をえるとか立身出世が目的なのだろうか。確かに結果としてこのような現実があることは理解できるし、妥当な面もあると思う。
 だが、断じて学問は自己実現への手段であって目的ではない。どのような自己実現を求めるかは、一人一人のモラリティや品性、品格に属する問題だとしても、高校や大学に入ることを自己目的化してしまうこと、公然とそれをうたいあげ、全く恥じない態度に違和感を感じるのだ。
 一流の大学に合格し、一流の学者から学問を学んだ人たちがこうした塾の講師として堂々と紹介されている現実は、どこかおかしいと思うのだが。

2009年3月21日土曜日

父の入院

 秋葉原で買ったカバー付きスイッチは快調だ。これでАРКТИКАの電気系統は一応の安定をみることができた。

 父の見舞いに病院へ行った。先週始め、自宅で倒れたという。言語が不明瞭になり右半身が麻痺していたらしい。検査の結果、左側頭部の硬膜下血腫ということだった。頭骨に穴を開け、血腫を取り除くことで普段の父に戻った。一昔前なら「脳梗塞」などと診断され、そのまま寝たきりの生活をさせられていたかもしれない。
 高齢となり、運動能力が低下したり言語が不自由になっても、その原因は様々であることをあらためて知らされた。そして、現代の医学の力にも驚嘆させられたできごとだった。

2009年3月20日金曜日

都会のナゾ


 東京に着いて、まず、モノレールに乗った。窓際で若い男性がハンカチを握りしめ、涙を流していた。辛い別れの直後で、人目もはばからず泣いているだろう。気の毒に、と思った。できるだけ見ないように心がけたが、気になって時々見てしまう。するとどうも様子がおかしい。哀しみにくれている割にはイヤフォーンをかけて音楽を聴いているし、よく見ると表情もそれほど悲しそうでもない。
 ン、なーんだ。花粉症か!
 
 気が付いてみると車内にはカラス天狗のようなマスクを着けたひとが大勢いる。その後、窓際で涙を流している若い男女も何人か目撃した。くしゃみ二十連発の人にも会った。
 今や、これが日本の首都における春の風物詩なのだなあ。なんか違和感がある。何かがおかしい。罹患している人々には、心から同情を感じるのだけれど、どうしてこんなことになってしまったんだろう、と考え込んでしまう。
 スギの花粉が増えた、という事実もあるかもしれないが、原因は単純ではないのだろうなあ、という気がする。

オーガニックな日




 渋谷表参道にある「クレヨンハウス」という所に行った。
 1Fが世界の絵本と子どもの本50000冊という本売り場
 2Fはクーヨンマーケットという木のおもちゃ中心の売り場
 3Fは女性の本やオーガニック化粧品などが売られている。
 そして、地下は自然食レストランと自然食の八百屋「野菜市場」になっている。

 自然食レストランでは、ランチタイムで一人1260円で野菜中心のおかずや玄米、胚芽米のご飯が食べ放題。味噌汁飲み放題。有機栽培製品=風の谷のビール ピルスナーは別料金。
 お昼に食生活安全的ランチプラス飲酒安全的ビールを飲めるシアワセというものを玄米ご飯とともに噛みしめた。食事に来ている人たちは子ども連れのお母さんたちが多く、ほのぼのとした空気が漂う空間だった。
 ふと、この人々のお父さんたちは、今頃吉野屋の牛丼380円なんかをかき込んで、一生懸命働いているのだろうなあ、などと想像しつつお昼のひとときを楽しむ。

 その後、明治神宮まで歩いて境内を(「境内」と呼ぶにはあまりにひろいけれども)ちょっと散策した。クスノキの緑と梢を渡る風が美しい。まるで五月の東京のようである。
上着もも脱いで歩いた。

 羽田は連休前ということもあるのか、やや混雑していた。

 慌ただしい中での旅であったけれど、十分に楽しむことができた。
 ああ、よかった。

2009年3月18日水曜日

走馬燈

 「走馬燈」とは、よく言ったものだ、と思う。
 今日は、人生についてしみじみと考えさせられた一日だった。

 月並みだが生・老・病・死と喜・歓・慶・悦が渾然となって流れていくのだなあ。
 都会の人の波を、たくさんの人生を乗せた電車の疾走をみていると、しみじみと考えてしまう。

2009年3月17日火曜日

旅について

 慌ただしく東京へ。
 残り少ない教員生活を敢えてさらに少なくすることもない、と思うのだが。
 だが、旅はいつも心を浮き立たせてくれる。
 昔の旅はもっと苦しく、危険も多かったのだろう。
 今では、安全で快適な「旅行」になった。けれども、そのために失われたものがあるのではないか。長距離を何日もかけて移動していた時代には、出発直前までせかせかと仕事をしている、などということはなかったのだろう。カッチリとしたスケジュールを立て、予定が一日狂っただけで大騒ぎするようなこともなかったのだろう。
 「旅だからしかたがない」という一言で片付けられていたのではあるまいか。

 昔と現代、はたしてどちらがいいのか。

2009年3月16日月曜日

最後の授業



  物事には必ず「始まり」と「終わり」はあるのだから、とりたてて特別である必要はない、と思いつつ最後の授業に臨んだ。
 もっともらしい説教をするのは僕には似合わない。実物で教える、という希望を貫いてエゾシカの生の腎臓を持ち込んで観察させた。すると、思っていたよりもずっと生徒たちは感激し喜んでくれた。
 良い生徒たちに恵まれた、とつくづく感じた。ありがたいことである。
 かくして僕の教員生活は幕を閉じるのだ。幸せである。

2009年3月15日日曜日

僕とラ・マンチャの男

 「ラ・マンチャの男」と初めて出会ったのは高校3年の今頃、道南の大沼に家の自室でのことだった。受検した大学がすべて不合格となり、鬱々としていたある日曜日のことだったと思う。FM放送の番組で、ブロードウェイのミュージカルを紹介していた。社会経験の乏しい未熟な僕にとって、その意味の深さを完全に理解することはできなかった。だが、直感的に強く惹かれるものがどこかにあった。
 それ以来、ドン・キホーテあるいはセルバンテスは、常に気にかかる存在として僕の心に住みついた、と言うことができる。

 劇中のシーンの一つ。
 それまで地下牢でドン・キホーテを演じていたセルバンテスが、幕間に本人に戻った時のやりとり。セルバンテスに反感を抱く「公爵」と呼ばれる囚人との間で交わされる会話だ。

公爵    「詩人は無意味な言葉で現実を曇らせる。」
セルバンテス「その通り!現実とは人の心を押し込める石牢だ。
       詩人は想像力で夢を見つけ出すのだ。」
公爵    「キミの罪状は理想家でつまらぬ詩人で正直であること。」
セルバンテス「確かに罪状の通り。理想家だ。だが夢想家ではない。つまらぬ詩人。返す       言葉もない。」
公爵    「現実と夢とは違う ここの囚人と君の妄想の騎士とはな。」
セルバンテス「彼らの夢こそ現実的だ。」
公爵    「夢は夢だ。なぜ、詩人は異常者が好きだ?」
セルバンテス「似てるのだ。」
公爵    「人生に背を向けてる。」
セルバンテス「人生を選ぶのだ。」
公爵    「ありのままを受け入れろ。」
セルバンテス「人生をか。
       40年以上人生を見てきた。
       苦悩、悲惨、残酷さ、神の作った子たちの声は道ばたにあふれるうめき声       だ。
       兵士も奴隷も経験した。ある者は闘いで、ある者はムチ打たれて死んだ。
       彼らは人生をただ受け入れてきた。そして死んだ。栄誉も立派な遺言もな       く。ただ当惑して『なぜ』と問いながら死んだ。
       『なぜ死ぬのか』ではなく『なぜこんな人生を』と問いながら。
       人生の中で異常とはなんだ。
       現実的すぎること、夢を持たぬこと。ゴミの中の宝探し、正気を通すこと
       一番の異常は人生をそのまま受け入れることだ。」

2009年3月14日土曜日

雨の土曜日に

 日本海に強い低気圧。黒鶏舎が水浸しで応急修理をする。
 低気圧は強まりながらオホーツク海へと向かっている。午後3時。気圧は980hPに近づいている。風は弱くなってきたが雨が強まっている。前線が近づいているのだろう。

 否応なく「最後の授業」が近づいて来る。生物教師として迎える最後の授業は、何かもっともらしいことをしゃべるのではなく、実験を行って終わりたい、と考えている。そこでハンターさんたちにエゾシカの腎臓を少し分けてもらえるように頼もうと思っている。腎臓に墨汁を流し込んで血液や尿の流れを実際に観察するのだ。
 ところがこの天候で、明日のエゾシカ密度調整が実施できるかどうかわからない。そのような場合に備えて講義の準備もしておかなければならない。

 講義は、シェーンハイマーのことを話そうかと考えている。
 1938年、ルドルフ・シェーンハイマーは、「生命活動は原子の緩やかな流れと淀みである」ということを安定同位体を使って証明してみせた。つまり、生物体を構成している物質は、休むことなく体外から取り入れられる新たな原子と入れ替わっていて、例えば僕の鼻の頭の皮を作っている原子は、昨日と今日では異なっている、ということだ。同じタンパク質の同じ「炭素」という原子だから、普通は区別できないが、シェーンハイマーは区別できる原子を使うことでこれを証明してみせたのだ。
 このことは、普通の新陳代謝とは別のことで、先祖伝来で身体の奥深くに厳重に保管されている遺伝子(DNA)でさえ、この「原子の入れ替わり」が起きているというのだ。  これで、「食」にこだわり、「食」を考えている人々たちの主張は正しいとわかった。なにしろ体外から取り入れられる原子はほとんどが食物に由来しているのだから。シェーンハイマーは、今まで何となく食べること、食べる物と生命現象との関係の大切さを感じてきた人々に、力強い科学的根拠を提供したのである。70年も前の研究に現代の科学がひれ伏している、と言ったら言い過ぎだろうか。
  「生命現象は物質(原子)の緩やかな流れと淀みである」という考え方は、いろいろなことを連想させる。「生きている」ということをわれわれは、普通、直感的に意識する。どんなに精巧に作られたロボットでも、一見して生物ではない、と判断できるだろう。まあ、中には曖昧なものもあるかも知れないが。

確かに、生物を個体→細胞→分子→原子とどんどん小さな単位に細分化していくと「現象」としての生命が見えなくなってしまうような気がしていた。もちろん、生命を「神秘的」という古い容器に戻して閉じこめようとは思わない。けれども、一つの機械のようにみなし、部品交換や燃料補給だけで生き続けさせることのできるものでもない、ということもわかってきたのではないだろうか。
 言い古されているけれど、やっぱり生命は機械ではないのだ。

2009年3月13日金曜日

あまりにも嘆かわしい

 職員室での会話。
 「インドの人って何語を話してるの?」
 「ううん。何語かなあ?
  英語じゃないの」
  「そうだね。コンピュータの技術者なんか英語使ってるからね」

 残念なことだがこれは生徒同士の会話ではない。難関と言われる教員採用試験を突破してきた教師たちの会話だ。嘆かわしい。

 確かに観光旅行の範囲で接すると実際には英語で用が足りることだろう。だから、そう考えるのも無理はない、と言えなくもない。

 インドがアジアの一部で、英語圏に属していないことを知らないこともまあ、やむを得ないだろうか。

 僕が衝撃を受けたのは、インドがイギリスの植民地だった、ということを全く知らないまま社会人になり、教壇に立っている、という事実に対してである。英語が広く通じるのは、それなりの歴史的な背景があると推測できないのだろうか、と思ったのだ。断っておくが、この教師たちに責任はないと思う。

 このような、常識的と思われる歴史的事実をキチンと学ばせないまま、教員として現場に立たせて、何の問題も感じていない(と思われる)日本の教育行政の貧困さに驚きと憤りを覚える。

 ああ、ますます現場は…。

2009年3月12日木曜日

”うねり”に寄せて

 昨夜、中標津から羅臼にかけては吹雪模様だった。3月になって、まだ!と考えてしまうが、四年前の日記には、前夜から吹雪きが続き、我が家の除雪車「ポチョムキン」が故障した、と書かれている。
 道東では普通のことだ。春の兆しは、もう少し先にならなければ顕れないのであろう。

 一昨日あたりから夜だけ吹雪いて日中は晴れる、という天候が続いている。今日は日中も少しだけ吹雪気味だった。根室沖に強い低気圧が停滞しているからだろうが、大人の背丈以上もある大きなうねりが押し寄せてくる。校舎の窓から、眼下に見える海岸に押し寄せるうねりを見ているのが好きだ。
 それは海の威嚇だ。うねりを見ていると、人間が無力であることをひしひしと実感する。本当は、そのような実感を多くの人々に持ってほしいのだ。環境教育は、「地球に優しい」などとうれしそうに叫んでいないで、このような力を直に感じ取ることのできる人間を育てたい。理屈も大切には違いないが、感性を育てることも必要なのだろう。

2009年3月11日水曜日

時ならぬ低気圧

 沿海地方から日本海を渡ってやって来た低気圧が、意外に発達し、羅臼の町は吹雪になった。昨夜、遅く帰宅したが、国道は激しいホワイトアウトで視程はしばしばゼロになった。
 「この分では明朝は臨休かな」と期待させるのに十分だった。

  夜の間も家が揺れるほどの風が吹いていた。ところが、明るい朝を迎え、あれほど降っていた雪が夜半過ぎには止んでいたらいいことが判明した。したがって、激しいのは風のみ。臨休は期待させてくれただけで終わった。
 めでたしめでたし、と言った方が良いのでしょうねえ。

2009年3月10日火曜日

山への感謝

 エルゴメータという装置で心臓負荷心電図をとって検査することになった。自転車のようなものを漕いでいる時の心電図をとるらしい。
 今日、その検査のために釧路に来た。約10分間、自転車を漕ぐ。ペダルの重さは3段階あり、3分ごとに重さが増していく。目の前にモニターがあり、その時の負荷、回転数、心拍数などが表示されるようになっている。
 あらかじめ、50rpm(毎分50回転)でこぎ続けるように指示されていたので、これを見ながら漕いでいく。最初、ごく軽い負荷で、通常と全く変わりないと感じたのたが、心拍数はほんの少し上昇している。やはり身体の反応は正直なものだな、と感心した。
 やがてペダルがやや重くなった。それでもあまり負担は感じない。
 6分後、もっとも重いステージになる。どれほどのものか、と覚悟していたが、まだまだ余裕を感じた。ほんの少し汗ばんできたような感じがする程度だ。
 夏、羅臼湖入り口と知床峠頂上の駐車場を自転車で往き来する。羅臼湖入り口に自動車を駐めることができないからだ。知床峠の頂上付近には急坂は無く、ゆるやかな上り下りが連続するだけだ。それでも、あのアップダウンを走るより桁違いに楽な負荷だった。
 検査を指示した医師は、心拍数130くらいになった時の心電図を見たいらしかった。けれども心拍数はなかなか100を超えない。負荷が最大になったところで回転数を10%くらい高めて、自主的に「協力」することにした。しかし、心拍数は100を挟んで+-3くらいの値にしかならなかった。これでいいのかなあ?と思っているうちに検査は終わった。何気なく通っている羅臼湖だが、自分の身体を鍛えてくれていて、こんな場面でその恩恵がよくわかるのだなあ、と思った。

  全てを終えて病院を出た時、いろいろな山々が僕の身体を鍛えてくれたことが、しみじみとありがたく感じた。
 感謝感謝である。

2009年3月9日月曜日

自動車ドロボーとシマフクロウ

  キーを差し込んで回すとアクセサリーのスイッチが入り、メインの回路がONになり、さらに回すとスタータモーターが回る。これが普通のクルマのエンジン始動法だ。
 わが、アルクティカ、最初にメイン回路の電源が入らなくなった。スイッチ内部のポイントの摩滅による接触不良が原因だった。そこでメイン回路のスイッチを別に取り付けた。しばらくは快調だったが、つぎにアクセサリーの接触が不良になった。そこで、数日前、アクセサリー回路のスイッチを別に付けた。この時点でスタータのスイッチだけは健全だった。

 ところが、今朝、エンジンが始動しない。ついにスタータのポイントもダメになったらしい。予想はしていたが、思っていたよりはるかに早かった。今朝はスタータに来ているコードを直結させて始動した。ほとんど自動車ドロボーの気分だ。

 昼休みを利用してこの部分に押しボタンスイッチを取り付けたので今、僕のクルマは、キーを回してもエンジンはかからず、ボタンを押してかけるようになっている。なんとなく嬉しくなってくる。

 ちょっとだけ肩の関節が痛んでいたので夜、温泉に行った。露天風呂に入っているとシマフクロウのつがいが鳴き交わす声が聞こえた。羅臼では、それほど珍しいことではないが、湯に浸かりながら聞く、シマフクロウも悪くない。幸せだなあ。

2009年3月8日日曜日

ハクチョウの訓練飛行

 ハクチョウが飛び始めた。
 風蓮湖に近い僕の家は、オオハクチョウの飛行コースの下にある。彼らは、飛行中、独特の声で鳴き交わしている。朝、外に出るとまずその声が聞こえてくる。それから空を仰いで待っていると数十羽の群れが、V字形にきれいに並んで飛んでくる。
 時には、十メートルあるかないかの低空を通過していく。そんな時は、ギシギシギシギシと風切り羽がこすれ合う音も聞こえる。今日の午前中は、そんな群れが5~6グループ飛び去っていった。
  本格的な渡りは、もう少し先のことだろう。今は、訓練飛行、慣熟飛行の段階だと思う。しかし、今年の渡りは早いと言われている。ハクチョウたちの訓練もいつも以上に気合いが入っているように感じる。

2009年3月7日土曜日

非正規労働者

  きょうは、長野県で「非正規労働者」として工場で働いている教え子の誕生日だ。たくさんの卒業生を送り出してきた。みなそれぞれに印象に残っている。ただ、その中の何人かは「運命」と呼ぶほかない、不条理な巡り合わせに翻弄され苦しい人生を歩んでいる。 彼女もその一人だった。三年半ほど前、生活の再建を期して派遣労働者として長野県へ行くことを決断した。それ以来、懸命に働いて、生活もどうやら安定して少し余裕も出てきた様子だった。そこに、この不況である。
 僕が見る限り、彼女は、とことん真面目に生きてきている。同世代の娘たちの中には、なんとか楽をして大金を手に入れることを考える者もある。現代はそういう世相だ。そのような中で彼女は、愚直なくらい真面目に働いてきた。ひたすら真面目に働いてきた者が、なぜ報われないのか。
 このような現実を見ていると、この国の歪みが、もう限界を超えているではないか、と思わずにはいられない。

アルクティカ小修理


 АРКТИКА(ランドローバー ディフェンダー110)の電気系統が依然として不調だ。実は、前回の修理の時にある程度予感していた。だから、慌ててないけれど。
 今度はアクセサリー系の接点が完全に逝ってしまったようで、バイパススイッチを取り付けることにした。配線を新しく作ることは問題なくできるのだが狭い場所に取り付け、全体をデザインするのは面倒な作業となる。

 二時間と少しの作業で修理完了。
どっちがアルクティカ?

2009年3月6日金曜日

メンデレーエフの日 に

 朝、何気なく見たカレンダーに
「メンデレフ、元素の周期表を発表」とあった。1869年のことだったらしい。
彼はお酒も好きで、生理学的にも優れていてもっとも美味しいウォトカの度数は40度、と突き止めたのだそうだ。そして、アルコールの重量の正確な測定法を、40度にするために必要な水との混合比を示したという。この方法はロシア政府から特許を与えられ、正当なロシア・ウォトカのは正確に40度であることが特徴となった。

  こんなエピソードもある。ちょっと引用する。

 1869年2月17日の朝、メンデレーエフが起き抜けのコーヒーを楽しんでいると、一枚のハガキが配達されてきた。差出人は古くからの研究上の友人メンシュトキンだった。「三つ組元素をどう思う?」ハガキにはこう書かれていた。
「三つ組元素」とは、ドイツのデーべライナーが1800年代前半に見つけた、互いに化学的性質の似た三つの元素のグループのこと。この問いにかけに彼はひらめきを感じ、書斎へ直行。この時、彼はハガキの上にコーヒーカップを置いたらしく、丸いシミのついたハガキが博物館に残っている。
 彼は熱中して仕事をし、昼食までに最初の周期表の下書きを完成させた。「世紀の天才のひらめき」の数時間だったわけです。
            「心にしみる天才の逸話20」 山田大隆著 講談社より引用

 僕は、この話が好きで、化学の授業でよく使った。今では、物質が分子からできており、分子は原子からできている、ということは小学生でも知っている事柄だ。このことが、
百年少々前に発見され、あっという間に人類の共通の認識になったことに、あらためて驚く。
 天才とは、そういう発見をした人のことなのだろう。

2009年3月5日木曜日

ニンゲンについて、ちょっとだけ考えた

啓蟄に寄せる一首
  輻射熱、強きがゆえか周りより深くえぐられし樺の根の雪

  最近、柄にもなく「ニンゲン」について考えることが多くなった。
 人間とは、どこか愚かな生き物だ。

 ここに一つの組織があるとしよう。(例えば、学校であっても良い)
 ある組織があり、一定の業務を行っている。
 そのうちに、その業務遂行上の問題が出てくる。その問題解決のために、新たな業務を作り出す。当然、それによって業務の全体量が増える。増えた業務量を変わらない人数で処理していくことになるから、一人当たりの仕事量は増加する。ただし、一回ごとの仕事量の増加は、ごくわずかなものにすぎないだろうから、誰もそれを気にかけないだろう。 時が経つ。やがて、また、新たな業務が追加される。一回の仕事量の増加は、わずかずつであろう。しかし、これを何度も繰り返していくうちに仕事量の増加は無視できないくらいの量になる。なぜなら現在ある業務を減らすということは、現実にほとんど無いから。 こうして、気がつくと皆が口々に「忙しい、忙しい」と叫びながら走り回る状況が生まれている。

 こんなことに気づかないで、毎日黙々と仕事をしている人々をどこか愚かしい、と感じてしまうことは、いけないことだろうか。そんなニンゲンがちょっといとおしい。

2009年3月4日水曜日

ワタリガラスに出遭った朝

 朝、ワタリガラスが5~6羽、鳴き交わしながら飛んで行った。
 今年の春は、渡り鳥の動き始めが例年より早いとか。あの群れも渡りだったのだろうか。それとも渡りに備えての訓練飛行か。

 ハクチョウなどガンカモ科の渡り鳥と違って、ワタリガラスは、「渡っています」という態度を示さずにさりげなく渡っているように思う。
 ガンカモ科の鳥たちは、「計画表」とか「行程表」などを何枚も作り、「打ち合わせ」を重ね、「送別会」なんかも5~6回は開いたりしてから大勢に見送られて旅立っていくように感じられる。
 それに比べるとワタリガラスは、
  「ちょっとそこまで行ってくるよ」と言って、そのまま旅に出てしまうようなカッコよさがある。

 カラスであること。知恵には富んでいること。そして、誰にも、どんな勢力にも与しないアウトローであること。これがカッコ良さだ。その上、他のカラスと違って「ワタリ」つまり流れ者なのである。
 昔の北方諸民族の人たちも、そのカッコ良さにしびれたに違いない。

2009年3月3日火曜日

流氷が来た




 よれよれになってたどり着いた、という感じだが、とにかく来た。
  根室海峡の波に揺られ、朝日に輝いていた。
 2009年冬の流氷である。

五十石温泉

釧路川の岸辺にある 「五十石温泉」に行ってきた。
 地図には「標茶温泉」と書かれている。

 小さな建物。入湯料は400円。受付のおばさんは
「400万円」と言い切った。こんなストレートなギャグが現役で使われていることにはげしく感動した。

 浴室もそれに負けず劣らずちょっぴりレトロな感じだ。しかし、お湯に入って驚いた。十分に温かく、豊富な湯量。鉄イオンがわずかに含まれているため、薄く黄色に色が付いている。pHは9.5くらい。アルカリ性だ。アルカリ性の湯は皮膚表面の古い角質が適度にとれて湯上がりがさっぱりしているのだ。

 いつも通る釧路川のそばに、こんな湯があったとは。大収穫の一日だった。

2009年3月1日日曜日

内なる海への賛歌

 海がある、と
 どうしてわかる?
 それは、
 干満を繰り返すから

 干満を繰り返すことが
 どうしてわかる?
 それは、
 ある周期をもって押し寄せるから

  押し寄せることは
 どうしてわかる?
 それは、
 波の気配によって
 そして 時には
 風の息によって

 ああ、波に抱かれ
 風の気配を
 いつまでも
 いつまでも
 感じていたい