2013年5月30日木曜日
名犬 矢間(ヤマ)の物語
来月の出張の時、一泊は雲仙温泉にしようかと考えている。いま、雲仙の宿を探しているのだが、湯元ホテルという宿のホームページを見ていた。この宿は300年以上の歴史があるとか。その長い歴史の中では当然いろいろな出来事があったろう。HPにあったそれらのエピソードの中で、非常に印象的なものが一つあった。
雲仙湯元の犬、矢間(ヤマ)は、ご主人の加藤小左衛門正時から「矢間。お使いに行ってきておくれ」と言われると、手紙を風呂敷に包んで、首に巻きつけてもらい挨拶代わりに「ワン」と一声吠えて、喜んで三里(およそ十二キロ)の山道を越えて矢櫃にある八木家まで元気に走っていきます
八木家について「ワン」と吠えると「おー、よしよし。矢間、ご苦労だったな」と当主が手紙を受け取ります。
矢間は好きなご馳走を貰い、しばらく八木家の気持ちのよい屋敷の中でゆっくりと昼寝をして、返事の手紙を風呂敷に包んでもらい首に結わえてもらって雲仙にかえるのでした。
急用があれば、雪の日でも雨の日でも矢櫃まで喜んでお使いに行くのでした。ある暑い日。雲仙から矢間は、いつものように手紙を首に結わえてもらって矢櫃まで下って行きました。
もうすぐ八木家に着く山路で、八木家の五つになる上枝(ほずえ)という娘が、真っ蒼になってじっと立っていました。その足元に真っ黒いカラス蛇が、いまにも飛びかからんばかりに鎌首を上げて上枝を睨んでいました。
多分、上枝の毬がカラス蛇の寝ていた草むらの中に落ちたのでしょう。
とたんに矢間は、上枝を助けようと「ワンワン」吠えながらカラス蛇にかかって行きました。びっくりしたカラス蛇は、草むらの中に逃げて行きました。
「矢間!」上枝は泣きながら矢間にしがみつきました。八木家の当主は、上枝が矢間に助けられたことを感謝して手紙に書き添えました。
あるどんよりと曇った日。湯元の小左衛門は、法要の打ち合わせのため手紙を書いて浅黄色の風呂敷に包んで「矢間、ご苦労だが八木家に行ってきておくれ」と、矢間の首に巻きつけようとしましたが、すぐ喜んでお使いをする矢間が、どうしたことかこの日は、小左衛門正時の手をなめて、なかなか風呂敷を結ばせません。
そして、甘えるようにご主人の目をじっと見つめていました。でも、最後には元気に一声吠えると走っていきました。
ところが、矢間は矢櫃の帰り、札の原(昔、湯元掟という木札が立っていたところ)というところで倒れておりました。首には風呂敷はありませんでした。
きっと泥棒が、風呂敷に何か入っていると思ったのでしょう。矢間のお腹と頭にひどく叩かれたあとがありました。矢間は泥棒に風呂敷を取られまいと戦ったのですが、敵わなかったのです。
もうすぐ湯元だったのに、矢間はどんなに悲しかったことでしょう。日ごろ可愛がってもらっているご主人に会えずにここに倒れてしまったことを。
札の原の側に住んでいる人が、矢間を見つけましたが、もう死んでいました。
知らせを聞いて小左衛門正時をはじめ湯元の人々も駆けつけました。皆、口々に「矢間。矢間」と言って哀しみました。
「あんなに元気だった矢間が、こんなに変わり果てた姿になるなんて」皆で札の原に丁寧に葬りました。忠義で利口な犬でしたので小左衛門は、『天明七年十一月二十四日名犬矢間の墓』と石に書き、矢間の姿を石に刻み、札の原に建てました。今もそのまま建っています。
これは二百年余り前の話です。
※雲仙湯守の宿 湯元ホテル公式HP
→「施設案内」→「湯元のはなし」より転載(一部加筆)
200年以上前の世界でもイヌと人とは互いに愛と信頼の強い絆で結ばれていたということである。この宿に泊まろうか、いま、心がつよく動いている。
本ブログは,来月から 次のブログに移動します。 http://blog.livedoor.jp/kirinoyura/
2013年5月10日金曜日
カリカリベーコンの謎を解く
今回の旅で泊まったアメリカのホテルでは、例外なく朝食にカリカリに焼いたベーコンが出された。今回に限らず、以前行った時も同様だった。
今日、同じ事務所にいるアメリカ人のALT(英語指導助手)のワイアットにそのことを尋ねてみた。
「アメリカ人は、本当にカリカリベーコンが好きなんだね。」
彼は、
「うん。だからコレステロールの高い、肥満した人が多いのさ」と苦笑混じりのジョークで応え、それから真面目な顔になって、次のような説明をしてくれた。
開拓時代からアメリカの家庭では、伝統的にニワトリとブタを飼っていた。冷蔵庫の無い頃には肉を塩蔵してベーコンとして保存することが多かった。もちろんロースやモモなどのように高級な部位も保存していたが、脂肪分が多く焼けば風味のある脂が出てくるベーコンは、調理の仕方も多様で利用しやすかった。また、他の部位に比べて値段が安いということもある。
このような理由で特に朝食のおかずにカリカリベーコンが出されるようになった。
以上の話を彼はお祖父さんから聞いたという。
この話を聞いて、僕はあらためてアメリカは農業国としてスタートしたのだということを思い出した。いや、アメリカが独立したのは1776年のことだから、当時の世界は農林水産業が中心だったのだ。ほとんど農業しかなかったと言えよう。
だが、それにしても現代のアメリカ人の間に、18世紀から続く伝統が残っていて、若い世代の間でもそれがきちんと意識されていることに感心した。
アメリカと言えば資本主義の旗頭で、今では金融資本の総本家になっている。アメリカの失業率や物価、金利などで世界の経済は振り回されていると言って良いだろう。
それでも、自分たちの先祖の生活を忘れないで、代々語り継いでいるのだ。
「農業国」として側面が、もっと前面に押し出され「自分たちの食べ物は自分たちの手で作る」という精神や農作物を商品としか見ない姿勢をあらためたら、世界はもっと変わっていくのじゃないかな、と考えた。
2013年5月2日木曜日
5月2日(木)・・・帰国
合同会議は10時過ぎに終わり、参加者は思い思いに街に散った。サンフランシスコの下調べはほとんどしていなかったし、特別な思い入れも無かったので、主催者側の企画したバスツアーに参加した。
まず、ゴールデンゲートブリッジに立ち寄って1937年に完成したという橋を間近でじっくりと見た。橋を吊っている塔の高さ200メートルを超える橋脚に支えられた吊り橋など、今でこそさほど珍しくはない。だが、1936年というごと昭和12年である。
塔の高さは水面から227メートル、塔と塔の間の長さ1280メートルで、全長は2737メートルある。
1930年代の建造物でありながら現在でも立派に通用していることを考えてみると、それがいかに優れているかがわかる。
橋を渡りきってみたかたったのだが、団体行動なのでそれを諦め、最初の橋脚まで歩いてみた。
短いブロック状に分割されて吊られているのだが、天候が良かったこともあり、特に揺れを感じることはなかった。面白かったのは中央分離帯が移動して、往復6車線の車線を交通量に応じて「4-2」や「3-3」などに変化させられるようになっているところだ。
次にロンバートストリートに行った。
この道は非常に傾斜の強い坂道で、一方通行で一車線の道を激しくつづら折れにしてある。少しでも傾斜を緩くして、自動車が安全に通行できるようにしてある。道の両側は一般の民家で、車道以外の部分を美しいアジサイを植え込んでいる。暮らしを楽しむ人々の思いが伝わってくるような道だった。
それからフィッシャーマンズワーフへ行った。
買い物をしたいという人が圧倒的に多かったので、ここで1時間の自由時間が与えられた。みな、買い物に突撃して行ったが、そういう興味のない僕は、そこにあった水族館に立ち寄った。
それほど有名な水族館でもないし、あまり期待せずに入ってみたが、まずまずの規模の水族館であり、サンフランシスコ湾の水環境について真面目に地道に展示されていた。
クラゲの展示が美しく幻想的に演出されていたほか、そのほかカタクチイワシの群泳、サメに触れるタッチプールなどがあって、一時間では全然満足がいかないほどの水族館であった。
その後、団体は解散して各自で自由行動することになったが、昨日の夜、一度乗ったケーブルカーにもう一度乗ってみた。昨日は夜だったが、昼間に乗るとケーブルカーの構造などがよくわかり面白かった。
ケーブルカーもずいぶん古いもので、1873年に開業したというから、日本の幕末には、もう営業していたわけである。車両はモーターなどがないので、あまり更新の必要もないのだろう。見るからに古そうなものばかりで、それがまた良い雰囲気を出していた。
※明日、いよいよアメリカを出国する予定だ。これから荷物のパッキングなどをしなければならないので、写真の掲載は後日にすることにしました。
2013年5月1日水曜日
4月30日(火) 総領事館とダウンタウン
日米共同で取り組むプロジェクトも決まり、会議に主要な部分は今日で終わった。
明日の会議の予定はほんの少し残っているが、実質的には今日で終了と言って良いだろう。
ホッとしたところで夜はサンフランシスコ日本総領事館で歓迎レセプションが行われた。
サンフランシスコに着いて3日目にして、初めてその市街地に行くことになった。
「坂の街」と呼ばれていることは知っていたが、実際に来て驚いた。海岸から少し離れるとすぐ坂道になる。その坂が、登っては降り、降りては登るのである。ちょっとした丘陵地帯をそのまま都市にしたという感じだ。いや、感じではなく、まさに丘陵が連続する場所に都市が置かれている。
しかも、古い歴史がある町だから、道幅は狭い。ソルトレイクの広々とした道とは対照的だ。
そして、元はメキシコ領だったこと、雑多な移民が集まっていること、などの理由で、建物のデザインや看板などから醸し出される雰囲気がワシントンDCとはまったく異なっている。今まで見たことのないタイプの町だ。
総領事館は、ちょうど尾根にあたる部分にあり、その前の道はどちらへ進んでも下り坂になる。
そのためそこからの眺めは素晴らしく、ゴールデンゲートブリッジやサンフランシスコ湾を一目で見渡せる位置にあった。
レセプションが終わってから地元の先生が街を案内して酒場に連れて行ってくれた。その時、ケーブルカーに初めて乗った。映画などによく出てくるケーブルカーだ。
驚いたのはその構造だ。道路上に敷かれた軌道の真ん中に牽引するためのケーブルが入る溝があり、ケーブルは常に動いている。車両は、車内のレバー操作によってケーブルをつかんだり離したりして速度を調節しながら走る。当然ブレーキも付いている。
無いのは、自力で走るためのモーターくらいだろう。
おそらく坂の多いこの街では普通の電車は使えないので考えられた乗り物だろう。所々に停留所があり、ポイントによる分岐もあるので複数の路線があると思われる。
普通に住民の足として利用されている。
珍しい貴重な体験ができた。 

2013年4月30日火曜日
4月29日 持続可能性をもとめて会議は一日じゅう続いた
ホテルから一歩も外に出ることなく朝から会議が続いた。
終わったのは夕方。2キロくらい散歩した。
昨夜は2時近くまで今日の発表の準備をしていたので、今朝は朝食の始まるギリギリまで寝ていたので、このままでは狭いケージで餌だけはたっぷり与えられるブロイラーと変わりないと思ったので散歩に出かけることにした。
ホテルの裏側はサンフランシスコ湾で、湾を挟んで向こう岸に市街地が見える。空港からこのホテルに直行したので、まだダウンタウンには行っていない。
海岸に沿って気持ちの良い遊歩道があり、犬を散歩させている人が目立った。一瞬、アメリカの大都市にいるという緊張感を忘れるような長閑で良い夕方だった。
会議では、ESDについて論議されたが、ほとんどが日米の現役の教師たちなので、自分の実践や経験を披露する発言が目立った。
ESDのいう「持続可能性」の真偽についてとか、ESDを構成する各種の課題教育の中で環境教育の優位性(あるいは基盤性)について多くの人の考えを聞きたかったのだが、ちょっと物足りない印象があった。
しかし、他の参加者の意欲に水を差すのはマズイので、しばらくは聞き役に徹することにした。明日、小グループのディスカッションがあるので、その場で議論できたら良いと思う。
ソルトレイクシティを回ってきたグループで、各自が分担して報告したのだが、僕には「まとめ」を書く役割が回ってきた。
その文を載せておこう。
私たちの仲間に南太平洋のサモアに行った経験を持つ人がいます。出発前、彼はこんなことを問いかけた人がいました。
「サモアの人々は、お金もITも自動車もないのに皆、自分は幸福だと思っている。それに比べて、われわれ先進国ではどうだろう」
私たちの今回の旅は、人間の幸福とは何かを考える旅だったかも知れません。
そして私たちは、旅の終わりにこの「Reverence for nature=自然への畏敬の念」というキーワードに行き着きました。
これは、ソルトレイクシティのホークウォッチ・インターナショナルというワシタカ類の調査研究と教育活動をしている組織にいたアカオノスリ(RED TAILED HAWK)です。有刺鉄線で傷つき、もう空を飛べません。
この目は何を訴えているのでしょう??
ソルトレイクシティは、周りを山や沙漠や湖にとりまかれた近代的な都市です。私たちはそこで、このように考えました。
生物は地球上で37億年間、命をつないできました。
これからも自然から離れて生きてはいけません。
持続可能で幸せな世界を未来の子どもたちに遺すために、何が必要か。
自然環境の持続なしには、文明や文化の持続もありえません。
そのためには自然を正しく読み解く能力が必要です。
自然環境や資源を利用する時、立ち止まって考える自制心も欠かせません。
それには、目的をもっていつまでも学び続ける心、あらゆる生命を愛し平和を求め続ける心がなくてはならないでしょう。
部屋に戻ると夕焼けと街の灯りが美しかった。
2013年4月29日月曜日
SEE YOU SALTLAKECITY! 「アメリカ」というシステムについて
サンフランシスコに着いた。
ソルトレイクシティ空港までは、デビットがポルシェで送ってくれた。彼が宝物のように大切にしているクルマだ。最大の親切心をもって見送ろうというユーウェルさん一家の意志の表明であろう。
ありがたいことだ。
ソルトレイクシティ空港からボンバルディアCRJ200という小さな小さなジェット機で飛び立ち、午後1時過ぎ、サンフランシスコ空港に到着した。
ホテルはヒルトンという超豪華なホテルだった。自分の一生ではもう二度とこのような豪華ホテルに停まることはなかろうという部屋だ。
着陸前の機内から海が見えた。久しぶりに見る太平洋は、なんだかとても懐かしく感じた。望郷の念のようなものだろうか。ヨーロッパやニュージーランド、ヴェトナムなどでは、あまり意識しなかった感情だ。
他の国を旅した時に比べて、アメリカにいると妙に居心地の悪さを感じる。アメリカ人の家庭にホームステイし、温かく親切に迎えてもらい、行く先々で親しくもてなしてもらっていながら申し訳ないのだが、本音と述べるとそういうことになる。
やはり圧倒的な物量で世界を支配しようとし、弱い者、小さな者を気にかけないこの国の気風がどうしてもなじめない。
一人一人のアメリカ人は、明るく人が良く、情にも厚い。標準以上に親切かも知れない。しかし、国のレベルでなくても集団としての傾向がどうしてもそのように傾斜しているように思えてならない。
このことは、いずれもう少しじっくりと考えてみたい。



ソルトレイクシティの休日
4月27日(土)
連日の学校訪問等の日程から解放され、一日ゆっくり休養をとることができた。
昨日からホームステイしているデビッドさん夫妻は、まるで親戚のように親しく遇してくれている。
今朝は、彼が所有する二匹のポインター(鳥猟犬)の運動と訓練に連れて行ってくれた。
行った先は、西部劇に出てくるような荒野であった。



一度帰宅して、朝食を摂ってからダウンタウンに行った。
ここまで咲きそろうと人工の花壇も見事なものだ。
モルモン教の総本山の寺院を見学。2万人以上が収容できるという大ホールを見せてもらう。



古い電車の車体を作り直したレストランで食事をした後、ロッキー山脈の南端に当たる山岳地帯に連れて行ってもらった。

そこで、小高い峠からはるかに東の方向を望見することができた。19世紀の半ば、大勢のモルモン教徒がこの峠を越えてソルトレイクシティに入植してきたのだそうだ。
もう一つの幸運は、この場所でエルクを見ることができたことだ。
一日のうちで、沙漠と都会と山をすべて経験できた。
2013年4月26日金曜日
4月25日
密度の高い日程の一日だった。
朝、第一番にボンヴィル・エレメンタリースクールを訪問。
午前中はここで過ごし、昼食を食べてからユタ州立大学植物センターを見学した後、ソルトレイク研究所のガイドでアンテロープ島州立国立公園を見て回るツアーを行って、市内に帰ってきた。
圧巻だったものの一つは、ソルトレイクという塩湖の風景とその中の最大のアンテロープ島の広大な草原、湖と空の広がる景観 だ。
そして、もう一つは多、フランクリンカモメやwhite front ivis(Plegadis chihi)(和名 カオジロトキ)などが集まる湖の北東の湿原だ。
これらの二つの見学先については、いずれ改めて記録しておこうと思う。
実は、もう一つ、驚いたことがあった。
それはボンヴィル・エレメンタリーリースクールでのことだが、ここは特に芸術教育に力を入れてESDを展開してるということで、子どもたちによるミュージカル(彼らは「グリーンオペラ」と呼んでいた)を見せてもらった。4年生の小型の作品と3年生3クラスがそれぞれ環境をテーマに演じるオムニバス形式の作品が中心だった。
それら3つの作品群の中のに現代の子どもを蝕んでいるテレビゲームやファーストフードのことを取り上げたものが2つもあった。
特に食物と農業、食品資本が歪める農業の問題を真正面から取り上げた作品は、「これがモンサントやマクドナルドなどのお膝元の国の作品か?」と思うほど痛烈な批判を含んでいた。
「批判的思考」はESDの重要な要素であるが、本当に「ここまで!」と驚かされる内容だった。
2013年4月24日水曜日
西部へ!
朝、曇り空だった。
厚い雲で、いかにもこれから雨になりそうだったが、昼過ぎから青空も少し見えてきて、降ることはなかった。
朝、7時30分にホテルを出て、T.C.ウィリアムズハイスクールという公立の高校を訪問した。
ワシントンDCのすぐ隣だがメリーランド州のアレキサンドリア市にある。
生徒数が3200人、教員が279人という大きな高校だ。生徒の出身国は40カ国にもおよび、白人は20パーセントしかいない。そして、20パーセントの生徒は英語が母国語でない生徒たちで、一般教科の指導との中に英語の指導も含めている。
ただ、英語の指導のために特別な時間を設けてはおらず、あくまでも一般教科の指導の中で行っているということだった。
生物の授業を見せてもらった。生徒数19人でDNAの基本的なはたらきや糖と酵素の関係など、生物の基礎としてはそれなりのレベルの授業を行っていた。全員がPCを持っていて、ウェブサイトをみながらプリントに書き込む授業をしていた。中にはスペイン語で書かれたサイトを見ている生徒もいたが、先生の講義はすべて英語だった。
代数の授業を見てきた人によると、代数の先生は英語とスペイン語の両方を使って説明していたということだった。
多くの移民を抱えて苦しむアメリカ社会の一面がここにあるのだろうと思って見てきた。しかし、政府から3年間で200万ドルとい巨額の予算を特別に配当され、さまざまなクラブ活動や教科のメニューが用意されて、生徒たちは底抜けに明るく学校生活を楽しんでいるようだった。
悪い意味ではなく、問題を圧倒的な物量の投入で問題を解決するというアメリカらしさが、こんなところにも表れているように感じられた。
午後、ダレス空港に移動。15:05発のシカゴ行きでシカゴオヘア空港着。
空港だけとは言え、初めてシカゴを訪れることができて、なんとなく得した気持ちになった。
やや長い待ち時間の後、小さなジェット機に乗り継ぎ、3時間飛び続けやっとソルトレイクシティ空港に到着した。
ホテルはモルモン教の本山のすぐ近くのこぢんまりした所だ。
すでに現地時間で夜10時近くになっている。ワシントンから3時間の時差があるからワシントンでは、深夜1時ということだ。
シカゴで軽食を食べたが、少し空腹を感じていた。だが、アメリカに来て、毎回、十分すぎるほど食べているので、そのまま眠ることにした。
そろそろ旅の後半である。




2013年4月22日月曜日
スミソニアン・アメリカ・インディアン国立博物館
4月21日(日)
午前中は、「教育における日米関係」というテーマで草原克豪氏の講演
日本は、明治維新以後欧米の社会機構や技術、思想等を取り入れる時、アメリカを経由したルートが結構あったという指摘は興味深かった。
そう言えば、日本人が「西洋」を見る時、アメリカの向こうにヨーロッパを置く見方とロシアやアジアの向こうにヨーロッパの姿を見る見方があると思った。
言わば西回りに見るか東回りに見るかの違いだ。
産業革命から出発したヨーロッパ文明が今日の環境問題を生み出した大きな原因であろうから、そのヨーロッパを西回りで観るか、東回りで観るかで、文明に対する見方が大きく違って来るかも知れないと思った。
続いてノースカロライナ大学のエイミー・ギャレット・デッカーズ博士による「米国の教育とESD」という講演があった。
アメリカの教育制度は、州ごとに異なっていて、なかなか一概に「こうなっている」と言えない難しさがあるようだ。ただ、その中でも家庭で英語以外の言語を使っている児童生徒が23%もいること、国際的な学力比較で低迷している状況からの脱出のために「COMMON CORE(コモン・コア」(私訳だが「共通基礎学力」)を設定して基礎学力向上に努めていること。その一方では「STEM(ステム)」(科学・技術・エンジニアリング・数学)の能力向上にも重点を置いていることなどが紹介された。
また、新採用教員のうち5人に一人が5年以内に離職している現実、教師の待遇などアメリカの教育の抱えている課題も示してくれた。
しかし、その一方でノーベル賞受賞者が圧倒的に多いという事実をどう説明するのか、というような議論も出て、非常に面白い講演になった。
午後からは、ホワイトハウスやリンカーン記念堂などワシントン市内の視察に出かけた、スミソニアンの博物館見学では見学先を自由に選べたので、「アメリカ・インディアン国立博物館」に行くことにした。
この博物館に行くのは初めてだったので期待していた。ただ、滞在時間が1時間と少々しかなく、急ぎ足での見学にならざるを得なかったことが、残念に思われる。
それでも、北極圏から中央アメリカまで、この広大な大陸でその風土に順応して暮らしてきた人々の息吹に触れることができたのは幸せなことだった。




2013年4月21日日曜日
長い長い一日・・・アメリカ初日
僕にとって今年の4月20日(土)は37時間だった。時差のためだ。
成田空港を出発したのは4月20日の15時40分。ユナイテッド航空804便だった。そして、この便が米国ワシントンDCのダレス空港に到着したのは4月20日15時ちょうどくらいだった。この間の飛行時間はおよそ13時間。
今は、4月20日の夜9時半になるところだ。
だから僕にとっての4月20日は37時間になるわけだ。
ワシントンDCに来たのは2回目だがほぼ12年ぶりだ。前回は2月に来たので、結構寒くて時々雪も降っていた。大雪で交通機関が麻痺したりしたこともあった。
今日は気温は14℃くらいだが青空が明るく日差しが非常に強く感じられた。
ホワイトハウスの近くにあるWESTIN Htel という立派なホテルだ。割り当てられた部屋は、普段利用するビジネスホテルの部屋の3倍くらいの広さだ。あまりに立派すぎてちょっと落ち着かないほどだ。
このホテルに2泊して、4月23日(火)にユタ州ソルトレイクシティに移動する。
2013年4月19日金曜日
なかなか センチメンタルジャーニーの始まり
新千歳発 1410の成田行き全日空 2154便 成田空港到着 1610
高齢の父が入院中であることが気がかりで、正直なところ後ろ髪を引かれる思いだ。そんな感傷を出発準備の慌ただしさが薄めてくれていたことは、旅が始まって独りになってから気づいた。
病室で父とほんの僅か言葉を交わした。
「気を付けて行ってくるように」と言ってくれた言葉の陰には「与えられたチャンスを最大限に利用して、自分の可能性を思い切り伸ばせ」という親として思いが込められているのだろうと思った。
北日本全体に寒気が流れ込んでいるため、大気が不安定でボーイング737-700は何度も大きなローリングをして成田空港の滑走路に降りた。
第一ターミナル前からホテルのバスに乗って5分ほどで到着しチェックインした。バスで5分かかったが、大部分は信号で停車してたので、歩いてもそれほどの距離ではないと思われる。
そこで、夕方ホテルの周りを散歩したついでに第一ターミナルまで歩いてみた。想像通り徒歩でも5分くらいだった。夕食はターミナルビルでとり、ゆっくりと戻った。
行き会う人々は皆、寒そうに身体を縮めていたが、気温は11℃。歩いていれば長袖のシャツ1枚で十分暖かい。快適な夜に感じた。
明日は午前中にオリエンテーションを受け、午後の便でワシントンDCに向かう。
2013年4月18日木曜日
出発前夜
いよいよアメリカへの出発が明日に迫った。
ESD日米教員交流プログラムという事業だ。2010年、ニュージーランドの環境教育を視察してきた。今回はアメリカの現状を学んで来る。ESD(持続可能は発展のための教育)がアメリカでどう展開されているかは非常に興味深い。地球上の資源のほとんどを利用し消費し続けるアメリカという国で、ESDがどのように実践されているのか、是非、この目で見てきたい。
明日、成田空港に集合し、いよいよこの訪問団が結成される。
2013年4月17日水曜日
2012年11月5日月曜日
札幌の銘菓
毎年、この時期に札幌で買うお菓子がある。
円山に近い古い市街地にある老舗の和菓子店がある。
その店で作っている菓子で、果物のブドウを砂糖の衣で包んだだけのごくシンプルなものだ。
口に入れると程よく溶ける砂糖の甘みとブドウの香り、わずかな酸味が上品に広がる。 「どうだ!甘いだろう!参ったか!エイ!エイ!」という押しつけがましさが全く無い。 「菓子」の「菓」は、元々「お茶うけなどの食用にされる果実」だからこれこそが和菓子の原点であるようにも思える。
もうずいぶん有名になり、人気も高まり、最近はやや品薄気味になってきているのが気がかりなほどだ。
だから、知っている人も増えているだろう。
もう30年以上も昔、学生時代に円山地区で暮らしたことがあった。その当時は、十月下旬頃から作られ始めるのを楽しみに待っていて、買いに行ったものだった。
菓子の構造上大量生産は、不可能なようで、円山にあるその店以外では絶対に買えない。 商業主義真っ盛りの昨今で、インターネットやアンテナショップ、一流デパート・ホテルなどで、全国の名物が買える時代だ。
そんな風潮に背を向けるかのように、創業した店(おそらく)のみでしか販売しないという方針を貫いているこの菓子店とその看板の銘菓に拍手を送りたい。
2012年10月3日水曜日
スロバキアを去る日 ブラチスラヴァの小公園で
スロバキアのブラチスラヴァでは、ドナウ川に浮かぶ船を改造したホテルに泊まった。boat の hotel だからbotelと表示してあり、最初、スロバキア語ではホテルのことを「botel」と言うと思った。何しろcoffeeがkova なのだから。
ホテルの前の川岸から道路まで2~30メートルくらい離れていて、その間が公園のようになっている。ジョギングをする人、イヌを散歩させる人、ベンチで語り合うカップルなどブラチスラヴァの人々が思い思いに過ごしていた。
帰る日、船着き場まで歩いていると、その公園に銅像があることに気づいた。ヨーロッパの街には、いろいろな銅像がたくさんあるから、細書はあまり気に止めなかった。しかし、よく見ると、その銅像は、片眼をハンカチのような布で覆い、右腕に銃を持ち、左手でぐったりとした別の男性を抱きかかえて、精悍な表情で遠くを見つめている。
そして、その台座には、
「KTO PADNE V BOJI ZA SLOBODU, NEZOMIERA」
と書かれており、その下には
「HRDINSKYM BULHARSKYM PARTIZANOM
KTORI POLOZILI ZIVOT ZA
NASU SLOBODU.」と書かれたプレートが貼り付けられていた。
スロヴァキア語は、まったくわからず、周りにそれを理解できる人もいない。インターネットの翻訳で、手探りに調べてみた。
台座の文は、「自由のための戦いで死んだ者は、死ぬことがない」というような意味らしい。
そして、プレートには、
「私たちの自由に命を捧げたブルガリアの英雄的なパルチザンのために」というような意味になるのだろうか。
(もし、スロバキア語をご存じの方がこれをお読みになったら、間違いをご指摘下さい。
そうしてくだされば、とても嬉しく存じます。)
第二次世界大戦の時、ナチスドイツに占領され後も抵抗を続けたパルチザンは、チェコやボスニア、スロヴェニアなどで粘り強く活動して、ドイツ軍を悩ましたことはよく知られているが、この地でも激しい活動が行われていたことが実感される。
銅像の前には花束が捧げられており、周りはきれいに清掃されている。もう忘れられかけている遠い日の出来事であろうが、その後もソ連との軋轢、チェコからの分離と、独立までに紆余曲折を経なければならなかったスロバキアの人々の思いが伝わってくるように感じた。
日本はどうか?
地理的な条件から、国が独立していることの意味とありがたさをどれだけの人が理解しているだろう?
形ばかり「独立国」とされていても、実態はアメリカの思うままに基地を提供し、米軍人に対する裁判権すらなく、率先してお金まで負担している。それで「独立国です」と言えるのか?
そして、そのツケは全部国民に回している政府が70年近くも君臨しているというのに国民は独立しているような共同幻想を抱いている。
ブラチスラヴァを去る間際、この銅像は無言でそんなことを語りかけてくるようだった。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」 寺山修司の歌が心に浮かんだ。
2012年9月30日日曜日
旅の記 その20
新たな旅に向けて
9月29日(土)ソウル(インチョン空港)~新千歳空港 30日(日)札幌~別海
29日。
ハイアットホテルを朝8時に出発した。
5分で空港着。
インチョン空港は大きなハブ空港だが、夜間の離発着はあまり行われていなく,午前9時台の出発便が集中していた。
そのため、搭乗手続きなどで時間がかかり、10時15分の定時出発だったが、あまり余裕はなかった。
新千歳空港には12時30分着。
再入国審査、税関ともに無事に通過。(あたりまえだが)
内地には台風が接近していた。
30日。
札幌を正午に出発し、夜7時に別海の自宅に帰り着いた。
今回の旅はすべて終わった。
復路の航空券が取れなくて帰国の日を一日延ばしにしたこともあり二週間を越える長い旅になった。
昨夜、韓国の高級ホテルで一泊できたお陰で、時差惚けはもうほとんど無い。札幌から本別海までの運転もいつもと変わらなかった。
ただ、仕事を通して社会参加している身にとって、これから日本社会に適応していくのに少々時間がかかるかも知れない。
海外にでかけると毎度のことだが、実は、この「社会復帰」が案外厄介だ。
今回、旅行中に盛んに話し合ったのは「日本のガラパゴス化」である。
島国で、つい百年と少し前まで鎖国していたということもあるが、「日本の標準」と「世界一般の標準」とで違うことが多すぎるとあらためて感じた。
もちろん中には「日本の標準」で優れているものもある。もっと世界に普及しても良いのにというものもある。だが、そうでないものも多い。
今回の旅の大きな収穫の一つは、ウィーン大学の日本研究所のスタッフの人々と知り合えたことである。
大学の研究者だから、日本文化に精通していて、かつ外部の視点から現代日本を冷静に分析している。この人々の評価に耳を傾けてわれわれの社会の、今後のあり方を考えていく参考にすることは有効な事だと思う。
日本社会が、混迷を深め、政治的に非常に危険な傾斜を増しつつある現在、彼らから学ぶ機会をもっと増やしたいと思った。
という訳で、これからもまた新しい旅を計画したい。
次の旅発をあれこれ考え始めたというところで、この「旅の記録」は、これで留めることにする。
2012年9月28日金曜日
旅の記 その19
9月28日(金) ソウル・・・インチョン 韓国でまさかの途中下車
今回の旅は、大韓航空を使わせてもらった。
新千歳~ソウル(インチョン)~ヨーロッパという行程で、帰路もその逆をたどった。
昨夜、ウィーンを1時間遅れて出発。チューリッヒに立ち寄り、夜10時半にチューリッヒを発ってソウルに向かった。
若干の遅れはありながら、まず順調に旅程をこなしていった。
ところが、インチョン空港に着き、「もうあと一息」という時に事態は急転した。
飛行機の降り口で僕たちの名前を書いた紙を持った大韓航空の職員が待っていた。怪訝におもいながらも、乗り継ぎに関する連絡か何かだろうと思いながら名前を告げた。
彼の口から思いもよらぬ言葉が飛び出した。
「今日、登場する予定の便の座席を譲って頂けませんか?その代わり明日の第一便のビジネスクラスの座席とホテル宿泊などをお礼に差し上げます」というような話だった。
今夜遅く札幌に着いて泊まる予定でいたので少々驚き戸惑い、それでもまあ、特別に急ぐ用とて無いので、申し出を受けることにした。
それから急な入獄手続きを済ますと案内されたのは空港そばにある立派なホテルだった。
その10階の部屋に収まり、豪華な夕食を食べ、ヨーロッパのホテルでは、どこのホテルにも無かったバスタブの湯にゆったりと浸かって、時差ボケを休めてから帰ることができそうである。
どうして、このような「降って湧いたような」厚遇に出会ったのか。われわれが座席を譲ったことで、どこかで誰かがホッとしているのだろうか。
そこら辺りはよくわからない。わからないが、とにかく韓国で1万キロ近い移動の疲れを癒せることになった。
大韓航空に感謝。
2012年9月27日木曜日
旅の記 その18
9月27日(木) ウィーン最終日・・・旅の最終日
やっと馴染み始めた旅先の街の表情が、旅を終えて帰路に就く日には妙によそよそしく感じるのはいつの旅でも同じである。
夕方の出発まで、天候の悪化を必死にこらえているような空模様の中を最後の町歩きにでかけた。
今回の旅は、「友人の結婚式」という大義名分があったことと、復路の航空券がなかかな確保できなかったことを理由に、2週間を超える長いものになった。
ヨーロッパでの滞在も、4カ国6つの都市に及び、中欧から東欧の入り口にかけての土地を堪能できたと思う。
その分、仕事上のあちこちには義理を欠くことになり、迷惑をかけてきた。
この旅でヨーロッパのエッセンスに触れることが出来たように思う。この土地に立ってみると、魔女がいて、王様やお姫様がいて、騎士がいて、錬金術師、辻音楽師、商人、職人、もちろん農民、聖人、大悪人・・・・・虚実が入り交じって意識の中を通り過ぎていくのを感じる。
そんな風に吹かれながら、生々しい印象を記しておきたくて、PCを立ち上げた。
これから、この印象をよく咀嚼し消化して、人間について、社会についてもう少し深く考え、今後の仕事に生かしていければと思う。
いま、ウィーンは午後2時前。
こらえきれなくなった空から時々雨が降っている。
今回の旅では、ほとんど毎日が晴天に恵まれた。特にポーランド、チェコ、スロバキアでは、雨に当たることは全くなかった。その面でもありがたいことである。
ウィーンに着いた日、最初に訪れたレオポルド美術館のカフェに、また来ている。
これからホテルに預けてある荷物を受け取り、鉄道を乗り継いで空港に向かうつもりだ。
旅の記 その17
9月26日(水) ブラチスラヴァ~ウィーン。フンデルト・ワッサーのこと
ブラチスラヴァからウィーンに戻った。
この旅では、ずっと好天に恵まれ、今日も暑いくらいだ。
ドナウ川は今日もとうとうと流れている。
デヴィーン城をあらためて眺めてみた。今回は行くことが出来なかったが、次に機会があったら是非訪ねてみたいと思った。
ドナウ川は10カ国もの国を通る国際河川で、名前もいろいろとある。ちょっと調べてみた。(ラテン語:Danubius、スロヴァキア語:Dunaj、セルボクロアチア語:Dunav, ドイツ語: Donau, ハンガリー語 Duna, ブルガリア語: Дунав, ルーマニア語: Dunăre、英語、フランス語: Danube)は、ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河だという。
いろいろな民族や文化、国の栄枯盛衰を黙って見つめ、流れ続けてきたのだろう。
今までにシベリアの大河はいくつか見てきたが、ドナウ川は、それらとは違って人間社会の中を流れている大河である。
今回の我々の旅に、この川は優しく微笑んでくれた。
フンデルト・ワッサーという画家がデザインした建物が、ウィーンの船着き場の近くにあるので観に行ってきた。
スペインのガウディとも共通する有機的なデザインと鮮やかな色彩の建物が、実際に使われていた。ある種の天才なのだろう。
中心街にほど近い電車通りに面した一画に、そのビルはあった。
それにしてもこの大胆なデザインを建築物に取り入れる大胆さというか剛胆さはさすが芸術を尊重する町だと思った。
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