2013年5月6日月曜日

「指差し、確認、喚呼」と人間性と安全運行

 一昨日、羽田空港への移動は京急線を使った。  先頭車の一番前の座席に腰掛けていると、若い男性の声で何かを叫んでいるのが聞こえてきた。  都会では、相手が目の前にいないのに、独りで何か呟いているような人がたまにいるので、最初のうちは気にならなかった。しかし、断続的に聞こえてくるその声が、いつまでも止まないので、耳をそばだてて言葉を聴き取ろうとしてみた。  すると、 「第一閉塞、進行」とか「大森海岸、場内進行」と言っている。運転室で運転士が信号を確認する声だった。  「なーんだ」と思うと同時に、ふとある疑問が浮かんだ。  多数の人の命を乗せて走る電車の安全を確保するためには、声を出して信号を確認するこの方式は、非常に効果的だとされている。その通りだろうと思う。しかし、自分以外の人間のいない密室で、機械を相手にして信号を指さし、大声で確認している運転士の姿は見ようによっては、人間ではなく「電車」という機械システムの一部に組み込まれた部品のような不気味さを感じさせるものでもある。  言うまでもなく大量輸送機関の使命の第一は、「安全」である。そのために運転士に声を出して確認するよう求めること、そう教育することは有効であろう。だが客室にまで聞こえるほどの大声を出す必要があるのだろうか。なんとなく、「当社の運転士は、このように声を出して信号を確認しておりますヨ。どうです?いかに安全な電車であるか、わかるでショ」と、会社から過剰にアピールされているように感じてしまうのだ。  つまり、本当に安全のためではなく、会社のイメージ演出の手段として無理強いされているように感じたのである。  おそらく社内の規定などによって、半ば強制的に声を出して確認することを迫られているのだろう。声の質が無機的で、人間らしさが伝わってこない。  それでも、鉄道という交通機関に、人間らしい温かさと柔軟さが欲しいと思うのだ。それは僕のノスタルジーに過ぎないのかも知れないけれど。  考えてみれば、現代の僕たちは、知らず知らずのうちに特定のシステムに組み込まれ、部品のように扱われて、自らの人間性を圧殺しながら毎日の仕事をこなしていないだろうか。  「指差、喚呼、確認」は、きわめて有効な安全のための動作だということは、理解している。ベテランの運転士は、皆実行していることだろう。それでもなお、この場合には、何とも言えない違和感を感じた。  その違和感は、人間性を失わせる方向でしか働かない「現代社会のシステム」の匂いをかぎ取ったために感じたに違いない。  いろいろなことを考えた、朝のひとときだった。

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