2011年5月25日水曜日

僕は歌わない

 日本の原子力発電推進政策は破綻した。

 客観的事実だ。
 もちろんそう認めることができず、原発の安全と必要性という虚構に、いまだにしがみついている人たちも少なくない。まるで信仰のように。
 完全に破綻した論理にしがみついた者たちが、破綻を認めようとせず、論理より情を優先させて、保身と延命を画策するところが、この国の怖いところだ。

 そうやって、われわれは、侵略戦争に敗れながら「終戦」と言い換え、平和憲法があるのに「自衛力」と言い換えて軍事力を持ち、平和憲法に呼応して制定された教育基本法を圧殺した。
 得意技は、「既成事実の積み上げ」と「慣らし」だ。
 国民は、もうそれに慣れきっていて、自分の意見を表明しようとする意欲を失っているばかりでなく、自分で考えようともしなくなっているようだ。
「出る杭は打たれる」という諺もある。

 もちろん例外的な人も少なくないが。

 東電が「メルトダウン」という言葉を使おうとしない事実ひとつとっても、この体質は変わっていない。
 そして、そんな国が、いま地球を放射能で汚し続けている。これを恥と言わずに何というのだろう。

 真に自分の国の文化を誇りたかったら、国際社会で尊敬されたかったら、そして、大衆受けのする「サムライ精神」とやらを賞賛されたかったら、潔く原子力政策の敗北を認めるべきだ。

 そのように振る舞ってこそ自分の国の国旗や国歌に誇りを持てるのではないだろうか。
 プライドは感情だ。法律や条令などの「力」で強制できるものではない。
 愛は強制できない。
 大阪の知事が、「君が代」で起立しない教員はクビだと言ったとか。
 条例で強制しなければ敬愛の意思表示ができない国歌や国旗など、真の国旗や国歌ではない。

 今の状況が続くなら、あの旗やあの歌は恥ずかしくて、敬愛する気になど金輪際なれない。 

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