2011年5月16日月曜日

日常化の幻想と幻想の日常化

 今朝の放射線量は0.08μSvだった。
 実は、この線量計の設計上、この数値が最低で、これ以下の値の時は正確に測定されていない。

 だから、今朝の放射線量は人為的な影響を受けていないと解釈できそうだ。

 それにしても、毎朝、まるで温度計でその日の気温を測るように放射線量の測定を行う日が来ようとは、誰が予想しただろう。
 放射線の存在が日常化したわけだ。
 それこそ想定外の出来事だ。

 正確な情報が開示されていない。たとえば放射線量は発表されるが、その放射線がどんな放射性物質から発せられているかかが全然明らかにされていない。

 こうなると国家は国民を護るものだという信頼感が持てない。

 原発の作業員を
「命がけで国民の安全のためにがんばっている」と賞賛しているし、実際作業に携わっている人々もそういう意識を持っているだろう。

 だが、
 本当にそうだろうか?
 そう、思い込まされて、実際は国民より国家を上に置きたがるこの国の権力を守るために動員されているではないか?

 太平洋戦争の犠牲者を
 「国を護るために尊い命を捧げた」と賞賛している。
 もちろん、進んで犠牲になった人々は、そう思い込まされ、純粋にそう信じて亡くなっていったのだろう。

 だが、冷厳な歴史的事実は、違うと思う。
 愛する者を護るためではなく、国家権力を守るために狩り出されたというのが客観的事実ではないだろうか。

 犠牲になった家族を美化したい遺族の心情は理解できるが、心情と歴史的事実を混同すべきではない。

 そして、意識的に混同しているとしたら、それは次に同じような過ちを犯す原因にもなりかねないだろう。

 繰り返すが、僕はその心根は尊いと思うし尊重したい。
 だが、それを利用して上手に立ち回ろうとする者の存在を指弾したいのだ。

放射線測定が日常化した国で、
 本当に恐ろしいのは、放射能よりも人の心を弄ぶ権力の存在である。

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