モイルスに到着してテントを張り、ベースキャンプとしての様々な施設を設置する。予定より早い到着だったので、余裕をもって作業できた。同時に、出発前から気がかりだったことがだんだん現実味を帯びてきた。それは、ヒグマの問題だった。実は、出発前に岬近くに人慣れしていて、轟音玉(野生動物撃退用の大音響を発する煙火)や花火弾で追い払おうとしても逃げない個体がいるという情報を得ていた。知床は、世界屈指のヒグマ高密度生息域であるから、「出没する」と言うのは少しおかしい。もともと「そこに居る」のであるから。
ヒグマは北海道で長い間アイヌ民族と共生してきた。アイヌは森に入る前に、神への祈りを捧げることで、ニンゲンが近づくことをあらかじめヒグマに知らせる。ヒグマもニンゲンが近づくとさりげなく立ち去ったり隠れたりして無用の接触を避けていた。こうして普通は一定の秩序が保たれていた。このような関係は、知床でも最近まで続いていた。だが、近年、この均衡が破れつつある。そして、今年になって、このような銃声を恐れないクマが急増した。どうしてこのような問題個体が出現したのだろう。その理由は、まだハッキリと解明されていないが、ニンゲンの側からクマへ、何らかの過剰な働きかけがあり、クマが人の活動について学習してしまった結果ではないのかと言われている。例えば知床岬地区への人の出入りは、このところ急増していると言われる。その結果、人と接触した経験が豊富な個体が増加しても不思議ではない。今までは、母グマと別れて一本立ちした直後の個体にこのような傾向が見られる例が多かった。それが最近、成獣の雄にもそのような性格の個体が増えてきているらしい。僕たちが到着する前からモイルスでキャンプしていた登山者も岬方面でそのクマと遭って引き返してきたという話だった。
岬へ向かう「チャレンジ隊」は翌朝出発する計画だった。しかし、その夜、スタッフのミーティングで、出発の中止が決定された。小中学生を連れて行動するのだから状況判断が慎重になることは仕方がないことだろう。危険な場所を苦労して海岸線を行き、岬に到達することで達成感や成就感が得られるわけだが、一頭のクマのために全体の計画が狂ってしまうのだ。やむを得ないことではあるが、あらためて「クマの威力」の大きさを思い知らされた。
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