2009年8月19日水曜日

知床岬行(6)  静かなるクマ

 この日は、テーマ別の個人活動ということでスタッフが用意したテーマに子どもたちが自由に参加して活動する催しがもたれた。
 僕は、「森のお茶会」ということにして、森に生えている植物を何種か採集してきてお茶を煎れるという活動を提案した。はたして何人の子どもたちが来てくれるのか、と不安に思っていたが、7人も集まってくれた。
 早速子どもたちとともに森に向かう。森に入る前に少し気取って儀式をした。アイヌ民族の伝統に則ったつもりだ。宮沢賢治先生の童話も取り入れて
「これからお茶の材料を採りに行ってもいいかあぁ?」と森に問いかける。
腹話術的に
「いいぞおぉ」などと答えて笑わせたりしながら楽しく植物を採っていた。採りながら植物の名前やお茶にしたときの性質や薬としての性質などを解説した。子どもたちは、ほぼ一列に並んでいた。説明の最中、先頭のK君が突然声を上げた。
「あ、クマ!」
 振り向いた僕の視野にちょっと大きめのクマの顔が飛び込んできた。距離は7~80メートル。あわてる様子もなく、ゆっくりと横に移動していた。(ように見えた)ほんの短い時間だったのだろうが、僕にはひどく長く感じられた。自分がしなければならないことが頭の中で渦巻き、そうとう焦っていたのだろう。
 まず、子どもたちへの指示だ。
「静かにして」(すでに静かにしていた)
「なるべくくっついてかたまって」(すでにかたまっていた)
「大人の後ろに付いて」(すでに他のスタッフが前に出てきていた)
(ああ、なんと情けない)
 …それから、えっとえっと、あ!そうだクマ撃退スプレーだ!
 いつもイメージトレーニングの時には、片手でスッと抜いて構えられるスプレーが引っかかって出てこない。慌てて両手で抜き、安全装置をはずして構えた。
(ああ、情けない)
 クマは、そんな僕に「情けないヤツ」と軽蔑するような視線を送りながら、そして、かなり迷惑そうな表情をしながら、ゆっくりゆっくり移動し、距離を開けていった。クマが離れつつあることを確認して、僕たちも静かに森から出た。

 この出会いは、網膜に焼き付けられるような強烈な出会いになった。特に威嚇されたわけでなく、襲われたわけでもない。危険を感じることは全くなかった。森で静かに暮らしているヒグマを出会った、というだけなのである。
 おそらくあのクマは僕たちが森に入っていくことをはじめから知っていたのだろう。できるものならそのままやり過ごそう、と思っていたのかも知れない。ところが、僕たちがどんどん近づいて来るのでしぶしぶ立ち上がって動き始めたのだろう。
 クマと出会った経験は今回が初めてというわけではないのだが、落ち着いて堂々とした態度から発せられる威厳に、圧倒された今回の出会いだった。
 モイルス(静かな湾)の静かなクマ!一生忘れられない出会いとなった。



 ところが、問題はまだ残っていた。他にも森に入ったグループがひとつあるのだ。川釣りをするグループだ。急いで本部に知らせ、無線で連絡をとる。追い払いのために、数名の大人だけで森に入る。遠くに去ることなく、やや離れた所でとどまっていたクマを追い払う。たった一頭のクマで、午前の予定は大きく狂い、キャンプ場は大変な騒ぎを抱え込んでしまった。

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