2012年3月24日土曜日

「日本海」の旅路 ②・・・播州赤穂




兵庫県立美術館に行く前、播州赤穂へ行った。
 「播州赤穂」というのはJR西日本の駅名で、町の名前は「赤穂市」だ。
 今さら書くまでもない「忠臣蔵」の舞台である。舞台は、江戸と言うべきだから、「国元」とでも言った方が良いのか。


 特別に忠臣蔵に興味があったわけではないが、せっかくの機会だから訪ねてみた。いわば野次馬的な動機である。前夜泊めてもらった義弟宅のある明石から新快速に乗って20分で姫路に着く。姫路から普通列車に乗り換える。山陽本線の相生から赤穂線に入って、ほどなく播州赤穂に着いた。

 忠臣蔵の町だから、さぞ義士饅頭とか義士最中などというお土産品が並び、観光客歓迎色で派手に彩られているかと思っていたが、さにあらず。駅前は、しんとして、普通の地方都市のよくある日曜日という佇まいだ。ぼんやりしているとここが、あの超有名な歴史的事件のお国元だとは気づかずに通り過ぎてしまいそうなくらいだ。

 だが、よく見るとあちらこちらに地味な案内板がある。赤穂城跡まで1kmという案内標識もある。駅前からお城跡へとまっすぐに続く商店街は、どの店も白壁で統一されていて、派手な看板は一切ない。これが観光客へのアピールだと気づくのに時間はかからなかった。そう気づくといろいろなものが目に付くようになる。
 押しつけがましく派手にアピールしてくる観光地よりも、はるかに好感のもてるやり方で、時間が経つほど、心の中で印象が輝きを増してくるような町だと思う。

 ホテルの駐車場のゲートが「車置き処」という冠木門風になっている。
街角にその当時の上水道の水をくみ上げる井戸が復元されている。

 赤穂は、製塩技術を高め、塩の産出で財政を潤していた藩のようだ。その財力を使って上水道を整備するなど、住民の暮らしの向上にも努めていたのかも知れない。見かけ上は(失礼ながら)田舎の小さな町、小藩に過ぎないだろうが、財政の安定や技術の向上で豊かな暮らしを営んでいたのだろう。そこに、藩主の江戸城内における刃傷沙汰があって、この小さな町は大揺れだったのだと思う。

 事件は、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」になり、浄瑠璃や講談などにもなった。赤穂へ行ったこともない人々の間にもその評判は広がった。現代の日本人の間でも、その物語は広く知られている。

 だが、僕はある違和感を感じた。
 僕自身は、歌舞伎や浄瑠璃、講談などにそれほどの知識はないが、赤穂の町を歩いてみた印象と「物語」の中で語られている「忠臣蔵」との間に、相当な違いを感じた。これは、ほとんど直感のようなものだから、上手く説明できないのだが、赤穂の町を歩いてみて、「忠臣蔵」というのは、史実に基づいてはいるが、本質的にはフィクションなのだ、という思いを強くした。
 吉良邸討ち入りなど実際の行動は、もっとずっと地味で、野暮ったく、それだけに必死で余裕のない行動だったに違いないと感じた。

 「忠臣蔵はフィクションだ!」などとここで批判するつもりは毛頭無い。
 それで良いのだと思う。フィクションはフィクション、現実は現実なのだ。
 そして、その現実の「忠臣蔵」を肌で感じることが出来た分だけ、今回の赤穂市訪問の収穫は大きかった、と思うのである。

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