2012年3月21日水曜日

リテラシー無き自然回帰への警鐘

最近、山梨県清里のキープ協会で行われた環境教育基礎講座に参加した。そこで、多種多様なネーチャーゲームを体験してきた。それらは、子どもから大人まで、また、野外活動の初心者からベテランまで幅広い層の人々が楽しめる、非常に優れたものばかりだった。これまで「ネーチャーゲーム」というものに懐疑的で、一定の距離を置いていた僕の目を開かせてもらったと思う。

 ひと時代前のネーチャーゲームは、自然への畏敬の念や生態系の精緻な相互作用などを無視した、乱暴なものが多かったと思う。
 子どもたちの自然体験は、環境教育にとって重要だということはわかる。だが、いかにも指導者面したリーダーが、上から見下すような態度でゲームをさせている当時の標準的な図式が鼻について、自分では受け入れがたかった。

 同時に「アウトドアブーム」というものあった。「バーパル」だか「ブーパル」だかいう名のアウトドア用品カタログみたいな軽薄な雑誌が人気だった。類似の雑誌も多かった。 高校時代からボロボロで汗臭い垢抜けない格好で山歩きをしている僕らには、縁の無い世界だった。
 そんな雑誌から飛び出したような服装をし、様々な道具をこれ見よがしに身につけたハイカーとすれ違うと、ひそかに「ケッ!」などと毒づき、「○ーパルおやじ」などと陰で軽蔑していたものだ。
 だから、環境教育とネーチャーゲームの重要性は認識しつつも、さして効果があるとは思えぬゲームを得意そうに「指導」している様子は苦々しく感じていた。

 しかし、それから30年近い歳月が流れ、多くの実践によって淘汰された結果、ネーチャーゲームも洗練され、自然の営みを五感で感じて興味関心を高めていけるような、効果的なものに変わってきた。先日の清里での体験は、それを強く印象づけられた。
 
 ただし、環境教育の導入にネーチャーゲームを利用する時、自然環境へのインパクトを可能な限り小さくすること以外に絶対に忘れてほしくないことがある。
 それは、自然環境を歴史的にも観てほしいということだ。そこの自然環境は、たとえそれが原生林や原始海岸だとしても、必ず歴史的背景をもっている。先住の人たちが利用したかもしれないし、地震や火山活動があったかも知れない。そんな土地の歴史に目を向けて自然を読み解く必要がある。
 つまり空間的に観るばかりでなく、時間的な視点をも持つ必要があるということだ。ネーチャーゲームには、そういう地域性が必須なはずだ。

 北海道を例にとる。先住民アイヌの人々は、その場所をどう利用したか、アイヌの子どもたちは、どんな遊びをしたか、そこからどんな物語や歌や踊りが生まれたかを知ることなしに、遠い国で考案されたゲームをそのまま模倣して当てはめても、本当に北海道の自然と触れ合えたことにはならないだろう。
 そして、アイヌ文化は、どこからどのように伝搬してきたか、へも思いをいたさなければならない。自然を読み解く力(リテラシー)を身につけるとは、そのような認識を持つことだと思う。

昨年の原発事故、巨大地震と大津波によって、科学技術に依存しきった都市生活の危うさが露呈し、自然環境を見直し、自然と共存して生活しようという機運が高まっている。全般的には歓迎すべきことだが、今は、百家争鳴・玉石混淆の「自然回帰ブーム」が台頭している状況だと思う。
 だが、かつての「アウトドアブーム」再来と同じように、「精神性」や「神秘性」に偏重した皮相的な「自然への回帰」にならないよう注意する必要がある。
 再び「アメリカ直輸入」のような自然観を振り回されるのはまっぴらだ。

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