2012年9月18日火曜日

旅の記 その5

 アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所・・・・交錯するレールと戻れぬ傷  朝、1030発の普通列車で、オシフィエンチムまで、オシフィエンチムに発音が似ているのでナチスドイツがドイツ風の「アウシュビッツ」という名前を勝手に名付けたのだ。  オフィエンチムは、元からあるポーランドの町である。  あらゆる想像を超えた質と量の殺人が行われたこの忌まわしい土地の名前が「アウシュビッツ」として世界に知られるようになったことは、オシフィエンチムの人たちにとって不幸中の幸いだったことだろう。 ナチスがヨーロッパ各地から送られてくるユダヤ人、戦争相手のロシア人捕虜、ロマ人(いわゆる「ジプシー」)、ドイツ人の障害者、ポーランド人などで反ナチス的活動をしていた人々を次々に逮捕し始めるとその数は、あっという間に収容可能な人数を超え、労働力として使えない人々から順に「処分」していかざるを得なくなって、大量殺人施設をこの土地に建設したということだった。  なぜ、ここが選ばれたのか。  それは、「ヨーロッパの中心に位置する」「鉄道の接続が良い」「工業に欠かせない炭鉱や石灰の産地が隣接する」「もともと軍馬の調教場であり、広い土地の確保が容易」などの条件によるものらしい。    オシフィエンチムはクラコフから鉄道で約2時間。  駅から広い道を20~30分歩くと、今は国立博物館になっていて、世界遺産でもあるる強制収容所跡がある。  ここには三つの収容所があった。  第一収容所とも呼ばれるアウシュビッツ。ここが基幹容所として中心となっていた。  第二収容所のビルケナウ。この収容所がもっとも広く規模も大きい。そしてガス室も多数作られていて、大量殺人工場の役目を果たしていた。  「死の門」と呼ばれる煉瓦造りの門から長い引き込み線が引かれ、構内で何本にも分かれている。この引き込み線に囚人たちが貨車に詰め込まれて運ばれてきたのだ。  貨車から降ろされ、身体検査をされ、労働可能な者と労働力として価値の無い者とに選別される。労働に適さないとされた者はそのまま真っ直ぐにガス室に送られた。 それは、鉄道の線路がたった数ミリのポイントがどちらを向いているかで進路が全く異なって、一度ポイントを渡るともう後戻りできないのと似ている。  「死の門」から引き込まれたレールを見ていて、そんな思いがふと浮かんだ。  そして第三収容所は、モノビッツにあった。この近くには現代にまで続く石油化学工業会社や電気製品もメーカーがの工場があり、囚人たちは安い(というようりも無料の)労働力としてこき使われた。  なぜ、この土地が選ばれたのだろう。  それは「ヨーロッパの中心に位置する」「鉄道の接続が良い」「工業に欠かせない炭鉱や石灰の産地が隣接する」「もともと軍馬の調教場であり、広い土地の確保が容易」などの理由からということだ。   (この日の分は続く)

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