2012年9月10日月曜日

さよなら!クラビクルバンド

 今日、病院を受診して、クラビクルバンドを外しても良いという許可が下りた。
 6月6日に二輪車でエゾシカと衝突し、鎖骨と肋骨を骨折した。
 肋骨の方は、気胸の危険性が消えた段階で保存的治療に入り、いつの間にか自然治癒していた(らしい)。
 鎖骨は、X線写真を見て、素人である僕の目にも明らかにポッキリと折れて3センチメートルくらい離れていた。
 こんなに離れたままの状態で折れた部分がつながるのだろうかと半信半疑だった。病院へ通うと言っても、毎回X線写真を撮影して医師がそれを観るだけだった。
 日常生活ではクラビクルバンドと言う宮本武蔵のたすきのようなベルトで肩と背中を固定しているだけだった。
 3ヶ月間、とてもゆっくりではあったが僕の鎖骨は折れた断面同士が違いに探り合うように骨の元を伸ばし合い、互いに繋がろうとしていた。やがてその繋がった部分が化骨して骨が形成されつつある。
 まだボンヤリとした煙のような骨だが、担当の医師は「もう大丈夫」と判断してくれたのだろう。
 まだ完治ではないけれど、バンドはもう不要ということらしい。
 ヒトの身体というは、本当に不思議なものだ。

 昨日、「シンドラーのリスト」を観て、「ホロコーストの狂気を思い知らされた。ヒトとは、不思議な生き物である。」と書いたがのだが、今日は、その肉体の不思議さを思い知らされ、力強い再生力を持っている自分の身体に感謝したい気持ちになった。

 そして、自分が一個の「生き物であること」を強く感じた。
考えてみれば、生き物とは遺伝子の化身であり、遺伝子は常に利己的に振る舞うものとされている。
 だから生き物の本質は利己的なものなのかも知れない。
 とするならば、戦争や侵略、暴力や恫喝、威嚇などは生物として当然の行動なのだろう。
 しかし、生物は単独では生きられない。様々の種類の関係性に依って自分の生を完結できるわけで、そこから利己的な振る舞いから利他的な振る舞いの対立を越えた止揚が生まれるのだろう。
 人間社会の秩序は、そのようにして何万年もかけ、僅かずつ広がってきたと思う。
 それは、行きつ戻りつしながら発展してきたから、つい七十数年前、あのような残虐な行為が平然と行われたとしても、それほど不思議とは言えないかも知れない。
 
大事なことは、ほとんどのヒトの中に原始的な残虐性が潜んでいるということを互いに承知した上で、一人一人がそれとどう向き合うかを明らかにしていくことかも知れない。 昔の人は、その残虐性に鬼という名を与え具象化したのだろう。


 まあ、それにしても、最近の日本、「鬼」が多すぎるのではないだろうか。

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