2012年12月24日月曜日

自然科学と今年の冬

 朝方、激しく雪が降ったが昼前から晴れ上がり、雪上の散歩が楽しい天候になった。  すでに膝近くまでスッポリ埋まるほど雪が積もっている。いつもの年なら1月末頃の積雪量だ。  こんな時期から雪がたくさん積もることが、この根釧原野で、かつてあっただろうか。古い時代のことはわからないが、少なくとも僕がここで暮らすようになってからの25年間には、こんな年はなかったような気がする。  オホーツク海の温度もかつてないほど高くなっていて、流氷の成長具合は過去最低だというニュースが流れていた。  ヒトが自分たちに都合良いように自然に働きかけると、変化させられた分を取り戻そうとするように自然は「揺り戻し」をして応える。  ヒトの一生はせいぜい80年くらいだが自然が変化するリズムは短くても100年単位。長くなれば1万年単位で動いている。  そのような自然の息づかいを測ろうと試みる人間の挑戦は、時によっては無謀で滑稽にさえ感じられるが、地質学者は嗤われようが軽蔑されようが動じることなく地球の息づかいを読み取り、100万年前でも1億年前の出来事でも、見てきたように解説してみせてくれる。  僕と同じ理科系で、しかも自然を相手に研究するフィールド系の学徒であるが、自分には無い知識と能力、技術を持っている地質系の人を僕は昔から、ある種の憧れをもって尊敬している。  地質系の人々が英雄になった典型的な例が2000年の有珠山噴火を完璧に予想し、住民を避難させて人的な被害を全く出さなかった事例ではないだろうか。   原子力発電の破綻によって科学への風当たりは一段と強まった。それはある種の反権威主義とも結びつき、もはや感情的な反感にさえなっている。  科学は、それ自体に階級的な属性はないから、どちら向きで奉仕するかによって、悪魔にも天使にもなりうる。  今後ますます地球環境と人間との間でさまざまな軋轢が生じ、「環境」が人間を困らせる場面が増えてくるだろう。その問題を乗り切るためには科学の力を借りないわけにはゆかないだろう。  科学が誰に奉仕させられているかを見極めると同時に、研究者にも誰のための科学かを常に意識していく必要がある。

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