2012年6月26日火曜日

罪深い停電プロパガンダを告発する

クルマでの通勤時間が長い。
 音楽や落語を聴きながら走ることも多いが、飽きればラジオも聴く。
 最近、節電や計画停電についての話題が増えている。時節柄無理もなかろう。
 だが、その取り上げ方の視点でどうしても同意できないことがいくつかある。

 その第一は、「電力が不足する」という前提で、その対策論ばかりを集中的に取り上げる内容のものだ。
 「不足する」という根拠は電力会社の発表を無批判に受け売りして、節電や場合によっては原発の再稼働をもほのめかすものだったりする。
 これは、政府や財界の一部、原子力利益共同体(いわゆる原子力村)の意を受けて、それに無批判に追随しているとしか思われない。
 「番組」と言うより、政治宣伝=プロパガンダだ。

 次は、停電の危機をむやみに煽り立てているもの。
 「電力会社から送られてくる電気」が、絶対に途切れないという前提で生活を成り立たせていれば、誰だって停電は不便で、時には怖いものに見えてくる。そのような前提は、一旦壊して生活を見直してみるが良い。電力に代わるもの、無くてもガマンできるもの、工夫次第でどうにかなるものはたくさんあるはずだ。
 どうしても電力の供給を途絶えさせたくないものがあったら、それらは個別に対策すればいい。
 自分の身を自分で守るという気概をいつ、どこに忘れ来たのだろう?
 電力不足が原因でなくても、何十キロメートルもたった二本の針金を通して送られてくる電力が、絶対に途絶えることがないと信じていることこそ愚かしいとは、思わないのだろうか。
 いや、これもマスコミや電力会社が寄ってたかって意図的にそう思わせているに違いない。

 停電プロパガンダに踊らせていると、自分でも気づかぬうちに少しずつ、原発容認、原発依存という精神構造に変質していく危険がある。そして、それこそが「彼ら」の真の狙いだ。
 福島の事故の瞬間と周りの人々の現状、展望の見えない今後のことを考えて、停電プロパガンダを跳ね返していきたいものだ。

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