2013年1月6日日曜日

病院という場について、少々・・・・

 年末年始休暇の最終日。  風は冷たいが穏やかな一日だった。  午前中、イヌたちと草地をゆっくり回った。  だいぶ雪が深くなり足を取られて歩きにくくなっているので、スキーを使った。  友人から預かっている紀州犬もいるので、わが家のピレニーズと紀州犬と二度に分けて二周した。  どちらのイヌも特別に人を曳く訓練をしていないが、散歩に出かけられる嬉しさから、僕を軽々と曳いて走ってくれる。それぞれに曳き方に個性があって、楽しいひとときだった。
 どちらにしても雪の原野を疾走するのは、例えようもなく爽快だ。イヌの息づかい、スキーが雪を踏みしめる音、イヌの足が巻き上げる雪、どこまでも走って行きたいところだが、そのように訓練されていない悲しさで、寄り道や途中停止も多いのだが、一度経験したらやみつきになる。  午後、札幌の父の様子を知らせる電話が入った。  腰椎の圧迫骨折という第一報は誤りで転倒してどこかにぶつかったことによるたんなる打撲のようだとのことだった。  このこと自体は一安心なのだが、高齢であるため相変わらず自力で起立することはできないことには変わりはない。  もう一つ、今、感じている問題は病院の看護の質である。  これは、実際に僕の眼前で繰り広げられた事実なのだが、父のベッドサイドに来た看護師が父に血液型を訊いた。 「○○さん、血液型は何ですか」と尋ねたのだ。  父は、耳が遠いのではなく、聴き取りの力が落ちている。ゆっくりと問えば普通に会話が可能な状態なのである。  しかし、その看護師は、耳が遠いものと思い込んでいるらしく、父の耳元で大声によって問いを繰り返した。  もちろん僕らは、「ゆっくり話せばわかりますから」と、父の聴力に関する実情を説明した。だが、残念なことに彼女はそれをわかってくれなかったようで、その後も大声でしかし早口で話しかけることを止めることはなかった。  その病院は高齢の入院患者が多く、スタッフは、高齢者を扱い慣れているように見える。だが、それはしばしば一人一人の人格を尊重した上で扱っているようには見えないことがある。  世の中にはいろいろな人がいる。性格も違えばそれまで携わってきた仕事も違う。老い方だって人によって全く異なっているだろう。一人一人の状況を把握したうえで、その人にもっとも適した方針をもって看護に当たるのが理想的な形ではないだろうか。  その時に、絶対に忘れてほしくないのは、どの患者にも、その人を大切に思っている家族がいるということだ。これは教育の場にも共通して言えることだ。  父の入院に関して、感じている心配が、一看護師の問題であれば、まだよい思う。  しかし、これがその病院の勤務体制など組織的な原因によるものであれば、人の生命を扱う現場としてどうなのだろう。  そして、その病院だけの問題であるのならまだよい。  日本の医療政策がその背景にあって、このような病院が存在しているのだとすれば、どうにも情けないことだと思うのだ。

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