2012年8月27日月曜日

群馬→東京の旅が暗示するもの

 昨日、群馬県から東京に戻って、寄席に出かけようと考えた。
 どこの寄席に行こうか、少し迷ったがホテルから一番近い鈴本演芸場を一番に訪ねることにした。
 これまで鈴本演芸場とは相性が悪く、いつも団体貸し切りとぶつかってばかりだったが、昨日は、そのようなことは無かった。
 開演時刻を少し過ぎた頃だったが、まだ空席が多くゆったりと噺を聞くことが出来た。
当たり前だが、寄席のお客は、笑いを求めて来ているわけだから基本的にギスギスしたところがない。前後左右で起こる笑い声を聞いていると僕も幸せな気持ちになってくる。
 寄席は、噺家など出演者の芸を楽しむのはもちろんだが、周りの観客が醸す楽しい雰囲気も楽しめる場なのだと気づいた。

 昨日は、群馬県の赤城大沼用水に関連する諸施設を見学し、その建設の話を聞くことが出来た。そして、文字通り「我田引水」の欲と欲が衝突する話を聞かされた。
 そこから利益共同体の結束が強まっていき、「ムラの構造」が生まれるのではないか、ということを言いたかったのが昨日の小ブログである。
 この利益共同体によって「ムラ」が作られるという構造が変わらない限り、利益を得るネタは変わっても構造は変わらないだろう。
 ムラに結集する要因が近視眼的な「利益」から、たとえば環境への配慮などのように「将来の世代の多くの人々の利益」へと変わっていけば、救われる道は残っているのかも知れない。
寄席で演じられる落語の世界も、「利益共同体的ムラの世界」の対極にある世界だろう。 
群馬県赤城山から東京の寄席への旅は、何か象徴的な暗示を含んでいるような気がしてならなかった。

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