今夜は、少し贅沢な時間の使い方をして「ARARAT(邦題:アララトの聖母)」という映画を観た。
アトム・エゴヤンという人の監督・脚本作品で、2002年に作られたカナダの映画だ。
映画の制作をストーリーの中心に据えている映画で、やや入り組んだ展開だが、描かれているのは親子の葛藤と愛情や人と人のつながりと言った、わかりやすい情だと思う。
そして、何よりも中心を流れる重い重いテーマは、20世紀初頭に起こったトルコによるアルメニア人の大虐殺という出来事だ。
トルコ政府は、今でもこの虐殺は無かったと主張していて、国際的な議論が起きている、言ってみれば歴史の闇の出来事である。
この映画の所々に起きた事故や事件に対して、違った立場の者が違った解釈をして対立する場面が描かれている。
このことはアルメニア人大虐殺に対する「歴史観」(本当は「歴史観」という言葉はオカシイと思うのだが)が、複雑に入り組んでいることを暗喩しているのではないだろうか。
また、この事実を知らない「加害者側」と「被害者側」の若い世代が、この事件をどう受け止めるか、どう向き合おうとしているか、その心情や両者の微妙な違いなども繊細に描かれていた。
当然ながら日本も同じような問題を抱えている。
南京大虐殺を始め、侵略戦争で、朝鮮半島や中国などアジアの国々の人々を苦しめた歴史がある。
もっと遡れば、蝦夷地でアイヌ民族に対して過酷な支配を行い、解放闘争に立ち上がった
アイヌ民族を残虐なやり方で処罰した事件も少なくない。
そして、一般に「加害者側」は、事件を出来るだけ小さく見せようとするか、時には無かったことにしてしまう傾向がある。
それは、現在の「イジメ」でも見られる構図なのだが。
時間の経過が事実を歪め、強者に有利な記述がだんだんと強められるのは、ニンゲンの業なのかも知れない。
政治権力が介在すると、それが加速されるのだろう。
そうなると福島原発の事故も、そのうち無かったことにされかねない。実際、全然終わっていず、今でも放射性物質をまき散らし続けているのに、「終息した」と強弁しているのだから。
われわれは、そのような事実を歪める策動に与しないよう、今、起きていることを記憶の深部にしっかりと刻んでいかなければならない。
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