2012年4月9日月曜日

標本作りをしながら教育のあり方を考えた

セイヨウオオマルハナバチの標本を整理した。
 乾燥した標本の一つ一つにメモ書きだった採集年月日や場所、採集者名を書き込んだ小さなラベルを付けていく。ラベルは「平均台」という道具で同じ高さになるように揃える。「虫屋」にとってはごく日常的な作業だ。
 「虫屋」の端くれとしてそんな作業には慣れているはずなのだが100頭近い標本にラベルを付けていく細かな作業は、老眼になった身には少々こたえ、肩がガチガチに凝った。
 そして、正直なところ途中で飽きてきて投げ出したくなった。なにしろ同じ作業の繰り返しなのだ。しかも標本は、セイヨウオオマルハナバチ一種類のみなのだ。

 作業しながら考えた。
 今、問題になっている発達障害の子どもたちの中に、このように細々としていて、しかも同じ作業を同じ順番で繰り返すのを得意としてる子どもたちがいる。そんな子たちは、倦むことなく正確に、同じ手順の作業を繰り返していく。
 僕たちは、そんな子たちを「発達障害」と呼び、「支援の必要な子どもたち」として学校教育の中に位置づけている。
 まあ、教育現場の実情も理解できるのだけれど、本当にそれでいいのか、と考えてしまった。
 少なくとも、今日、僕のやった、ハチの標本にラベルを付けるという作業では、僕よりも彼らの方がはるかに高い能力を備えているという事実は、疑いようがない。人間の能力なんて、人それぞれでもっと多様で良いのではなかろうか。

 科学の研究なんて、地味で目立たない計測の積み重ねや観察記録の継続などを基礎に成り立っているものが多い。科学史上で忍耐強く研究を行った人々の中に、ひょっとしたら現代では「発達障害」と括られてしまう人が少なからず含まれているのではないだろうか。

 そうだとすれば、一つだけの物差しで「能力」を計り、「正常」の範囲をどんどん狭めて、目盛りから外れた子どもたちを「発達障害」とか「要支援」と断じてしまう現代の教育界にある常識は、根底から問い直されなければならない。
 「効率」を過度に追求した結果として今の姿があるのではないかという考えが、ふと頭をよぎった。

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