2011年8月5日金曜日
情報の価値と文明について、少し考えようとした
「娑婆」に戻った。
今日の朝日新聞を眺めてみた。
「政府・日銀・円売り介入」
「iPS細胞の精子で出産」
「経産次官ら3首脳更迭」
「復興債総額12.5兆円」
「大震災・・汚染の泥はどこへ行く」
エトセトラエトセトラエトセトラ
こんな見出しが並んでいる。
それぞれが重要なニュースであることは確かなのだろう。
しかし、どの見出しを見てもあまり興味が湧かないというのが正直な感想だ。
知床岬にいた時、もっとも重要なニュースはなんだったろう?
「明日の天気はどうか」
「明日の満潮と干潮は何時何分か」
「ヒグマの動静は?」
「今日は、持参した食料の中から、何を食べる予定だったか?」
などということだった。
生きていくために不可欠な具体的な情報が最優先されていたと思う。それで良いのだと思った。
新聞に載るニュースは、重要であることには違いないが、どこか空々しいし、騒々しい。
文明というものは、まるで生きもののように、自己保存・自己増殖を図ろうとするかのようだ。そして、そのためのエネルギーを生み出すかのように、自分たちのことをニュースとして扱うのかも知れない。
そして、その結果として生きるのに不可欠な具体的な情報が急速に価値を失うに違いない。
「文明の側」に帰ってきてから、文明を考え始めた今回の知床岬行であった。
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