2011年8月15日月曜日

今日という日に

 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや(寺山修司)

 ポツダム宣言の受諾、それは敗戦ではないのか?
 負けを認めたことではないのか?
 
 「大東亜戦争」、「太平洋戦争」何と呼ぼうとそれは侵略戦争だったのではないのか?

 自虐史観だと言われようと、ファシズムに与して敗れた事実に変わりはない。

 今日を「終戦」と呼ぶ修辞の魔術によって、侵略の責任を曖昧にし、その後すぐに勃発した朝鮮戦争や冷戦におけるアメリカの都合で、民主化を流産させられて今日があるのではないのか。

 原子力発電でさえ、アメリカの原子力潜水艦用として、安全性を二の次にして開発された軽水炉を商業用に転用したものを押しつけられたではないか。
 今回、福島で事故を起こした原子炉がそれである。

 誤魔化しは、もう止めたらどうだ?
 過ちは素直に認め、何もない地平から出直すべきではないか?

 原爆の被害者は誰の犠牲になったのか。
 特攻を命じられた若者たちは誰にどう騙されて「国のため」と信じ込まされたのか。
 甘い誘いに乗り満州「開拓」に狩り出され、終いには命からがら引き揚げなければならなかった人たちは、誰のどんな言葉に騙されたのか。

 そして、マスコミは、どのようにして戦争を煽り立てていったのか。

 日本国憲法に歌い上げられた平和主義と主権在民は、どのように変質させられ、途中から力を失ったのか。
日本国憲法の精神を受け継いで制定された教育基本法の崇高な精神は、どこの誰によって骨抜きにされ穢されたのか。
 そして、それを許した選挙制度は、誰がどのようにして仕組んだものか。

 この66年間の暗黒は、100年後、200年後に歴史の汚点となって残るに違いない。
 もし、その時まで、今の歴史から連続していたとすれば、だが。

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