2011年10月13日木曜日

アブナイ国で暮らしていて

 昨日の時事通信の記事。
 「旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原発事故による放射能の影響を調べている ベラルーシの専門家ウラジーミル・バベンコ氏が12日、日本記者クラブ(東京都千代 田区)で記者会見した。
  東京電力福島第1原発事故を受け、日本政府が設定した食品の 暫定規制値が高過ぎ るなどと指摘し、
 「日本の数値は驚きで、全く理解できない」と述べた。

  ベラルーシはウクライナの北隣に位置し、チェルノブイリ事故後、元原子力研究者ら が「ベルラド放射能安全研究所」を設立。住民の被ばく量検査や放射能対策指導などを しており、バベンコ氏は副所長を務めている。

  バベンコ氏は、ベラルーシでは食品の基準値を細かく分類していることや、飲料水の 放射性セシウムの基準値が1リットル当たり10ベクレル(日本は同200ベクレル) であることなどを紹介。
 「日本でも現実の生活に即した新しい基準値を設けられるはずだ」と語った。

 このニュースと昨日書いた、野田総理大臣の国連演説に対する世論調査の結果で、『評価する』が60%だったという事実を合わせて考えてみれば見えてくるものがあるような気がする。
 それは、この国の人々の多くが、自分で考えて判断する主体性を失ってしまっているという事実だ。 
いや、
 「失う」とは
 「元々持っていたものを無くする」ことだから、最初から持っていなかった場合は、正しい表現ではないかも知れない。

 少なくとも江戸時代以来、「自分で考える」ということをせずに、すべて「御上」に頼ってきたツケかも知れない。
 食品に含まれる放射能の基準値でも、国が決めればその数値だけが絶対視され、はたしてその値が本当に安全なのかどうかを考えもしない。
 その基準(しかもそれは「暫定基準」なのだが)でさえ、ドイツ政府が決めた基準値より桁違いに高いのだ。
 日本の現在の基準は、国民の健康を守るために設けたのではなく、放射能がばらまかれた現実に合わせて決められ、現実を追認するための基準なのだ。
 こんな馬鹿な話は聞いたことがない。

 一事が万事、ずっと以前から指摘されていたことだが。

 そういえば、僕が高校生の頃、世の中の矛盾を言い立てると
「そんなことを言っても現実がこうなのだから仕方ないじゃないか」とよくたしなめられたものだ。
 この国は危ないのだ。
 理想に「現実」を近づける努力をするのではなく、「現実」に自分の価値観や生き方を合わせることを勧めてきたヒトたちの作った国だから。
 そしてそういうヒトたちが多数を占め、選挙で政治家を選んできたのだ。

 そういうヒトたちこそ「売国奴」なんて呼んでも良いのかもしれない。

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