2011年10月26日水曜日

「鹿よおれの兄弟よ」という文化の匂いについて考えた

 雨が上がると寒気が入ってくる。
 冷え込みの予感のする一日

 昨日、シカの解体途中、ゴム手袋が破れたことに気づかずにいた。
 気づいた時には、すでに手は血だらけ。

 脂肪が皮膚の隙間に入り込み、洗っても洗ってもニオイが落ちない。知らぬ間に髪にもニオイが着いたらしく、ベッドの中もシカ臭くなった。

 「ニオイに敏感な日本人」は、自分たちと異なる匂いの者を異端者として排除してきた歴史をもっている。
 匂いというのは、かなり原始的な感覚だから、この排他性は生理的だと思う。

 稲作米食を中心とした生活を送ってきた和人たちにとって、自然環境を多様に利用し、狩猟採集生活を原則とする続縄文人や琉球人は、排除の対象であったろうし、それが琉球差別やアイヌ民族への差別の根を作ったことだろう。
 「蝦夷」という言葉もそのあたりから生まれたに違いない。

 さらに、時代が進み、武具や馬具を作る人々、死体や獣肉を扱う人々などを自国内に住む同胞でありながら差別してきた歴史も持つ。

 匂いは文化そのものから香り立っている。

 神沢利子作話 パヴリーシン作画の「鹿よおれの兄弟よ」という絵本がある。
 神沢さんはサハリンで幼少期を過ごした。
 パヴリーシン氏はシベリア出身で数々の賞を受けているロシアの国民的画家で、シベリアの森の様子が細部まで繊細に描かれている美しい絵本だ。
 我が身から立ち昇るシカの残り香をききながら、ひと時、自分もシカの兄弟になれたような気持ちが湧き、ウットリとなる。

 これで和人たちから排除されるなら、一向にかまわない。

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