一昨日、忠類川でオオワシの成鳥を見た。
オオハクチョウたちは今月中旬、滞在数が最大値になり、徐々に減り始めた。次々に南へ渡っているのだろう。
今年は、南へ行く渡り鳥たちを見送るのが辛い。心が痛む。
オウム事件の裁判が終わった。
あまりにも衝撃的な事件で、つい昨日の出来事のような感じがしているが、もう16年も経ってしまったのだ。
事件の原因や背景に対していろいろな立場から様々の意見が述べられているが、裁判を通して解明されたことはそれほど多くなく、被害を受けた人々にとっては釈然としないものが残っているようだと報じられていた。
物理学や医学など理科系の優秀な学生や研究者が、数多く教団に入信し、続々と凶行に加わった。事件が明らかになってから、理科教育者の間で、科学的なものの見方を徹底的に教えていくことで非合理主義を退けようと話し合ったことがあった。
「事実をありのままに見、事実から出発する」
「物事を論理的に説明する」
「仮説を立て、実験によって検証し、そこから法則を導き出す」等々のごく当たり前のものの見方をしていれば、空中浮揚などという、物理の初歩の法則から外れた子供だましのトリックに目を眩まされるはなかったと、その場の教師たちは考えた。
だが、世の中は、単純ではないものらしい。
原子力発電所の事故で、「科学への不信感」は高まるばかりで、「反科学」などというかび臭い言葉すら復活の兆しをみせている。
(「反科学」の旗を振っている本人たちが、科学技術の頂点が生み出した媒体に依拠しているところは可愛らしくもあるが)
とにかく、科学への風当たりは一般的に強まっていると考えて良いだろう。
だが、頭を冷やしてほしい。
原子力発電に固執し、建設を強行し、データを改ざんし、ヤラセを演じている側こそ科学的ではないのだから。
科学の成果は、鉄腕アトムのように常に人間に味方し人間を助けるために活躍するほど甘いものではない。同時に、人間に害をなす魔物でもない。
入力された事実に対して、淡々と結果を出力しているに過ぎない。そこに「意図」は存在しない。
重要なのは、科学の成果をどう役立てるか、または、活用しないかを決めるのがニンゲンの側だということである。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という心情は理解できる。しかし、だからと言って科学を蔑視し、非合理主義や神秘主義に走るのは、どうなのだろう?
科学は、人間に害をなす魔女や悪魔や妖怪や呪いを否定する一方で疫病から多くの命を救い、飢饉を防ぎ、災害による被害を小さくしてきたではないか。
もちろん戦争の手先となって大量殺戮を行ってきたのも科学である。
われわれは、自然科学の両面性をありのままに受け入れなければならない。
「反原発」「脱原発」の機運が盛り上がることは大歓迎なのだが、オウムの亡霊が再びよみがえってくるような事態には立ち至ってほしくないのだ。
それが気がかりなのである。
2011年11月21日月曜日
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